第4部:フレンチ・オープン
第13章 彼は僕に競う事を教えてくれた


人生のタイブレークで
友と家族、子供たちと妻が見守るなか
君は最後まで戦った
私は君を忘れない、友よ

君は高みとどん底に直面した
長き衰弱のなか、皆が送った祈りに励まされ
君は最高の強さを見いだした
みんな君を忘れない、友よ

マッチポイントで、君の勝利が来た
涙のベールを通して、私は知った
真の思い出のカップを勝ち取るためには
命を失わねばならないのだと、友よ

我々は闘うために残された
ポイントはより厳しく、長いようだ
そして傷ついた心は、ゆっくりと癒やされていく
君の記憶によって、友よ

――ガリーの歌(我が友よ)――


ガリーはいなくなった。
1996年5月3日の午後、金曜日の午後に、享年44歳でティム・ガリクソンは癌のため亡くなった。病は彼の人生を尽きさせたが、彼の精神は尽きなかった。
彼は妻のローズマリーを遺した。
2人の幼い子供たち、エリックとミーガンを。
双子の兄弟、トムを。母親を。
そしてピート・サンプラスを。

彼の人生とティム・ガリクソンは分かたれたが、サンプラスはコーチが望んだであろう事をしていた。練習を。クレーコート・テニスをマスターするという、彼の個人的な謎の解明に少しでも近づこうと。サンプラスはその日サドルブルックで、いつもより長く骨の折れる仕事に取り組んでいた。マルケイは、祝いとなる筈の週末を始めていた――彼女は法律学校を卒業するのだ――が、電話を取り、恐ろしい、避けがたい知らせを最初に聞いた。

サンプラスはヨーロッパ遠征の準備をしていた。早めに行って、フレンチ・オープンの前に幾つもの大会でプレーした1995年とは対照的に、彼は96年に1つのチューンナップ大会、イタリアンオープンを選んだ。慎重な選択。彼は1994年にその大会で優勝した。それは1995年のデビスカップ決勝戦までずっと、彼にとってクレーでのプレーのハイライトだった。

ガリクソンの容態が悪化するなか、サンプラスは準備を続けていた。4月、彼はコーチの元を訪れ、衰えにショックを受けた。ガリクソンは急激に衰弱し、家族や友人たちをも巻き込んだジェットコースターの最終段階にさしかかっていた。前年の晩夏と秋には治療の効果が上がり、一時的な回復の兆しを見せていたのだが。

ガリクソンの「電話によるコーチング」は次第に少なくなっていた。そしてサンプラスは、これから迎えるであろう事を甘受し始めていた。しかし彼はまだショックへの、イリノイ州ウィートンでガリクソンの葬儀に参列する心の準備ができていなかった。これまでサンプラスは葬儀に列席した事さえなかったのだ。彼は棺のにない役を務め、1993年のウインブルドン・トロフィーを棺の隣に供えた。葬儀の参列者に「僕に競う事を――そして勝ち方を教えてくれた」と語った男への、最終的な感謝のあかしとして。
訳注:このウインブルドン・トロフィーは、ピートがガリクソンと組んで初めて勝ち取ったグランドスラム・タイトルだった。

そして、初めは、彼は後ずさりした。

ガリクソンが亡くなった後、彼はサドルブルックのコートに戻っていた。コーチへのたむけ。しかし、もはや形式的に動くだけだった。葬儀から戻った後、彼はイタリアン・オープンを欠場し、フレンチも欠場するかも知れないと発表した。ウインブルドンは? 確実に出場。しかし骨の折れるレッドクレー・テニスは、あまりにも手に余り、あまりにも間近すぎた。

「僕はまだその段階にない」とサンプラスは語った。

サンプラスはフレンチに間に合うようやって来た。思い出、あるいは他のいわく言いがたいものに駆られて。共に過ごした短い期間で、サンプラスとガリクソンは心の友とも言うべき間柄になっていた。理由が何であれ、彼らは結びつき、メジャー・チャンピオンシップ、そして歴史を追い求めて地球を旅するという共有の運命を見いだしていた。だがその途上で、彼らの旅にはより深い意味が生まれていた。

「ツアーで友人を得るのは難しい。いずれにせよ僕はとてもプライベートな人間だしね」ガリクソンが病に倒れた後、サンプラスは語った。「ティムがそばにいない時、僕はコーチがいないのを寂しく思うだけじゃない。親友がいないのを寂しく思うんだ」

恐らく、考え直してパリへの荷造りを始め、ガリクソンから贈られたお守りの首飾りをテニスバッグに放り込んだ時、サンプラスの魂は記憶を辿っていたのかも知れない。生命のない物体、それはサンプラスの感情のシンプルで輝かしい象徴だった。

フレンチでプレーするというサンプラスの決断が象徴的だったように。これは友人から離れての、最初の旅であったろう。死の床にあっても、ガリクソンはサンプラスと共にいたのだ。勇敢な参加の決断だった。しかし無視できない結末の可能性があった。たとえ2週間だけであっても、何かを失う事を要求され得る可能性があったのだ。

単純に言えば、そうなりそうだった。
つまり、これは競技なのだ。
「ティムは非常にはっきりした男だった。事実上、テニスとは何かをピートに植え付けたのだ」作家でありテニス・マガジンの記者であるピーター・ボドは語った。

「彼はピートにテニスのテクニックや戦略だけでなく、途方もなく大きな励ましを与えたと思う。ティムはピートの人生において、テニスを本当に重要なものにしたのだ」

「我々は皆、人生においてこのような事に関わる。人生は続く。同じく、ピート・サンプラスにとっても。もちろん、しばらくの間ティムの件は引きずるだろうし、ピートはそれに関わらねばならない」

しかし彼にできるのだろうか? 彼がヨーロッパへと出発した時、見かけ上の決意は称賛に値するようだったが、デュッセルドルフで世界チームカップに出場した彼は、フレンチ・オープンの脅威とは到底見えなかった。彼はチェコのボーダン・ユリラックに負けた。それから背中を痛め、オランダのリチャード・クライチェク戦を棄権した。最終的には、ストレートセットでカフェルニコフに敗れた。

望ましくない、しかし驚くには当たらないスタートだった。サンプラスはクレーで全く試合をしておらず、コートにも殆ど立っていなかったのだから。葬儀の後、 アナコーンは家まで付き添ってきたが、サンプラスは練習する気になれなかった。痛みは未だあまりにも大きかったのだ。

「ピートは感情だけで、パリへ行き試合をしたのだ」とトム・ガリクソンは語った。

それが準備の代わりだった。問題は、感情だけでどこまで持ち堪えられるか、という事だった。彼の最も苦手なサーフェスで、未だ優勝していない唯一のメジャー大会で、彼はかつてなく脆いだろう――当然そうであろう――と考える戦場において。

一方、サンプラスは平凡なフレンチ・オープン戦績――最高成績は3年連続の準々決勝進出――と相応の努力を混ぜ合わせ、どうにかして有利にもっていけるという可能性が存在した。

「ある意味で、ピートは力が抜けるだろう」とジョン・マッケンローは予測した。「彼には、過去2年間に感じたほどの、途方もないプレッシャーはないだろう。彼の代弁はできないが、彼が優勝に取り憑かれるとは思わない」

ガリクソンの状態が悪化するかなり前に、96年フレンチへ向けての大会参加は軽くすると、サンプラスは決断していた。95年、彼はメジャー大会の前にクレーで長期間プレーし、その過程のどこかで、自分はバックコート・プレーヤーになると決めてしまったのだ。

そこで今年のリプトン大会――第5のメジャー大会とも目される――の後、サンプラスはアジアへと向かい、もう暫くハードコートに留まって自信をつける機会を持った。クレーコートでの時間を失うというリスクを冒してでも。

ジャパンオープンとセーラムオープンは、4月に開催される第一級のハードコート大会――東京が最初の開催地で、大阪と香港ではセーラムオープンが行われた――で、サンプラスが出場し、レッドクレーでの骨折りを延期すると決断した時には、居心地よい場所となってきた。

1993年4月11日には、決勝戦でブラッド・ギルバートを下し、東京のタイトルを勝ち取った。翌日、彼は初めてナンバー1の座に就いた。翌週末、彼はクーリエを倒して香港で優勝した。

94年には大阪でライオネル・ルー、東京でマイケル・チャン――日本のトップ選手・松岡修三を除けば、観客の最大のお気に入り――を下し、サンプラスは再び2大会で優勝をさらった。

95年には自分をアルベルト・ベラサテギに変えようとして、両大会とも出場しなかったが、サンプラスは1996年には戻り、3回目の「アジアの2連勝」を成し遂げて去った。

93年のように、それにはボーナスがついて来た。4月14日に香港で、サンプラスは厳しい3セットの末にセーラム決勝でチャンを下した。翌朝、彼は1カ月間その座にいたムスターから1位のランキングを取り戻した。サンプラスは世界のトップ選手として117週目に入り、その勢いを東京に持ち込んだ。そして決勝戦ではデビスカップのチームメイト、リッチー・レネバーグをストレートセットで下した。

個人的に春のハードコート・シーズンを延長した事で、サンプラスは攻撃的な心構え――積極的な心構え――を保った。もしくは、少なくともガリクソンの衰弱に向かい合う程度には積極的な。

確かに前年と比較すると、彼は良い仕上がりだった。
「僕はクレーコートに長くいすぎて、自分のサーブ&ボレー・ゲームを少しばかり見失っていたんだ」と世界チームカップの間にサンプラスは語った。「今回、僕は自分のやり方でプレーし、ビッグポイントでも攻撃的でありたい」

ユリラック戦では、その兆しはなかった。冷たくじめじめした日で、サンプラスの心理状態にはふさわしかったが、プレースタイルには適していなかった。

「精神的には、今のところ可能な限りいい感じだよ」4月21日に東京の決勝戦で勝って以降、初めての試合に7-6、2-6、6-3で敗れた後、サンプラスは語った。

「僕は切り替える必要がある。(4週間ぶりの)最初の試合としては、かなり良いように思った。調子の波が多くて、とても奇妙な試合だった。僕はビッグショットを打とうと急ぎすぎていた。辛抱強さがなかった。でも昨年のフレンチ・オープン以降、クレーでプレーしていなかったので、僕にとってはとても重要な試合だった」

「試合ごとに良くなっていけたらいいな。何試合か必要だ。確かに(フレンチへ向かうにあたり)勝ちたいと思うよ。何らかの自信が得られるからね。再びやっていく事が重要なんだ」

背中の怪我は当初、サンプラスのフレンチ参加を脅かした。サンプラスが「筋肉を固める」と呼んだ治療により、カフェルニコフと対戦する事はできたが、レッドクレーでは0勝2敗という結果でパリへと向かった。しかし少なくとも、もう2セット経験する事はできた。

「サンプラスがどんな身体状況なのか、よく分からない」とマッケンローは語った。「だが私の考えでは、彼がティムの件を経験してきた後で、多くのプレッシャーを感じるとは思わない。そのいくらかは幸運に働く。彼のドローに働くかも知れない」



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