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チャンピオンの発言:サンプラスが語る
文:Caitlin Rhodes


どのようにチャンピオンのキャリアを評価するか? テニス史で最も偉大なプレーヤーの1人、ピート・サンプラスのキャリアを文書で立証するのは、気の遠くなるような仕事である。どこから始めるか? どんな基準を用いる事ができるか? キャリア勝利試合数? 762勝。勝率? 77%以上。タイトル数? 64。グランドスラム優勝回数? 14回。ランキング? 記録である6年連続での年末世界ナンバー1、合計286週のナンバー1在位。賞金総額? 43,280,489USドル。

更新した記録? 破った対戦相手? 真にチャンピオンを定義する事のできる1つの統計値、あるいは統計値の総計などは存在しない。同じく、チャンピオンの出自や生活手段も除かれる。それは倦むことを知らないかのような職業倫理、決意、寛大さ 気品、謙虚さ、一貫性、長命性といった漠然としたものなのだ。

ピート・サンプラスのキャリアに最も精通した人物は、彼自身である。2007年に「名誉の殿堂」入りを果たした式典のスピーチで、彼が自分のキャリアを振り返った時、 自身の業績をスラム優勝の一覧でまとめる事はなかった。その代わりに、彼をチャンピオンにしてくれた人々によって自身のキャリアを定義した:彼の家族、彼のコーチ、そして彼の妻。

テニスマニアは皆、サンプラスをチャンピオンとして知っている。しかしほとんどが、人間としてのサンプラスを本当には理解していない。人々が何から感動を受けるか、そして誰に心酔するかを理解する事は、彼らの情熱、価値観、そして大志を真に理解する事なのである。

サンプラスは少年の頃に古いフィルムを繰り返して観た後に、ロッド・レーバーやケン・ローズウォールのようなクラシックなチャンピオンを手本に、自身をつくり上げた。同時に、ただ彼らのゲームに魅せられてはいたが、彼自身も気づかないうちに、テクニックや攻撃的なプレースタイルだけでなく、はるかに多くの事を吸収していった。サンプラスは語っている。「私は後になるまで、偉大なチャンピオンであるためには何が必要かを充分に認識していませんでした。謙虚さ、気品、スポーツマンシップ、高潔さといった事の重要性を。幸いにも、これらの事はすべて私の価値観や育てられ方にあったもので、それゆえに、私は初めからゲームの伝統を受け入れていました」

サンプラスはゲームの伝統的な要素を体現していた。それが欠点だと言う者がいたほどに。「IMAGE IS EVERYTHING(イメージがすべて)」というキャノンのコマーシャルに要約された、彼の主要なライバル、同国のアンドレ・アガシの派手さとは対照的だった。その代わりにサンプラスは物静かに、勝利するという日々の仕事に取り組んだ―――まさにビジネスとして。彼はバカなまねはせず、実務的で、犠牲を払い、打ち込んだ。彼の専念と卓越への追求に揺らぎはなかった。それをサンプラスはこう表現した。「自分がいわば、1990年代に生きる1950年代のプレーヤーのように感じる時がありました。その結果として、ある人々には少し誤解されているようにも感じましたが、多くの人々に受け入れられ、愛されていると感じていました」

サンプラスは彼が受けたしつけと、愛情に満ちた家族のサポートが、彼というプレーヤーをつくり上げたと信じている。彼の父親はサンプラスと姉をジュニアテニスの試合に連れて行き、母親は練習のボールを与えてくれた。サンプラスは語った。「両親は私のジュニアゲームに関わってはいましたが、コーチングや戦術、ストロークについては決して干渉しませんでした。彼らは私が勝つ事よりも、良いプレーをする事を気づかってくれました」

サンプラスは14歳でバックハンドを両手打ちから片手打ちに変更した際に、彼らがいかにサポートしてくれたかを例として挙げる。「両親はこのとり組みを励ましてくれました。大方の人は、そんな事をするなんて頭がおかしいと考えていました。そして私自身も、間違った事をしているのかも知れないと思う時もありました。しかしそれは、私のキャリアを真に定義していく事になった、大きな全体像として捉える考え方だったのです。父親、彼は扶養者で、母は養育者でした」サンプラスは自身の決意と競い合う意欲は、母親のおかげだと考えている。「それらは母の柔和さに覆われた、どこか深いところから私が受け継いだ美徳です」と彼は語った。

サンプラスによれば、彼が19歳でUSオープンに優勝した時、初のグランドスラムに伴うすべての事に対して準備ができておらず、その後の2年間の大半は五里霧中だったと述べている。サンプラスが自分の願望はベストになる事だとまさに理解したのは、1992年USオープン決勝戦で前回優勝者のステファン・エドバーグに負けた後だった。

「私は自分が試合の最中に、すでに諦めていたのだと気づきました」と彼は語った。「わずかではあったが、敗れるには充分でした。決勝戦に達するだけでは、もはや充分ではないという認識に私は到達したのです」

「この時期を通じて私に手を貸してくれた人物は、コーチのティム・ガリクソンでした」とサンプラスは語った。「ティムは私に、私がそれまで持っていなかった職業倫理を教え込んでくれました。才能は私をあるレベルにまでは至らせていましたが、懸命に練習し、そして目的を持って練習するよう私を駆り立てたのはティムでした」

ガリクソンがサンプラスに与えた影響力は、いかに彼の生徒が芝生に対して心構えを180度改めたかに、最も良く表れている。サンプラスは当初、芝生を嫌っていたのだ。サンプラスは芝生での態度とテクニックを変え、14回のメジャー優勝のうち7回をそのサーフェスで挙げたのは、ガリクソンのおかげだと考えている。「ティムが、彼のメンタリティと職業倫理を通じて、私を世界でベストのプレーヤーにしてくれたのだと、率直に言えます」

サンプラスを「ロボットのようだ」「機械のようだ」あるいは「感情がない」とみなした批評家は、明らかに彼がガリクソンについて語るのを聞いた事がないのだ。彼が2人の関係について思い出を語る時、感情のあまり声がかすれるのを聞いた事がないのだ。1996年、脳腫瘍との長い闘いの末にガリクソンは亡くなり、サンプラスのキャリアにおける1章は終わった。しかしその死は、サンプラスに与えたガリクソンの深遠な影響を終わらせはしなかった。「ティムの目に宿っていたあの表情は、今日に至るまで私と共にあります。最後まで、私は彼と共にあり、彼は私と共にありました。今日に至るまで、彼がいないのを寂しく思います。そしてその喪失感を、テニス界全体と共有しているのだと承知しています」

ガリクソンの健康状態が悪化して、もはや旅ができなくなると、ポール・アナコーンがサンプラスのチームに「重要な匿名社員として控え目に加わり」、やがて彼のコーチとなった。「彼は1989年に私を破ってくれましたが、それでも彼を雇い入れたのです」とサンプラスは軽口をたたいた。

「私がどういう人間かをポールは承知してくれている、それは明らかでした。実際、ポールは他の誰よりも、テニスプレーヤーとしての私をよく知るようになりました。ポールは物事をシンプルに保つやり方、そして事を荒立てるよりもむしろ控え目に扱うすべを承知していました。我々はそのやり方でフィーリングが合っていました。とはいえ、彼は私にある方法でプレーするよう控え目に駆り立てました。攻撃するように、チップ&チャージをするように、そして対戦相手に私の意志を押しつけるようにと駆り立てました。ポールは熱狂的な男ではありませんでした。やたらに喋る事はしませんでしたが、彼が語る事を私は肝に銘じました」

サンプラスは1992年USオープン決勝戦での敗北を、自分のキャリアを変えるターニングポイントだったと考えているように、1999年の背中の怪我を「私の人生における最高の怪我でした。なぜなら妻のブリジットと出会ったからです」と描写する。結婚から10年が経ち、ライアンとクリスチャンの2人の子供にも恵まれ、サンプラスは妻が自分の「頼みの綱」だと考えている。「キャリア最後の最もつらかった2年の間、彼女は私のよりどころ、相談相手となってくれました。私はかつて一度も直面した事のなかった問題と戦っていました」グランドスラム優勝もないまま2年間を戦い続け、サンプラスは絶え間ない批判と引退勧告に直面した。そして長すぎる間その座にしがみつく、疲労しきったチャンピオンと描写された。「しかし、その間を通して」とサンプラスは語った。「ブリジットは共感と思いやりをもって、自分の事は顧みず、明るく私を引き留めてくれていました。私自身が自分を信じられなくなっていた時にも、彼女は揺るぎない誠実さと信頼で、私を強く保ってくれました」

実際、かつて彼が君臨していたウィンブルドンで、意気消沈するような2回戦での敗北を喫した後には、勝つために必要なものを自分は今でも持っているのだろうかと、自身でも疑うようになるにつれて、サンプラスは引退の是非を考慮し始めていたのだ。彼女の言葉を思い出して、サンプラスの声はうわずった。「彼女はこう言いました―――その言葉を私は決して忘れません。彼女は『私はあなたをサポートする―――何であろうと―――あなたの決めた事を。でも1つだけ約束してちょうだい。もし辞めるのなら、あなた自身の考えで辞めてちょうだい』と言ってくれました。その言葉は私の内部に深く響き渡りました。そして私の心に留まり続けました。その言葉が、2002年に記録的な14回目のメジャー優勝を遂げるために聞く必要のあった、新たなエネルギー源となりました。それは私が出場した最後の公式大会でした」

サンプラスがキャリアを終えた方式には、見事な対称性があった。彼が最後に優勝したメジャー大会は、同じく彼が初めて優勝したメジャー大会でもあり、対戦相手も同じだったのだ。すなわちUSオープンで、相手は主要なライバルのアガシだった。翌年の間、サンプラスは大会に出場エントリーしては、各大会が近づくと出場を取り消していた。サンプラスとしては、キャリアを終わらせるというビジネスについても、キャリアを達成していったのと同じ方法で、その過程に関して慎重に取り組んでいったのだ。

サンプラスはキャリアについての考察を終えようとするにつれて、感情に圧倒されていった。「私は16年間、感情を封じ込めてきたかと思いますが、今、皆さんはそれを見ているのですね?」と彼は言った。「最後に、私が最も誇りに思っている事は―――それは―――それは―――決して脇にそれなかった事です―――私の………私自身の価値観から」サンプラスが鼻をすすり、そして懸命に自分を落ち着かせようと努める中、聴衆は拍手喝采した。「両親、そしてロッド・レーバーのような男たちから私へと伝えられた心構えや哲学から、私は物静かなやり方を受け入れました。そして王道をできる限り歩んできました。とりわけ、私自身を、私の家族を、そしてテニスを、我々が誇りに感じられる方法で表現する事を望んできました」

寡黙さのゆえに批判されてきたキャリアの後に、テニス界で最も偉大なチャンピオンの1人の本質を表現するためには、サンプラス自身の内省と言葉を用いるのが適切な事と思われる。

「それで私はここ、名誉の殿堂で史上最高の選手たちに加えられて、謙虚と感謝の気持ちで皆さんの前に立っているのです」とサンプラスは語った。「私はテニスプレーヤーです。それ以上でも、以下でもありません。それで私には十二分なものです。常にそうでした」


*成都大会の写真がすべて、下のアドレスから見られます。クリックすると巨大に拡大!
http://www.chengduchampions.com/2010/photos.php


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