ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2009年6月19日
ウィンブルドン・プレイバック:ピート・サンプラス対ボリス・ベッカー1997年
文:Rob York (Columnist)

1997年7月3日:ピート・サンプラスはウィンブルドン決勝のさなか、ボリス・ベッカーの引退が間近な事を最初に知った。

成長は自然、技術、経済の一部である。そして今は充分である事が、翌年には不充分となるかも知れないのだ。

どんなビジネスにおいても、より良いサービスを享受できる消費者にとっては、そして新しい産物を後押ししてその利益を受ける小売業者にとっては、この法則は良い事である。おおかたの産業には敗者が存在する。だが少なくとも多くの場合、時代遅れの商品は消えゆく運命に逆らいようもない。

しかし、テニスのようなスポーツでは、産物は人間である。最高のパフォーマンスがもはや充分ではないとなった時、彼あるいは彼女に何が起こるのだろうか?

ベッカー

1985年、ボリス・ベッカーはプロテニスの舞台に躍り出た。サーブ、フォアハンド、オーバーヘッドを炸裂させ、初のウィンブルドン・タイトルを獲得したのだ。17歳7カ月で、ベッカーは当時の最年少グランドスラム優勝者となり、そして史上初のノーシードのウィンブルドン・チャンピオンとなった。

誰ひとりとして、ラファエル・ナダルさえ、この年齢でそこまで成長しきったように見える者はいなかった。ベッカーの身長は6フィートをはるかに超え、体重もかなりのものだった。轟くようなフォアハンドとバックハンドのリターン、切れのあるボレー、さらにジョン・マッケンローは彼のサーブを、これまで対したなかで最も強烈と評した。

さらには、多くの選手たちはウィンブルドンのセンターコートに足を踏み入れただけで、雰囲気に威圧された(デビッド・ナルバンディアンか誰か?)のに対して、1985年の決勝戦で17歳の少年は対戦相手よりはるかに落ち着き払い、同じビッグサーバーのケビン・カレンに4セットで打ち勝ったのだ。

翌年、ブーンブーンというあだ名のついた18歳の彼は、決勝戦でイワン・レンドルを圧倒した。初のタイトル防衛戦でほとんど神経質な様子も見せずに、ウィンブルドンの栄冠を防衛したのだった。大柄なドイツの爆弾男を見ていると、彼が20代でさらに開花し、阻止できない存在となるのを想像する事は容易だった。

次の2年間、ベッカーはウィンブルドンでしくじったが、1989年までには再び確かな基盤につき、センターコートでステファン・エドバーグを粉砕して3回目の優勝を遂げた。さらにUSオープンではレンドルを破って初のタイトルを獲得し、西ドイツをデビスカップ優勝へと導いた。

その年、彼はレンドルからナンバー1の座を奪うほどのポイントは得られなかったが、「テニス・マガジン」誌を含むおおかたのテニス評論家の間ではベストの存在で、同誌は彼をプレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出した。

1991年に彼は初のオーストラリアン・オープン優勝を果たし、ローラン・ギャロスでは準決勝に到達、そしてウィンブルドンで決勝に進出する事によって、ついにナンバー1の座に就いた。しかし決勝戦では、ベッカーは同国のミハエル・シュティッヒに遭遇した。シュティッヒはまさにブーン - ブーンと同じビッグゲームを持ち、その日は絶好調だった。そしてストレートセットで有名な同国人を破ったのだった。

第3セットでは、ベッカーはポイントを失うたびに、時にはポイントを勝ち取った後にさえ自分自身を叱りつけ、光り輝く髪の陰影にも匹敵するかんしゃくを露わにした。彼の若者らしい期待は満たされず、そして強烈なヒッターのドイツ人はついに、プレッシャーに免疫がない事を露呈した。

それから4年間の成績は、以前の6年間にはとうてい及ぶものではなかった。しかし彼は常にウィンブルドンでは後半戦まで勝ち上がり、そして秋シーズンの速い室内カーペットで活躍した。1995年、彼はついに見失っていたプレーを再発見し、ウィンブルドン準決勝でその時点のナンバー1、アンドレ・アガシを破り、ダブルAに対する8連敗を止めた。そして再びセンターコートでの決勝戦に進出した。

1996年の年初には2回目のオーストラリアン・オープン優勝を果たした。もし手首の怪我で棄権しなかったなら、イギリスでも再び勝ち進んだかも知れなかった。1996年の終わりにはパリ・インドア大会で優勝し、年末の ATP 選手権でも決勝戦に進出した。

1997年ウィンブルドンを迎え、元祖ピュア・パワー・プレイヤーは再び目標を捕らえていた。そして6つのメジャータイトルを彼にもたらしたハングリー精神は、このうえなく貪欲だった。

しかし、ベッカーは新しい問題を抱えていた。

サンプラス

ピート・サンプラスが1990年に初のメジャー優勝を遂げた時、彼は19歳になったばかりだった。そして今でも彼は、そこで優勝した最年少プレーヤーである。若くして完全に成長していたベッカーとは違い、やせっぽちの若いアメリカ人は世界的に有名な運動選手というよりも、高校のチェスクラブのキャプテンと言った方が近かった。

外見ほど当てにならないものはない。サンプラスはベッカーと同じくらい強烈なサーブを打ち、しかもモーションはずっと小さかった。同じく彼は、フォアハンドもバックハンドもボールを強打でき、そして敏捷で、猫のようなしなやかさでコートを動き回った。

大躍進の優勝を遂げた頃、彼はまだ堅実な確率重視のテニスや、ボレーの向上を学んでいる最中だった。彼の同国人で友人のジム・クーリエはかつて、若きサンプラスは大きすぎる足を持つ子犬のようで、いずれなるであろう選手へといまだ成長している、と描写した。

90年代半ばまでには、彼は強烈なサーブを打ち、攻撃的なヒッティングをし、見事なボレーを放つオールコート・プレーヤーへと充分に成長を遂げていた。そして当時、同時代人は彼をテニス史で最も完成された選手と見なしていた。ステファン・エドバーグのように、サンプラスよりボレーでは上回るがパワーでは圧倒できない選手にとっては厳しい相手だった。あるいはアガシのように、 バックコートからは彼よりも粘れるが、サンプラスが持つ武器の多様さにしばしば閉口させられる選手にとっても。

ベッカーにとっては特に厳しかった。なぜならピストルはブーン - ブーンと同じ武器の他に、さらに幾つかの武器を備えていたからだ。ベッカーは19回の対戦で7回サンプラスを破った。しかしアメリカ人に対する彼の勝利はすべて、秋シーズンの速いヨーロッパの室内コートでだった。そこではベッカーは常に発奮し、そしてサンプラスは調子を下げていたのだ。

他のサーフェスでは、サンプラスはコートのどんな場所からもベッカーと同様にヒッティングができ、その過程で回り込む事もできるかに見えた。

ウィンブルドン1997年

サンプラスのキャリア成績は、一流のロックバンドのそれにたとえる事ができる。彼らのように、彼はいちずなインスピレーションの爆発によって注目を集めた。それは彼のする事が失敗しそうもないように見える時だった。彼の「Satisfaction(サティスファクション)」あるいは「Whole Lotta Love(ホール・ロッタ・ラブ)」は、恐らく1990年USオープンだろう。彼はアガシをコートから吹き飛ばし、初のメジャー優勝を遂げたのだった。
訳注:サティスファクション。イギリスのロックバンド、ローリング・ストーンズの代表曲の1つ。1965年リリース。
ホール・ロッタ・ラブ(胸いっぱいの愛を)。イギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンの名曲。1969年リリース。

彼の「Jumpin' Jack Flash(ジャンピン・ジャック・フラッシュ)」あるいは「Black Dog(ブラック・ドッグ)」は、恐らく1999年ウィンブルドンだろう。彼は復活したアガシを再び破って6回目のウィンブルドン優勝を遂げ、そして最多グランドスラム記録に並んだのだった。
訳注:ジャンピン・ジャック・フラッシュ。ローリング・ストーンズ、1968年リリース。
ブラック・ドッグ。レッド・ツェッペリン、1971年リリース。

彼はまた、勇壮な奮闘でも知られている。その文脈でいうと「Sympathy for the Devil(シンパシー・フォー・ザ・デビル)」は、1996年USオープンだろう。そして2000年ウィンブルドンは「Kashmir(カシミール)」だろう。
訳注:シンパシー・フォー・ザ・デビル(悪魔を憐れむ歌)。ローリング・ストーンズ、1968年リリース。
カシミール。レッド・ツェッペリン、1975年リリース。

それらは素晴らしい楽曲だが、もし彼らがさほど冴えていない日々にも、音楽の才能と曲作りのわざを明示する、あまり有名でない多数の録音を残してこなかったら、ローリング・ストーンズもレッド・ツェッペリンのいずれも、偉大なバンドにはなっていなかっただろう。

そしてピート・サンプラスも、ゾーン状態ではない、あるいは雄壮な勝利ではなく、単にネットの向こう側の男よりも優っていただけという何百もの試合をこなしていなかったなら、偉大なテニスプレーヤーとはなっていなかっただろう。

その点で、1997年ウィンブルドンはサンプラスにとって、ストーンズにとっての「Bitch(ビッチ)」であり、レッド・ツェッペリンにとっての「Custard Pie(カスタード・パイ)」であった。最も傑出したものではないものの、それでも彼らの競争相手の大方が生み出すものよりは優れていた、という点で。

サンプラスはその年、2週間ずっとセンターコートで試合をし、ファーストサーブの平均確率は66パーセントに達した。彼が戦った7試合全体で、ブレークされたのは2度だけだった。それでもなお、ベッカーとの準々決勝対決に向かう時、その日の結果はおよそ確実とは言いがたいという感覚があった。

1つには、サンプラスは前のラウンドでペトル・コルダに5セットまで押し込まれていたのだ。コルダは時に才気を発揮するが、おおむねは不安定な(そして後に発覚した事だが、ドーピングを行っていた)選手だった。 サンプラスはその年までに、すでに3回ウィンブルドン・チャンピオンになっていた。しかし前年はリチャード・クライチェクに敗れ、王座を取り戻す事ができるかどうかは未定だった。

さらに、ベッカーは非常に良いプレーをしていたのだ。彼は4試合でセットを失っていなかった。そして4回戦では才能ある若きチリ人、マルセロ・リオスを徹底的にやり込め、最初の2セットでは4ゲームしか失わず、ようやく第3セットでタイブレークに突入したのだった。

NBC テレビの解説をしていたマッケンローは、年老いたブーン - ブーンは「ピストル」に打ち勝つチャンスがあると放送で述べた。

銃撃戦

しかしベッカーは長い間、スロースターターとして知られていた。そしてその日、彼のサーブもファーストボレーも、まったくもって彼に充分なポイントを勝ち取らせるには至らなかった。サンプラスはドイツ人のビッグサーブをブロックで返球した後にパスを狙い、失敗よりも成功させる事がしばしばだった。

ベッカーのサービスゲームでは何回も、サンプラスは片手バックハンドのテイクバックをしてコート中央まで素早く前進し、ネットのすぐ向こうに死角を見いだして、パッシングショットを放ったのだった。これらのショットは大方のトップ選手にとって、想像する事も、ましてや実行する事もできないものだった。

ベッカーが対戦した最初の3人は誰も、試合で1回たりともブレークするチャンスを得られなかったのだが、このアメリカ人はドイツ人の最初の3回のサービスゲームで2回、ブレークを果たしていた。

サンプラスは第1セットを6-1で逃げ切った。ベッカーは巨大なジレンマ、あるいはむしろ、2つの難問を抱えていた。1つは、サンプラスの弱いバックハンドが放たれる時、それをどこへ打ち返すのか? もう1つは、対戦相手が自分と同様にあらゆるショットを打ち、なおかつ動きが優っている時、自分の戦略とはどういうものなのか?

ドイツ人にとって、それら2つの問題への答えは完璧なプレーだった。可能な限り上手くサーブを打ち、鋭いボレーを決めて、自分のサービスゲームに気を使わねばならなかった。何としても、何本のブレークポイントに直面しようとも、彼はサーブをキープしなければならなかった。なぜならタイブレークでなら、どちらにもチャンスが訪れうるからだ。

第2セットではそれを果たした。6回のサービスゲームすべてをキープし、サンプラスのサーブに対しては殆どチャンスがなかったものの、タイブレークまで持ち込んだ。第2セットでは根気強く攻撃してきたが、タイブレークの後半では通り過ぎていきそうなサンプラスのサーブにラケットを突き出し、低いリターンでエラーを強いたのだ。

そのようにして、彼は第2セットを勝ち取った。大勢では劣勢だったにもかかわらず、試合をイーブンにしたのだった。

しかし、その高揚感は短かった。サンプラスは第3セットで支配権を取り戻したからだ。繰り返そう。ベッカーは75インチ、190ポンドの男としては良い動きをしていた。しかし彼の対戦相手は2インチ、15ポンド小柄な男で動きが良かったのだ。この事は彼に、ラリーで1回多くボールを打つチャンスを与えた。そしてポイントごとに1回多いショットというのは、さらに2回のブレークを得るために必要なすべてだった。

サンプラスが第3セットを6-1で素早く取った後に、アメリカ人が再び主導権を握るなか、2人のチャンピオンは第4セットを互角に戦った。サンプラスは試合を6-4で決めた。1回もブレークを許さず、アンフォースト・エラーの数は4セットでおよそ半ダースにすぎなかった。

それは2人のウィンブルドンにおける3回目の対戦だった。1993年、'95年、'97年の3試合で、ベッカーはアメリカ人から計2セットを取っただけで、共にタイブレークでだった。彼はサンプラスのサーブを一度もブレークできなかったのだ。

ショック

そしてこの事は、自分がテニス界でもはや第一級の存在ではないとベッカーが悟るに足る証拠のすべてだった。彼はネット際でサンプラスと握手しながら、アメリカ人の耳に囁きかけた。サンプラスは彼を見つめ返し、あまりに驚いたため少しの間凍りつき、握手をしに主審の椅子へ向かう事もできなかった。

3度のチャンピオンであるベッカーは、かつてウィンブルドンを自分の「居間」だと称したが、自分が再びここでプレーする事はないとサンプラスに告げたのだった。実際には、他のいかなるグランドスラムでもプレーしなかった。

イギリスの観客に別れの手を振った後に、ベッカーは記者会見で、自分がメジャーで勝つために必要なものを持っているとは、もう感じられないと語った。つい18カ月前にオーストラリアで優勝した男から出た言葉は、大半の者にとって理解しがたいものだった。

ベッカーの目には、彼が最も切望するトロフィーはサンプラスの手中にしっかりと収まっているように見えた。そしてそれを否定する論点はもはやなかったのだ。

サンプラスは自分の仕事を成して、ドイツ人の言い分は正しいと証明した。彼は次の2ラウンドで、トッド・ウッドブリッジとセドリック・ピオリーンを素早く下したのだった。両者とも意欲に満ちていたが、実力の差は明らかで、アメリカ人から1セットも奪えなかった。

それはサンプラスにとって4回目のウィンブルドン優勝だった。そして2度目の連続優勝の始まりでもあった。それは彼が7回の優勝を遂げて、新しいグランドスラム記録を樹立するまで止まる事はなかった。

キャリア晩年には、彼の超攻撃的なゲームがマラト・サフィン、ロジャー・フェデラーといった、彼に等しいパワーを持ち、なおかつエラーの危険性が低いプレーをする選手によって徐々に廃されていく兆しがあった。

それでもなお、彼は最後に出場したメジャー大会である2002年USオープンで優勝し、成功の内に引退した。ベッカーは一時的に誓約を破って1999年のウィンブルドンに出場し、3試合に勝利してからパトリック・ラフターの前に敗れた。ある意味では、1997年が彼にとって真に最後のウィンブルドンだと考えるのが最もふさわしい。彼がベストのゲームをした最後の機会だったのだから。

それは優れたゲームだったが、少しだけ時代遅れだった。


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