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ESPN.com 2009年7月4日 フェデラー - サンプラスの意外な結びつき 文:Greg Garber |
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ウィンブルドン、イギリス―――先月、パリでの優勝への道のりで、ロジャー・フェデラーはカリフォルニアに住む最大のファンの1人から、成功を祈るメッセージを受け取っていた。 「フレンチの間、彼はいつもメールを送ってくれ、そして僕を祝福してくれたんだ」とフェデラーは語った。「彼は高潔な人物だ」 妙な話だが、そのメールはピート・サンプラスからだった。彼のグランドスラム記録に、フェデラーは並ぼうとしていたのだが。そう、サンプラスから。輝かしい「経歴」に唯一欠けているもの―――ローラン・ギャロスのタイトル―――がある元選手から。 サンプラスとフェデラー。それは意外な結びつきである。彼らほどライフスタイル、気質、性格が異なる2人はいないからだ。 1971年、サンプラスはワシントン D.C. で、ギリシャ移民の両親(訳注:実際は母親のみ。父親はアメリカ生まれ)から生まれた。10年後のほぼ同じ頃、フェデラーはスイスのバーゼル郊外で、薬剤師の夫妻から誕生した。サンプラスは7歳でカリフォルニアに移り住み、いつもテニスができるようになった。フランスとドイツ両国の国境近くの町に住んでいたフェデラーは、プロのサッカー選手になりたいと熱望した事もあった。 サンプラスはジムにこもり、運動選手で、くつろいでロサンジェルス・レイカーズの試合を見るのが何よりも好きだ。フェデラーは人当たりの良いコスモポリタンである。彼は4カ国語―――スイス系ドイツ語、ドイツ語、フランス語、英語―――を試合後の記者会見で流暢に話す。サンプラスは口数が少なく、メディアとの接触を好まなかった。フェデラーはロッカールームで大方の選手と親しく交わり、サンプラスは孤高を保ち、ほぼ常にひとりぼっちだった。 しかしラケットを手にすると、サンプラスとフェデラーには多くの共通点がある。共に身長が6フィート1インチで、体重は約185ポンドである。彼らそれぞれの世代に限ると、異論もあり得るが、共に最高のサーブとフォアハンドを持っていた。微妙な相違? サンプラスはより攻撃的なプレーをし、常に前へ出ようとした。フェデラーはベースライン付近で、外科医がメスで皮膚を薄く切り取るような超然とした態度でプレーをする。 そして、少なくとも今日は、彼らは歴史によって結びついている。フェデラーとサンプラスは共に、記録である14のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得してきた。日曜日には、その微妙な平衡は永遠に変わる事もあり得るのだ。 金曜日、 フェデラーはウィンブルドンにおいて7年連続で決勝戦に進出した最初の男となった。彼は7-6(3)、7-5、6-3という彼らしいスッキリした勝利で 31歳のトミー・ハースを敗退させ、決勝戦でアンディ・ロディックと対決する。 |
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「僕が記録を塗り替えた時、それ(記録)は当分の間、保たれるだろうと考えていたよ」と、月曜日に南カリフォルニアの自宅で行われた ESPN とのインタビューで、サンプラスは語った。「8年後にロジャー・フェデラーが僕の記録を破ろうとするとは、およそ分からなかった。もし数日後でないとしても、恐らく数カ月、あるいは1年かそこらで」 「ロジャーは聖火を受け取り、そして僕を追い越そうとしている。素晴らしい選手であり、素晴らしい男だ。この2年間ほど言ってきたが、もし誰かがこの記録を破るのなら、それはロジャーであってほしいよ。彼は友人だ」 |
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2002年USオープンで優勝した後に引退したサンプラスは、女優のブリジット・ウィルソンと結婚しており、2人の息子―――6歳のクリスチャンと3歳のライアン―――がいる。フェデラーは4月にミロスラバ「ミルカ」バブリネックと結婚した。最初の子供は8月に生まれる予定である。 2人の偉大なチャンピオンは、現役時には一度しか対戦がなかった。テニスの緊張度を変えた叙事詩的な対決だった。サンプラスは5年連続のウィンブルドン・タイトルを勝ち取ろうとしていた。しかしまだ19歳だったフェデラーは、4回戦で第5セット7-5というぎりぎりの勝利を挙げ、オール・イングランド・クラブにおけるサンプラスの31連勝を終わらせたのだった。 「我々は1回しか対戦がなかった。彼が活躍し始め、そして僕は終わりに近づきつつある時だった」とサンプラスは語った。「まあ、僕は自分が競争心の強い男だと思う。お互いの全盛期にロジャーと対戦してみたかったよ。素晴らしい好敵手になっただろうと思う。彼はステイバックし、僕はより攻撃的だ。そういう事にはならなかったが、それがスポーツの妙味というものだ」 世代の対決 年月が経ち、フェデラーがテニス史の一部を占めるようになるにつれて、彼はその歴史を作った男たちへの称賛を深めていった。成功がもたらす喜ばしい副産物の1つは、過去のチャンピオンと繋がりを持てるようになる事である。 彼とサンプラスは2006年から話をするようになった。フェデラーが3年連続でUSオープンに優勝―――サンプラスが成し得なかった業績―――した後に。2007年の早春、フェデラーがインディアンウェルズ出場のプランを立てていた時、彼はサンプラスと連絡を取った。 「自分がロサンジェルスへ行く事になるとは承知していた」と、後にフェデラーは語った。「それで、『誰がロス付近にいるかな?』と考えたんだ。そういう訳で、僕はピートに電話をして『会えますか?』と聞いたよ」 「彼は『いいよ、もちろん』と言ってくれたんだ」 「すごく興奮したよ。彼は僕が少年時代に大好きだった選手の1人だし、彼の庭であるウィンブルドンで彼を負かしたのは、僕にとって特別な事だったからね。僕は―――今度は彼の自宅で彼を負かしてみたかったんだよ」 彼らはサンプラスの自宅で2日間ヒッティングをした―――ゲーム、セット、タイブレーク、すべてを。サンプラスは引退から5年が経っていたが、 フェデラーの想像以上に良いプレーをした。 「驚くほどに、すごく良かったよ」とフェデラーはインディアンウェルズで語った。「彼は素晴らしいプレーをしていた」 どちらが勝ったのか? 「内緒だよ」と、フェデラーは悪戯っぽく答えた。「だが、とても楽しかった」 オフレコとして、エキシビション・マッチでサンプラスと対戦するのは楽しいかも知れない、とフェデラーは口にしていた。彼はエージェントのトニー・ゴドシックに、その件を検討するように頼んだ。 「僕はピートの事をあまり知らない」とフェデラーはゴドシックに言った。「だが、3日ほど彼とエキシビションをやってみたいな」 IMG テニスの上級副社長であるゴドシックによれば、「彼はピートと共に過ごしたいと望んでいた。それが、彼がエキシビションを行った唯一の理由だ。つまり、金のためではない―――とはいえ、金銭的に報われなかった訳ではないが」 2007年の年末 ATP 世界ツアー選手権は上海で行われたので、ゴドシックはサンプラスに申し入れて、5日間で3試合というエキシビション・シリーズを構成した。マレーシアのクアラルンプール、韓国のソウル、中国のマカオで。フェデラーとサンプラスは11月下旬に約1週間を共に過ごし、満場の観客の前でプレーし、ジェット機で移動し、そして少なからぬ金額を預金した。 振り返ってみれば、26歳のフェデラーは絶頂期にあった。彼は2年連続で4大会中3回のメジャー優勝を遂げたばかりだった。彼を阻んだ2つのグランドスラム―――ローラン・ギャロスでは、決勝戦でラファエル・ナダルに敗れた。フェデラーは合計12のメジャータイトルを手中に収め、さらに上海でのテニス・マスターズカップも優勝のうちに終えた。そして疲れていた。36歳のサンプラスは、激しいトレーニングをして臨んだ。彼は15,000人の観客の前で、毎晩ばつの悪い思いをする事はしたくなかったのだ。 テニスは大らかで友好的なものだった。最初のエキシビションではフェデラーが6-4、6-3で勝利した。しかし2戦目では、サンプラスは彼を激しく追いつめた末に、2つのタイブレークで敗れた。マカオでのエキシビションは、「世代の対決」と銘打ったハイライトだった。そしてサンプラスが7-6(6)、6-4で勝利したのだった。オフコートでは、彼らは食事を共にし、ロッカールームで談笑した。 サンプラスはフェデラーのくつろいだ様子に驚いていた、とゴドシックは語った。フェデラーはサンプラスが素晴らしい友人であると知った。 「これらのエキシビションはエネルギーを(あまりにも)消費すると言う人々もいたが、僕にはむしろインスピレーションとなったよ」とフェデラーは語った。 「我々は素晴らしい時を過ごした。アジアでのエキシビションは(我々の友情にとって)驚くべき結果を生じたんだ。我々の双方にとってとても良かった。一緒に過ごして、お互いがどんな風に行動するのか理解し合った。そして、スポーツにおいて我々はなんと似通っている事か―――成功においてもね」 ゴドシックは語った。「目的は達成された。厳密な意味でテニスにとって良い決断だったか? 恐らくそうではないだろう」 「ロジャーはゲームを学ぶ者だ。彼はゲームの歴史を尊重している。彼はコート上でよりも、むしろロッカールームで多くの事を学んだのだ」 サンプラスは感銘を受けて去った。フェデラーは想像していたよりもずっと自分に似ていたと。 |
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「彼と僕は同じ布から切り出されたように感じている」とサンプラスは語った。「共に謙虚で、ラケットに多くを語らせるんだ」 同じ考え方をする オーストラリアン・オープン準決勝ではノバク・ジョコビッチに、ドバイの1回戦ではでアンディ・マーレーに、失意の敗戦を喫した後に、医師はフェデラーに単球増加症の後遺症があると告げた。 そのニュースは、フェデラーとサンプラスが3月にマジソン・スクエア・ガーデンでエキシビションを行う前に知れ渡った。そして2008年のシーズンは、彼のキャリアで最も辛いものだっただろうが―――フェデラーはナダルにナンバー1の座を奪われ、グランドスラム決勝戦では連続して敗れた―――ニューヨークでの夜は、両者にとって楽しい思い出となっている。 彼らは観客と戯れ、ラインズマンをじらした。見事なショットを何本も打った。試合は第3セットへともつれ、一時はサンプラスが5-2リードとしたが、最終的にフェデラーが力を振るって勝利した―――なんと、なんと―――タイブレークで。 「第3セットは興味深い展開にできて嬉しいよ」と、フェデラーは実際に嬉しそうに語った。「あのような展開になるとは、まるでおとぎ話のようだった」 |
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フェデラーは限界までは力を出し切らなかったかも知れないが、サンプラスは明らかに正真正銘の奮闘をした。 「僕は今夜、できる限り頑張った」とサンプラスは語った。「少しガッカリしているよ。勝利を掴めたかも知れなかったのだからね」 パリでのフェデラーへのメールが示唆するように、サンプラスは彼と連絡を取り合っている。彼はオーストラリアン・オープン決勝を見て、フェデラーがナダルに敗れた後、感情を乱して泣いたのを気の毒に思った。 「セレモニーでああいった感情の表出を見るのは、ちょっときまり悪かった」と、サンプラスは3月に ESPN のインタビューで語った。 「それはただ、この男が欲している事を物語っているんだ。彼は13のメジャーに優勝し、僕の記録を破りたいと望んでいる。それをもう少しで味わえる。彼は失望し、悲しみを感じたんだ。単に敗戦と失望だけじゃなく。彼はただ悲しかったんだ」 サンプラスはフェデラーを弟のように見ている、とゴドシックは語った。 「彼らは2人の違う男だが、同じスポーツによって結びついているのだ」とゴドシックは語った。「彼らは同じ考え方をするのだ」 「ピートが『自分の記録を破るのがロジャーのような男で嬉しい』と言う時、私は彼の言葉をそのまま信じている」 自分がテニスを懐かしく思う唯一の時はウィンブルドンの2週間だ、とサンプラスは言う。彼は自宅で、フェデラーが断固としてドローを勝ち進むのを見守っていた。そして見えすいた質問にうまく応対してきた。 もしフェデラーが彼の記録を破れば、サンプラスは彼にトロフィーを与えるか? 「ずっと考えてきたよ」と、今週初めにサンプラスは答えた。 「あなたに子供がいるかどうか知らないけど。ロンドンへの12時間のフライトに2人の子供を連れていくのは、楽しい行動ではないよ。どうなるかな」 7回のウィンブルドン・チャンピオンであるサンプラスは、オール・イングランド・クラブのメンバーで、それに伴うあらゆる権利と特典がある。つい1カ月前に、アンドレ・アガシはラスベガスの自宅からパリまで飛び、フレンチ・オープンでトロフィーの授与をした。その取り決めは、フェデラーが驚きの優勝者となるずっと前になされていたが、幸運な選択だった。アガシが個人的なグランドスラムを達成した10年後に、彼はフェデラーに4大会のメジャー優勝を成し遂げた証のトロフィーを手渡したのだ。 アガシの偉大なライバルであるサンプラスは、ふさわしい行動をとるだろうか? フェデラーの決勝戦に参列するために、幼い子供と共に遠距離旅行するという不安を捨て去るだろうか? 飛行機に乗ってロンドンへと飛び、ビョルン・ボルグ、ロッド・レーバー、ジョン・マッケンロー、ボリス・ベッカー、マッツ・ビランデル、イリー・ナスターゼ、ジョン・ニューカム等に合流し、彼の歴史的なライバルの成功を祝うだろうか? 「長い旅だ」とサンプラスは語った。「だがスポーツの偉大な瞬間だ。ロジャーは友人だし、そこに居合わせるのは素晴らしいだろう」 ハース戦のまさに最後の一打で、フェデラーはネットに向かってステップし、そして突然のインスピレーションを得た。彼は左足を上げ、そして両足とも芝生から完全に離れ、ハースのロブを捕らえた。まさにサンプラスを思い出させる、素晴らしいジャンピング・フォアハンド・スラム(ダンク)―――真のグランド・スラム―――で、フェデラーはマッチポイントを勝ち取った。 それはメールではなかったが、フェデラーはサンプラスに自身のメッセージを送っていたのだ。 「彼は来るかも知れないし、来ないかも知れない」と、フェデラーはサンプラスについて語った。「僕としては、彼が来るといいな。彼は良い友人だからね」 |
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