第3部:オーストラリアン・オープン
第11章 琴線に触れる


1995年1月:ティム・ガリクソンには、何かとても悪い事が起こっていた。

1994年後半、彼はすでに病気の兆候を見せ始めていた。10月にはストックホルムのホテルの部屋で、不可解にも気を失ったのだ。ガリクソンはガラステーブルに倒れ込んで鼻を打ち、粉々になったガラスの破片が彼の顔に醜く深い傷をつけた。気を失う前、彼はアガシのコーチ、ブラッド・ギルバートと電話で話していた。ギルバートはストックホルム・オープンの練習コートにいた。彼はギルバートが何を言っているのか理解できなかった。ギルバートは彼の言っている事が理解できなかった。

ガリクソンは自宅のあるイリノイ州ウィートンに戻り、心臓弁に欠陥があるという医師の診断を受けた。2カ月後にミュンヘンで、妻のローズマリーと電話で話していた時、彼の話はふたたび要領を得なくなった。彼は次の週を病院で過ごし、心臓に問題があって、発作で2回倒れたのだと告げられた。

1995年のシーズンが始まり、彼とサンプラスはグランドスラム優勝を目指して、オーストラリアに旅立った。シーズンは前途有望に思われた。サンプラスは94年晩夏のUSオープンとデビスカップでの不首尾を忘れようと努め、アガシが迫ってくる1位の座を保とうと決意していた。ガリクソンもまた、動き回っていた。

1月20日、オーストラリアン・オープン3回戦の試合前にサンプラスと練習した後、 ガリクソンはもはや走る事ができなくなった。彼は意識を失い、今回はメルボルンの病院に運ばれた。そしてまた誤診を受けた。黒色腫と。脳に。余命は最長で6カ月だと。
訳注:黒色腫。極めて悪性と恐れられる、ほくろの癌。皮膚に最もできやすいが、まれに眼、脳、消化管にできる事もある。

不幸にも、この診断は真実に近かった。実際に、何かがひどく悪かったのだ。

ガリクソンは飛行機で自宅へ戻り、ようやく医者が正しい診断を下した。彼の脳は珍しい腫瘍、乏突起膠細胞腫に冒されていた。
訳注:乏突起膠細胞腫(oligodendroglioma)。成人の前頭葉白質に好発する代表的な悪性腫瘍。好発部位は大脳半球白質で、特に前頭葉に好発して知能低下や性格変化をもたらす。

明るい希望:それは治療可能である事だった。

最終の、正しい診断が下される前に、サンプラスは最初の、棍棒で殴られるような診断を聞いていた。

それから彼は、メジャーテニス大会に優勝しようと奮闘を開始した。

サンプラスは3回戦で見事なプレーをして、7ゲームを失っただけでラルス・ヨンソンに快勝し、病院に駆けつけた。4回戦では、遙かに有能なもう1人のスウェーデン人、マグナス・ラーソンと対戦したが、緊張が窺えた。サンプラスは最初の2セットを落としたが、危機を脱して勝利を収めた。2セットダウンからの逆転勝ちは、キャリアで2度目だった。

*    *    *

ガリクソンはすでに自宅へ帰っており、サンプラスは、死に怯えていた。

従って、彼がオープンの準々決勝で、間違いなくもう1つの激戦となるクーリエ戦に臨んだのには、世界ナンバー1選手としての心構えを見て取る事ができる。

サンプラスはオフコートの大半を、ティム・ガリクソンと彼の兄、トムと共に病院で過ごしてきた。そして友人が運命の終局に直面しているのを見て、無力さを感じていた。

彼はその無力感をコートに引きずり、センターコートの15,000人の観客と、そしてアメリカで ESPN テレビを見ていた無数の視聴者と、それを共有する事になった。

ドラマはゆっくりと進展した。サンプラスとクーリエの試合は、激しい強打の応酬で、試合の趨勢を決めるわずかな相違は、見過ごされかねない。

クーリエ――その1月には、ここ数年でベストのテニスをしており、前哨戦で優勝し、8連勝(すべてストレート勝ち)中だった――が、最初の2セットを取った。どちらもタイブレークだった。サンプラスは次の2セットを取り返した。

第5セットのオープニング・ゲーム、サンプラスがサーブを打つためにベースラインへ歩いていると、1人の観客が大声で呼びかけた。選手の耳にだけでなく、心と魂にも届くとは思いもよらずに。

「コーチのために頑張れ」と、そのファンは願いを叫んだ。

シンプルで、率直な訴えだった。もしサンプラスがファンの立場だったら、彼も叫んだかも知れない類の事だった。核心を突いていた。効果的だった。

サンプラスはサービスゲームをキープし、チェンジオーバーで束の間の安らぎを得ようとした。タオルに手を伸ばして、それは始まった。サンプラスは涙を流してタオルに顔をうずめた。それから、冷たい水を顔にはねかけて彼は立ち上がった。極度にプライベートな一面が、かつてないほど公にさらけ出されていた。

クーリエもサービスをキープして1-1となり、プレッシャーはサンプラスに移った。30-0、時速118マイルのエースの後、感情が測り知れないスピードで彼を圧倒した。サンプラス――何物にも煩わされない、感情のない現代のテニスロボットと世界中からレッテルを貼られていた男――はベースラインに立ち尽くした。髭の伸びかけた彼の頬には、涙が流れていた。

それから、もう2つ激励が送られた。1つは優しく脇から。サンプラスのガールフレンド、デレイナ・マルケイからだった。「カモン、愛しい人、しっかり」と。もう1つはネットの向こう側から。クーリエが呼びかけた。「大丈夫かい、ピート? 明日にしてもいいんだよ」

マルケイの言葉はサンプラスの心を慰めた。クーリエの言葉は彼を怒らせた。なぜなら、広く伝えられた事とは反対に、サンプラスは、長年の親友であるクーリエはガリクソンの容態を知っているのに、いささか皮肉っぽいと思ったからだ。

「彼は僕に難癖をつけているように感じたんだ」とサンプラスは言った。

双方の激励に刺激され、サンプラスは涙を流しながらクーリエにエースを放った。試合を通して20本目のエースだった。次にサービス・ウィナーを放ち、ゲームをキープした。クーリエはそれからケイレンを起こし始めた。そして第7ゲームでブレークされ、彼は力尽きた。サンプラスは23本目のエースとサービスウィナーで、試合を締めくくった。

オーストラリアは午前1時09分になっていた。

マッチ・オブ・ザ・イヤー。1月下旬の事だったが、その栄誉はすでに、この準々決勝に否応なく与えられていた。サンプラスは記者会見場に入ると、メディアから満場の拍手を受けた。「ジャーナリストは喝采しない」という約束事は放棄されていた。それは再び彼に涙をもたらした。彼は部屋を去り、少しして戻ってきた。

「勝つにせよ負けるにせよ、僕がこれまでに戦った中でもかなり良い試合だったと思う」とサンプラスは言った。「僕はただ諦めなかったんだ」

*    *    *

デレイナはコートサイドにいた。

それは心温まる接触だった。

サンプラス - クーリエの準々決勝の間に、ESPN レポーターのマリー・カリロはマルケイに接触して、大成功を収めた。マルケイは世界に向け、サンプラスは「今度の事で感情的に疲れ切っていたわ。彼はティムのためにそれをしたいと思っているの」と語った。

マルケイがメディアに登場したのは珍しい事だった。1990年にいわば一目惚れで、彼女がサンプラスにとって初の真実の恋人になって以来、目立つ場に出る事は滅多になかったのだ。彼女は年上の女という噂話に堪えてきた――彼女はサンプラスよりたった6歳年上なだけだ。彼女は金目当てでサンプラスを狙った、男から金を搾り取る女というゴシップに堪えてきた。プロ大会で、いつ、誰と話をするかによって、彼女に関する意見は広く変わりうるのだ。彼女がサンプラスの元エージェント、ギャビン・フォーブスのガールフレンドであったという事実も、良い材料ではない。

しかし、こういう噂話は名声に付きものである。疑う者は、常にどこかに存在するものだ。マルケイとサンプラスはただ出会い、恋に落ち、そして一緒にいるようになったという事を。いかにも簡単だ。いかにも50年代風である。マルケイについて、ごくわずかでも個人的な質問をされた時、サンプラスがきまり悪そうににっこり笑う様を、それらの人々は一度も見た事がないのだ。

彼らの初デートはサンプラスが誘い、サウスカロライナ州のマートルビーチ・リゾートで1週間過ごした。彼らの最初の家は、タンパ・パームズと呼ばれる高級住宅地に建つ7,865平方フィートの家で、サンプラスが77万ドルで購入した。サンプラスは「リザーブ」と呼ばれる区画に住んでおり、隣家には別の百万長者のアスリート、タンパ・ベイ・ブキャナーズのクォーターバック、トレント・ディルファーがいる。サンプラスは1992年12月に家を購入し、マルケイと2匹のワイマラナー犬(ドイツ原産のポインター)と共に暮らしている。

約2,000平方フィートの広い敷地で、中庭とプールがあり、さらに、デザイン煉瓦の敷かれた車庫に通じる私道は、多くの人々の自動車より費用がかかっている。サンプラスは少なくともあと数年、その家で暮らすつもりでいる。

1996年初め、サンノゼの大会に出場していた時、家族の近くで自分のルーツでもあるカリフォルニアに、いつか戻るつもりだとメディアに話をした。彼は間もなくタンパを去るという具合に、話が発展した。1人の親しいタンパの友人が、「彼はやがて去り、別のどこかでもっと良い物件を手に入れるだろう」と、事実上それを確定した。

サンプラスは急いでいない。「自分の家には、多くのお金をかけたからね」と彼は言った。「大いに手を加えたんだ。素敵な家だよ」

ある者たちは、マルケイが金を使ったと言うであろう。

しかし彼女について、サンプラスほど上手く語れる者はいない。

昨年ナイキが公開したプロモーション・ビデオには、倹約について些かのヒントが見られた。サンプラスの自宅で撮影されたのだ。彼はカメラに向かって冗談ぽく食料貯蔵庫を開けた。中にあった缶詰は、ごく一般的なブランドだった。

冷蔵庫を開けると、ハイネケンの半ダース入りパックが入っていた。サンプラスはアルコールを飲まない。浪費したのはデレイナである。
訳注:ハイネケンはごく一般的なビールで、デレイナは決して浪費家ではないという逆説的描写。

最近マルケイは、フロリダ州セント・ピーターズバーグのステットソン大学ロースクールを卒業した。彼女の年齢、共に暮らす男という条件を考えると、見落とせない成果である。

「デレイナは自分自身の持ち場を見いだす事に、とても興味を持っているようで、私は常に感心してきたわ」と、ジャーナリストのサンドラ・ハーウィットは語った 。「彼女はピートと出会う事で『上がり』だと、多くの人が考えていたのを知っているわ。でも私は決してそう思わなかった」

「同じく、それはピートが『素晴らしい人間である』という証でもある。彼女に自分で何かを得てほしいと、彼が望んでいるという事だわ。彼らは真のカップルよ。多くのプロテニス選手たちは、ごく小さい子供の頃から、すべて自分中心で過ごしてきている。でもこの関係は、ピートのむしろ利己的でない特質を示していると思うわ」

「僕は(自分のライフスタイルについて)全く罪の意識を感じないで済むよ。彼女はロースクールに通っているからね」とサンプラスは語った。「いつも彼女に言ってるんだ。自分がしたい事をして、僕に合わせる必要はないって。彼女は自分のキャリアと目標を持つべきで、自分の事のように僕の人生を経験する必要はないんだ。彼女には彼女の予定がある、それは僕たちの関係にとってとても良い事だと思う。本当に重要な事だ」

2人が結婚するかどうかは……何とも言い難い。1995年の初め、『オーストラリア版テニス』誌上でライターのポール・ファインに個人的な質問をされ、サンプラスはマルケイと深く愛し合っていると認めたが、次のように付け加えた。「近い将来に結婚する予定はないよ。急ぐ気はない。僕たちは、そういう話は滅多にしないんだ」

ふたりと親しい人々は、違う話をする。いかにマルケイが何度も結婚をほのめかし、サンプラスがその度に尻込みするかと。

次のような事を提案する者さえいる。サンプラスは手切れ金を払う準備をすべきだと ――今。

しかし、恋人について話す時、サンプラスの目が輝くのはどうだろう? とにもかくにも、マルケイは美しい女性だ。もし機会があれば、サンプラスが他の誰かを見いだせたように、きっと彼女もそうできただろう。

ハーウィットが言ったように、彼らはまさに真のカップルのようだ。そしてロンドンのタブロイド紙『サンデー・ミラー』が1996年1月に伝えた事を信じるなら、とりわけアツアツのカップル。

『ミラー』紙はなぜか、マルケイの――少なくともマルケイに見える――セクシーな黒い下着姿の写真を掲載した。写真は本物だったのかも知れないが、添えられたストーリーはあまりにも珍妙だった。写真にはマルケイからサンプラスへの愛のメッセージが書かれていたが、フィラデルフィアの、アンドレ・アガシのホテルの部屋で見つかったと伝えていた。あるいは、裏目に出た冗談の類だろう。

ストーリーの見出しは:「あなたへの思いやり、ピート」

これらの人々――このカップル――は、何はともあれ信ずるに足るようだ。彼らは共に、ここ数年つきまとっていた不眠症の歩く治療法という彼の公のイメージを越えて、サンプラスの存在にある側面をもたらすからだ。

ピート・サンプラスは退屈な人間? 世論調査の結果ときた。リゾートへ旅行して1週間続く性急な初デートが、いつから退屈な独身男性である事を暗示するようになったのか?

ツアーの噂話では、サンプラスはマルケイと出会うまで童貞だった、もしくは、独身者の人生での真のお楽しみにおいては、せいぜい初心者だったであろうとの事だ。彼がマルケイに近づき、さらに彼女を誘って、ましてほぼ最初から一人前の恋愛沙汰に陥りさえする勇気を見いだしたという事実は、まれにしか表に出ないサンプラスの一面を表している。この行動は19歳の少年にとって、グランドスラム決勝戦でサービング・フォー・ザ・マッチにサーブするのと同じくらい、あるいはさらに、度胸を要した。

タブロイド紙の写真はどういう事なのか? ある者はそれが本物であると信じたがる。パートナーの大いなる助力で、サンプラスがレーバーと巨額の支払小切手についてだけ考え、のほほんとしている育ち過ぎのテニス小僧ではなく、本物である事を強く示唆しているからだ。

それらの写真を見れば、サンプラスを引っ掴んで、おばかさんと彼をひっぱたき、テニスの事だけ考えてのんびりしていてはいけないと、彼に言いたくなるだろう。なぜなら、人生の紆余曲折を考え合わせれば、テニスは明日にも消え去る事もあるのだから。そして仮にそうなった時、彼には帰る家があり、デレイナ・マルケイがいるという事は、素晴らしいではないか。

同じく、マルケイはその気になれば、サンプラスのような清い生活を送る理想主義的に打ち込む運動選手よりも、悪さをする事も可能だ。

この全てはもちろん、新聞などのいい種になるものであり、ゴシップ的な――無害ではあるが――、個人的なレベルまでサポートしようというサンプラス・ファンの間の討論である。

ファンはインターネット上で討論してきた。アメリカのオンライン・コンピュータサービスは、大規模なテニスセクションを呼び物にしている。様々なテニス関連の話題について、ファンが活発に意見を交換できるよう、種々の「メッセージ・ボード」を備えている。ピート・サンプラス・メッセージ・ボードは、とりわけ人気が高く、盛況である。他の2つのボードと共に――モニカ・セレシュ、そしてテニス界のゲイとレスビアンに関する話題。

サンプラスとマルケイの関係は、何回もボードを賑わしてきた。1996年の書き込みから、ランダムに幾つか紹介しよう。もちろん、AOL のIDは外してある。

Q: 「けっこうな女性、年下の男と付き合う女、あるいは男から金を搾り取る女か?」
A:「審判はまだ下されていないようだ」

明らかに年若い女性のファンから:「私はピート・サンプラスを愛してるの。彼のガールフレンドについて何かをしなくっちゃ。だってピートと私は恋に落ちて、結婚するつもりなんだもの」

そして最後に、物事を正しく判断する長めの書き込み:「彼らの関係は年齢差ゆえに普通とはいえないが、デレイナは確かにピートを敬愛しており、助けになってきたようだ――もちろん、ティム・ガリクソンと並んで――ここ数年にわたるピートの成功にとって」

ふたりの関係は、サンプラスが遭遇する女性の媚びにも試されてきた。オーケー、アガシの場合とは違うが。ブルック・シールズと婚約を発表する直前の1996年初め、アガシがしたと言われていたように、サンプラスがポルノ女優と一夜を過ごしたなどという話はない。それでも、サンプラスと女性のファンの間には、何らかの性的関心事がある。この競争においては、サンプラスは穴馬、ダーク・ホースである。だが彼は競技者である。

「ピートは(デレイナを)愛しているに違いない。さもなければ、彼が望みさえすれば、好き放題にできたのだから」と、ある元トップ選手は言った。

そういった現実のほのめかしに直面する事さえ、サンプラスは居心地が良くないようだ。

95年の秋、タンパで精神衛生施設への募金を集めるために、サンプラスは裕福なマニアとボランティアでテニスをした。事は上手く運んでいたが、そのイベントは雨で急に終わった。サンプラスと30〜40人の人々は、開催者の家に急いで駆け込んだ――テニスは開催者のプライベート・コートで行われていたのだ。それからサンプラスは、1時間ほどサイン会を行った。ほぼその間じゅう、サンプラスがサインをしていたテーブルの脇に、30代半ばの1人の女性が立っていた。彼女はあまり喋らなかった。じっと見つめていただけだった。そして微笑んでいた。まさに、涎を垂らさんばかりに。

彼女がついに立ち去ると、誰かがサンプラスに、彼女は誘い出そうとしていたのだと言った。彼は信じられないといった様子を見せた。

同じく、サンプラスはより若い女性をも興奮させる。イボンヌ・グーラゴン、かつての偉大な選手には、ケリーという19歳の娘がいる。グーラゴンは娘の写真を見せびらかし、皆が大口を開けて驚くのを見るのが好きだ。ケリーはすごい美人なのだ。ケリーは「ピートに夢中なの」と彼女の母親は言う。

サンプラスはその話を聞くと笑った。「本当かい?」と尋ねた。それだけだった。ロッカールームでの行為はなし。大きな微笑以外は、何の反応もなし、終わり。もちろん、彼は写真を見てもいなかった。

サンプラスは不品行のほのめかしさえ相手にせず、身をかわす。昨年、マルケイがタンパの家にいた時、サンプラスが官能的な金髪女性と一緒にいるのを目撃されたという噂が流れた。その噂を聞いていなかった人のために言うと、もちろんサンプラスは、それを強く否定する事ができた。

*    *    *

デレイナを別にすれば、ガリクソンが合衆国に戻ると、サンプラスは本当に独りだった。ラーソン、クーリエとの闘いに生き残った事は、注目に値するものだったが、チャンに勝利した準決勝自体も、称賛に値する。累積的に、サンプラスはこの段階に達するため、キャリアで最も厳しい10日間をくぐり抜けてきた。

チャンを4セットで倒すのに、さらに3時間を要した後、サンプラスはその事実を認めた。その過程で、それは何か特別な、過去5つのメジャータイトルを獲った奮闘からさえも際立つものとなってきた、と彼は語った。

「それは状況と、僕がラーソンに対して、そしてクーリエに対しても、崖っぷちから逆転勝ちしたという事実のためだ。今週、僕は真剣に反撃し、恐らく今までにないほど心意気を示した。闘わずして屈服するのを拒否したんだ。それは僕にとって本当に重要な事だ。僕は無気力みたいに見えるかも知れないが、心の奥深くでは、努力して勝つためにできるだけの事をしているんだ。それを多くの人々に明らかにしてきたと思うから」

サンプラスは彼の「人間的な一面」への大衆の反応に、少しうんざりしているようだった。人々の理解をやっと得るようになるのに、こんなにも激烈な感情の表出を必要とするという事が彼を困惑させた。

「僕は普通の人間だ。みんなと同じように僕も感情を持っている。僕はロボットではない。それをみんな理解しているのだと思う。僕らしくプレーし、僕らしく振る舞う、それが僕という人間なんだ。僕は他のみんなと同じ、ごく普通の人間なんだ。(ティムの病気は)とても辛い経験だった」

ドローの反対側では、USオープンの勢いを生かしつつ、アガシは新しいショートヘア&バンダナ・ルックを誇示していた。アガシはハードコートテニスが好きで、コナーズのように、完璧なタイミングで短いステップをし、サイドからサイドへとボールを強打する事ができる。そして今、ギルバートは彼に考える事を仕込み、パッケージは完成していた。

決勝戦は、サンプラス - アガシのライバル関係が進展しつつある事を提示していた。そしてアガシに上手く運んだ。第3セットのタイブレークで、サンプラスが別の人間性を見せたからだ。確実なものを取りこぼす能力を。

最初の2セットを分け合った後、サンプラスはタイブレークで6-4とリードした。セットは彼のラケットにかかっていたが、サンプラスはアガシのフォアハンド・リターンをただ見送る事しかできなかった:6-5。アガシがサーブをし、そして根気よく――思慮深く――サンプラスのエラーを引き出すまでラリーを続けた。

2つのセットポイントをセーブし、アガシはそのまま突っ走った。まずはサービス・ウィナー、次に13ストロークの応酬を終わらせた大胆不敵なバックハンド・ドロップボレーで。

最終セットはお定まりだった。アガシは、ついに力尽きた選手に対して4-6、6-1、7-6(8-6)、6-4で決着をつけた。

「コーチの事で困難を抱えつつも、この2週間にピートがしてきた事は、本当に畏敬の念を抱かせるものだった」とアガシは言った。「コート内外で彼が見せた勇気……。我々は彼がしてきた事から多くを学べる」

試合後の短いスピーチの最中、サンプラスは再び涙にむせんだ。「僕は彼の事を考え続けていた、彼にいてほしかった。それをティムに知ってほしい」とサンプラスは言った。

決勝戦はそれほど感情に満ちており、テニスそのものを見過ごす危険性があった。サンプラスは28本のエースを放った。アガシは26しかアンフォースト・エラーを犯さなかった。間違いなくギルバートが組み立てた作戦どおりだった。

「アンドレにラリーで打ち勝とうとはしないよ」とサンプラスは言った。「グラウンドストロークの対決において、恐らく彼は世界でベストの1人だ。僕はネットへ詰め、ウィナーで攻め、うまく渡り合う必要がある」

「アンドレがフィットし続けるなら、彼はすべてのメジャー大会で優勝候補だ。これまで、テニスにはライバル関係が欠けていた。アンドレと僕は、大いなるライバルになり得るだろう。僕たちのゲームは非常に異なっているし、人間的にも対照的だ。僕たちがグランドスラムで対戦すれば、ゲームにとって素晴らしい事だろう。アンドレはテニスをスポーツ欄の1面に持ってくる男だ。テニスはそれを必要としている」



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