ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2009年6月14日
ピート・サンプラスと、ウィンブルドンという名の運命の皮肉
文:Rajat Jain


2009年ウィンブルドンまで1週間となり、私はこの場所において定義された過去のチャンピオンに関する思い出を新たにしていた。ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、ボリス・ベッカー、ステファン・エドバーグ、ロジャー・フェデラー………しかし1つの名前が、エリート達の中でもひときわ明るく輝いている。

ビョルン・ボルグはセンターコートで、その観客と類似する落ち着いた威光を示したかも知れない。そしてロジャー・フェデラーは、かつて誰もした事のない方法で光彩を与えた。しかしキング・オブ・ウィンブルドンという称号に値するチャンピオンがいるとすれば、それはキング・オブ・スイング―――ピート・サンプラスである。

ジュニア時代におけるピートのゲームは、堅実で読みにくいサーブと両手バックハンドを備えた、ベースラインでこつこつ打ち続けるスタイルだった。そして彼はマイケル・チャンといった同輩に対して多くの成功を収めていた。

彼に次代のロッド・レーバーを見いだし、芝生に順応するため彼のゲームを変えるように強要したのは、コーチのピート・フィッシャーだった。芝生でのリターンを向上させ、ボレー技能を進化させるために、彼はサンプラスを片手打ちバックハンドに変更させた。たとえそれが、かつては勝利していた同じプレーヤーに対して、多くの敗戦を経験するであろう事を意味したとしても。

この変更にもかかわらず、サンプラスはキャリア初期の頃はグラスコートを嫌っていた。そして最初の3年間は、3回戦に到達する事もできなかった。彼は自分の嫌悪感をきっぱりと正当化していて、かつてのウィンブルドンの偉人であるジョン・マッケンローでさえ、それを否定する事はできなかった。

しかし、次のコーチ、ティム・ガリクソンと、マッケンローからの親切なアドバイスに勇気づけられて、彼は心構えを変え、以前よりもずっと真剣にウィンブルドンを受け止めるようになっていった。

そして「ピストル・ピート」というフレーズを真に定義したのは、ウィンブルドンであった。彼にとって最も重要なメジャー決勝戦で勝利する事によって、批評家―――ほぼ3年の間に1回もスラム優勝を遂げずに、彼が1993年4月に世界ナンバー1へと上り詰めた事に疑義を挟んだ―――を黙らせたのは、ここだった。彼はその後1993〜1995年に3年連続で、さらに1997〜2000年に4年連続でタイトルを獲得し、このコートを第2の故郷としたのだ。

ウィンブルドンの芝生は、パリの赤土で味わった失意をやわらげ、彼の支配力をよみがえらせた。

1999年には、まさしくこの場所でロイ・エマーソンの持つ最多グランドスラム記録に並び、そして翌年の2000年には、理想的な流儀でその記録を超えた。

大会を通して、ピートは向こうずねの痛み―――大会の間、彼は様々な段階に途中棄権をも考慮した―――を抱えて戦い抜き、コートに闇が迫るなか、初めて訪れた両親の前でトロフィーを掲げた。彼は新しいミレニアム最初のウィンブルドンで優勝したのだ!

1人の人間がいかに支配的であろうとも、遺産は受け継がれる必要がある。そして運命は、そのふさわしい方法を選択しさえする。彼はセンターコートにおいて、熱戦の末にフルセットでロジャー・フェデラーに敗れた。プロキャリアにおける彼らの唯一の対戦だった。フェデラーはその2年後にウィンブルドンで優勝し、ふさわしくも次代の相続人に値する存在となった。

それはウィンブルドンにおける、ピート・サンプラスの完璧な物語である。

あるいは、そう言えるか?

ファンは愛情を込めてボルグとマッケンロー、エドバーグとベッカー、そして現在はフェデラーとナダルのウィンブルドンにおけるライバル関係を思い出す。しかし恐らく、ウィンブルドンにおけるピートの途方もない支配は、彼には互角と呼べるライバルがいない事を意味していたのだろう。1980年と2008年の決勝戦に代表されるようなウィンブルドンの名試合の中に、ピートの試合を見つける事は難しい。

ライバル関係に近い唯一のものはゴランとの対戦だろうが、それさえも常に愛情を込めて思い出されるわけではない。ウィンブルドンを「一面的である」とし、ピート・サンプラスを「退屈である」とし、そしてウィンブルドで使われるサーフェスとテニスボールを変更するきっかけとなったのは、2人の対戦であった。

「退屈な」プレーヤーはウィンブルドンで3年連続優勝を遂げた後に、チャーリー・ローズとのインタビューで、「スポーツ・イラストレイテッド」の表紙に自分の名前が載るためのアイディア―――そして業績も―――は尽きかけている、と認めなければならなかった。

年月が経つにつれて、ピートはロンドンでタイトルに加えて、人々の心をも獲得し始め―――ちなみにそれは最大の番狂わせの1つ、リチャード・クライチェクに対する敗北後だった―――そしてついに、2000年の後には負け始めた。

敗戦もプロテニスの一部ではある。しかし皮肉にも、彼は最愛の大会におけるキャリアを、2番コートの「墓場」―――あらゆるチャンピオンがそこでプレーすると考えるだけで震え上がる―――で、ジョージ・バストルという名の「ラッキー・ルーザー」に対する痛ましい敗北によって終わらせねばならなかった。

人生は続き、技術は進歩する。そしてウィンブルドンは、センターコートにつけた新しい屋根の落成式典を催した。式典に向けたエキシビション・マッチは胸躍るものだった。しかし「奇異」にも感じられた。「屋根」の下で競い合う2人のプレーヤー―――アガシとヘンマン―――はコートを支配した者たちではなく、この場所はピートによって支配されていたのだ。

ウィンブルドンとピート・サンプラスの関係、それは本当に皮肉なものだ。

結局のところ、ピートは最後となった2002年に涙を浮かべて去った場所へ、いまだ足を踏み入れてはいないのだ。


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