ブリーチャー・レポート(外野席からのレポート)
2009年8月25日
プレイバック1996年:ピート・サンプラスのひねった筋書き
文:Rob York(コラムニスト)


もし彼が優勝していたら、まさに………ふさわしく見えただろう。


グランドスラム大会の最中に、何人のテニスファンがこの事を口にした、あるいは考えただろうか? それが1999年ローラン・ギャロスの2週目、アンドレ・アガシが欠けていた1つのメジャーに優勝する事でキャリアを復活させようと努めていた時に、私が考えていた事である。今年のローラン・ギャロスでも、ロジャー・フェデラーがついにスラム・コレクションを完成させる運命にあると見えるなか、似たような考えを抱いていた。

私はどこかで偉大なテニスの脚本家がこれらの結末を構想している、そして上記のような出来事は、彼が存在するという証拠の役目を果たしている、と考えるのが好きだ。

もしそうであるなら、彼は大いなる仕事をしてきた。心から愛するスポーツで、私が思いつきもしなかった結末が確かにあったのだ。

不運の年

「サディストであれ。主役がどんなに感じよく罪のない人間であっても、ひどい目に遭わせるのだ―――彼らがどんな人間であるかを、きっと読者は知るだろうから」
―――カート・ヴォネガット
訳注:1922〜2007年。アメリカの小説家・エッセイスト・劇作家。代表作は『タイタンの妖女』『猫のゆりかご』『スローターハウス5』など。

もし私の好きにできたなら、ピート・サンプラスに1996年ローラン・ギャロスで優勝させただろう。彼は当時、私のお気に入り選手でさえなかった―――アガシがお気に入りだった―――が、その結末にふさわしい時だと思われたのだ。あの2週間は雨が降らず、フレンチのクレーはいつもより速くなっていた。そしてサンプラスはジム・クーリエとセルジ・ブルゲラ―――両者とも2度のチャンピオン―――をそれぞれ5セットで破り、早いラウンドでは赤土の上で並はずれた気迫と調子の良さを見せていた。

彼は春にコーチのティム・ガリクソンを脳腫瘍で喪っており、この筋書きはふさわしく思えた。それによって4大大会すべてで優勝を果たす事になり、彼を史上最高とする主張にもさらに説得力が加わっただろう。

私の信念は結末によって揺らいだ。ピストルがトロフィーまであと2戦という時点でつまずき、エフゲニー・カフェルニコフ相手に苦しんで、戸惑うほどに一方的な敗戦を喫するとは、物語作りという見地からはおよそ納得しがたかったからだ。当時の私が知らなかったのは、テニスの脚本家は前兆として知られる文学的な趣向を用いていたという事だった。

その失望の後に、私ならきっとサンプラスのシナリオにウィンブルドンの優勝を書き込んでいただろう。パリでは痛ましいほどの敗戦を喫したのだから、彼は少なくとも前の史上最高候補者、ビョルン・ボルグ以来の4年連続ウィンブルドン優勝を遂げる最初の人物になる事で、慰めを得るに値した。

私の信念は再び揺らいだ。なぜならあの大会も、文学的な見地からはほとんど意味を成さなかったからだ。サンプラスには確かに批判者がいる。しかし私の知る限り、ピストルが充分に強烈なサーブを打たない、あるいはカリスマ性がありすぎると不平を言う者は誰もいなかった。しかし、もしこのような不満が存在したのなら、リチャード・クライチェクは確かに彼らへの答えであっただろう。彼はサンプラスをコートから吹っ飛ばし、引き続き7月最初の日曜日にウィンブルドン・トロフィーを掲げ、さらに無名性を維持する事に成功したのだから。

当時の私はそのように捉えていなかったが、テニスの脚本家がヴォネガットのアドバイスに従い、ツキに見放されたチャンピオンを冷遇し続ける事で、視聴者は彼をもっと理解するようになっていった。

収束

「とりあえず1つの事をはっきりとさせようか? アイディアのごみ捨て場、物語センター、 埋もれたベストセラーの島などない。優れた物語のアイディアというものは、文字どおりどこからともなく現れ、何もない空からスーッとやって来るようだ。2つの無関係なアイディアが合わさって、そして太陽の下で新しい何かになるのだ」
―――スティーブン・キング
訳注:1947年〜。アメリカのモダンホラー作家。代表作は『キャリー』『ミザリー』『シャイニング』など。

そしてサンプラスは前回優勝者として1996年USオープンに臨んだ。しかしその年のメジャー3大会では敗れていたのだった。実際、彼は合計でもほんの2〜3タイトルしか獲得していなかった。そして前年のオープン優勝と、明確な後継者がいないという理由のみでナンバー1の座に踏み止まっているにすぎなかった。

しかしマイケル・チャンが迫っていた。サンプラスがニューヨークでしくじれば、それは確かに小柄なアメリカ人がナンバー1の座に就く事を意味していた。

物語作りの見地からは、アガシ―――その年スランプに陥っていたが、アトランタ・オリンピックで金メダルを獲得して立ち直っていた―――と対戦する事が、サンプラスにとって最も意味があると私は考えていた。あるいは多分、決勝戦でチャンに敗れ、ナンバー1順位をも失う事が。

そして事実上、4回戦のサンプラス - マーク・フィリポウシス戦が、息もつけないほど面白い本のテニス版にあたるだろうと誰もが考えていた。非常に背の高いオーストラリア人は、オーストラリアン・オープンの3回戦でサンプラスを圧倒し、ピストルの1年の始まりを苦いものにしていた。そして多くの者は、オーストラリア人のサーブが好調ならば、サンプラスがフィリポウシスに打ち勝つ事さえ危ういと考えていた。

戦前の予想と試合の結果をどう比較するか理解するには、映画「シスの復讐」でベン・ケノビとクライマックスの決闘をする直前に、ダース・ベイダーがつまずいて足首を捻挫したと想像してみてほしい。前回の対戦ではスカッドを圧倒する策が効いていなかった、とピストルは明確に理解していた。そこで彼は自分のサーブでペースよりもプレースメントを重視し、フィリポウシスの大砲はブロックで返球し、オーストラリア人が自己崩壊するのを見守った。その夜のフィリポウシスはファーストサーブの確率が40パーセント以下で、4回ブレークされ、サービスリターンではマスを釣り上げた竿のようにラケットを振り回したのだった。

サンプラスは最終ラウンド前の最大の試練であるかに見えた試合を勝ち抜いていた。我々がその時に知らなかったのは、テニスの脚本家はいささかのミスリーディングをするため、シルクハットの中に手を伸ばしていたという事だった。

我々が見ていなかった間にアレックス・コレチャはドローを勝ち進み、準々決勝でピストルと対戦するところまで来ていた。

コレチャは90年代に注目を集めた多くのスペイン選手の1人で、彼らはみな似たり寄ったりのプレースタイルだった。動きが速く、防御が上手く、ヘビートップスピンのフォアハンドを持っていた。

ブルゲラからアルベルト・コスタ、フェリックス・マンティージャ、アルベルト・ベラサテギまで、各自が厄介なクレーコート・プレーの典型だった。しかしコレチャ は見事な片手バックハンドの持ち主でもあり、ドライブもスライスも打つ事ができた。さらには驚くべきビッグ・ファーストサーブを持っており、ハードコートでも脅威の存在だった。

1年前にはオープンの早いラウンドでアガシと対戦し、ケイレンに屈するまでは、ダブルAから最初の3セットのうち2つを取っていたのだ。

1996年のその夜、コレチャに身体的な問題は何もなかった。サンプラスとエース合戦で渡り合い、彼を第5セットまで押し込んでいた。

しかし実のところ、試合は第5セット終盤までそれほど特別なものではなかった。ゲーム展開を左右するサンプラスのランニング・フォアハンドが、あの日に不調でなかったら、そして彼が頑固にベースラインからスペイン人を負かそうとしなかったら、試合はそれほどもつれる事さえなかったかも知れない。

「僕はアレックスの術中に陥り、その事を分かっていた。だが自分のサービスゲームはキープしていたし、彼のゲームで相手を負かそうと決意していた」と、サンプラスは後に自叙伝で書いた。

1年全体が危うい状態にある中で、もしサンプラスがパリでの不運な出来事から教訓を正しく得ていたら、恐らくこんな男意気で試合に臨んだりはしなかっただろう。

なぜなら、山猫の機敏さとサイ・ヤング賞受賞者の肩を持って生まれはしたが、ピストルはもう1つ、あまり有益でない形質を遺伝的に受け継いでいたからだ。サラセミア・マイナー、地中海系の血統に多く見られ、急激な体力低下につながり得る体質である。

90年代後半に、ギリシャ人の息子であるサンプラスにはこの体質があるのではないかと憶測された。しかし彼は2000年にグランドスラム記録を破るまで、その事実を認めなかった。ネットの向こう側にいる相手を利するような弱点を、正式に認める事を拒否したからだった。

それはパリでの敗戦に影響し、そしてサンプラスのキャリアにおける最も興味深い物語を創作する他の無関係な要因に加わろうとしていた。

試合開始から4時間後、彼らはファイナルセットのタイブレークに突入した。ピストルの姿勢は前かがみになり始め、動きは緩慢になった。

彼は体力と、単調でありふれた骨折り仕事を完遂するエネルギーに欠けていたのだろう。しかし彼には練習コートで深くしみ込ませた、20年に値する筋肉の記憶が確かにあった。さらにティム・ガリクソンの思い出が残したモチベーションがあったのだ。

言葉による描写の限界

「隠喩、直喩、あるいは見慣れた他の比喩は決して用いるな」
―――ジョージ・オーウェル
訳注:1903〜1950年。イギリスの作家。代表作は『動物農場』『1984年』など。隠喩は「……のようだ」などの語を用いない比喩。「バラの微笑み」「雪の肌」など。直喩は「たとえば」「ごとし」「ようだ」など、はっきりと比喩である事を示した言い方。

オーウェルのアドバイスに従いつつ、それから何が起きたかを記述するのは本当に難問である。それは読者がすでに耳にした言い回しを避けるという事である。「clutch play(起死回生のプレー)」「heart(勇気、気力)」「giving 110 percent(死力を尽くす)」などの言い回しを使わずに、どうやってそれを記述できるというのか?

恐らく最も良いのは、起こった事をただ述べるという事だろう。それで充分であるべきなのだ。オーウェル、ヴォネガット、キングの作品に精通する私としては、彼らの誰一人として、何が展開しようとしていたか想像できなかったのではないだろうか。

最初のポイントで、ようやくサンプラスはランニング・フォアハンドをネットアプローチのウィナーに連びつけた。しかし1-0で彼がネットへと攻撃した時には、コレチャ自身も2本のフォアハンドを打ち込み、アメリカ人はその第2打を返す事ができなかった。

サンプラスは次のポイント準備に入ったところで、吐き気を催した。3回の発作の間、カメラはそれを捉える事ができなかった。しかし彼がベースライン後方で観客席の前を歩くにつれて、マイクロホンは観客が息を呑むのを検知する事ができた。

ついに、4回目に立ち止まった時、彼の姿はスクリーン上に映し出され、世界じゅうのテレビ視聴者が見守る中で嘔吐していた。

コートの反対側では、 コレチャが次のポイントに備えて小刻みに跳びはねていた。しかし苦しむ対戦相手への懸念は隠しようもなかった。特に眉の辺りに。

ナダル / ジョコビッチの時代には、問題にならなかったかも知れない。しかしここでは、主審はポイント間のタイムリミットを厳守させるという不人気な義務を負っていた。

ニューヨーク全体からとも思える軽蔑を受けながら、「ディレイ・オブ・ゲーム・ウォーニング(ゲーム遅滞の警告)、ミスター・サンプラス」と主審は告げた。

表情にはいくらか吐き気が残っていたが、アメリカ人はベースラインに着き、ファーストサーブを打ってプレーに入った。しかしポイントが始まると、アドレナリンが彼のグラウンドストロークに必要な力を貸し、ついにはスペイン人からミスを引き出した。

そこからは、両者とも連続して2ポイントを勝ち取る事ができないかに見えた。ついに6-5となり、サンプラスはマッチポイントを握ったが、コレチャはピストルを所を得ないベースライン後方へ押し込み、フォアハンドをネットにかけさせてセーブした。その後、サンプラスは身体を折り曲げ、見たところラケットだけで自分を支えていた。

次のポイントでコレチャは強烈なグラウンドストロークを何本も放ち、最後にはフォアのウィナーを決めて、今度は彼がマッチポイントを握った。

サンプラスはまたしても弱いサーブを放った後、フォアのアプローチショットを打って、死にもの狂いでネットへと攻めた。コレチャは抜け目なくスライスで低いボールを返し、サンプラスに足元でボレーを打たせた。

アメリカ人はコレチャのフォア側ワイドにボレーを打ち、スペイン人にクロスのパスを打たせるよう仕向けた。しかし次の一突きが彼を試合に引き留めたのだった。ボレーは力ないものだった。しかしスペイン人は、それに届くにはあまりにも遠い位置にいたのだ。

7-7となり、サンプラスは繰り返しボールをバウンドさせた。彼の手はアスファルトからほんの数インチの所にあり、サーブを打つだけの力を奮い起こそうとしていた。

時間の余裕はほとんどなく、もう一度警告を受けるとポイントを失う事になると分かっていた。ようやく彼は身体を起こし、時速76マイルの緩いサーブを放った。

ボールはサービスラインをオーバーした。そのニアミスでさらに数秒を得て、サンプラスはもう何回かボールをバウンドさせ、記憶をさかのぼり………鋭い角度のついた時速90マイルのサーブを見つけ出したのだ。ボールはスピンしながら、驚くスペイン人から遠ざかっていった。セカンドサーブ・エース。

「あのサーブはどこから出てきたんだ?」とロビンソンは叫んだ。

8-7となり、アメリカ人は対戦相手のファーストサーブを待ち受けた。しかしコレチャのサーブはロングとなった。セカンドサーブで、コレチャは、病んだ対戦相手の気迫へ敬意を込めて、深く打とうと努めた。

彼のサーブがサービスラインのわずか外側に着地した後、ホークアイが何分の1秒か響き渡った。そしてすぐにルイ・アームストロング・スタジアムの全員が立ち上がり、サンプラスのキャリア最高の勝利に喝采を送ったのだった。

アメリカ人に喜びの仕草はなかった。彼の肩は下がり、頭は後ろへかしぎさえした。もはや強くあらなくてもよい事に安堵する男の表情だった。

キャリアを定義する時

2日ほど前に、真に今年のオープンを定義する試合は………まだない、と私が言ったのを覚えているだろうか? これが90年代のオープンを定義した試合だったのかも知れない。
―――テッド・ロビンソン
訳注:1957年〜。アメリカのスポーツキャスター。

この物語における唯一の不満な要素は、当然の報いを受けるべき悪党がいなかった事だ。実際、アレックス・コレチャは長いキャリアの間に、いくつものスポーツマンシップ賞を獲得する人物だった。

彼は決定的なダブルフォールトを犯した後にがっくりと膝をついたが、立ち上がってサンプラスをネット際で抱きしめた。その間じゅう、ルイ・アームストロング・スタジアムのファンは彼に、勝者である同国人に対してと変わらないほどの喝采を送っていた。しかしコレチャにそれが聞こえていたかは疑わしい。

サンプラスが治療を受けるため係員に誘導されていってから随分と経っても、 コレチャはコートの椅子に座り込み、タオルに顔をうずめていた。

彼はキャリア最大の勝利まで、あと1ポイントのところにいたのだ。彼が大会の残りをどうやり過ごしたのかは、想像するしかない。

彼がグランドスラムの栄光に最も近づいたのは、その後にローラン・ギャロスで決勝に2回進出した時だった。

彼の究極の運命は、ゴットフリード・フォン・クラムやジェームズ・ブレイクと同類の、偉大なテニスプレーヤーというよりはいい奴として知られる事だった。

サンプラスについては、この試合は1996年にテニスの脚本家が彼のために創り上げていた物語の大団円だった。ゴラン・イワニセビッチとの準決勝に4セットで勝利した事、決勝戦でチャン(もう一方の準決勝でアガシを破っていた)にストレートセットで勝利した事は、派生的なエピローグ以上のものではないようだった。

もちろん、2003年の引退までに、サンプラスには主役を演ずるさらに多くの物語があった。オープンで優勝した後、彼は次の1年半を支配し、その後も順調に進み、7回ウィンブルドンで優勝し、14のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得し、6年連続で世界ナンバー1選手となった。

もし彼があの年の早い時期にメジャーで優勝し、成功へのより安易な道を辿っていたら、彼のキャリアが変わっていたかどうかは、想像するしかない。

私にはその道を想像できないが、17歳足らずのテニスファンだった私が、その夜に見るだろうと予想したもの、予想しなかったものについて語る事はできる。

私は学校から帰宅してその9月の晩に、冷静な、計画通りに実行された勝利を見るのだろうと予想していた。これまでで最も忘れ難いスポーツイベントを目撃する事になるとは予想していなかった。

その時代の最も才能に恵まれたチャンピオンが、優れた腕前を披露する事を期待していた。才能だけでは充分でない時に、チャンピオンが何をするかという教訓は期待していなかった。

私の愛するスポーツが、大いに尊敬する男によってプレーされるのを見るのだと予想していた。この試合が彼をあらゆるスポーツで私のいちばん好きなアスリートにし、その称号をずっと保持するだろうとは予想していなかった。

そして、これが時代を超えた物語の証拠だ。最後にひねった筋書きがあるとは知り得ない。しかしひとたびそれを見ると、他のいかなる筋書きも想像できない。まさに………ふさわしく見えるのだ。


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