ニューヨーク・タイムズ
2009年6月29日
テニスキングは家庭で過ごす事に満足している
文:KAREN CROUSE

カリフォルニア州サウザンドオークスの自宅で。ピート・サンプラス、息子のクリスチャン(左)、ライアン。サンプラスがウィンブルドンで最後にプレーしたのは2002年だった。

金曜日、ピート・サンプラスが昼食の席に着くとすぐに、携帯電話が振動し始めた。朝の間じゅう2人の元気いっぱいな子供たちを追いかけ回した後で、彼は S O S を発していたのだが、誰かがそれに答えていた。電話の向こう側の声は、午後にシャーウッド湖のボートを貸すと請け合っていた。

サンプラスは2人の息子、6歳のクリスチャンと3歳半のライアンを釣りに連れ出して、ささやかな休息をとろうと必死だった。

彼は記憶するために、ボートの名前を繰り返した。ロー・プロフィール(目立たない態度)

なんとふさわしい名前か。37歳のサンプラスがテニス界を支配していた年月、彼は世捨て人の王者だった。彼のそびえ立つ遺産は、反復と儀式による世間から隔絶したきわめて厳格な体系の上に作り上げられたのだ。

2003年に引退して以降、サンプラスは人目につく事もなく、明るさと騒音に満たされた父性の世界に身を引いてきた。彼の焦点は生ける遺産―――子供の成長に向けられた。

もしロジャー・フェデラーがウィンブルドンの男子決勝に進出したら、サンプラスはこの数日の間に、多分オール・イングランド・クラブの役員から、あるいはロンドンに彼を呼び寄せたいネットワークの経営者から、緊急の電話を受ける事もあり得る。

現時点でフェデラーは4回戦に進出しているが、もし彼が6個目のウィンブルドン・タイトルを獲得すると、15回目のメジャー・シングルス優勝となり、サンプラスの記録を1つ上回る事になる。

サンプラスは彼の後継者に微笑みかけるために、イギリスへ行くだろうか? 「まだ決めていない」と彼は答えた。

1試合に参列するための旅行としては、長い道のりだろうと彼は言った。息子たちを残していく事も必要となる―――あるいはさらに大変な事だが、彼らを連れていくか。

「6歳児と3歳児を連れて旅行しようとした事がある?」と、彼は笑って言った。

もしサンプラスを彼の日課から連れ出す力を持つ場所があるとすれば、それはウィンブルドンである。

サンプラスにとって、それは1つの大会以上のものとなったのだ。それは彼が毎年夏に2週間所有した期間だった。


ウィンブルドンは彼の最も愛する多くの思い出を持つ場所である。それは彼が7つのシングルス・タイトルを獲得した場所で、それら7回の決勝戦では4回しかサービスゲームを失っていない。

2000年には1セットダウンからパット・ラフターを破り、ロイ・エマーソンを抜いて13のメジャー・タイトルを持つ、最も輝かしい男子テニス・チャンピオンとなった場所である。(サンプラスは2002年に、大半の人々が彼を見限った後にUSオープンのタイトルを加えた)

この2週間、ウィンブルドンがスポーツ界の見出しを独占する期間は、トーナメントテニスを懐かしむ唯一の時だとサンプラスは語った。

「センターコート、あのような場所は他のどこにもない。ただ心のざわめきをもたらすんだ」

2000年のウィンブルドン優勝は、サンプラスの連続4度目(通算7回目)だった。しかしおよそ型通りどころではなかった。「厳しい2週間だった」と彼は語った。1週目に向こうずねを痛めて病院へ行き、コルチゾン注射と鍼治療を受けたにもかかわらず、その後も怪我は彼を悩ませ続けたのだ。ある時点では、恋人で現在は妻のブリジットに、大会を途中棄権しなければならないかも知れないと話した。

そして悪天候という要素があった。天候が非常に悪かったため、センターコートに格納式の屋根を付けるべきだとの声が再び高まったのだった。そして実際に、今年そのプロジェクトが完了した。サンプラス対ラフターの決勝戦は雨で遅延し、2度の中断もあった。試合が終了するには6時間以上を要し、日没のため翌日に延期される間際まで来た。

1回目の雨による中断の間、サンプラスは最初のコルチゾン注射の効力が薄れているのを感じ、再び注射を頼んだが、それは適切でないと告げられた。

「その時に、僕は痛みを抱えて頑張り抜かなければならないと知った」とサンプラスは語った。そして6-7(10)、7-6(5)、6-4、6-2で勝利した後、彼は涙にむせんだのだった。

「僕にとって記録はとても大きな意味がある」と、サンプラスはその時に語った。「それが破られるかどうかは『時』が語るだろう。現在のゲームでは、非常に難しいかも知れないと思う」

翌年、スイス・アーミー・ナイフより多くの道具を備えたティーンエージャーによって、サンプラスはウィンブルドンの4回戦で敗退した。大番狂わせをやってのけた19歳の若者はフェデラーだった。第15シードで、7-6(7)、5-7、6-4、6-7(2)、7-5の勝利を「人生で最高の勝利」と表明した。

サンプラスはその日、いずれ自分の記録を上回る能力を持つ選手を見たのだった。

「だがその時には、彼がすべてを備えているかどうかは分からなかった。ゲーム、心意気、知力を」と彼は語った。

2003年、フェデラーはウィンブルドンで初のメジャー・タイトルを獲得した。2006年までには、自分の記録はエマーソンのように33年はもたないだろうとサンプラスは認めていた。彼の治世は短命になるようだった。

「僕の回数を上回るのは、単に素晴らしいプレーヤーであるだけでなく、生活のいくらかを断念する事をいとわず、言わばスポーツを食べて、呼吸して、生きるような人間だろうと承知していた」とサンプラスは語った。「ロジャーは犠牲をいとわず、偉大なチャンピオンを目指している」

もちろん、サンプラスとて自分の記録が自身より長く残ってほしかっただろう。

「そりゃそうだ」と彼は答えた。「だが正直な気持ちとして、ロジャーが僕を追い越す事に問題はないと言えるよ。彼は仕事を成し遂げ、それを品位をもってしている」

彼は付け加えた。「僕は14を勝ち取った。それは考えていたより14も多い」

単独で頂点に立つという事について、1つの局面が見落とされがちである。孤立。「とても孤独だったよ」とサンプラスは語った。

メジャーで成功するためには、エネルギーと集中を優先させる必要があった。彼はウィンブルドン・ヴィレッジで借りた家に閉じこもり、専属シェフが彼のために用意した食事を食べ、レンタルした映画を見て、そして頭の中で試合を何度も繰り返していた事を思い出した。

現役時の仲間であった孤独は消え、2人の子供がいる生活の秩序ある混沌に取って代わった。

サンプラスとブリジットは、彼女は自分の子供を育てる事が関心の的である女優だが、息子たちがいつも以上に活発な金曜日といった日々のために、裏庭にトランポリンを置いている。中休みとバカ騒ぎがたっぷりの、とりわけ目まぐるしい朝だった。

「長い夏になるかも知れないね」と、サンプラスはクスクス笑いながら言った。

息子たちはスポーツキャンプに興味がないんだ、と彼は語った。彼らはテニスボールを打つのが好きだが、それは父親がネットの向こう側にいる時だけなのだ。サンプラスがキャディーを務めるならば、彼らはゴルフボールを打つ(特にバンカーが好きで、彼らにとっては砂場なのだ)。

サンプラスは息子たちを、家にいるのが好きなタイプだと評した。ライアンはモップのような黒い髪と黒い目で、サンプラスの外見により似ている。クリスチャンは彼の気質を受け継いだようだ。

「彼は習慣を守る人間だ」とサンプラスは語った。「変化が好きじゃないんだ」そして付け加えた。「クリスチャンは子供時代の僕みたいだ。僕よりもずっと感じやすくて、内気だけどね」

昼食の後に、サンプラスと妻はカメラマンが写真を撮れるように、クリスチャンにじっと座っているよう説得を試みていた。クリスチャンは身体をくねらせて、彼の腕から逃れた。

彼はホールのプラスチック製積み木のところまで駆けていき、「僕は新聞の写真になんて載りたくない」と大声で言った。

まさに、完璧なスナップ写真のようだ。


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