|
||
スポーツ・イラストレイテッド
1997年5月26日号 ピートの情熱 文:S.L. Price |
||
|
||
|
||
![]() |
時間だ。ピート・サンプラスはトンネルを出て、きついライトの下へと向かう。うつむき、口は少し開き、上半身はいつもの揺れるようなリズムを刻んでいる。 3月の水曜日、夜8時48分。世界最高のテニス選手は、彼にとっては重要な1つの歴史を目指してフィラデルフィアへやって来た。ロッド・レーバーの記念碑的記録である。 アナウンサーがサンプラスの名前を声高に告げ、まばらな観客は礼儀正しく拍手喝采する。しかし彼は応えない。あたかも1人ぽっちで静かな墓地にいるようだ。 彼はコートサイドの椅子に座り、上方を見上げ、動きを止める。自分の目が見ているものを信じられない。サンプラスはさり気なく辺りを見回し、新しいコアステーツ・センターの雰囲気をゆっくりと捉えようとした。 だが上手くいかなかった。彼の視線はダーツのように、1列目にある顔に吸い寄せられた。17年間続けてきたこの驚くべき疾走を彼に始めさせた男の顔に。 |
|
サンプラスには既に、何回グランドスラム大会で優勝しようが、いつであろうが、どこにいようが、いつも同じ言葉を繰り返すピート・フィッシャーの声が聞こえてくる。「おまえの名前の次に注釈をつけるな、ピート。おまえはフレンチ・タイトルを勝ち取らねばならない」 サンプラスは目をそらし、ラケットを取り出す。胃におののきが走る。そして今、いつになく彼はナーバスになっている。馬鹿げている。サンプラスは4年間、1位でシーズンを終えてきたのだ。 そして1997年オーストラリアン・オープン決勝戦ではスペインのカルロス・モヤをストレートで粉砕し、9つ目のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得した。サンプラスはテニス界における他の誰よりも、はるかに上のレベルでプレーしているのだ。 だが、いまここにフィッシャー―――選手でも、コーチでさえもない、ただのテニス狂である南カリフォルニアの元小児科医―――が座り、プロ大会でサンプラスがプレーするのを8年ぶりに見ている。それだけで充分すぎるのだ。 サンプラスの心に思い出がよぎる。フィッシャーは彼のゲームの背後にいた無給のブレーンで、ベースライン・ゲームをやめ、サーブ&ボレーヤーになる事を14歳のピートに強制した。フィッシャーはすべての議論を「私を信頼しろ」という独善的な言葉で終わらせた。幼いピートが敗戦に打ちひしがれてコートから戻ってきても、慰めたりせず、4-4、15-40の場面で、なぜピートがバックハンドをクロスへ打ったのかだけを知りたがった。 そして、サンプラスがジュニア大会で敗戦を重ねる、痩せっぽちで意欲の足りない10代の少年だった頃でさえ、フィッシャーは彼に繰り返し叩き込んだ。忘れるな、おまえの競争相手はレーバーだと。 レーバー? レーバーは2回の年間グランドスラム(1962年と69年)を達成した唯一の男だが、22年前に彼の47個目であり最後のタイトルを勝ち取った。今晩、79位のマルセロ・フィリピーニに対して、サンプラスは彼の47個目のタイトル追求を始める。フィラデルフィアで5試合勝てば、10年間の追跡後、サンプラスはついにレーバーのシャツの裾を掴まえられるのだ。 サンプラスが先にサーブする。いつものように、彼のモーションはクラシックなテニスフォームのレッスンそのものである。ボールを1回バウンドさせ、左足のつま先を上げ、左腕は時計の秒針と同じくらい軽々と、そして必然的に作動する。センターへの時速117マイルのエース。読めず、触れられない。15-0。フィッシャーが彼にそれを教えた。 プレーからは伺えないが、サンプラスは混乱している。フィッシャーについて考えずにはいられない。フィッシャーは常にプッシュし、決して満足せず、いまだにサンプラスが是認を必要とする唯一の人間なのだ。1〜2度サンプラスは彼をちらっと見る。フィッシャーは別の方向を見ている。無理もない。キャリアの早い段階でサンプラスが身につけた最良の資質は、教えられた事を実行する能力だったのだ。彼は両親を深く愛しているが、今でも「ピート(フィッシャー)が僕を育てた方法」に言及する。 「うん、僕が目論んだんじゃない」とサンプラスは言う。「ピート・フィッシャーが僕のために計画を立てたんだ」 第1セットはとても簡単だ。フィリピーニのゲームを4回のサービスゲームで探る間、サンプラスは自分のサービスゲームをキープする。そして3つのサービスウィナーとエースで5-4とすると、フォアの強打、ベースラインからの辛抱強いラリー、そして最後は鞭打つようなフォアのクロス・ウィナーで、彼はフィリピーニをブレークする。 サンプラスは息も切らさず、次のセットではただ叩きのめす。普段どおりの何食わぬ態度で、す速く優雅にコートをカバーし、時速120マイルのサーブを炸裂させ、そして美しい場面を生み出す。4-1、0-30では、彼は足首の高さのボールをすくい上げ、サイドにスキップして、ダウン・ザ・ラインにフォアハンドを叩き込む。フィリピーニはなんとか返すが、結局サンプラスがスマッシュを決めるだけだ。そしてオープンコートにクロスのバック・ボレーを軽く打ち、サンプラスはゲームを終わらせる。 それは要するに、 オールコート・テニスの見事なディスプレイである。サンプラスはフィッシャーが満足していると分かる。「私は彼に完璧さを期待する」と、フィッシャーは笑いながら言う。「彼がそうでない時、私はそれが分かるし、彼は私が分かっていると知っている」 1989年、フィッシャーは18歳のサンプラスと一緒にUSオープンへ向かった。フィッシャーの役割と報酬についての苦い諍いがあり、2人は数週間後に別れた。それから約3年以上、殆ど口をきかなかった。1993年にサンプラスが初のウィンブルドン優勝を遂げた後、フィッシャーはついに折れて、彼に電話をした。 関係は修復されたが、サンプラスはその後もフィッシャーが自分の試合に来る事を許さなかった。昨年フィッシャーはUSオープン最中にニューヨークにいて、試合を見に行く許可を求めたが、サンプラスは拒否した。「彼がそこにいるという事だけで、気が散るんだ」とサンプラスは言う。「ピートは僕に対してとても率直だ。率直すぎるくらいだ」 コアステーツ・センターは半分が空席だ。テレビカメラもない。アンドレ・アガシとのライバル関係は、アガシのゲームが冴えなくなるとともに消えていった。ファンはテニスへの興味を失いつつあるかも知れないが、サンプラスは退屈の対極にある。「ジュニア当時のピートを知っている者には驚きだが、彼は勝利への飽くなき欲求を持っている」と、元ナンバー1のジム・クーリエは言う。 彼はかつてサンプラスと強力なライバル関係にあったが、最近10試合のうち8回は敗北している。「パイの切れ端を手に入れようと先を争う18歳の選手たちが世界じゅうにいる。そして彼らは優れたプレーヤーだ。しゃかりきにやらなければ、彼らにパイの分け前を奪われかねない。だがピートは1かけらも与えようとはしない」 フィリピーニを負かした翌晩、サンプラスはヨナス・ビヨルクマンを片付ける。それから週末へ向け、シェーン・シャルケン、ダグ・フラック、そしてハングリーで攻撃的なパトリック・ラフターを葬り去る。出場選手は弱く、サンプラスは大会中に2セット失うが、パニックに陥る根拠は何もない。昨年の11月から3月初旬までの間、ドイツ/ハノーバーのATP世界選手権で6位のボリス・ベッカーに勝って優勝したのを皮切りに、サンプラスは波に乗っていた。1月のメルボルンでは5位のトーマス・ムスターにも勝っている。 サンプラスは最近のグランドスラム2大会でタイトルを勝ち取った。1996年USオープンと97年オーストラリアン・オープンである。前者では決勝で3位のマイケル・チャンをストレートセットで降し、彼は生涯グランドスラム・シングルス優勝回数でジョン・マッケンロー、ジミー・コナーズ、イワン・レンドルを抜き、共に11回優勝のレーバーとビヨン・ボルグに2つ、記録保持者のロイ・エマーソンに3つと迫っている。パリのクレーだけが彼を苦しめ続ける。もしサンプラスが6月にフレンチ・オープンで優勝したら、オープン時代最高の選手としての地位を保証されるであろう。 「彼は歴史上の偉大な選手の1人である」と、パリで6回優勝したボルグは言う。「彼にはさらに何回かグランドスラム大会で優勝する非常に高い可能性がある」 ベッカーの称賛は、さらに極めつきだ。「私は様々なサーフェスで彼と対戦してきたが、マッケンロー、レンドルあるいはボルグとの対戦でさえなかった何かを経験してきた」とオーストラリアで語った。「彼はかつて誰もした事のない方法で、異なったサーフェスに対応できる。クレーコート、あるいは遅いハードコートでさえ非常に攻撃的なテニスをする事が可能だ。そして彼のテニスには何の欠点もない。彼は恐らく、今までの誰よりも優れているだろう」 しかしサンプラスと30年以上前の選手たちを比較するのは難しい。ラケット・テクノロジーの相違だけを考えてみても、ほとんど不可能である。さらに、1968年にオープン時代が始まる前はプロ化への抵抗があり、多くの偉人はグランドスラム大会から締め出されてきた。2回の年間グランドスラムを成し遂げた全盛期の間、レーバーは21のスラム大会から除外されたのだ。 だがレーバーは、今日のテニス界はかつてより、たとえ優雅さには欠けるとしても、競争は激しいと考えている。そして彼がいままで見てきたベストとして、仲間のオーストラリア人であるエマーソン、ルー・ホード、ケン・ローズウォール、同じくパンチョ・ゴンザレス、ボルグ、コナーズ、マッケンローの名前を挙げた後、「サンプラスは同じグループにいる。そして彼らはそれほど差がない。大試合での彼の激しさは目を見張るようだ。そして彼のゲームは魔法のようだ」と語る。 世界はそれほど注目している訳ではない。サンプラスは素晴らしいテニス、超高速度砲時代のす速いパワフルなゲームをするが、多くの観客を引きつけはしない。かつては高名な大会であったフィラデルフィアで、彼の名は看板だった。しかし観客数は20,000人で、2年前よりも少なかった。平均観客数は4,500人かそれ以下で、決勝戦でさえ最大収容人数である8,300人には至らなかった。対ビヨルクマン戦の間、あるファンのグループは非常に騒がしく、試合を気にもかけていなかったので、サンプラスは注意を払うよう彼らのセクションへボールを打ち込んだ。「その後は静かになったよ」と彼は後で言った。 |
||
実は、男子テニスはサンプラスと二流選手たちのつまらない世界として、ふさわしく認知されているのだ。29歳のベッカーは次から次へと怪我の治療に追われ、アガシは周期的な挫折にはまり込んでいる。 そしてエフゲニー・カフェルニコフやマーク・フィリポウシスといった若手は、まだ存在感を示せていない。 テニス界の状況について―――そしてサンプラスのイメージについても―――アガシの最近のナイキCMほど印象的なコメントはない。その広告は、サンプラスが嘔吐しながらもアレックス・コレチャに勝利した、劇的なUSオープン準々決勝の後に制作され、オーストラリアン・オープンの最中に放送された。 サンプラスの3分の1のグランドスラム・タイトルを勝ち取り、2年間メジャー優勝のない選手を祝しているのだ。サンプラスは言うまでもなく、スポーツ界でも数少ない歴史的偉人の1人で、全盛期にある。また、同じくナイキのクライアントでもある。しかし彼は奇妙なほど目につかない。 「大衆はテニス選手の目でテニスを追うのではない」とフィッシャーは言う。「彼らは表面的な個性を見る。つきまとうお金を見る。それはピートの落ち度ではない。ほかの皆の過失だ」 |
![]() |
|
それはスタイルの問題である。サンプラスが1990年にフィラデルフィアで、初のプロ大会優勝を遂げた時から、多くの事が変化してきた。当時18歳だった彼は13万7,250ドルの小切手をポケットに入れ、飛行機が墜落して初めての優勝賞金を使えなくなったらどうしようと心配しながら帰路に就いていたのだ。それからサンプラスは2千6百万ドル以上の賞金を獲得し、少なくとも同額の契約収入を得てきた。 だが彼は常に、穏やかなロサンジェルス郊外で成長した子供の、のんびりした気軽な雰囲気を漂わせてきた。そして彼の見かけ上の無頓着さは、ファンと対戦相手にはまったく理解できない特質である。1月のオーストラリアン・オープンの最中、他の選手たちはボール、コート、暑さについて繰り返し不平を言った。サンプラスは1度不快を表明したが、その後は茶化したような薄笑いを浮かべるだけだった。 「彼は何についても不平を言わない」と、プロ仲間のリッチー・レネバーグは語る。「私は選手評議会メンバーだが、大会数が多すぎるという問題についての論議が2年前にあった。私はピートに、もしシーズンオフがもっとあったらどう感じるかと尋ねたが、彼は『僕は今のままでハッピーだよ』と答えた。彼はいつもそんな感じだ。何か尋ねると、彼は『僕は気にしない』と言う」 サンプラスは大いにその台詞を言う。それは彼のお決まりの回答である。退屈だという非難に対しても、すべての対戦相手が彼を倒したいと切望している現実に対しても、彼を困らせるほどのライバルがいないという事実にも。「僕はただ………気にしないよ」と、彼はハトを放すかのように手を挙げて言う。「ちっとも」 それはまた、彼の公的な顔である。フィリピーニを負かした後、サンプラスはのんびりと記者会見へ向かう。彼が身につけているのは濁ったグレーのスエットシャツと、20年前の高校のジムクラスから持ってきたようなパンツだ。とてもリラックスしているので、居眠りでもしているのではないかと思わせる。 彼はそれぞれの質問に短いセンテンスで答える。礼儀正しいが一本調子で。まるでマニュアルを暗唱しているようだ。はい、観客の少なさにガッカリしている。はい、フレンチで優勝したいと思っている。「それは僕のキャリアに唯一欠けているものだ」と言うが、なくした靴下について話すかのようだ。 サンプラスはフィリピーニ戦が奇妙にもいかに重要となったか、かつての助言者の存在に神経をすり減らしたかなどについては語らない。フィッシャーは個人的・職業的な理由で東海岸にいたが、フィラデルフィアに行ってもよいか尋ねると、サンプラスはついに気持ちを和らげた。これはUSオープンではない、対処できると考えたのだ。しかし彼はこの事について、あるいは彼が引いたガイドライン―――フィッシャーはアドバイス、指導あるいは批判をする事はできない―――についてマスコミには話さない。 また、フィッシャーはフレンチに言及する事を許されなかった。フィッシャーが試合後にロッカールームへ来て、2人がかつてなかったような会話を交わした事を、サンプラスは明かさない。「まあ、気持ちは通じたよ」とフィッシャーが漏らした。だがその時、彼らは偉大さやレーバーあるいはパリについてではなく、世間話、普通の会話をしたのだ。 マスコミは何一つ知らない。翌日の夜も同じである。そして翌日も、翌々日も。誰かがサンプラスに質問をし、彼は肩をすくめる。誰かがポスターにサインを求め、彼は座って、繰り返し自分の名前を走り書きする―――単調な光景である。 もし彼を一瞥するだけなら、目を伏せてサインしながらも、サンプラスは部屋じゅう至る所を見、すべての会話を耳にしているという事に気付かないだろう。誰かがサンプラスに質問し、彼が顔を上げて目を見開き、「あなたはその事を気にかけない男に話をしている」と答えると、そのまま信じてしまうだろう。 フィラデルフィア決勝で、スリル満点の3セットでサンプラスがラフターを負かした翌日、44歳のジミー・コナーズはフロリダ州ネイプルズにあるカントリークラブの広間に立っている。彼の両ふくらはぎには白いテープが巻かれ、右の腿には包帯、左手首にも巻かれている。まるで廃人のようだ。35歳以上のプレーヤー達で構成されるNuveenツアーの、シーズン最終選手権大会の初日なのだ。そしてこれはオープニングの記者会見である。ボルグ、アンドレス・ゴメス、ギレルモ・ヴィラス、ヨハン・クリークもいる。 オールドスターのツアーはテニス界の成長産業であり、コナーズがそれを起こした。1991年USオープンで準決勝まで進出した余勢を駆って、コナーズは4年間シニアツアーを担い、大半のイベントで勝ち、観客席を満員にしてきた。開催場所は毎年ふえ、関心は高まってきた。「ジンボのサーカス」を待ちわびる国は多い。「この選手グループは、70年代と80年代初期にも同じ事をした」と、コナーズはNuveenツアー記者会見の後に言う。「我々が今の若い奴らのためにテニスをビッグビジネスにした。そして我々は再びそれをしている」 今の若い奴ら。彼らはコナーズにとって格好の標的である。彼らの高速ゲーム、あっさりした性格、彼らが………そう、自分のようではないという事実が気に入らないのだ。すべては1991年に始まった。コナーズはフラッシングメドウでテニス史上ベストかつ最もセンチメンタルとも言えるショーを披露した。つまり熱狂的にコートをへ巡り、腕を振り上げ、尻をくねくねさせ、胸をはだけ、彼が言うには心意気を観客に示したのだ。 サンプラス、チャン、クーリエのような若いアメリカ選手たちとは、仰天するほど正反対の姿を披露した。彼らは、自分の仕事は徹頭徹尾「一生懸命プレーする」事だと考えていたのだが。うなぎ上りの視聴率を味方につけ、コナーズは若い選手たちを無慈悲なまでにこきおろした。中でもサンプラスはコテンパンにやられた。彼は準々決勝で敗れた後、90年のタイトルを防衛するプレッシャーは「重荷だった」と言ったからだ。 コナーズは襲いかかった。「何だって? 俺にそんな事を言うな。それは最高にくだらない戯言だ。俺はUSオープン・チャンピオンになるために生きてるんだ。もし奴らが負けてホッとするなら、テニス界の何かが間違っている………奴らが間違っている」 コナーズは売り込みのために、いまだに同じ大言壮語を用いる。すなわち、彼のツアーは個性、楽しさ、ファンとのふれ合いが売り物だと。新しい選手たち? 「彼らにとってはテニスをする事がより重要なのだ」と、コナーズはネイプルズで言う。「それは大きなビジネスだ。私はテニスプレーヤーであり、他の何者でもない。だが当時はプレーするだけではなく、どんな方法であれテニス界のために興奮を作り出す事が重要だった」 コナーズは固有の名前を挙げなかったが、1人の若い男はそれを個人攻撃だと捉える。「コナーズが言った事を知ってるかい?」翌朝、タンパのサドルブルック・リゾートで練習していたサンプラスに誰かが尋ねる。彼は知っていた、正確に。アーサー・アッシュはかつて、コナーズは「皆のお気に入りのa×××(asshole:くそったれ)だった」と語った。そしてサンプラスは今、同じ意見を言ってのける―――「お気に入り」の単語はなしで。 彼は当惑している。サンプラスはずっと、感情をコントロールしろ、決してラケットを投げるな、レーバーのようにプレーしろと教えられてきた。そして彼は教えを守り、テレビでマッケンローが口角泡を飛ばして長広舌をふるうのを見るたびに、気恥ずかしさを感じた。成長するにつれ、みんないかにテニスの悪ガキ共にウンザリさせられたかを聞いた。彼はその正反対、個性を消すように育てられた。彼の個性は反神秘主義である。 「半分は、彼は死んでいるように、努力していないように見える。それは理解するのがとても難しい、彼の雰囲気に関する1つの事柄だ」とポール・アナコーン、サンプラスのコーチは語る。「彼が道を歩いているのを見てごらん。こんな感じだ」アナコーンは背中を丸め、うなだれる。「彼は決してスーパーマンのようには見えない」 サンプラスがUSオープンで初優勝し、39歳のコナーズがフラッシングメドウをロケットのように突進する前までは、それで良かった。しかしサンプラスが1993年にウィンブルドンで優勝し、イギリスのタブロイド紙が「Samprazzz………」といびきで退屈さを表すと、彼は誰かが自分に関するルールを変えたのだろうかと感じ始めた。 現在でさえ、自分の最大の敵はネットの向こう側にいるのではないと感じずにはいられない。それはジンボであり、70年代・80年代の派手で躁病的なうぬぼれ屋たち―――マッケンロー、イリー・ナスターゼ、故ヴィタス・ゲルライティス―――で、彼らは今でもアメリカのファンの心を掴んでいる。 「僕が僕である事を謝らなければならないとは思わない」とサンプラスは言う。「記者会見に行くと、みんな『ピート、スポーツの人気は落ちている、ラケットやボールの売り上げは落ちている。君は何をすべきだと思うか?』と言う。僕が何をするっていうんだい? 僕は8歳の時からずっと、プレーして勝ちたいと思ってきただけなんだ。ならず者になって、もっと名前を売る事もできただろうが、僕はそういう人間じゃない」 |
||
「最初、僕は困惑させられた。自分の何が間違っているのか分からなかった。でも僕は誰かのために自分を変えようとは思わないよ。僕がしている事は悪くないと思っている。気にしないよ」 彼は気に懸けている。とても気に懸けているので、時には何も―――父のサムと母のジョージアから受けた穏やかでバランスのとれた躾も、9年間フィッシャーから教え込まれた振る舞い方に関する厳格なレッスンも、彼の無頓着そうな見かけも―――その気遣いを内に秘め続けさせる事ができないのだ。 無頓着に見せようと努めているわりには、サンプラスは最も感動的な瞬間をテニス界に提供してきた。1995年オーストラリアン・オープンでは、死に至るコーチ、ティム・ガリクソンを想ってコート上で泣き、勝ちにいった。 ロシアでの95年デビスカップ決勝では、ケイレンで倒れたが、合衆国優勝へのすべての勝ち点を上げるために戻ってきた。昨年9月、コレチャ戦の第5セット・タイブレークでは、脱水状態で嘔吐しながらも、死にものぐるいのボレーでマッチポイントを逃れ、7-7でセカンドサーブのエースを放ち、勝利まで持ちこたえた。 |
![]() |
|
実のところ、彼はあまりに張りつめているので、時に身体がそれに耐えられなくなるのだ。むしろ、サンプラスは気に懸けすぎていると言える。 これは何も新しい事ではない。13歳の時、彼はミシガン州カラマズーで T.J. ミドルトンと対戦し、第3セット16-18で敗れたが、これはジュニアテニスの歴史における最長試合とされている。ミドルトンは次の試合で負け、サンプラスと共に敗者復活戦に回されたが、「動く事ができなかったので、ミドルトンは棄権した」とフィッシャーは語る。 「ピートはプレーして勝った。だが右手首に痛みを覚えていた。レントゲン写真を撮ったら、彼は手首を骨折していたのだ。ピートはタフであり得るかって? もちろんピートはタフになれる」 だがサンプラスがこの事を理解している訳ではない。なぜ自分の内なる魂が、しばしば何百万もの人の前であふれ出してしまうのか、彼は答えを見つけようとしてきた。「どうしてだか分からないよ!」とサンプラスは叫ぶ。 「僕は物事を内に秘める人間で………コート上でも本当にそうしたいんだが、オープンになってしまう。すべての事が僕の中に積み重なり、感情に圧倒されるのかどうか分からないが、僕の望む以上の事が現れてしまう。モスクワで引きずられて退場した時、僕は恥ずかしかった。オーストラリアでもきまり悪かった。僕は常に、人が通り抜けられないようなシールドを自分の前に張ってきた。自分はかなり強い人間だと思っていた。そして、USオープンでもきまり悪かった。僕があれを意図的にやったと思われたからだ」 その通り。テニス界には、サンプラスはコレチャ戦で具合が悪いふりをしたのだと考える者たちがいる。サンプラスが後に語った「あれは今までテニスコートで経験した最悪の気分だった」ような人間は、超音速サーブを打ったりできる筈はないと考えるのだ。 1996年フレンチ・オープンで、クーリエはサンプラスの「うなだれた犬のプレー」と彼が呼ぶものに騙されたような気がした。準々決勝で2セットダウンとなった後、見たところ疲れ切った様子のサンプラスは、カムバックして5セットでクーリエを破ったのだ。コレチャとの試合については、「非常にガッツあふれる奮闘だった」とクーリエは言う。「インチキで吐く事はできない。だがもし吐いているのなら、どうやって時速120マイルのサーブを打てるんだ? 少し矛盾している。どう考えるべきか分からないね」 マッケンローは断定する。「あれはなかなかの芝居だった」と。「非常に上手い。あんな状態だったら、時速120マイルのサーブは打たない。誰もしない。彼は私の知らない何かを知っているに違いないね」 ただ試合中に炭酸飲料を飲み、そのツケがきたのだとサンプラスは主張する。クーリエについて、サンプラスは言う。「僕がいつも彼を負かす事に、彼はウンザリしているんだろう。僕はかけ引きなんかしない。疲れていて、それから突然に爆発的なエネルギーを得たふりなんかしない。ジムが言った事は知っているよ。負け惜しみだ」 |
||
彼の口調は鋭い。サンプラスがこれを気に懸けるのは、話題が彼のテニスであり、言外には敬意の問題が含まれているからである。そしてそれらは唯一、気に懸ける価値を持った問題だからだ。 もしサンプラスが本当に、彼がそう見せかけているような無頓着な運動選手だったら、彼はただ驚くべき瞬間を生み出しうる、才能あるアンダーアチーバーにすぎないだろう。ゴラン・イワニセビッチのようであるだろう。 だが実際には、意欲と無頓着が混じり合っているのだ。そしてこの結合こそが、キャリアが終わるまでに、彼を史上最高とするのかも知れない。 なぜか? なぜなら彼は、多くのテニススターを苦しめる事柄を気に懸けないからだ―――ごますり、ディスコ、名声、政治、現金などを。テニスに執着する親とマネージメントの間に通常は発生する緊張関係に、彼は巻き込まれなかった。 17歳でプロに転向するとすぐ、彼は父親に、父がマネージメントやスケジュール調整、助言をする日々は終わったと告げたからだ。「ピートは父親を解雇したのだ」とフィッシャーは言う。厳密に言えば真実である。 サムは当時NASAの機械エンジニアだったが、長期にわたって息子を導くだけの専門的知識も、願望も持っていなかった。だが父親に身を引くよう言えるとは、非常に冷静な少年である。 |
![]() |
|
「船頭が多すぎたんだ」とサンプラスは言う。「僕は父に、エージェントではなく、僕の父親である方がいいと話したんだ。父が契約や取引に関わらない方が、僕たちはうまくいく」 サンプラスは観光をしない。世界じゅうを8年間も回ってきたが、彼は国際人ではない。心底から、自分はまだ取るに足らない存在だと考えている。彼が言うところの「僕を分かっていない」人には気を許さない。 クーリエ―――フロリダの小さな町出身―――がロッカールームでスペイン語やフランス語を話すのを見て、欺瞞的だと感ずる。サンプラスは単純明快だ。シリアルを食べ、3時間の練習をし、ゴルフのラウンド、そして眠る。 「彼はたいていの選手たちが楽しむ事を楽しまない」とアナコーンは言う。「彼はちやほやされるのを好まない。僕と君という関係を望む。ハンバーガーを食べに行き、テレビで Sixers を見るのを望む。人々がイエスばかり言うのを望まない。本質を重んじ、いかに上手く話せるか、あるいはいかに華やかかといった事は重視しない。彼にとって重要なのは、テニスラケットを持って競争の場に臨む時、何ができるかという事だ。それが、彼が望むものだ」 7歳のピートが父親に連れられて、カリフォルニア州パロス・ヴェルデスの自宅近くにあるラケットクラブでフィッシャーと出会った時から、それが彼の望んできたものだった。小児科医だったフィッシャーは、およそ30秒間見ただけで、ピートは他の子供たちとは違うと分かった。「彼の歩き方は違っていた、動き方は違っていた」とフィッシャーは言う。「すべてがより滑らかで、優美で、調和していた。彼は信じがたいほど正確だった。彼の良いショットはラインの18インチ内側で、ミスヒットでもラインをかすめていたものだった」 それでも、フィッシャーがいなかったら「自分が何をしていたか、何になっていたか分からない」とサンプラスは言う。フィッシャーは彼を南カリフォルニアのテニス指導者たちに預けた――― フォアハンドはロバート・ランズドープへ、フットワークはデル・リトルへ、そしてボレーはラリー・イーズレイへ。 他の子供たちはこぞって最新テクノロジーのラケットを買い求めていたが、フィッシャーは完璧なストロークを身に付けるのに役立つからとして、ピートが13歳になるまで扱いの難しいウッドラケットを使わせ続けた。今でも、鉛で重量を付加した彼のグラファイトは、ハイパワーでワイドボディのものよりも、むしろレーバーのラケットに近い。80ポンドで張られたラケットのスイートスポットは、10セント硬貨ほどの大きさしかない。 そしてサンプラスのサーブは、ウッドラケットでも時速120マイルを出すが、パワーだけでなくコントロールにも定評がある。フィッシャーは他の事はすべて他人に任せたかも知れないが、サーブの指導については全面的な責任を負った。 スイングスピードについては心配なかったので、読まれないフォームを身につけさせる事に重点をおいた。ピートがトスを上げてから、どこへサーブを打つかフィッシャーは叫んだものだった。それゆえサンプラスは同じトス、同じフォームからサーブを打ち分けられるのだ。そしてそのサーブは彼のゲーム全体の拠りどころである。「私が今まで見てきた中で、恐らくベストのサーブだろう」とマッケンローは言う。 練習の後ピートは、レーバーとローズウォールが表情も変えずに完成されたテニスをしている、不鮮明な8ミリフィルムを見せられたものだった。そのオーストラリア人たちはマッケンロー、コナーズあるいはベッカーのように振る舞ったりしなかった。彼らのゲームにエゴや自己顕示欲はなかった。ピートはテニスそのものだけが重要なのだと教えられた。さらに、グランドスラムで優勝する事が最重要だと。 これは、もちろん、我々の時代では誤った考えである。1970年代のテニスブームには、素晴らしいプレーよりも誇張された個性が必要で、それ無しでは、テニスは時流に乗れなかったであろう事を、コナーズは誰よりもよく知っている。長い間サンプラスはそれが分からなかったが、今は理解している。そして彼は場違いな、間違った時代に生きているように感じる。ボルグは控えめだったが、テニス界を担う事や、なぜ甘やかされたきかん坊でないのか説明するよう求められはしなかった。 「もっと多くの個性が存在したコナーズ - マッケンロー - ボルグ時代にプレーしていたかったよ」とサンプラスは言う。「彼らにはライバル関係があった。僕もその一部だったら良かったのにと思う時がある。もしくはレーバー - ローズウォール時代にいたら良かったと思う時もある。当時はイメージや世の中、メディアは異なっていたからね。彼らはテニスそのものを気に懸けていた」 |
||
サンプラスは金持ちである。彼は素晴らしい生活を送っており、その事を承知している。だが彼はまた、彼の核となる信念は、現代のイメージとスピンに異議を申し立てられてきた事をしぶしぶでも認めるだろう。 彼は過去を良しと思う。しかし彼は1990年代に現れた。そして彼が分かっているのは、自分がテニス史で最も完成された武器庫を所有していると知っていても、それだけでは不充分だという事である。 コナーズや他の者たちから狙い撃ちされ、テニス界以外では自分の業績などさして重要ではないという、小さいが固い不安の塊を感じてきた。 昨年7月の有名人ゴルフ大会で、マイケル・ジョーダン、ダン・マリノ、ジョン・エルウェイ、マリオ・ルミュー等が「ハロー」と声をかけてくるたびに、彼はショックを受けた。「誰も僕の事を知らないだろうと思っていた」とサンプラスは言う。「ところが彼らは………僕を知ってたんだ」 昨秋、サンプラスが契約しているスニーカー会社のナイキが、アガシのコマーシャル撮影を始め、サンプラスに特別出演を申し入れてきた時、その塊は彼の奥深くに打ち込まれた。 |
![]() |
|
サンプラスは信じられなかった。彼はアガシのゲームが低下するにつれて、マスコミへの露出は急上昇するのを見てきた。一方、サンプラスは時代を代表する選手になっていた。特別出演? 彼はそれを侮辱と受け止め、ナイキの申し入れを断った。まるで彼のテニスは重要でないかのようだった。サンプラスは、コマーシャル中のアガシの決め台詞「ナイスゲーム。お前は最低だ」が、すなわち自分に対するナイキの態度だと解釈した。 「それは敬意の問題だ」とサンプラスは言う。「僕について何をすべきか、ナイキはよく分かっていないという事を物語っていた。ガッカリしたよ」 最近ナイキは埋め合わせをした。今月、「テニスへの情熱」というコンセプトのナイキ・キャンペーンのために、サンプラスは撮影に入った。しかしながら、既にそれ以前に、彼はすべてを大局的に捉えていた。軽視されたように感じると、ティム・ガリクソンが昨年の5月に脳腫瘍で亡くなった事を考える。ガリクソンの死は彼の胸を打った。 「誰かが自分の前で亡くなるのを見て、そして………彼がいないのを寂しく思う。ナイキのコマーシャルは、人生で最も重要な事ではないよね」とサンプラスは言う。あるいは彼は居間に座り、棚に並ぶトロフィーを見る。「すべては過ぎ去っていく」と言って、4つのUSオープン、3つのウィンブルドンと2つのオーストラリアンのカップに手を向ける。「そして残っていくのはあれさ」 それでも充分ではない時、彼は車を駆る。これはサンプラスの贅沢品で、1996年型の銀色のポルシェ4S Carrera、8万ドル、神が唸りをたてるようなサウンドのマシンである。サンプラスの家は大邸宅ではなく、食べるのはごく普通のサンドウィッチだ。だがエンジンの後ろでは、他所では抑えている大胆な衝動を思いのままに楽しむ。彼のエゴは発散される。サンプラスはコナーズがプレーするようなやり方で運転する。レイバンのサングラスをかけ、ひたすらかっ飛ばす。渋滞していれば芝生のレーンに乗り上げ、反対車線に飛び出してスクールバスの運転手を縮み上がらせる。右に左に車をかわし、走り去る。 サンプラスはタンパを抜ける581号線へと向かう。かつてポルシェで時速135マイルを叩き出した道路だ。だが今日は違う。今日、彼はトラックの後ろに迫り、左のタイヤをダウン・ザ・Tへのエースのように黄色いセンターラインにかけ………待つ………いまがチャンスだ、飛び出してトラックを回り込み、慎重運転の Previa とデコボコの Nissan を抜き去る。制限速度55マイル地帯で90まで上げる。近いうちに、彼はさらに速く、さらにパワフルな車、ターボを買う予定だ。だが今のところは、これで快適だろう。 こちらは面白くない。フロリダの午後2時45分、日陰でも華氏87度である。だがサンプラスは日陰にいない。強烈な日射しの下で、彼はフィールドを前後に走り回る。舌を出し、汗が背中をつたう。息づかいはホーム・ストレッチ上の馬のようだ。「45秒」サドルブルックのトレーニング・コーチ、マイク・ニシハラが言う。「あと8回」サンプラスの様子はコレチャ戦の最後のようだ。「8回?」と彼は言う。 サンプラスの体調はいままでで最高だ。昨年10月から、彼はサドルブルックのプロ、ジミー・ブラウンと90〜150分打ち合った後、60〜90分、ニシハラと共にトレーニングをしてきた。サンプラスにはこれが必要だ。彼が言うには、昨年は何度も体力の限界を感じたが、そんな事が再び起こらないようにすると決心したのだ。 パリでの長いベースライン・ラリーのために、彼は充分に体調を整えておく必要がある。そして準決勝に進出した昨年のできばえは、ローラン・ギャロスで勝てる事を物語っていた。「史上最高と見なされるためには、フレンチを勝ち取らねばならない」と彼は言う。 「もししないなら? それは僕に対するストライキだ。だが現実的に、僕はあそこで勝てると思っている」 もしそうでない場合でも、それは自分が体力を使い果たすからではなく、ただ相手に負けたからでなければならないとサンプラスは言う。コレチャ戦での体調不良により、サンプラスは貧血症を抱えており、この疾病が長い試合では衰弱を引き起こしてきたのだという憶測が飛び交った。彼はメイヨ・クリニックで全般的な健康チェックを行ったという噂が出た。していないとサンプラスは言う。する理由がなかったと。 彼と家族は、地中海性貧血症という遺伝形質を抱えている。血液中に酸素を運ぶ能力が制限される症状で、地中海地域の人々にはよく見られる。しかしテニスコートでその影響が出た事はないと彼は言う。その症状への唯一の対策は、週に1〜3回よけいにステーキを食べる事くらいである。 「USオープンで起きた事とは何の関係もなかった」とサンプラスは言う。大会の後で検診を受けなかった事について彼は語る。「僕は自分が何をしなければならないか分かっていた。体調を整えるって事さ。何が起こったのか分かっている。僕はこの数年、ウェイトトレーニングも自転車漕ぎもしていなかった。悪い体調でもなかったが、トップの体調でもなかった。それでも切り抜けてこられた」 キャリアの早い段階では、ただ切り抜けるだけでサンプラスには充分だった。1992年の始め、彼は世界6位で、それに満足していた。それからステファン・エドバーグにUSオープン決勝で敗れ、それがどんなにひどい気分かを知って愕然とした。その後何カ月間も夢にまでリプレーが浮かび、毛布をはね飛ばしていたものだった。現在でさえ、自分が10個のメジャータイトルを取っていない事に気がとがめるのだ。 それ以来、ガリクソン、そして今はアナコーンのコーチングの下、サンプラスは自分のゲームのあらゆる穴を塞ぐために努力してきた―――むらのあるグラウンドストローク、予測されやすいバックハンド、気の抜けたボレー、そして今はコンディション調整。プッシュ―――特に2年前アガシに―――される事で、サンプラスはポイントの組み立て方がよりスマートになり、サーブへの依存度は低くなった。信頼のおけるバックハンド・スライスを付け加え、サービスリターンを磨いてきた。彼には何の弱点もない。 「年ごとに弱点をなくしていく、それはチャンピオンの証だ」とマッケンローは言う。「彼には(過去)2人の男ほどの才能はないかも知れない―――たった2人だけという意味だが―――そして他の選手たちほど頑健ではないかも知れない。だが彼には両方が備わっている。そういう選手は非常に少ない。彼はほとんどのショットが打て、一生懸命やってきた。彼は何でもできる」 最大の試合で負ける事以外は。グランドスラム決勝で9勝2敗というサンプラスの記録は、歴史上のあらゆる偉大な選手の中でもベストである。最も重要な試合では、誰も―――ビル・チルデン、ドン・バッジ、ジョン・ニューカム、エマーソン、レーバー、ボルグも、コナーズあるいはマッケンローでさえ、サンプラスより良い勝率の者はいない。 面白い事に、なぜコナーズが最もゴンザレスを崇拝しているか、Nuveen ツアーの記者会見で語る時には、エンターテインメントの話もショーマンシップの話も出ない。「彼は悪い野郎だった」とコナーズは言う。「彼は何でもした。試合に勝つためなら、6時間でもコートに立っていた」と。コナーズは今日、サンプラスを的確に描写する事ができたはずだ。 「僕が勝つべきだった」3月にリプトン選手権の準決勝で セルジ・ブルゲラに番狂わせで負けた後、サンプラスは言った。「すべき方法でプレーせずに負けるのは………ただ負けるのよりも悪い。死のようだ」 彼はあの「重荷だった」日々から、長い道のりを歩んできたのだ。コナーズでさえそれを認める。「私が気に入っているのは、彼は毎日毎日毎日プレーに備えてきたという事だ」とコナーズは言う。 「彼がより厳しい競争に恵まれるところを見たい。彼はボルグ、コナーズ、マッケンロー、レンドルのような、最も偉大な選手たちの3人、おそらく4人が同時期にプレーするといった機会に恵まれていない。だが私が彼について気に入っているのは、対戦相手が誰であろうと気にしないという事だ。彼はそれでも試合に臨み、任務を遂行する」 コナーズからの賛辞を聞いて驚きつつも、サンプラスは同意する。彼は2年前のアガシがいないのを寂しく思う。1995年USオープン決勝では、アガシは生涯でもベストの試合の1つを与えてくれたと感じている。そういう試合をもっと欲しているのだ。 しかし、もし誰も彼をプッシュしようとしないのなら、自分で自分をプッシュし続けるつもりだ。サンプラスは25歳で、現代では選手の大半が衰え始める年齢である。それでもなお彼は意欲的で、そしてフレッシュだ。「僕は今、自分の全盛期にいる」と彼は言う。「物語は終わっていない」 「ピート(フィッシャー)について考えると、僕が10歳の時から彼が言っていた事はすべて正しかった。すべて。おそらく僕たちは幸運だったのだろう。だが今は以前よりもさらに、メジャーで勝ちたいと感じている。グランドスラム大会で優勝すると………歴史を作っているような気分になる。それがどんな事なのか、ピートには見当もつかなかった。だが僕は分かる。そして彼は正しかった。お金の問題じゃない。歴史を作るという事だ。そういう話はすべて右から左へと聞き流していた。だが今なら、彼はまさに言い得ていたのだと分かる」 「彼はフレンチについて話し続ける。おまえに必要なのはフレンチだと。そして僕は言う。『それじゃ、他はどうなの?』と。もう1つのウィンブルドン、もう1つのUSオープン、みんな重要なんだよ」 |
||
スポーツ・イラストレイテッド記事一覧へ戻る Homeへ戻る |
||