ATP デュース・マガジン――2010年USオープン特集号
2010年8月26日
チャンピオン誕生の過程
文:James Buddell


*サイトをご覧になりたい方は、こちらのリンクで。
http://www.atpworldtour.com/News/DEUCE-Tennis/DEUCE-August-2010/Pete-Sampras.aspx


名高いライバル関係の始まり、そして人生を変えた瞬間:ピート・サンプラスとアンドレ・アガシが、1990年USオープン決勝戦の後に表彰セレモニーを待つ。

20年前、ピート・サンプラスは19歳28日で史上最年少のUSオープン・チャンピオンとなり、名もない選手から一躍、世界的なスーパースターになった。その伝説的なアメリカ人、彼の協力者、ライバルが、14のうち初となったメジャー・タイトルを回顧する。

1989年11月、内気で感受性の強い18歳のピート・サンプラスは、コネチカット州グリニッジの、当時世界ナンバー1だったイワン・レンドルの自宅に到着した。彼は20カ月前にフィラデルフィアでプロに転向し、高校でのテニスの放浪生活を、偉大なチャンピオンを目指すひたむきな追求に置き換えていた。恵まれた才能に加えて、優美な、芸術的とも言える攻撃的スタイルを備え、ゲームを簡単そうに見せた。彼のゲームはレンドルのそれとは全く正反対だった。

レンドルはすべてに努めていた。コート上では、ベースラインから対戦相手が屈服するまで圧倒した。オフコートではアメリカン・ドリームを実現し、6フィート高のフェンスと2つのアラームシステムに守られた15,000平方フィートの家に暮らしていた。ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開催されるナビスコ・マスターズへの出場に先だって、レンドルがサンプラスを10日間にわたって招いたのは、この家だった。

「ピートには途轍もない才能があると分かったが、彼はまだ若くて、自身のゲームを進化させている途上だった。サーブも未だ洗練されていなかった」

「イワンは僕のプレーを見たがったので、電話をかけてきて、自宅に招待してくれた。目を開かせられるような経験だった」と、サンプラスは振り返る。「彼の自宅は大豪邸だった。イワンと奥さんのサマンサは僕を歓迎し、快適に感じさせてくれた」

「彼は間もなく、1日20〜25マイルの自転車走行に僕を連れだした。そして僕のテニスについて、もし頂点に立ちたいのなら、どれほど懸命に努力しなければならないか等について話し合った。トップのプロがどのようにトレーニングするか、そして彼がどのように自分自身のケアをするかについて、大いに学んだ」
イワン・レンドル、1989年

レンドルは10月にパリで、初めて ATP チャンピオンズ・ツアーに出場するが、この時の事を記憶している。「彼は10日間ほど滞在して、すべてを注意深く見ていた。ピートには途轍もない才能があると分かったが、彼はまだ若くて、自身のゲームを進化させている途上だった。サーブも未だ洗練されていなかった。彼が14回のメジャー優勝を遂げるまでになるとは、予測がつかなかったよ」

サンプラスは規律正しいライフスタイルを学び取り、そして当時暮らしていた IMG - ボロテリー・テニスアカデミーで友人のジム・クーリエに合流するため、すぐにフロリダ州ブラデントンへと戻った。彼は筋肉を増強し、攻撃的プレーヤーとしてのゲームを進化させ始めた。その成果をUSオープンで、ディフェンディング・チャンピオンのマッツ・ビランデルを破る事で披露したのだった。

サンプラスは1989年シーズンを通じて、兄で経済面のアドバイザーでもあるガスと一緒に世界を回っていた。父親のソテリオスはエンジニアで、ヨーロッパの4大会に同行したが、ピートはほとんど試合に勝てず、自分は息子に「不運」をもたらすと考えた。

「ピートは素晴らしい人間で、スポーツを愛し、努力する事を好む感じの良い若者だった」

7月下旬、ストラットン・マウンテンでジュニア時代のライバル、マイケル・チャンに敗れた後、サンプラスはジョー・ブランディ、経験豊かなプエルト・リコ人コーチ―――ニック・ボロテリーが1978年に設立したテニスアカデミーで働いていた―――を、ジム・クーリエと協働するセルジオ・クルスから紹介された。

ブランディ、元プロ選手で現在はブエノスアイレスに暮らすクリスティナ・ブランディの父親は、思い出す。「その年の後半、当時最も有能なコーチの1人であったクルスは、ジュニア選手の指導でスペインに行かなければならなかった。それでピートが11月に6週間アカデミーでトレーニングをしに来た時、私は彼に手を貸すよう求められたのだ」

「ピートは素晴らしい人間で、スポーツを愛し、努力する事を好む感じの良い若者だった」

ボロテリー・アカデミー
サンプラスはクーリエと共に、45分間のランニングのために毎朝6時に始動した。戻ってくると、彼らは最大で6時間テニスをして、昼食休憩をはさんでウェイト・トレーニングを行い、夕方にはスプリントとコンディション調整に取り組んだ。

当時を振り返って、ブランディは語る。「ピートには並はずれた潜在能力があったが、コンディション調整に取り組んだ事が一度もなかった。そのコンディションは、彼のショット選択と同じくらい拙かったのだ。もしこのレベルでフィットしていなければ、トロフィーはおろか、何も勝ち取れないだろう」

「我々は身体のバランス、サービス・リターン、ファースト・ボレー、バックハンド・スライスに取り組んだ。ピート・フィッシャー(サンプラスの少年時代におけるコーチの1人)が、彼の両手バックハンドを片手打ちに変更させていたが、彼はまだその打ち方を手探りしていた。彼のバックハンドはイリー・ナスターゼのようで、後ろ足に体重をかけていた。しかしランニング・フォアハンドは、私は今でもそうだと考えているが、史上最高のショットだった。ファースト・サーブ、セカンド・サーブは非常に良かった」

ボロテリーはアカデミー時代のサンプラスを記憶している。「ジョー・ブランディは真面目なコーチで、トレーニング法はただ1つだと承知していた:何千というボールを打って、ベストの調子になるというものだ」と、79歳の彼は語る。「ピートの身体的コンディションが向上するにつれて、動きも向上していった。その結果、速いウィナーを狙いすぎない事を含めて、ショット選択にも変化をもたらしたのだ」

「ピート・サンプラスは努力家だっただけではなく、彼の職業倫理もまた、同じ態度で実行された。彼はすべてをこなし、(そして)感情を露わにしなかった」

サンプラスは世界81位で1990年のシーズンを始めた。クリスマスを家族と過ごしてから、単独でオーストラリアへと旅立ち、シドニーでは準々決勝、オーストラリアン・オープンでは4回戦まで勝ち進んだ。「合衆国への帰途、彼は私にフルタイムのコーチングを依頼する電話をかけてきた」とブランディは語る。

「僕は大きな大会やメジャーのために、戦いの場に臨むかのように感じていた」

共に取り組み始めてからわずか2大会目、 ペンシルベニア州フィラデルフィアのエベル・プロ・インドア大会で、サンプラスは大胆に6位のアンドレ・アガシ、8位のティム・メイヨットを打ち負かして、初の ATP 大会決勝戦へと進出した。そしてアンドレス・ゴメスに7-6(5)、7-5、6-2で圧勝し、かけ出しのキャリアで最高額、135,000ドルの賞金小切手を手に入れた。そしてアリゾナ州スコッツデールで18ホールのゴルフをして、初のタイトルを祝った。

20年が経ち、サンプラスは打ち明ける。「1990年のシーズン初めに2人のトップ選手を破って、僕は大きな大会やメジャーのために、戦いの場に臨むかのように感じていた。少しずつ進歩していて、フィラデルフィアのタイトルを手に入れ、自分の打つショットを以前より快適に感じていた」

彼はウィンブルドンの前哨戦、マンチェスター大会でトロフィーを掲げ、夏のハードコート・サーキットの間に力をつけていった。トロント(チャンに敗北)とロサンジェルス(エドバーグに敗北)では準決勝まで進出し、インディアナポリス(レネバーグに敗北)とロングアイランド(イワニセビッチに敗北)では準々決勝に駒を進めた。

「ピートはトロントの準々決勝で初めてジョン・マッケンローを破った時に、大きい、大きな精神的進歩を遂げたのだと思う」とブランディは語った。「彼は合衆国サーキットで優れた結果を出し、そして多くの試合をこなしてUSオープンに臨んだ。USオープンの最中、彼は2週間ゾーン状態にあった。しかしタイトルを獲得する準備が整っていたとは、思ってもみなかったよ!」

1990年、フラッシング・メドウは「フラッシング・メロウ(落ち着いたフラッシング)」というあだ名がついた。テニス狂のデビッド・ディンキンズ市長が、ラガーディア空港の航空管制官を説き伏せて、13番滑走路の耳をつんざくようなフライトを、国立テニスセンターから離れた航路に変えさせたのだ。

それは連邦航空局が過去に示してきた最後の週末への配慮どころか、2週間にわたって会場上空を飛行機が飛ばない事を意味していた。また、1994年に賃貸契約の期限が切れる後も、大会をクイーンズ地区に留めるよう、USオープン役員を説得する意味合いもあった。

サンプラスは元来、取りまきを引き連れない選手だったが、自分自身でニューヨークのメリディアン・ホテルに予約を入れ、コーチのブランディと一緒に滞在した。その当時、彼は45大会で4人のトップ10選手に勝利し、2つのタイトルを獲得していた。

大会では第12シードだったが、サンプラスは思い起こす。「僕はダークホースとしてUSオープンに入った。優勝は言うまでもなく、ドローの最終盤まで勝ち上がるチャンスが僕にあると、現実的に考える者は誰もいなかった。専門家は僕がさほど良いプレーをせず、どこかの時点で消えると考えていただろう」

サンプラスは最初の3試合で、ダン・ゴルディ、ピーター・ランドグレン、ヤコブ・ラセクに対して1セットも失わずに勝ち進んだ。ベスト16に進出したが、自分がタイトルを獲得するチャンスについては、過小評価していた。「多分2〜3年以内には。だが今すぐというのは、現実的だとは思わないよ」と。引き続き、彼は胃の不調を克服して第6位のトーマス・ムスターを破った。ムスターは1989年3月、酒酔い運転の車に追突されて左脚の靭帯を切断した後に、奇跡的な復活を遂げていたのだった。

準々決勝で、彼は助言者のレンドルと対戦した。レンドルは第3位で、ハードコートの実力者、3度のUSオープン・チャンピオンだった。「イワンは9年連続のUSオープン決勝進出を見据えていたが、僕のゲームは彼と上手くかみ合っていた。そして彼はスローダウンしてきていた」とサンプラスは語る。彼はよりパワーをつけ、いっそう臨機の才を身につけていた。

「私は隣にいる友人に『彼はこのセットで少なくとも2ゲームは取らないと、 最終セットで苦しい状況に陥るだろう』と言ったのを覚えている」

ブランディは明かす。「レンドル戦は最も厳しい試合だった。ピートは最初の2セットを勝ち取ったが、第4セットでは1-5ダウンとなっていたのだ。私は隣にいる友人に『彼はこのセットで少なくとも2ゲームは取らないと、 最終セットで困難な状況に陥るだろう』と言ったのを覚えているよ」

1982年以降、フラッシング・メドウで55勝5敗という傑出した戦績を挙げていたレンドルは告白する。「2セットダウンから2セットオールまで戻した時には、自分が勝つと思っていたよ―――だがピートは素晴らしいサーブを打ち続けていて、ゲームの他の要素も調整する事ができたのだ。あの時が、彼は何回もメジャーで優勝する事ができると思った最初の時だった」

レンドルは第4セットを6-4で勝ち取った。しかしサンプラスは第5セットの序盤でブレークを果たし、最終的に6-4、7-6(4)、3-6、4-6、6-2で勝利を収めたのだった。「負けて嬉しくはなかったよ」とレンドルは語る。彼は1994年に、慢性的な背中の痛みのため引退する事となった。メジャー大会で19回の決勝戦に進出し、8回の優勝を果たした。「同時に、彼は常にサーブの出来いかんで、勝つか負けるかが決まると感じていた」

次の相手はマッケンローだった。マッケンローは過去に4回優勝しており、31歳の当時は、長年のコーチ、トニー・パラフォックスの指導の下で、勇壮な勝ち上がりを楽しんでいた。世界ランクは第21位で、13年間で初めてノーシードとなっていた。

「試合前、僕はとても不安だった。だが早い段階で落ち着く事ができた(第4ゲームでサービスブレークを果たし、3-1リードとした)」とサンプラスは認める。彼のサーブ&ボレー・ゲーム、17本のエース、そして無数のダウン・ザ・ライン・ パッシングショットは、ニューヨーク市民には有り余るもので、「ゲームが変わってしまい、若造どもが彼を力で圧倒している」事に苛立っていると、当時ブランディは考えていた。

ロサンジェルスの25マイル西方では、母親のジョージアも父親も、息子の運命に気付いていなかった。彼らは不安のあまり試合をライブで見られず、近くの映画館でハリソン・フォード主演の「推定無罪」を観ていたのだ。

「スーパー・サタディのため、僕の試合は夜に行われた」とサンプラスは語る。「その後にシャワーを浴びて、記者会見をして、眠りに就いた。だから決勝戦の事や、自分のいる状況の重大さについて考える時間がなかったんだ」

実際は、この試合はマッケンローが親友のビタス・ゲルレイティスに勝利した1979年以降、初めてのアメリカ人同士によるUSオープン決勝戦で、サンプラスは主役の1人を務める事になったのだ。彼はラスベガス出身のアンドレ・アガシと対戦する事になった。アガシは世界4位で、6月にはローラン・ギャロスでゴメスに敗れ、準優勝者となっていた。この試合は彼らのシニア・キャリアにおける3回目、ジュニアの試合を含めると5回目の対戦だった。

サンプラスがカリフォルニア州ノースリッジの大会で、同じく小さな子供だった 10歳のアガシと初めて対戦して以来、10年が経っていた。その時はアガシが彼を簡単に打ち負かした。「彼は約2時間にわたって僕を翻弄したよ」とサンプラス語る。今回は、アガシが苦しめられた。
「アンドレは明らかに格上の存在で、すでに実績を残していた」


サンプラスが戦った18回のメジャー決勝戦のうち、初めての決勝戦に向けた準備についてブランディは振り返る。「ピートは練習コートでベストの状態まで行かないという点で、徹底していた。彼はとてもリラックスしていた。いや………まったくもってリラックスしていた。アガシと対決する決勝戦に向けて、だ」

「私は彼に、ポイントを短くする、コートの前に詰めてアガシを攻撃する、そしてストロークは何であれ、彼のバックハンドに短めに打つという作戦を告げた。アンドレは両手バックだから、短めだとボールをすくい上げるのが難しくなる。またデュースコートでは、ピートはサーブをワイドに打った。つまり、アンドレは回り込んでリターンを打つ事ができなくなった。さらに、セカンドサーブでもすべて攻撃したのだ」

ロッカールームからルイ・アームストロング・スタジアムまでの100ヤードを警備員に囲まれて歩きながら、アガシとサンプラスは共に自信を感じていた。伝統的なサーブ&ボレーヤーのサンプラスは、上下とも白いウェアを身につけていた。アガシは前日に真昼の太陽の下で、ディフェンディング・チャンピオンのボリス・ベッカーを破り、試合前の優勝候補だった。コナーズ以来の最高のリターナーは、ショートパンツの下に蛍光イエローのスパッツを穿いていた。

「アンドレは明らかに格上の存在で、すでに実績を残していた」とサンプラスは語る。「だから僕はプレッシャーを感じていなかった」

サンプラスは13本のエース―――その多くは時速125マイル近くに達していた―――を放ち、最初の13回のサービスゲームでは17ポイントしか失わなかった。アガシはポイントの間に「なぜお前はそんなにノロマなんだ?」と、ぼそぼそ自問していた。第3セットでサンプラスは、大会で自身の100本目となるエースを放ってサービスをキープし、5-2リードとした。

「アンドレは自信のなさそうな様子で、いつもほど良いプレーをしていなかった」とサンプラスは認める。「彼はベースラインから攻撃的にプレーせず、僕にポイントの主導権を握らせた。彼のボールは短くて、僕はそれを活かしたんだ」

間もなくアガシはフォアハンドをネットに掛けて、苦戦を終えた。サンプラスは1時間42分で、6-4、6-3、6-2の勝利を遂げたのだった。350,000ドルの小切手、トップ10入り、そして19歳28日で史上最年少USオープン・チャンピオンの記録を手に入れた―――1890年の優勝者、コロンビア大学の学生だったオリバー・キャンベルより5カ月若かった。それはサンプラスがトップフォームに達した「絶好調の4日間」の頂点だったのだ。

ボロテリーとアガシ
後にアガシは認めた。「彼が触れるものは、すべて黄金に変わった。昔風の路上強盗に遭ったみたいだった。それがすべてだった」彼はしっぽを巻いていたが、すぐに「オープンはニューヨークでの1日にすぎなかった」事を証明するために、サーブと肉体強化に努め始めた。

20年が経過し、 ボロテリーは追認する。「アンドレの敗北は、非常に大きな期待はずれだった。彼の父親は、アンドレのサーブを改善しなければならないと言った。彼はとても傷つきやすい人間だったから、多くの意味で苦しんでいると分かっていた。ピートがアンドレを倒した理由を1つ選ばねばならないとしたら、それはピートのサーブだ! もう1つ理由を挙げるとしたら、それはアンドレが優勝候補で、そのプレッシャーに耐えられなかったという事だろう」

スーパースターになるよう仕込まれていなかったサンプラスにとって、それは別の人生の始まりだった。間もなく、彼の両親は電話番号を変えるためパシフィック・ベルに電話をし、さらには、前のものが壊れてしまったために、新しい留守番電話を買う事も余儀なくされた。

「僕は大学に進学しなかったので、社交的に様々な人と交わるという経験がなかった」とサンプラスは語る。「ジュニアの頃は、オレンジ・ボウルや1987年USオープンのような、国内の大会にしか出場していなかった。優勝した事で、極端から極端へと行き着いた………無名の存在から、世界じゅうに知られ、ジョニー・カーソン・ショーに出演するような事になったんだ。それは成長の苦しみのようだった。厳しくて、僕はそのための準備も充分にできていなかった」

現在では有名な物語だが、サンプラスの両親は息子のプレーを5回以上見た事もなく、ロングビーチのショッピングモールをウロウロしていたのだった。

ジョージア・サンプラスが初めて息子の優勝を知ったのは、ショッピングモールのエスカレーターを上っている時だった。そしてピートがアガシと握手しているのを見た。それでもなお、彼女は CBS スポーツで放映されている劇的事件を見ていた男に確認を求めた。妻が店から走り出てきて自分にキスをした時、ソテリオスは何か良い事が起こったのだと知った。
「僕は極端から極端へと行き着いた………無名の存在から、世界じゅうに知られるようになった」


彼らは急いで自宅へと車で戻り、シャンパンを2本開けて、子供たち―――ガス、ステラ、マリオン―――と一緒に優勝を祝った。サンプラスはコートから退場した後に、カリフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデスの自宅に電話をかけ、家族と話をした。最も素晴らしいサポーターと、喜びを分かち合うべき時だったのだ。

サンプラスはブランディと、当時のエージェントだったイワン・ブランバーグと共に軽い夕食をとって、30カ月間のプロキャリアで最大の勝利を祝った。「我々はそれからホテルのミニスイートに戻り、座って、そして一晩じゅうテニスと人生について話をした」とブランディは思い出す。「私は彼に、人生が変わるだろうと話した。彼は私の言う事をまったく信じなかった。同時に、私は彼が5〜9回メジャーで優勝するだろうと予想した。見事に外れたがね」

翌日、サンプラスは早朝に起きて、3大ネットワークすべてのモーニングショーに出演した。そして正午には、ロサンジェルス行きの飛行機に乗っていた。その週の後半には、一連のエキシビションの1回目に招かれた。その年の終わりまで、彼は向こう脛の疼痛に悩まされたが、12月にグランドスラム・カップで優勝(ギルバートに勝利)して大枚200万ドルの賞金を獲得し、世界5位で1年を終えた―――12カ月でランキングを76位上げたのだった。

「僕はロッカールームの敬意を得たが、自分ではまったく気付いていなかった」とサンプラスは振り返る。「誰もが以前よりも感じよく友好的に接してくれたが、僕は他の選手たちの感情にほとんど気付いていなかった。大会に出場した時はいつも、自分の胸に巨大な的があるかのように感じてはいたが」

「自分のゲームを安定させるのに2〜3年かかり、スーパースターである事を心地よく感じられるようになるのにも、同じくらいかかった。僕はメジャー大会で一貫した有力候補になるレベルには到達しておらず、守備的ゲームを強化する期間が必要だった」
「きっと彼の両親は、息子の歩みを誇らしく感じているだろう」


1992年、サンプラスは再びUSオープン決勝に進出した。しかし胃痛で眠れぬ夜を過ごした末に、ディフェンディング・チャンピオンのステファン・エドバーグに3-6、6-4、7-6(5)、6-2で敗れた。

サンプラスとアガシ、2002年
彼はくじけずに努力を続け、そして常に自分自身と子供時代からのしつけに忠実であり続け、多数のグランドスラム・タイトルを追い求めていった。最終的に彼は14のタイトル―――オーストラリアン・オープン2回、ウィンブルドン7回、USオープン5回―――を獲得し、6年連続(1993〜1998年)年度末ナンバー1在位の記録を打ち立てた。

「きっと彼の両親は、息子の歩みを誇らしく感じているだろう」とブランディは語る。彼は2人の幼い子供の父親としての役割に戻るため、1991年11月にサンプラスとの仕事を終えた。「私は彼を大いに称賛している。彼は負けても決して弁解をしなかった。そして偉大なチャンピオンだ、恐らく史上最高のね」

彼のキャリア最後の試合は2002年USオープン決勝戦で、相手はアガシだった。女優の妻ブリジットが見守るなか、サンプラスは6-3、6-4、5-7、6-4で勝利し、批評家は間違っていた事を証明した。そして最初と最後のメジャー優勝をUSオープンで遂げるという、ブックエンドのような完璧なキャリアで、永遠にUSオープンと結びついているのだ。


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