スポーツ・イラストレイテッド
1997年2月3日号
主役
文:Alexander Wolff


97年最初のスラムでは、マルチナ・ヒンギスはとてもホットで、
そしてピート・サンプラスはクールであった

オーストラリア人は彼らの島国をオズと呼ぶ。そして我々はみんな、10代の少女が竜巻に乗ってオズに到着するのを知っている(「オズの魔法使い」から)。オーストラリアン・オープン・チャンピオン、マルチナ・ヒンギスの場合は、彼女を運ぶ竜巻は着陸してからも、さらに旋回を続けた。

2週間、ヒンギスはメルボルン周辺をはね回っていた。そして何ものも彼女を押しとどめられなかった。酷暑も、森林火災も、あるいは女子のトップ7シードのうち6人までを倒した、第1週の流行病のような逆転劇も。

スイスから来た16歳の第4シードは、ヤラ川の土手や国立テニスセンター後ろの駐車場を、インライン・スケートで走り回りった。街のブティックで、彼女の新しい富のいくらかを散財した。乗馬をして、(もちろん)マジック・ガールと名づけた牝馬から落ちたが、無事だった。

先週の木曜日午後6時45分、ヒンギスはナターシャ・ズベレワと一緒にまだコートにいて、準決勝で世界1位のダブルスチーム、ジジ・フェルナンデス/アランチャ・サンチェス・ヴィカリオ組をやっつけた。

その後の70分でヒンギスはシャワーを浴び、マッサージを受けて、ホテルで一口つまんだ。彼女と母親・コーチであり同室者のメラニー・モリターは、8時からの「サンセット・ブールバード」を観るためにリージェント・シアターに急行した。追跡しているカメラマンはつまずいて転び、メルボルンのじゃりを口いっぱいにほうばる事になった。

もしこのすべてが、テニスはヒンギスにとって付随的なもののように見せるのなら、その通りだった。彼女は最初のグランドスラム・シングルス・タイトルを、手軽に勝ち取った。2週間を通して1セットも落とさなかった。先週の土曜日にメアリー・ピエルスを6-2、6-2で下すのに、59分しか必要としなかった。そして1887年に15歳のシャーロット(ロッティ)ドッドがウインブルドンで優勝して以来、メジャー大会の女子最年少優勝者となった。

ロッティ・ドッド、気取りやさん。「私にとっては、単にもう1つの記録だって事だわ」この功績は彼女にとって何かを意味しているかと尋ねられ、ヒンギスは言った。「つまり、私はすでにたくさんの記録を保持しているもの」

新年のすぐ後、ヒンギスと母親がシドニー・インターナショナル大会に出場するためオーストラリアに到着した時、 モリターはヒンギスがグランドスラム大会で優勝できるとは信じていなかった。彼女たちはチェコのロズノフで、モリターの母親と一緒にクリスマスを過ごした。そこでは気温は1桁台で、ヒンギスはトレーニングするチャンスがほとんどなかった。「私は用意ができているわ」シドニーで優勝した後、ヒンギスは強く主張した。

「では私に見せてごらんなさい」伝えられるところによれば、モリターはそう言ったようだ。

そのようなドライな意見交換は、この母娘の間ではありふれた事である。昨年3月、フロリダ/キービスケーンのリプトン・チャンピオンシップでは、100番台の選手、日本の宮城ナナに2回戦で負けた後、モリターはヒンギスに、努力が足りないと言い聞かせた。練習は退屈だとヒンギスは返答した。

母親は彼女に命じた。「テニスか学校か、いま、選びなさい」

モリターと評判の「極悪テニス・ペアレント」の相違は、彼女が娘に選択権を与えるという事である。ヒンギスと母親は、他の2人の選手、ピエルスとジェニファー・カプリアティが抱えてきた問題である親の過干渉を、断固として避けている。ピエルスはコーチでもある父親の虐待により、またカプリアティはモチベーションの欠如とドラッグ所持による逮捕で、各々キャリアをさまよってきた。

「私たちは同じミスをしないわ」とヒンギスは言う。「どんな家族にも時には問題がある。特に彼女は私のコーチであり母親でもあるから、彼女が私にするよう望む事に逆らう時もあるわ。でもいまのところ、私たちは素晴らしい関係よ」

モリターが娘の子供時代を奪ってきたのではという示唆には、彼女たちは共に敏感である。「旅をする事は、教室で1日8時間座っているよりもずっと良い教育よ」とヒンギスは言う。「私はあらゆる文化、様々な国民性や考え方を学んでいる。初めてここに来た時、私はキャンベラが首都だと知らなかったわ」

彼女以前の天才児たちと異なり、ヒンギスは肌を焦がすようなフロリダのテニス強制収容所に投獄された事はなかった。ドイツ語圏東スイス、Trubbach の自宅には、オーストラリアン・オープンと同じリバウンドエースのコートがある。しかし彼女は1日に2時間以上は練習しないし、ウェイト・トレーニングもしていないと言う。

彼女はむしろマウンテン・バイクに乗ったり、サッカー、スキー、エアロビクス、インライン・スケート、乗馬(モンタナ、ソレンタという2頭の馬を飼っている)をしたり、ドイツ・シェパードのゾロと一緒に森を散歩したりしている。唯一のお仕置きめいたヒントは、モリターが母国語のチェコ語でヒンギスをコーチするという事である。「ドイツ語では素速くバチ当たりな言葉を言えないからよ」とモリターは言う。

もし他の天才と比べるとしたら、モリターはトレーシー・オースチンとアンドレア ・イェーガー―――怪我のため短いキャリアだったとはいえ、成功した以前の10代スター―――を引き合いに出すのを好む。「いまオースチンとイェーガーは幸せでいる。誰かがそれを指摘しなければ」とモリターは言う。「テニスは人生の中では短い期間にすぎない。そして残りの人生のための良い準備であり得る。私はマルチナがいつかパートナーを見いだすまで、独立した自己分析のできる人間になるのを手助けしたいと思っている。ダブルス・パートナーの意味ではないわよ」

ヒンギスが14歳でプロデビューした時、彼女はクリス・エバート的なベースライン・プレーヤーだった。いま、サーブの鋭さが増し、いつネットに出るべきかを知る才覚を身につけ、彼女は名前の由来である女性、マルチナ・ナヴラチロワのオールコート技能を見せ始めている。

ヒンギスの微笑はパッケージの一部であり、それは容易に抑制されない。ピエルスに対し、彼女はトップスピン・フォアハンドで短いボールを片づけ、にっこり笑った。マッチポイントの後、彼女は母親を抱き締めたが、その時もニコニコしていた。「もし本当にいいプレーができたら、私たちだって微笑むでしょう」と、その後モリターは言った。

他のどのプレーヤーもしないような時でさえ、ヒンギスは微笑する―――ネットに触れてウィナーになった後に。普通はそのショットを打ったプレーヤーが、テニスで最も不誠実なジェスチャーとはいえ、儀礼的な謝罪で手を挙げるものなのだが。ヒンギスは第1セットでこのネットコードの恩恵を受け、ピエルスに3-0とリードした。そして義務的に手を挙げはしたが、にっこり笑った。

それは、彼女にはまだ不誠実というものがないからである。そして時にちょっとした事が、彼女を楽しくさせるのだろう。このタイトルにより、彼女は世界2位まで飛躍した。そして―――現在のナンバー1、シュテフィ・グラフは気にかけないだろうが―――自分が今年じゅうに1位になるのを阻止するのは、怪我だけだとヒンギスは語る。

「次回はミックス・ダブルスにも出なくっちゃ」彼女は勝利のスピーチで、ズベレワと共に獲得した女子ダブルスのタイトルに言及した後で言った。「でも他の人にも大会優勝のチャンスをあげるべきね」

彼女はより賢くなり、分別を身につけるだろう。いまのところは、2つか3つのセンテンスを言うたびに、くすくす笑いが入る。彼女は対戦相手の1人、アマンダ・クッツァーをスピーディ・ゴンザレスにたとえた。そしてツアーのたいていの選手がピッタリしたエアロビクスのウェアを好むのに対し、ヒンギスの好みはクラシックなひだスカートである。
訳注:スピーディ・ゴンザレス。アニメ「ルーニー・テューンズ」に登場するネズミのキャラクター。

「見たでしょ」ヒンギスは決勝戦のすぐ後、ロッカールームで母親に言った。「ええ」とモリターは答えた。「私に不服はないわ」

ヒンギスは思春期もうまく通過するようだが、決勝の前日、ロンドンの「インディペンデント」紙は彼女の父親、カロル・ヒンギスの気がかりなインタビューを発表した。彼は失業中のテニスコーチで、マルチナが生まれたスロバキアの Kosice 市で、クラブ管理人として月166ドルの収入を得ていると述べた。

マルチナが6歳の時にモリターと別れ―――母娘は1年後にスイスへ移住した―――娘には時おり会うだけで、彼女の富にあやかってはいないと語った。「いつかマルチナをコーチできる事が、私の夢だ」とカロルは「インディペンデント」紙に話した。「私はメラニーがそれを望んでいないと知っている。彼女は私がマルチナに悪い影響を与えると思っているのだ」

女子テニスが何らかのメロドラマ無しでは、10代チャンピオンを生み出す事は不可能らしいのに対して、日曜の男子決勝でスペインのカルロス・モヤを6-2、6-3、6-3で下したピート・サンプラスは、19歳で1990年USオープンに優勝して以来、静かに9個のメジャータイトルを積み上げてきた。

サンプラスにとりメルボルンでの最も厳しい試合は、ドミニク・ハバティとの対戦であった。ハバティはスロバキア出身の19歳で、25歳のナンバー1を2度までも偏屈な爺さんのように見せた。

1度目は、 ハバティは3年前、サンプラスにサインを求めた事があると明かした。次に、彼は4回戦の試合で、サンプラスを消耗する第5セットまで押しやった。「僕はアメリカに帰って、スーパーボールを見ている事にもなり得たよ」とサンプラスは言ったものだった。

そうならなかったのは、サンプラスのプロ意識の賜物である。他の多くのプロとは異なり、彼は酷暑について果てしなく文句を言ったり、ボールが柔らかいようだという見解に拘泥したりしなかった。柔らかいボールは、彼の強力なゲームにとってハンデであろうとも。

オーストラリアのマーク・ウッドフォードが、地元観衆にふざけるようにお辞儀をした時も、サンプラスはアンチ・ヒンギス的で、微笑する事さえ自分に許さなかった。大会の最も暑い日にハバティと対戦し、エースとウィナーを狙う事でエネルギーを節約して、ラリーを短くした。「ピートには多くのギアがある」彼のコーチ、ポール・アナコーンは言う。「そしてどれを使うべきか知る、生来の能力を持っているのだ」

トーマス・ムスターをストレートで下した準決勝では、サンプラスは大会随一のショットを披露した。コートの外から足首の高さのバックハンド・ウィナーを放ったのだ。ボールはボール・ボーイをかすめるように、ポール脇を回ってコートに入った。そして通常はシュワルツェネッガー・タイプの尊大さで知られる対戦相手から、「参りました」という敬礼をもたらした。

サンプラスだけが、ムスターミネーターを「ウェインズ・ワールド」から現れたかのように見せられたのだろう。そしてグランドスラム大会期間中は、ケーブルテレビの映画とルームサービスで節制しているサンプラスだけが、「あれは『プレー・オブ・ザ・デイ』になるかい?」と、いたずらっぽく尋ねる事ができたのだ。
訳注:「ウェインズ・ワールド」1992年制作。「オースティン・パワーズ」のマイク・マイヤーズが出演するナンセンス・コメディ映画。

メルボルンの優勝で、彼の獲得賞金総額は2,600万ドル以上になった。ヒンギスは約210万ドルである。しかし彼女は、男女どの選手よりも早く100万ドルに達した。銀行預金口座がどのように機能するのか、スイス市民が不思議がるのを聞くのは奇妙である。しかし1月14日、セルジオ・タッキーニとの間で、およそ1,000万ドルという魅力的な契約にサインしたと発表した後、ヒンギスは流動資産の概念について熱心に語った。「このお金を使えるのよ!」と言い、すでに母親に指輪を買ったと明かした。ヒンギスはお金を使うのが大好きだ。「大都市の上(on)でね」と彼女は付け足した。

おそらく「大都市の中(in)」を意味したのだろう。たとえメルボルンで(on)頭金を払うつもりだとしても。しかしまだ若い時期に、彼女は重要な前置詞はうまくこなした。ダウンとアンダー(オーストラリア・ニュージーランド地域を欧米人はDown Underと表現する)、そしてアップとアトップ(up and atop、上昇して頂上に)




ヒンギスの母親がオースチンとイェーガーに言及していたのは、今となっては妙な符合のようになってしまいました。楽しくてちょっと小生意気だった魅力的なマジック・ガールも、大人のチャンピオンにはなれず、怪我で早期引退だなんて……。

ムスターとの準決勝は本当に見応えのある、楽しい試合でした。記述されている「ミラクル・ショット」の他にも、素晴らしいバックのクロス・ウィナーとか、何度見ても思わず「ウワッ!」と声が出てしまいます。ムスターミネーターは、尊大というよりも男気のある誇り高い大人というイメージで、あのキャラはけっこう好きでした。

彼は96年初めに1位の座に就き、報道ではクレーの成績だけで1位になったムスターに、ピートとアガシがいちゃもんを付けたとされましたが、ムスター本人はアガシとピートの論調の違いを明確に把握し、ピートに敬意を払ってくれていました。ヨーロッパのクレー大会にアメリカ人が参加しない事を批判した時も、コーチが亡くなったばかりのピートには思いやりを示してくれたしね。


スポーツ・イラストレイテッド記事一覧へ戻る  Homeへ戻る