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2010年7月22日
トップ2のUSオープン優勝者
文:Christopher Mayers


ほんの1カ月後には、4番目、そしてシーズン最後のグランドスラム大会であるニューヨーク開催のUSオープンに、我々は夢中になっているだろう。

昨シーズンのUSオープン男子チャンピオンは、ホアン・マルティン・デル・ポトロだったが、彼がタイトルを守るために出場する事はない。手首の手術から回復途上にあり、今年は長い間テニスシーンから遠ざかっているのだ。

依然として疑問は残ったままである。スイスのテニスエース、ロジャー・フェデラーが、戦いの場における優越性を復活させるのか、あるいはUSオープン優勝者として、またしても新たな勝者が生まれるのか。

ロジャー・フェデラーの時代は終わった、と評する専門家もいる。しかしながら、大多数のアナリストは「焦らずに成り行きを見守ろう」という態度を示している。時だけが証明するだろう。スイスのテニスマスターは彼の持つけた外れの記録に、さらにメジャータイトルを加える事も可能で、ラファエル・ナダルと並んで、今なお優勝の最有力候補として存在し続けられるかどうかは。

1968年以降、USオープンに出場してきたすべてのテニス選手の中で、さまざまな大会のトロフィーを獲得している競技者の数はごく少ない。まずはメジャー大会の決勝戦に進出し、そして実際にタイトルを獲得する事。それは確かに、非常に困難な業績である。したがって、1968年以降でトップ2のUSオープン・チャンピオンを分析するには、獲得したトロフィーの数と同様に、プレーした決勝戦の試合数にも注目すべきである。

以下は、1968年以降でトップ2のUSオープン優勝者に関する記述である。

7回のUSオープン決勝戦進出で、5回の優勝

ジミー・コナーズはUSオープンで7回の決勝戦を戦い、5回に優勝して勝率は85.2パーセントだった。彼は長いUSオープンの歴史で、芝生、クレー、ハードコートという異なる3つのサーフェスで優勝を遂げた、男子では唯一の選手である。

ジミーは1974年に初優勝を遂げ、1983年に最後の優勝を果たした。コナーズは初出場の1970年から最後となった1992年まで、合計で22回のUSオープンに出場した。ジミーはニューヨークで競い合う事を愛し、そこで彼のキャリアにおける最高の成功を勝ち得たのだった。

1974年には、フレンチ・オープンは欠場したものの、4つのグランドスラム大会の3つで優勝した。その年にジミーはUSオープンで初の決勝進出を果たし、ローズウォールに6-1、6-0、6-1のスコアで圧勝した。

1976年には2回目の優勝をクレーコートで、1978年には3回目の優勝をハードコートで、ともにビョルン・ボルグを相手に果たした。

コナーズは1982年と1983年のUSオープンでも、連続してさらに2回の優勝を遂げた。

間違いなくジミー・コナーズは、史上最高のテニスプレーヤーの1人として、テニス界に記憶されるであろう。

8回のUSオープン決勝戦進出で、5回の優勝

現在においては、ピストル・ピート・サンプラスは5回の優勝で、USオープンの最多優勝者としてロジャー・フェデラーとジミー・コナーズに並んでいる。そこでのピートの勝率は、約88.75パーセントである。

サンプラスは1988年から、1999年の怪我による1回の欠場を除き、合計で14回USオープンに出場した。

彼は1990年、19歳の時にキャリア初のトロフィーを、そして31歳の時に最後のトロフィーを、共にUSオープンで獲得したのだった。1990年の時には、アンドレ・アガシを6-4、6-3、6-2のストレートセットで圧倒した。

1993年には、第15シードのフランス人セドリック・ピオリーンを6-4、6-4、6-3で下し、2回目のUSオープン優勝を遂げた。

1995〜1996年には、ピストル・ピートは2年連続でUSオープンに優勝した。1995年にはアンドレ・アガシを6-4、6-3、4-6、7-5で下して3つ目のタイトルを、そして1996年にはマイケル・チャンを6-1、6-4、7-6で下して4つ目のタイトルを獲得したのだった。

サンプラスが5つ目、そして最後のUSオープン・トロフィーを獲得したのは2002年の事だった。ニューヨークのビリー・ジーン・ナショナル・テニスセンターで、彼は再度アガシと対戦し、キャリア最後となった試合に勝利したのだった。

現在でも、ピート・サンプラスはテニス界全体から、USオープンにおける最高の選手と見なされている。


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