オースティン・アメリカン - ステイツマン
2009年11月4日
日曜日にピート・サンプラスがレイクウェイ・エキシビションでプレーする
文:John Maher


1週間ほど前、ピート・サンプラスはマカオ―――中国版ラスベガス―――にいて、エキシビション・マッチで長年のライバル、アンドレ・アガシに勝利した。

それは2002年USオープン決勝戦でサンプラスが見事な4セットの勝利を挙げ、当時の記録となった 14回目のグランドスラム・タイトルを獲得して以来、彼らがコート上で相対した初めての機会だった。彼らの最近の試合は、アガシの新しい暴露本『オープン:自叙伝』について宣伝と論争の嵐が起こる直前に行われた。

この本で明かされた意外な新事実の中には、彼が「暗い、秘やかな情熱」をもって、実際にはテニスを憎んでいたという告白があった。

サンプラスも似たような感情を抱いていたのだろうか?

「彼は僕よりもずっと抑圧されていた。僕には援助があった。テニスを憎むという点にまで達する事はなかった」とサンプラスは火曜日に語った。

しかしながら、日曜日に「レイクウェイズ・ワールド・オブ・テニス」でトッド・マーチンとエキシビションを行うサンプラスは、最後のUSオープン優勝後まもなく、3年間の長きにわたってテニスから遠ざかっていた。

「僕はラケットを握りもしなかった」と彼は振り返った。「テニスを見たくなかったし、記事を読む気も起こらなかった。テニスについて語る事もしたくなかった………。ひたすら遠ざかっていたかったんだ」

38歳となったサンプラスは、9年前に女優のブリジット・ウィルソンと結婚した。彼らはクリスチャン、ライアンの2人の息子と共に、ロサンジェルスで暮らしている。引退から最初の3年間は、サンプラスは静かな生活を送った。恐らく静かすぎるほどの。気が向いた時にゴルフとポーカーをし、子供たちを学校や諸活動に車で連れていくだけでは、やがて精神的にも肉体的にも満たされなくなっていった。

「自分の写真を見て気づいたんだ」とサンプラスは言った。現役時の180ポンドから、185〜200ポンドにまで体重が増えていたのだ。彼は再びラケットを握るべき時だと悟った。そして2006年からエキシビションとシニア・イベントに出場し始めた。

アガシとは違い、サンプラスは親にテニスを無理強いされる事はなかった。サンプラスは子供の頃に自宅の地下室でテニスラケットを見つけ、そして壁に向かってボールを打ち始めた。7歳の時に一家はワシントン D.C. から太陽に恵まれたカリフォルニア州パロスヴェルデスへと移住し、サンプラスはテニスに没頭するようになる機会を与えられた。彼は際立ったテニスの才能を示し、やがて両手打ちバックハンドを止めて片手打ちにするよう指導された。同じくサーブ&ボレーの技術を教え込まれ、後にはキャリアで非常に価値あるものとなった。

「僕は14歳くらいまでウッドのラケットを使っていた。ウッドのラケットではいい加減な打ち方はできない」とサンプラスは語った。エンドウ豆サイズのスイートスポットでのプレーは、サンプラスに切れ味鋭いボレーを打つ事を学ばせた。

「ほぼ絶滅したプレースタイルだ」と彼は語った。「現在のプレーヤーは、自分のゲームを進化させていない」

現在の若いプレーヤーは、子供の頃から大きいハイテク・ラケットでベースラインからボールを強打する事が可能で、成長してもそのスタイルをあまり変えないとサンプラスは語った。

サンプラスのネットへと突き進むゲームは、特にウィンブルドンで威力を発揮し、タイ記録となる7つのタイトルを獲得した。1999年にそこで6回目の優勝を遂げた時には、彼はストレートセットでアガシに圧勝し、唖然とするアガシに「彼は水の上を歩いていた」と言わしめた。

2000年ウィンブルドンでは決勝でパトリック・ラフターに勝利して、サンプラスは当時の記録となった13回目のグランドスラム・タイトルを獲得した。その後2年間は33大会連続で優勝から遠ざかったが、2002年USオープンで14回目のメジャー優勝を果たした。

彼は31歳で、まさにスポーツからの完璧な引き際をお膳立てしたが、サンプラスは引退を先に延ばした。

「自宅に戻り、そして汚名を晴らしたように感じたのを覚えている」とサンプラスは語った。「僕は(コーチ)ポール・アナコーンと共にやっていた。時々ヒッティングをし、そして大会を棄権し続けた」

2003年のウィンブルドンが近づいてきて、サンプラスは急速にペースを上げたが、激しい練習を始めて3日目には、燃えるものがなくなっている事を知った。

「肉体的には申し分なかった」とサンプラスは語った。「だが僕には残された数字がなかった。証明すべきものがなかったんだ」

もしグランドスラム・タイトルのマジックナンバーが15―――最近ロジャー・フェデラーが到達した―――だったら、続けていたかも知れないとサンプラスは語った。

果たせなかった1つのグランドスラム・タイトル、フレンチ・オープンについては、「クレーで大きいラケットを試してみれば良かったよ………。スピン、パワーがもう少し得られる。クレーでは操作性がより必要となるからね」と語った。

サンプラスは7つのウィンブルドン・タイトルと5つのUSオープン・タイトルに加えて、2つのオーストラリアン・オープンタイトルを獲得した。その1つ目の相手は日曜日に対戦するマーチンで、1994年の事だった。


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