スポーツ・イラストレイテッド
1999年7月12日号
芝刈り男
文:S.L. Price


テニスファン、タブロイド紙ファン双方が愛する2週間の最後に、ピート・サンプラスは
アンドレ・アガシを倒し、6度目のウィンブルドン・タイトルを獲得した


世界の終わりは絶叫と共に訪れた。現地時間の午後4時6分、ピート・サンプラスはサーブを打ち込み、アンドレ・アガシは虚しく腕を伸ばした。そしてテニスボールがウィンブルドンのセンターコートを囲む厚い壁にぶつかるよりも早く、サンプラスは曇り空に腕を突き上げた。

「イエス!」と彼は叫んだ。そう、彼は歴史を抱きしめ、ロイ・エマーソン、ロッド・レーバー、ビョルン・ボルグの幻影を撃退したのだ。そう、サンプラスはピークにいる最大のライバルを叩きのめしたのだ。そう、この日はサンプラス自身の力が、普段は全能の神々のためにあるイメージを召喚したのだ。「彼の嵐は強すぎた」とアガシは言った。「彼は水の上を歩いていた」

いいや、テニスの試合における6-3、6-4、7-5の勝利―――ウィンブルドン決勝戦でも―――は、ノストラダムスが1999年7月4日のハルマゲドンを予言した時にも、ほとんど念頭になかった。しかし地球上のどんな事柄も、少なくともスポーツ界では、サンプラスがアガシとの対決でつけた衝撃的な決着にはほど遠かった。

そしてまた、予言者が「空より恐怖の大王が来たりくる」と思いを巡らしていた時、サンプラスが6回目のウィンブルドン・シングルス・タイトルへの途上で、2週間に108本ものエースの雨を降らすとは予想していなかったと言うのは誰だ? あるいは、雨雲がほぼ3日間プレーを台無しにして、2週目のスケジュールを混沌に陥らせるとは? 予言された終局は、記憶上の最も奇異な、なおかつ魅惑的なグランドスラム大会の最終日だけではなかったと言うのは誰か?

考えてもみたまえ。2週間の中で、マルチナ・ヒンギスの未来は衝撃的な1回戦敗退の後に疑問符をつけられた。アガシとリンゼイ・ダベンポートはナンバー1の座を掴んだ。ボリス・ベッカーは永久にウィンブルドンから去った。そしてサンプラスは失った支配力を復活させ、エマーソンの持つ12のグランドスラム男子シングルス記録に並んだのだ。

同時に、意気揚々のティーンエージャー―――エレナ・ドキッチ、ミリアナ・ルチッチ、アレクサンドラ・スティーブンソン―――が話題を集めた。2週目の後半まで勝ち上がり、新たに登場した横柄な親を引き連れて。しかし肉体的虐待、言葉によるいじめ、真夜中の逃亡劇といったよくある物語の中でも、スティーブンソンの家系に関するニュースほど驚くべきものはなかった。スポーツ界のあらゆるオフコート・メロドラマを考慮しても、ドクター J がテニス・パパであったという事実はショックだった。
訳注:ドクター J。NBAの名選手ジュリアス・アービング(Julius Erving)のこと。70〜80年代にかけて、アメリカのバスケットボール界に大きなインパクトを残した。高い運動能力と跳躍力を生かしたプレーでファンを魅了する一方、スポーツマンとして気品があり、尊敬された。1986年に37歳で現役を引退。

それで不充分なら、かつては芝生恐怖症と見なされていた23歳のダベンポートが、準々決勝では前年チャンピオンのナヤ・ノボトナに(6-3、6-4)、日曜日の決勝戦では7度のウインブルドン・チャンピオンであるグラフに(6-4、7-5)、共にストレートセットで勝利したのだ。

彼女は太り過ぎのベースライン・プレーヤーから、よりダメージを与えうるスラリとしたチャンピオンに変身した事を証明した。「これはすべてを意味している。私は前進し続けたいわ」とダベンポートは語った。

それから、グラフはこれが最後のウィンブルドンになると発表した。フレンチ・オープンの優勝後にも同様の発表があったが、グラフはUSオープンへの出場を公約せず、今年限りでの引退を計画している事が明らかになってきた。「彼女ははっきりとは言いたがらないけれど、終わりなのだわ」とダベンポートは言った。

ほぼ20年ぶりにフレンチオープン - ウィンブルドンを続けて優勝する最初の男になろうというアガシの探求は言うまでもなく、これらすべての要素は、グランドスラム大会には不足がちだった重要性を99年の選手権に吹き込んだ。突然 、誰しも得るべき、そして失うべき多くの事があるように見えてきた。

それでもなお、さらに興味をそそる事柄があった。通常グランドスラム大会は素晴らしいテニス、あるいは華々しいソープオペラ――― 両方が釣り合う事は滅多にないが―――を提供する。しかし2週にわたる「これに勝れるか?(Can You Top This?)」ショーにも似た猛烈なラリーのうちに、ウインブルドンでこの2つはかみ合った。

前日、ロンドンのタブロイド紙は、エレナの父親ダミール・ドキッチに「地獄から来た父親」というレッテルを貼った。ウィンブルドン前哨戦のバーミンガムで、彼は酔って暴れたからだった。ベッカーは3本のマッチポイントを強烈なファーストサーブでしのぎ、2セットダウンから挽回して1回戦に勝利した。「それが僕の知る唯一の答えだ」とベッカーは言った。「中途半端なプレーをするためにいるのではない。オール・オア・ナッシング。それが、僕がキャリアでずっとプレーしてきた方法だ」

134位の元気なハードヒッター、ルチッチが、モニカ・セレシュ、ナタリー・トージアに番狂わせで勝利したすべての試合は、準決勝でグラフと対戦するポジションを得るためだった。虐待的と彼女が申し立てる父親マリンコからの逃亡については、さらに多くの暴露が約束されているようだった。その逃亡は1年前のウィンブルドンで計画され、昨年8月に実行された。彼女は母親のアンジェルカ、4人の兄弟姉妹と共に合衆国へと逃げた。

だがそれと並んで、人々を惹きつける素晴らしいプレーの対決(ジム・クーリエ - ティム・ヘンマン戦、グラフ - ヴィーナス・ウィリアムズ戦、アガシ - パット・ラフター戦)があった。あたかも今世紀の終わりにあたり、スポーツの最良、そして最悪の特質は、終末戦争でとことん殴り合って決するかのようだった。99年ウインブルドンの永続的な思い出は、何だろうか? 手に負えない親とカルト的な人格? あるいは驚異的なショットと人の心をつかんで離さない対決?

18歳のスティーブンソンには、双方の要素が溶け合っていた。ビッグサーブと見事な片手バックハンドは、彼女を予選から準決勝に進出したウィンブルドン史上初の女子選手とした。彼女はサンプラスのゲームを形成したグル、ピート・フィッシャーの指導を受け、サンディエゴで未婚の母サマンサに育てられた。

サマンサはフリーのスポーツ記者で、先月「ニューヨーク・タイムズ」紙に、ダミール・ドキッチがバーミンガムで逮捕されたニュースを報じた。アレクサンドラは5月に高校を卒業し、芝生でプレーしてプロに転向するため、翌日には飛行機に乗り込んでイギリスへ向かった。「この旅はあなたの人生を変えようとしている」とサマンサは娘に言い聞かせた。「これまでとは違うわ」

だがアレクサンドラがエイミー・フレージャー、オルガ・バラバンシコワ、そして第11シードのジュリー・アラール・デキュジスから勝利を挙げていく中でさえ、サマンサは次から次へと論争を引き起こした。アレクサンドラのプロとしての新しい地位に対する賞金についてウィンブルドンとの論議に勝ち、ツアーがいかに人種差別の偏見に満ち満ちているかを述べたて、アレクサンドラをツアーの女子選手によるいじめから守る必要があると言いたてた。

サマンサが猛然と騒動を引き起こしたため、6月30日、アレクサンドラは5日間で2回目の記者会見で、混乱がちの声明文を読み上げざるを得なかった。彼女は母親のコメントを弁護し、誤って引用されたのだと語った。同じ日、(フロリダ州南東部)フォートローダーデールの「サン - センティネル」紙は、アレクサンドラの出生証明書にはジュリアス・アービングが父親と記載されていると報じた。

前週の金曜日、アレクサンドラが準々決勝でエレナを負かした後、四方へ膝を曲げて会釈し、観客を魅了するのをサマンサは見守った。その日アービングは声明を発表し、自分がアレクサンドラの父親であると認め、彼女に一度会った事があり、経済的に支援し、彼女が元気である事を願ってきたと付け加えた。

土曜日、準決勝でダベンポートがアレクサンドラを6-1、6-1と一蹴した後、ダベンポートは娘との対戦を「恐れ」、「神経質になっていた」ようだとサマンサは語った。ダベンポートはこれらのコメントを「クレージー」と相手にせず、アレクサンドラに向けて「母親のせいで、気の毒に感じざるを得ない」と言った。

試合後、アレクサンドラは母親を支持して、自分の驚くべきデビュー戦の最中に、アービングの声明が気を散らす事はなかったと主張した。「私は乗りに乗っていたから、ちっとも悩まされなかったわ」とアレクサンドラは言った。「何も読まなかったし、まったく気にしてないの。いつもと同じ。何も変わらないわ」

サマンサは彼女の横に座り、相づちを打った。「私は娘に、新聞は翌日に魚を包むものだと教えたわ。彼女はそれを理解しているのでしょうね。ただ自分の人生に集中しているわ」それからサマンサは付け加えた。「それは強制的に私たち家族を不自然な状況に追いやる、非倫理的なジャーナリズムの一端だと思った。そんな事は起こるべきでなかった」

大体において、それはアレクサンドラ以外の誰もが関わった、まずい見せ物だった。幸いにも、その時までにアガシとサンプラスは、大いに待ち望まれた準決勝でラフター、ヘンマンを排除し始めていた。サンプラスが95年USオープン決勝でアガシを片付けて以来の男子テニス界最大の試合へ向け、お膳立てが整いつつあった。

テニス界で最も偉大なサーバーと最も偉大なリターナーのライバル関係は、カリフォルニアのハードコートにおけるジュニア大会まで遡り、常に切磋琢磨してきた。フラッシングメドウの敗戦でアガシのキャリアは錐もみ降下し、1997年には141位にまで落ちた。そしてサンプラスは、自分の途轍もない才能を測るものさしを失っていた。「アンドレは僕のベストを引き出してくれるんだ」日曜日の決勝後、サンプラスは言った。「彼は僕のゲームを、目を見張るようなレベルにまで引き上げてくれる」

昨年のウィンブルドン優勝以降、27歳のサンプラスは、キャリアにおいて彼が「岐路」と呼ぶものに入り込んでいた。彼は99年オーストラリアン・オープンを欠場し、フレンチでは早期敗退した。パリでアガシが優勝した後には、素晴らしい勝利を祝福するためアガシに電話さえした。それは彼が一度もした事のないものだった。正直な気持ちだったとサンプラスは主張したが、2人の男たちの心で車輪が回り始めたと想像するのは難くない。ウィンブルドンの2週間、彼らはロッカールームでは並んで着替えをし、勝つに従ってぼんやりと見えてくる対決については話をしなかった。

しかし土曜日の夜、サンプラスがヘンマンを4セットで下し、マッサージを受けにトレーニング・ルームへ入ると、アガシがいた。彼はナンバー1の座を懸けて、ラフターを3セットで鮮やかに一蹴していた。2人は互いを見て、にやりと笑わずにはいられなかった。「僕が世界141位だった頃、僕のことを考えながら眠りに就かなければならない日が来ようとは、君は思わなかっただろう、どうだい?」とアガシは言った。

「うん」とサンプラスは答えた。「まったく思わなかったよ。君とはいやになるほど対戦してきたからね」

翌日、サンプラスは早朝に目覚め、恐れを感じた。「負ける事への信じられないような恐怖だ」と、彼は決勝戦の後に語った。「もしこの試合で負けると、僕はどんな気持ちになるんだろう?ってね。でもウォームアップをしてプレーし始めると、何らかの落ち着きを感じるんだ。これは1対1の対決で、彼も僕と同じプレッシャーを感じている。それに僕はこういう立場を今までも経験してきた。何かがとって代わるんだ」

アガシにチャンスはなかった。決勝戦に入るまでは、彼はサンプラスより遙かにシャープで、キャリア最高のテニスをしていると確信していた。サンプラスは準々決勝で幸運を得ていた。オーストラリアの大砲、マーク・フィリポウシスは1セットを先取して、しかも完全にサンプラスのプレーを読んでいたが、左膝の軟骨を損傷して途中棄権せざるを得なかったのだ。だが芝生のサンプラスは、燃えさかるガソリンである。ひとたび彼が勢いづくと、止める事はほとんど不可能だ。

アガシに17本のエースを叩き込み―――しかもファーストサーブではアガシに1本のウィナーも許さず―――サンプラスはベースラインからも、テニス界最高のベースライン・プレーヤーに打ち勝った。そしてアガシのサーブをピンポイントのリターンで痛めつけた。二度、彼は水平に飛んで、ベッカー風の突進でボレーをし、前腕に血を滲ませた。努力は報われた。2時間も経たないうちに、サンプラスは彼のアイドル、レーバーとボルグを凌駕した。両者とも11のグランドスラム・シングルス・タイトルを勝ち取っていた。そして新しい世界ナンバー1選手に挫折感を味わわせた―――たとえ1日だけでも。

「彼にもう一度挑みたい」とアガシは言った。「それが僕のキャリアだ。彼は史上最も偉大な選手の1人―――最高ではないとしても―――としての地位を不動のものにした。だが僕はハードコートで彼と再戦したい。クレーで彼と対戦したい。そしてもっと対決したい。これから数年で、実現してほしいよ。とても楽しみだね。我々はまずUSオープンから始めるんだ」

独立記念日に2人のアメリカ人が決勝で対決する。このような刺激は、停滞ぎみの合衆国テニスシーンを甦らせる以上の効果があるだろう。ダベンポートは確かに、女子テニスへ新しい息吹をもたらした。子供時代、彼女とサンプラスはカリフォルニア州パロスベルデスのジャック・クレーマー・テニスクラブで練習していた。そこには何かがあるに違いない。

昨年9月のUSオープンで、当時ナンバー1だったヒンギスを破ってから、かつては心許なげだったダベンポートは、より自信を深め、よりハングリーになっていった。ウィンブルドンの2週目までには、グラフは感傷をそそる、そして賭けるに妥当な優勝候補となっていた。彼女はウィンブルドンでベースライン・プレーヤーに負けた事がなかったのだ。しかしダベンポートは、すでに決勝進出を決めていたが、グラフが準決勝でルチッチに苦戦しているのを見ると、元チャンピオンを熱烈に応援していた。

「コーチに話したのよ。『私はシュテフィと対戦したい』って」日曜日の午後遅くにダベンポートは語った。「以前だったら、『ああ、ルチッチ、どうか勝って!』」と言ったでしょうね。でも私はグラフと対戦したかった。負けるなら伝説的選手に負けたい。もし勝つなら、いっそう特別な事だもの」

しかし実際は、グラフは過去の存在となっていた。ダベンポートはベースラインからウィナーに継ぐウィナーを浴びせかけ、テニス史上最も偉大であろう選手を降伏に追い込んだ。「あまり良いプレーができなかった事に少し失望しているわ」とグラフは言った。「いいところをもっと見せられたら良かったわ」

彼女はすでに去った者のようにプレーした。筋肉を傷めたため、左腿にはバンデージが巻かれていた。そして長年にわたる怪我の数々は、とうとう彼女に悪い結果をもたらしたようだった。何も、最後のウインブルドンを勝ち取るという期待さえも、もはや彼女に興味を抱かせはしないようだった。コートに出る時も去る時も、グラフは常に速歩だった。トロフィー授与式が終わると、彼女は大またで歩み去った。別れの挨拶をする事もなく。

奇妙だった。実際の終わりは日曜日に訪れた。だが、ただ1人にとって。シュテフィ・グラフは、この世界を後にする事を少しも悲しんでいないようだった。


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