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2009年12月30日
アガシ - サンプラスのライバル関係に、はたして終わりはあるのか?
文:Pete Bodo


この秋にアンドレ・アガシは自叙伝「オープン」を出版したが、それは彼のテニスキャリアにだけでなく、ピート・サンプラスとのライバル関係にも、驚くばかりの結末をつけ加えた。アンドレがサンプラスに対して不承不承の称賛を表す中に、容赦ないコメントを混ぜていた事には言及すまい。

我々は今、そのライバル関係と総合的な卓越性が、オープン時代の最高水準であった男たちによる公式の自叙伝を得ているのだ。

2人の本の比較は、あー、意味深長である。2冊を読み比べてみると、いかに彼らが根本的に異なった人物であるかが、はっきりと示されている。明らかになった全貌は、以下の通りである。私はピートの「A Champion's Mind(チャンピオンの精神)」の共著者であり、この記事を読む人は、その事を好きなように考慮に入れても結構だ。

まず第一に、2つのタイトルは多くを物語っている。アンドレは自著の中で、自分の考えと感情をすべて露わにしたいと望んだ。ピートは読者に、自分がどのように、そしてなぜ、2000年に達成した史上最多グランドスラム・シングルス・タイトル記録へと取り組んできたかを知ってもらおうと望んだ。したがって、アンドレの本は彼個人に関するもので、「これが私という人間で、私は物事についてこう感じていた」と語っているかのようだ。ピートの本はより一般的である。「これは私が優れたグランドスラム・チャンピオンになった方法で、これらは私がその道のりで下した決断である」と。

アンドレが、彼は本を売らんがために、多くをさらけ出したのだという示唆に目をむくように、ピートは、彼は内輪の恥を外に出さないために、私生活の細部を明かしたがらなかったのだという考えをあざ笑う。アンドレは正直になる事以外に、本を書く意義を見いださなかったのだ(思い出そう。それは「目的」ではない)。一方ピートは、どうやって卓越した選手になったかという物語には関係のない、生活の細部を明かす事に意義を見いださなかったのだ。2人の大きな相違は、アンドレの私的な浮き沈みは、キャリアに重大な影響を与えたが、ピートの私生活は、彼自身の大望への追求をほとんど妨げなかったという事である。

結局、2人の男の劇的なコントラストは、かなり整然と要約されうる。ピートの物語は、素晴らしい天賦の才能を持ち、それを宝物のように見なしてきた男の話である。アンドレは素晴らしい天賦の才能を持っていたが、長い間ずっと、それを破壊したがっているだけのように見えた。

ピートの自己啓示は、ステファン・エドバーグに1992年USオープン決勝戦で敗れた直後に訪れた。彼は、勝つためには必要だったのに、自分が徹底的に戦い抜こうとしていなかったと結論を下した。そして二度とその過ちを繰り返さないと自らに誓った。自己の才能ゆえに負わされる責任を受け入れようと決意した。そして翌年、彼は2回目と3回目のメジャー優勝を果たしたのだ。そこから疾走が始まった。

アンドレの自己啓示は、1999年フレンチ・オープンで優勝したあたりに起こった。それは嵐雲が飛び散り始め、彼がどれほどゲームと個人的な経験に憤慨してきたとしても、テニスは自分が求める満足感を見いだしうる手段である、という事実を受け入れ始めた時だった。それはグランドスラムの競技者として過ごしてきた14年目の事だった。ピートの場合は、ツアープレーヤーとして5年目にさしかかった時だった。

そして最後に、アンドレは自分が本当はどう感じていたか、そのすべての段階を読者に知ってほしいと望んだ(自叙伝は、永続する現在形で展開するという素晴らしい構成だ)。ピートは自叙伝を私的なセラピーや恨みを晴らす手段、あるいは私生活のゴシップや純粋に個人的な細部への、読者の欲求を満たす手段とする事を望まなかった。

著作に対する2人の取り組み方は、彼らのキャリアを反映し、基本的な真実を明らかにした。ピートはそのすべてを克服し、どうやって打ち勝ったかを語ろうと決心した。アンドレは己をかき乱してきた魂に分け入り、本当はどうであったかを語りたかったのだ。両者とも各々の意図するところを上手くやり遂げた。そこで我々は再び、馴染みの選択に煩わされるのだ:サンプラス、それともアガシ?


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