ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2009年5月24日
ピート・サンプラスの過小評価されているゲーム
文:Tribal Tech (Member)


2003年にピート・サンプラスがテニス界から引退して以降、彼について書かれたものは多い。主要なテニスフォーラムにログインすると、ピート・サンプラスに関する、あるいは彼を含んだ多くのスレッドを目にするだろう。同じく、サンプラスについてジャーナリストが書いた多くの記事もある。特にフェデラー、最近ではナダルの上昇に伴って。2人には共に、サンプラスの記録を破るチャンスがある。

サンプラスを論じる、あるいは彼のゲームを記述する記事が書かれる時、2つの語句で要約されがちな事に私は気づいた。

* ビッグサーブ
* ナイスボレー

これは多くの記事の論調をごく単純化したものだが、さほど的を外れてはいない。サンプラスのゲームについて詳しく述べる前に、まず私は彼の業績を強調したい。

1. ハードコート36、芝生10、クレー3、室内カーペット15を含む64の大会優勝。
2. 286週間の世界ナンバー1在位。
3. 6年間の年末世界ナンバー1。
4. アガシ、クーリエ、チャン、ベッカー、ラフター、イワニセビッチ―――同時代のライバル集団―――に対して勝ち越している勝敗記録。

さて、これらの業績を踏まえると、彼が単にビッグサーブとナイスボレーだけの選手であるとは思われない―――それ以上のものがあるに違いない。しかし、私はこの類の論調をよく目にする。特にピートのゲームをフェデラーのゲームと比較する時には―――両者の間には白黒がつくほどの差異はない。個人的には、怠け者のジャーナリズムそのものだと考える。

1990年代の初期、フレッド・ペリー(1930年代英国の元ウィンブルドン・チャンピオン)が有名な台詞を述べた。「サンプラスはオイルのように動く―――誰も彼の音を聞く事はない。聞こえるのはもう一方の男の音だけだ。そして、その男は負けようとしている」その当時、ピートはとてもスムース、スタイリッシュな選手で、非常に俊敏であると見なされていたのだ。

同じく、ピートは素晴らしい戦術的な頭脳を持つ、コート上の思索家だった。私は、彼がグランドスラムに初優勝した1990年USオープンにおける3試合が、サンプラスを語る好例であると考える。

元チャンピオンで8回の決勝進出者であるレンドルとの準々決勝では、サンプラスはビッグサーブの後に、ネットへの詰めとステイバックを織り交ぜ―――あるリターンではウィナーを狙い、またある時はチップ&チャージを試み―――鍵となる局面でレンドルのパスにプレッシャーをかけ、両者による素晴らしいテニスの末に、5セットでの勝利を収めたのだ。

そしてマッケンローとの準決勝では、サンプラスは両サイドからの見事なリターンとパッシングショットでマッケンローのサーブを追い、マッケンローのサーブに大いなるプレッシャーをかけ―――マッケンローがチップ&チャージを仕掛けた時には、サンプラスは常にパスでお返しをした―――マッケンローの心をかき乱した。

アガシとの決勝戦では、解説者のマリー・カリロは試合前に、アガシはターゲットを好むから彼にチャンスがあると語った―――するとピートは常に前へと詰めるのではなく、大半のセカンドサーブではステイバックしてアガシとラリーをした。そしてアガシのショットが短くなると、それに乗じてウィナーを放った。アガシのサーブではさほどチップ&チャージをかけず、彼に格好のターゲットを与えなかった。

ピートは完璧にアガシの作戦を台なしにした。なぜなら彼は自分のベースライン・ゲームに自信があり、さらに、アガシはサンプラスのサーブをブレークできなかったので、結果的に楽勝したからである。つまり、それらの連続した3試合で、19歳になったばかりのサンプラスは、3人の選手に対してまったく異なるプレースタイルで異なる作戦を選択し、そして勝利したのだ。

それが、サンプラスはコート上の偉大な思索家であったと考える理由である。彼はその時代、現在よりも多様なサーフェスで、多くの異なったスタイルを持つ多くの選手と対戦した―――多様なペースと異なるボールが使用された世界じゅうのハードコート、室内ハードコート、室内カーペット、高いバウンドで遅いリバウンドエース、速い芝生と遅い赤土で。

サンプラスがマスターしきれなかった唯一のサーフェスは、赤土だった。私はサンプラスが1996年にフレンチの準決勝でカフェルニコフに敗れて以後、精神的にクレーを断念したという印象を抱いている。しかしキャリア早期には、イタリアン・オープンとデビスカップの優勝など、彼は幾つかの優れた戦績を挙げている。さらに、ムスター、ブルゲラ、アガシ、クーリエといった、そのサーフェスにおける最大のビッグネームの何人かを倒している。

また、サンプラスは芝生に向いたゲームゆえに芝の専門家であると見なされているが、芝の大会での優勝回数は全体の6分の1に満たない―――私の意見では、サンプラスはハードコートで最も優れたテニスをした。そのサーフェスでは、彼はより展開力のあるゲームをする事ができたからである。両サイドとも長いスイングでショットの準備をし、はるかに多くのラリーをする事ができたのだ。

同じく、サンプラスは時代の犠牲者でもあった。なぜなら彼が自叙伝で語っているように―――芝生でのゴラン・イワニセビッチとの対戦は望ましくない顔合わせで、ウィンブルドン決勝戦でもっとアガシと対戦したかったと感じていたのである。その対戦では、彼はあらゆるショットを披露し、もっと展開力のあるゲームをする事ができたであろう。

1999年、2000年にアガシ、ラフターと対戦した彼の最後2回のウィンブルドン決勝戦は、見応えある試合だった。サンプラスは両者に対して、様々なショットで攻める事ができたからだ。

それゆえに、彼の実際のテニスゲームに関して、サンプラスは今よりも評価されてしかるべきであると私は考える。彼は長年、ベッカー、ラフター、エドバーグといった男たちと対戦する時には―――見事なリターンを足元に打ち、フォアハンドとバックハンド、そしてロブの優れたパッシングショットを放つ事により、カウンターパンチャーの役割を演じられる事を示してきた。

アガシ、レンドル、クーリエ、チャンなどと対戦する時には、彼らとラリーを続け、チャンスを創り出す事ができた。年齢を重ね、足が衰え始めるにつれて、彼はチップ&チャージの戦術をより頻繁に用いるようになり、より強烈なセカンドサーブを狙い、芝生以外のサーフェスでもセカンドサーブでネットに詰める事が増えていった。

私はこのすべてがピートをオールラウンド・プレーヤーたらしめていたと考える。そして将来において、ビッグサーブとナイスボレーだけでなく、それがより認められる事を望む。


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