ESPN.com
2009年8月19日
合衆国の子供たちを惹きつける試みは、牽引力を獲得しているのか?
文:Greg Garber


ピート・サンプラスのコーチになる遙か前、世界12位に到達する前、あるいは1984年にウィンブルドンで準々決勝に進出する前、ポール・アナコーンはボロテリー・キッズだった。

彼はフロリダ州ブラデントンのニック・ボロテリー・テニスアカデミーで何千時間も過ごした。そこでテニス界で最も優れた、そして最も輝かしい若いプレーヤー達とボールを強打し合い、彼は学んだ―――得た―――テニスの技術を。

アナコーンの息子、ニコラスが10歳になってボロテリー・アカデミーへ行きたいと頼んだ時、ニコラスはテニス文化の中で成長してきたが、父親には自分の体験談を語る用意があった。彼は語った。なんとかして自分にできる最高になるためには、多くの努力と犠牲が必要になると。それはトレーニング・ジムと教室で過ごす時間だ。太陽にあぶられたコートの上で1日に5〜6時間を過ごす事。パーティーや他の社交イベントに出られない事をも意味するかも知れない、と。

ニコラスは目を丸くした。

「息子の答え、それは非常に率直だった」とアナコーンは語った。「彼は『僕は興味を持つかどうか分からない。いいえ、パパ、それをしたいとは思わないよ』と言った」

息子は『怠惰な脱落者』ではないと、アナコーンは言う。彼は現在22歳になり、父親の母校であるテネシー大学に通っている。ニコラスは典型的な、「最も楽な道のり」を選ぶアメリカの子供にすぎなかった。

「最近では、子供たちは自分の生活がかなり良いと思っている」と、アナコーンは 40歳以上のごく一般的な親の口調で語った。「彼らは自分のゲームボーイ、プレイステーション、ソニー、ウィーを持っている。学校ではまずまずの成績で、ガールフレンドとデートもする」

テニスというスポーツをマスターするのは、非常に難しい仕事である。運動能力、体力、忍耐力―――そして精神の強靭さを必要とする。バウンドする小さなボールを絶え間なく追いかけ、その幾何学的変化に対応する事、それは言うほど楽しいものではない。

「我々は真の訓練と本物の技術を向上させる途上にいる。それは途轍もなく難しく、技能を身につけるスポーツのカテゴリーに我々を投じるのだ」と、長年プレーしてきたトッド・マーチンは述べた。「それがテニスというスポーツの最も大きい限界の1つだ」

「バスケットボールを手にする時、唯一すべき事はリングに通す事だ。子供は一度それをすると、もう一度したくなる。レブロンやコービーを思い出させるからだ。子供がテニスコートで何かしても、フェデラーやナダルのプレーを思い出す事はできない」

大学テニスは、かつては合衆国のテニスクラブで励んできた子供たちの保護区だったが、現在ははるかに多様なものとなっている。今年の NCAA(全米大学体育協会)選手権では、40人のシングルス・プレーヤーのうち21人が合衆国以外の国出身だった。

1970年代後期や80年代早期、アメリカのテニスが百花繚乱だった頃には、男子も女子も、トップ100にランクされる選手の半分以上はアメリカ人だった。現在、ATP ツアー(男子)のトップ100には8人、WTA ツアー(女子)のトップ100には5人の合衆国出身者がいるだけである―――その1人バルバラ・レプチェンコは、ウズベキスタン生まれの合衆国市民である。

対照的に、女子のトップ10には5人のロシア女性がいる。かつてソビエト連邦に属し、現在は主権を有する国も含めると、合計24人―――トップ100の4分の1近くを占める。

選択肢の少なさはハングリー精神を意味する

プロテニスは世界的な規模になってきた。そして驚くには当たらないが、若い才能の多くは、アメリカ国民が有する相対的な富を享受する事のない東ヨーロッパの国々から集まっている。

テニスが国民のナンバー1スポーツとなったセルビアは、その主要な1例である。

共に短期間ナンバー1の座に就いたアナ・イワノビッチとエレナ・ヤンコビッチは、ベオグラード郊外でテニスを学んだ。NATO 軍による攻撃の間、彼女たちはかつてオリンピック・サイズのスイミングプールだったカーペットの小型コートでボールを打った。ラインから壁までは18インチしかなかったために、クロスコートのショットも、ワイドへのサーブも打つ事ができなかった。必要に迫られて、彼女たちはラインを狙ったのだ―――それは、現在頭角を現してきている国際的選手たちのハングリー精神を象徴するものだ。この2年間世界ナンバー3だった同じセルビア人のノバク・ジョコビッチは、12歳の時にベオグラードを離れ、ドイツのミュンヘンでニキ・ピリッチのコーチングを受けた。

フランスで最も人気が高く盛んなスポーツはサッカーで、200万人以上の登録されたプレーヤーがいる。テニスは2番目に盛んで、100万人以上がプレーしている。フランス―――人口6,500万人の国、一方合衆国の人口は3億人―――にトップ100以内に男子が11人、女子が8人いる事は、ただの偶然なのか?

「我々にはあまりに多くの選択肢、男子にも女子にも非常に多くのスポーツがあるために、不利をこうむっているのだ」とバド・コリンズ、彼は半世紀にわたってテニス界に関わってきたが、ブランダイス大学でテニスコーチを務めていた1950年代後期を振り返って語った。

「スペイン選手はとても優れているが、彼らにはサッカー、バスケットボール―――そしてテニスがあるだけだからだ」

「我々はどうにかして、自国の優れた若い運動選手にテニスをするよう説得しなければならない」

トッド・マーチンは1970年、 イリノイ州ヒンズデールで生まれた。

「僕の子供時代、最も素晴らしいものの1つが退屈だった」とマーチンは語った。彼はピート・サンプラス、アンドレ・アガシ、ジム・クーリエ、マイケル・チャン等と共に、あの偉大なアメリカ人男子世代の一員となった。

彼はオハイオ州ハドソンで育ち、4歳の時に、父親が裏庭にしつらえたレンガ造りのパティオに置いてあるレッドウッドのピクニックテーブルを、母親に手伝ってもらってひっくり返した。何時間も、彼はそれに向けてテニスボールを打ったものだった。

「そういう事は、最近では見られない」と2人の息子、6歳のジャックと3歳のキャッシュの父親であるマーチンは言った。

「この文化の中で、退屈する事はあり得ない。我々の社会は、子供たちが独力で独創的になる事をひどく嫌がるのだ」

翌日、1時間にわたる電話会話の後に、マーチンは自分の考えを明確にした電子メールを送ってきた。

彼は書いていた。「先ほどは言及しなかったが、若いテニスプレーヤーに必要なのは、絶え間ない指導は無しで互いにプレーする事だ。多すぎるインプットは、子供と学習プロセスを息苦しくする事もある。言うまでもなく、テニスをするのに必要な独立心の発達にも有害だ」

プロのスターがゲームに手を貸すという、トリクルダウン理論(政府資金を大企業に流入させると、それが中小企業と消費者に及び、景気を刺激するという理論)にも似た一般的な見解がテニス界にはある。子供たちはウィリアムズ姉妹を見て、ラケットを握ろうと動機づけられる、というものだ。

合衆国デビスカップ監督のパトリック・マッケンローは語った。「子供たちがテレビでテニスを見ると、テニスをする人口が増える可能性がある」

ハリスのコンピュータ対話方式による最近の世論調査―――6月に2,177人の合衆国の成人が対象となった―――によれば、セレナとヴィーナスのウィリアムズ姉妹は、人気女子スポーツスターの2人だった。他の3人のテニスプレーヤー―――マリア・シャラポワ、クリス・エバート、アンナ・クルニコワ―――も、リストに上がった。エバートとクルニコワは引退しているが。男子のテニスプレーヤーはリストに入らず、タイガー・ウッズがトップだった。

ロジャー・フェデラーとラファエル・ナダルの成功が示唆するように、アメリカ人のスターがゲームの頂点に立つ事が、国際テニスの隆盛に必須なわけではないが、悪い事でもない。アメリカの市場は、男女双方のプロツアーにとって重要なのだ。

「5人のテニス選手のうち、3人はアメリカ人―――そういう状況ならかなり意味がある」と、ソニー・エリクソン WTA ツアーの最高経営責任者であるステイシー・アラスターは語った。「我が国の若いファンにテニスをプロモートする原動力となる」

アラスターによれば、WTAツアーの「主要な」大会の42パーセント―――19のうち8大会―――は、合衆国で開催されている。トップ5大会のうち2大会は、賞金総額450万ドルを呼び物とするインディアンウェルズとマイアミである。

テニス人口を再び開拓する

テニスはかつてよりも、アメリカでの売り込みが厳しくなっている。1968年にオープン時代が始まった頃は、ケーブルテレビはなかった―――視聴者を吸い寄せる ESPN 局も、HBO 局も、Food ネットワークも QVC も存在しなかった。ラクロスは北東部に点在する地域で行われる限られたスポーツだった。スケートボード、 BMX 自転車、Xゲームスポーツ全体は、我が国の若者の心を掴むに至っていなかった。現在、インターネットの混沌とした社会的ネットワーク、そして携帯電話は、確実に余暇の時間に食い込んできている。

パイロット・ペン・テニス大会の部長、アンヌ・ウスターにとっては、テクノロジーは有利にも不利にも作用している。「私の子供たちは、ヨーロッパへの8時間のフライトでも、iPod さえあれば他の暇つぶしは不要です」とウスターは語った。「しかし Facebook、Twitter、さらに消費者の時間とドルを奪うすべてのものの出現で、テニスにとっての挑戦はより厳しくなりました。我々は単なるテニス大会のままではいられません。スポーツ娯楽イベントであらねばなりません」

「我々はテニス競技を呼び物にしていますが、同時にワインの試飲、ファッションショー、ウォール・ロック・クライミングを呼び物としているのです」

1970年代にまで遡って正確なテニス人口を割り出す事はできないが、一般的には1970年代半ばから1980年代が、アメリカのテニスが最も隆盛だったという印象がある。ハリウッドはテニスを喜んで受け入れ、テニス用品を持つ事が流行した。ベビーブームが到来し、スポーツへの熱意が生み出される10代、20代のアメリカ人が大勢いた。1954〜1964年にはアメリカで年間400万以上の子供が誕生し、1957年には430万人の記録に達した。

CBS 局のUSオープン最高視聴率は1980年決勝戦の時で、ジョン・マッケンローが5セットでビョルン・ボルグを破った試合は11.0パーセントを記録した。2人の男は翌年に、ウィンブルドンの魅惑的な決勝戦で、7.9パーセントという NBC 局の過去最高視聴率を挙げた。

「当時は経済も好調だった」と、高名なコーチのニック・ボロテリーは語った。「誰もがテニスをしているように思われた。父母は子供たちをコートに連れて来て、その子供たちは皆ボールを打っていた」

「現在は、母親や父親がプレーしている姿を見かけない。母親は仕事に―――1つか2つ―――就いている。経済はスポーツにとって大きな要因だ」

もちろん、ベビーブーム世代は自身の子供を持ち、1989〜1993年には、合衆国の年間出生率は400万人台後半まで上昇した。これが恐らく、現在の上昇するテニス人口と視聴率の要因である。

「僕の親世代はテニスに夢中だった」と、アウトバック・チャンピオンズ・シリーズの共同創設者、ジム・クーリエは語った。「彼らは我々にテニスを伝えた。今は僕の世代が子供を持っていて、子供たちにテニスへの愛を伝えている。恐らく自然なサイクルとでもいうものがあって、20〜25年のうちにはまたブームがやって来るのかも知れない」

「アメリカの選手がグランドスラムで最後に勝利を挙げたのはいつか―――6週間前のウィンブルドン、そうだね?」と、テニスマガジン誌と ESPN サイトに頻繁に記事を寄せるピーター・ボドは語った。「我々はテニス地図から脱落した訳ではない。次の軍団はどこから来るのか? うむ、それは夏の稲妻のようなものだ―――すぐにひょっこり現れる」

「私はジョン・マッケンロー後のアメリカ・テニスについて書いたのを覚えているが、そうしたらドカン、サンプラス、クーリエ、アガシが現れた。こういった子供たちの1人がオープンで優勝でもすれば―――サム・ケリーかデビン・ブリトンあたりか―――我々はアメリカ・テニスの再来と書いているだろうよ」

マルチナ・ナヴラチロワと共に20のグランドスラム・ダブルスタイトルを獲得したパム・シュライバーは、親族を通じてテニスに触れてきた―――祖父母、両親、従兄弟、叔母・叔父たちだ。先日、ロサンジェルスの西側にある自宅の外でテニスレッスンが行われた。

「私の3人の子供たちは私をつかまえて、『さあ、ママ、ボールを打とうよ』と言ったわ」とシュライバーは語った。

3歳のケイトとサムはジュニア用ラケットで、5歳のジョージは新しい(そして高い評価の)ウィルソン・ロジャー・フェデラー・モデルでプレーをした。

「楽しかったわ」とシュライバーは語った。「テニスは素晴らしい家族スポーツよ。皆が一緒になるのだから。テニスは常に、健全さを保持するものとして語られるべきよ。我々は現在のアメリカに、そのメッセージを送り続ける必要があるわ」


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