ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2009年10月20日
ゾーン状態のピート・サンプラス パート1
文:antiMatter


私がこれを書くのは、実に容易ではない。彼は私がテニス界で真に興奮を感じる1人の男なのだ。

私は彼のために「特別な」何かを書きたいと思うのだが、何かを試み、なおかつ自己満足にならない、あるいは自分のアイドルを褒めちぎりすぎないという事について、わけもなく恐れ怯えている。

したがってここでは、辛抱強い読者を退屈させ苛立たせず、なおかつ彼を不当に扱う事のないよう心がける。意識の他の部分が使いたがっている見当違いの比喩にはまり込まないようにしつつ、この真に注目すべきテニスの伝説的偉人に関する私の思い出を少しばかり差し挟み、そして一人称のモノローグに徹する。

私はピートを見ながら成長した。そして大半の男の場合と同様に、父はゲームに関して、間もなく私の心に花開いた偏見の種(私はそれを取り除こうと懸命に努めたのだが)をまいた。父はアンドレとピートの忠実なファンで、彼らが対戦すると、通常はどちらがより良いプレーをしているかによって、いずれかの側についた。父は常に試合が接戦になる事を望んでいた。

ピートがアガシに対して4-5、0-40の状況で、彼がベースラインでボールをバウンドさせ始めると、父は緊張する私を見て言ったものだった。「なぜお前が心配するのか? お前が見る事になるものを言おう―――2本のエース、うち1本はセカンドサーブ。サーブ&ボレー、そして返球不能のサーブ」

まあ、その順番は必ずしも正確ではなかったが、話の核心は同じだった。それから父は言い足したものだ。「ご覧? 言ったとおりだった。たいていの選手に対しては、彼が多くのスラム大会で優勝してきたという事実だけで、試合に勝つには充分だ。しかしこの場合はアガシだ。とにかく、私はお前に言ったよ」

この事や他の多くの事例によって、私の中でピートは確固たるヒーローとなったのだ。彼は決して観客におもねったりしなかった。まあ、ほぼ決して。しかし私は常に、ピートのゲームはテニスコート上で最も表現力豊かなものだと感じていた。

セカンドサーブ・エースの冷徹なまでの精度と残酷さ、スラムダンクのいちずなドラマ性、ランニング・フォアハンドのアドレナリン、バックハンド・クロスコートパスの優雅さと卓越、レーザー誘導のようなボレーの決定的雰囲気。

だがこれらを引き立たせたのは、彼の物腰だった。特に、彼がポイント間にベースライン付近をゆっくりと、確かな足取りで歩く時、あたかも筋肉が歩き方を覚えているかのように身をまかせ、一方で彼の頭脳はもっと重要な事を徹底的に考えているように見えた。

左半身と右半身の綱渡りのようなデリケートな均衡は、彼が疲労で倒れそうな印象を与えた。これは大方の選手に関しては、ネガティブと呼ぶボディ・ランゲージである。しかしピートに関しては、何も意味していなかった。そしてたいていの場合、相手を怖じけさせるかに思われた。

彼はうろたえているように見えなかった。あるいは彼の功績に関するくだらない騒ぎを助長するようには見えなかった。満足げに頷く頭のひと振り、あるいは握り締める拳が、目に見えるすべてだった。

このすべてが、自己のコントロールだけでなく、自身の運命をもコントロールできる男のイメージを私に与えた。さらに彼は、決して弱々しくなかった、あるいは試合中に弱り切る事はなかった。彼がプレーしている時は、テニスが唯一の焦点であり、その後にも先にも何もなかった。

(私は心の内で伝説となっているこの男の物語を語るわけにはいかない。同じくそれはこの記事のポイントではない)

そしてテニスプレーヤーとして完璧な心構えと、ほぼ完璧なゲーム(我々は誰が「完璧なゲーム」を持っているか知っている)を持つ男がゾーンに入ると、彼は死刑執行人、葬儀屋となり、1人の寡黙な暗殺者へと転じた。

ここで言及する試合は、ピートがパット・ラフターと対戦した合衆国対オーストラリアのデビスカップ・タイである。

ラフターはピートよりネットプレーが得意で、より優れた片手バックハンド、そしてピートの苦手な側に放つキックサーブを持っていた。

第1セットでは、ラフターは角度のついたキックサーブを有効に用いてネットで易しいボールを引き出し、ボレーウィナーを決めていた。またピート自身も、自分のサービスゲームを鮮やかにキープしていた。なにはともあれ、彼はテニス界で最高とも言えるサービスを持っていたのだ。

当時のゲームはもっと高速で、瞬時の反応がより重要だった。コートは非常に速く、ボレーはピンポイントの正確さで、1インチたりとも追いつく望みを与えなかった。同様に、突進してくる相手を抜くボールを得る事も充分にあったので、明快なリターンウィナーも稀ではなかった。したがって、そのセットは極上のサーブ&ボレー・テニスだった。ピートは易々と自分のサービスゲームをキープし、ラフターも好調だった。ピートがリターンであまり何もできず、ほぼ手を封じられていたからだ。

タイブレークでは極上のショットが何本か見られた。ピートは扱いにくいスライスのかかった非常に、非常に低いボールからバックハンドのクロスコート・パスを鋭く放ち、一歩リードした。多くのやり取りの後には、ネットの助けもあってラフターもパスを抜き返した。

ラフターはその後に、ピートの速いフォアハンド・ストロークからストレートに衝撃的なフォアハンド・パスを放ってセットポイントを握り、そして返球不能のサーブで第1セットをものにした。

第2セットでは、ピートのベースライン・ゲームが全開し始めた。ラフターの最初のサービスゲームで、その端緒が見られた。ピートはフォアハンド側に放たれたレーザー誘導のボレーに追いつき、駆け抜けざまにクロスコートのランニング・フォアハンド・パスを放ったのだ。ピートが走ると、何が起きようとしているかは分かるが、ほとんどいつも、それについてできる事は何もないのだ。

ピートはいつものように力強いサーブを放ち続けていたが、同時にラフターのサーブを上手く読み始めた。リターンウィナーがフォア、バック両サイドから殺到し始め、その多くがパッシングショットとして決まった。

リターンでウィナーを打てない場合には、ピートはネット際にいるラフターの足元にボールを沈め、次に有利なポジションから絶妙のパスを放った。リターンの質が高いために、ボレーにこれまでほどの鋭さがなかったのだ。

彼は第1セットでも、もう少し角度のついた(あるいはつかない)、そしてもう少し高いショットを試みてはいたが、ラフターは捕らえていた。

ピートの狙いが明らかになるにつれて、多くのボレーがスマッシュとなり、スラムダンクがコートを焼き尽くし始めた。

ピートのベースライン・ゲームは、テニスの馬鹿者どもに最も過小評価されているものである。そしてまさしくその時点で、彼をラフターから際立たせ始めたものだった。

試合は、目利きには堪えられない多くの瞬間を提供した。

サービスリターンでのフォアハンド・クロスコート・パス、私がインサイド・インと呼ぶバックハンド・リターンウィナー、インサイド・アウトのバックハンド・ウィナー、手首がボレーの時と同じように働く「手技」が美しい絶妙なロブ、そして純粋なパワーのフォアハンド。

ここで少しばかり思いのままに、これらの幾つかを語ろう。

第2セットでは、ピートは自分のサーブでステイバックする事にして、ラフターは深いリターンをピートのバックに打つ。アプローチショットに自信をもって、ラフターはネットへと進む。ピートは膝を深く曲げ、手首を翻してラフターの頭上を越えるロブを放ち、ボールはコートのバックハンドコーナーに着地する―――完璧に。ラフターは駆け戻ってボールに追いつき返球するが、ピートはネットにいて手際の良いドロップボレーでポイントを終わらせる。

もう1つ。これは第3セットのラフターのサーブで起こった。ピートはバックハンド・リターンを打ち損じる。ラフターは万全の態勢で、ボールはネットの上方高く飛んでくる。彼はクロスコートに力強いフォアハンドを叩き込む。ピートはコートの反対側にいたが、前かがみに前方へ走ってボールに追いつくだけでなく、ランニング・フォアハンド・パスをクロスコートに返す。ピートがどこからボールを打ったのかを見て、解説者が叫ぶ。「信じられない! あんな事ができるなんて!

彼の攻撃武器はまさに多種多様となり、次の2セットは見所満載だった。

第2、第3セットでさんざんに打ち負かされた後、第4セットでラフターは少しゲームを立て直し、そして恐らくピートは少し気を緩めたが、ピートの勢いはラフターをブレークして勝負を終えるには充分だった。

この読み物を台なしにしないよう、とりとめのない話はここらで終えよう。

私はロブ(Rob York)に「どれかは思い出せないが、1997年にピートとラフターが対戦した試合のどれか」について書きたいと伝えてあった。私にこの試合だと指摘したのはロブだった。

何本かビデオを見返して、本来私が思い描いていた試合はグランドスラムカップだったと思い出した。多分、いつかその試合について書く事もあるだろう。

「キング・オブ・スウィング」は、永遠に私がいちばん好きな選手なのだ。



2009年11月1日
ゾーン状態のピート・サンプラス パート2
文:Rob York


1995年の大半、ピート・サンプラスはアンドレ・アガシをランキングで追っていたが、USオープン決勝戦では彼を破った。その後『テニス・マガジン』は、サンプラスは「自分がどれほど優れているか証明する必要は、もはやない」と書いた。

それが本当であったならば………。引退に至るまで、サンプラスは自分自身を証明する行為をやめる訳にはいかなかったのだ。1996年のスラム3大会では不首尾に終わり、ナンバー 1順位を維持するために最後の大会で優勝しなければならなかった。

1998年前半は不調に苦しみ、天敵のリチャード・クライチェクによれば「世界10位の選手」のような状態でウィンブルドンに臨んだ。

そして1999年ウィンブルドンに向かうにあたり、彼はまたしてもアガシの下風に立つ危機にあった。アガシはローラン・ギャロスの優勝でキャリア・グランドスラムを達成したばかりだったのだ。

サンプラスはその年、1回しか優勝がなかった。それはつい2週間前の、クウィーンズ・クラブでのものだった。

それは問題ではなかった。過去いくたびも、ピート・サンプラスはピート・サンプラスを信じて、その正当性を立証してきたのだ。ウィンブルドン1999年に臨み、彼が他の皆を納得させるのは、ただ時間の問題に過ぎなかった。

最初の改心者はアガシだっただろう。1997年のキャリアどん底(我々は最近になって、それが思っていた以上にどん底だったと知ったが)から立ち直った後に、ダブルAは人生最高の絶好調にあっただけでなく、かつてないほど自信に満ちていた。

サーブは必ずしも彼の決定的武器ではなかったが、長きにわたり彼の比類なきグラウンドストロークのお膳立てをして、対戦相手をさんざんに振り回すためにそれを用いてきた。

パリでの優勝に続いて、アガシはフィットネスと動きに自信を深めていた。セカンドサーブでも足の速さと手技でポイントを勝ち取れると確信して、ファーストサーブを武器として用い始めた。

テニス界最高の純然たるヒッター、そしてリターナーは、確信をもってサーブを打ち始めた。彼は1セットを失っただけで、ウィンブルドンのドローを突き進んでいった。そして準決勝では第2シードのパトリック・ラフターを圧倒した。

彼のゲームは誰と対しても申し分なく優れたものだった。彼の世代最高のグラスコート・プレーヤーとセンターコートの芝生で相対しても。

およそ7ゲームの間は、とりあえず。3-3のサービスゲームで、サンプラスは最大のライバルに対して0-40となり、もう1ポイントを失うと、サービスゲームを落とす事が最も致命的となるサーフェスで、ブレークを喫する瀬戸際にいた。

それでもなお、ピート・サンプラスはピート・サンプラスを信じていた。アガシはテニス界最高のリターナーだったかも知れない。しかしサンプラスは最高のサーブを持っていた。そしてサーバーは最初のショットをどこに打つか、主導権を握っているのだ。

彼はエースを打つ必要はなかった。時速120マイル近いファーストサーブがライン上、あるいはコーナーに決まれば、通常ボールは戻ってこないものだ。

ウィルソンラケットを頭上で4回スウィングさせて、ピストルはアガシのブレークチャンスを消し去り、そしてゲームポイントを握った。それらのサーブが最後のポイントでダブルAのリターンミスを生じさせたのは、想像に難くない。

そこからは、サンプラスは信じるだけでなく、知ったのだ。彼のサーブから始まったものは、ランニング・フォアハンド(特にデュースコートでアガシのワイドサーブに対して)が押し進めていった。

突然の状況変化はダブルAから準備する適切な時間を奪い、そして間もなくサンプラスは1ブレークアップとなり、彼の広範なレパートリーのあらゆるショットが攻撃目標にセットされた。

アガシは以前にもゾーン状態のサンプラスに出会っていた。1990年USオープンでは、アガシは初のメジャー優勝の期待という重荷を負っていた。一方サンプラスは爆発的なサーブを持つやせっぽちの子供で、負けるだろうと思われている事を知るにはあまりにも経験不足だった。

1995年には、彼らは同じ場所で世界のナンバー1とナンバー2の選手として相対した。アガシのゲームがAランクなら、サンプラスはAプラスだった。

それらのプレイも見事ではあったが、サンプラスは1999年までに圧倒的なネットゲームをもう1つ上のレベルにしていた。そして滑りやすい芝生の光沢は、明らかに彼に味方していた。

彼がアガシをブレークして第2セットを始めた時には、視聴者の思いは誰が勝つかという問題から、アガシが自我を損なわずにその日を生き延びるだろうかという問題へと移っていた。

しかしダブルAは、セカンドサーブを時速80マイル後半〜90マイル前半へと増幅して集中砲火に応じた。そして唸り声を上げながらグラウンドストロークを打ち、その速度を少し増した。

ファーストサーブの確率は40パーセント台まで下がり、ダブルフォールトは6本へと増加した。しかししばらくの間、それは効果があった。彼は第2セットの残りを通じてサービスゲームをキープし、そして第3セットへと入った。

彼はただ、ピストルをブレークする事ができなかったのだ。サンプラスはその午後にもう1本のブレークポイントに直面しただけで、それも即座に無効にした。

ファーストサーブの確率は2/3で、その89パーセントのポイントを獲得した。16本のエースを放ち、専売特許のスラムダンク・オーバーヘッドを打つまでもなかった。

アガシはサンプラスのサーブに対して強打し、深いリターンでプレッシャーをかけられながらも、第3セットの第11ゲームまでは持ちこたえた。そこで15-40と追い込まれ、ブレークポイントを1本はファーストサーブで、もう1本はバックハンドへの深いアプローチショットとそれに続く簡単なボレーでセーブした。

ここまでピストルは繰り返し深いスライス・バックハンドでリターンを返してきていたが、次のポイントで、アガシはウィナーを狙ったが、ショットは低すぎてネットにかかってしまった。

今やサンプラスに残された唯一のすべき事は、サービスゲームをキープして試合を首尾よく終える事だった。そして彼はそれを、センターへのセカンドサーブ・エースで締めくくったのだった。彼はピート・サンプラス自身を信じるのを止めた事はなかった。それでもなお、彼がマッチポイントの後に解き放った唸り声は、他の皆を信じさせる事は、年月が経つにつれていっそう満足感を深めていくのだという事を表していた。

「アンドレは僕のベストを引き出してくれる」とサンプラスは後に語った。「彼は僕のゲームを並はずれたレベルにまで高めてくれるんだ」

サンプラスは何回ウィンブルドンで優勝できるだろうかと尋ねられ、アガシは答えた。「彼が望む限り何回でも」

その勝利は、ロイ・エマーソンの記録と並ぶ12回目のメジャー・タイトルを彼に与えた。彼はその記録を破るためにもう1つを望み、そして向こう脛を痛めていたにもかかわらず、翌年にそれを得た。その後には、年月によって蓄積された、勝利を不安定にさせる数々の怪我とともに、結婚と家族が訪れた。

しかし他の皆が彼に多くを期待しなくなっていた時に、彼自身の期待は2002年USオープンで、最後の1回のメジャー優勝をもたらした。自己の信念が正しかった事を立証して、彼はテニス界を去った。彼がどれほど優れているかを証明する必要は二度となかったのだ。


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