スポーツ・イラストレイテッド
1997年7月14日
孤高
文:S.L. Price


ウィンブルドンでサンプラスは王者のごとく易々と勝利したが、それは
彼が史上最高のテニスプレーヤーかも知れない―――そして彼のような
アメリカ人は当分現れそうもないという事を物語っていた


記録には、満席であった、数多くの報道記者が熱心にメモをとっていた、線審・ボールボーイ・主審が日曜日にウィンブルドンのセンターコートを囲んだと記される。対戦相手はラケットを手に、自分が勝つかも知れないと束の間だけ信じ、ネットの向こう側に立っていたと、かなりハッキリ書かれるかも知れない。だが、そんな風ではなかった。いや、ピート・サンプラスはすべてを消し去ったのだ。

1時間35分の間、サンプラスは無慈悲なサーブを次々と打ち込み、顔には努力の痕跡も現さずに、男子決勝でセドリック・ピオリーンをメトロノームのような規則正しさで蹂躙した。それ以外の記述は不必要だった。誰も試合に入り込めなかった―――ファンも、大会関係者も、そして明らかにピオリーンも。

サンプラスがすべてだった。その卓越で世界を、射し込んだ太陽の光を打ち消し、高尚なまでのレベルにテニスを引き上げた。1年あるいは6カ月後、あるいは2日後には、サンプラスが誰を破ったのか、思い出すのも空しい試みとなるであろう。ピオリーンは4-6、2-6、4-6で敗れた後、「彼は息をつかせてくれない」と語った。「彼が相手では呼吸もできない」と。

どんなアメリカの少年も、これ以上を求める事はできまい。8年前、サンプラスは初めてウィンブルドンに行き、そして1回戦で退けられた。今、彼は25歳で、テニス界を思うがままに支配している。10個目のグランドスラム・シングルス・タイトルを勝ち取り、彼は男子テニス界の偉人リストでビル・チルデンに並んだ。そして12というロイ・エマーソンの記録にあと2つの所まで来た。

6月23日、オール・イングランド・クラブは新しい1番コートのオープニング式典で、雨続きとなった大会を開幕した。今やサンプラスを取り囲む論議は、ピオリーンといった対戦相手との事ではなく、式典で彼の周りに集った伝説的偉人たちとの関係であった。

その日、サンプラスはキャリアで初めて、自分が今まで追ってきた歴史に取り巻かれていた。1人ずつ、3回以上ウィンブルドンで優勝したチャンピオン達が、心酔する観客の前に並んだ。ボリス・ベッカー、ルイーズ Brough、マーガレット・コート、クリス・エバート、ビリー・ジーン・キング、ロッド・レーバー、ジョン・マッケンロー、マルチナ・ナヴラチロワ、ジョン・ニューカム、そして、最後にサンプラス。

彼は朝の湿気を帯びたコートに登場し、右の爪先で新しい芝生を突っつき、手を前で重ね、ベッカーと談笑していた。そして他の皆が呼ばれて記念のプレートを受け取り、気が付くとサンプラスは独りで、呼ばれるのを待っていた。

「僕は最後だった………その事が胸を打ったんだ」と、サンプラスは後に語った。「ちょっとの間、僕はここで何をしているんだ?って感じだった。そして分かった。僕は偉大な選手たちの中にいるって。素晴らしい気分だった。自分がテニスに何らかのインパクトを与えているのだと気付いたんだ」

何らかの? サンプラスのライバルは皆いなくなり、テニス界における彼の存在感は途方もない。ロンドンで生真面目に集中を高める様は、彼だけが大人としてプレーしているかのようだった。「僕には何の恐れもない」と日曜日の優勝後、彼は言った。そして誰も異論を差し挟めなかった。

大会中、サンプラスの1stサーブの確率は66%と素晴らしいもので、118サービスゲームの内、ブレークされたのは2回だけだった。準決勝の犠牲者となったトッド・ウッドブリッジは、サンプラスがここで初めて試合をした時に彼を破った気難しい競技者だが、今回は負かされてなお、栄誉を受けたように感じていた。「彼のプレーは、僕が引退した時に語る類いのものだ。つまり彼がどれほど素晴らしかったかって事をね」とウッドブリッジは語った。

ベッカーが6カ月前に引退を決意した時、ウィンブルドン最後の試合について、1つの夢想があった。センターコートでサンプラスと対戦する事。先週の木曜日、その願いが準々決勝で実現した。サンプラスが 6-1、6-7、6-1、6-4で勝利した時、ベッカーはネット際で身体を寄せて、これが彼の最後のウィンブルドンであると告げ、対戦相手をハッと驚かせた。

2人はそこで3回対戦したが、ベッカーはサンプラスのサービスゲームを一度もブレークした事がなかった。彼はサンプラスに、対戦するのは喜びであったと告げた。「最後の相手が彼で嬉しかったよ。彼をとても尊敬しているから」と、ベッカーは後に語った。「僕にとり、彼は常に最も完成されたプレーヤーだった。彼はパワー、スピード、タッチを備えている。彼は史上最高のプレーヤーだ」

しかしサンプラスが日曜に、燃えさかる松明のように天高く金のトロフィーを掲げ、小走りでセンターコートを巡った時、アメリカン・テニスの最も素晴らしいものであるべき瞬間は、むしろ最も思い煩うものであったのだ。フレンチ・オープンは1969年以来初めて、アメリカ人男子が誰も準々決勝に達しなかったという悲惨な結果だったが、ウィンブルドンではさらに悪化した。

ティム・ヘンマンとグレッグ・ルゼツキーの準々決勝進出に、イギリスじゅうが愛国的ドラムを打ち鳴らす一方(「こんな素晴らしい事は初めてだ!」と、見出しの1つは金切り声を上げていた)、アメリカ人のアンドレ・アガシ、トッド・マーチン、そして1996年ウィンブルドン決勝進出者のマリバイ・ワシントン等は、怪我で大会を欠場していた。2位のマイケル・チャンと元1位のジム・クーリエは初戦で敗れた。オープン化以降最低の、6人のアメリカ人しか2回戦に進出しなかった。準々決勝に進んだのはサンプラスだけだった。

女子はさらにひどかった。4回戦まで進んだのは13位のメアリー・ジョー・フェルナンデスだけだった。これは4回戦進出者がモデル・Tだか誰か1人だけだった1913年以来の、ウィンブルドンにおけるアメリカ最悪の結果だった。

一夏の失敗が危機に向かうのではない。今後はハードコート・シーズンが控えており、アガシは再びカムバックについて騒がれており、USオープンは自国のテニスの特別公演であると証明する事も可能だろう。しかし合衆国テニスの役員が案じているのは、現在の選手たちの事ではない。「僕たちが引退した後、トップに上がってきそうな若いアメリカ人がいない」と、先週サンプラスは語った。「今後アメリカ人は、得られるものを享受しなければならないだろう」

さし当たり、アメリカ人女子で最も見込みがあるのは、ユニークなヘアスタイルをした17歳のビーナス・ウィリアムズだが、ウィンブルドンでは1回戦でなすすべなく敗退した。彼女の技量には申し分のないサーフェスだったのに。

「ヴィーナスの事は分からないわ」と、女子チャンピオンになったマルチナ・ヒンギスは言った。「彼女はあまり真剣じゃないみたい。勝つ事を望んでいないかのようだわ。彼女がプレッシャーを感じているのかどうか、そしてコート上で何を考えているのか分からない。彼女は常にショーを演じようとしていて、本当のテニスをしていないわ」

男子を見てみると、117位で20歳のジャスティン・ギメルストブは、1回戦でフレンチ・オープン・チャンピオンのグスタボ・クエルテンに快勝したが、あまり評価されていない。「ジャスティンには何がしかの才能があり、良い選手になる可能性もある」と、合衆国デビスカップ監督のトム・ガリクソンは語った。「だが彼が偉大な選手になれるとは思わない」

ジュニアでは、女子トップ100の中にアメリカ人は14人しかいない。だが1人、17歳の Aubrie Rippner がウィンブルドン・ジュニアの決勝に進出した。男子ジュニアでは、トップ100の内アメリカ人は6人だけである。最も注目を集めているのは16歳のテイラー・デントで、元ツアー・プロだったオーストラリア移民フィル・デントの息子である。テイラーは世界ジュニアでは、310位にランキングされている。ウィンブルドン少年の部シングルスでは1回戦で敗退した。

タイガー・ウッズやバスケットボール人気のせいにする、そして/あるいは、合衆国テニス連盟の自己満足を非難するのもいいだろう。連盟が草の根レベル、地域内テニスの発展に手間取っていたのは周知の事実だ。しかし運命の皮肉は避けられない。USTA(合衆国テニス連盟)は来月のUSオープンで、2億5,400万ドルかけたアーサー・アッシュ・スタジアムの除幕式を行うのだ。それはアメリカで下り坂のスポーツを祝う式典となるであろう。

「かなり悲しいわ」と、8位のリンゼイ・ダベンポートは言った。彼女はアメリカ人女子のトップだが、ウィンブルドンでは2回戦で敗退した。「私たちの国の人々は、今のところプレーをしていないし、あまりテニスを見てもいないのだもの。それを変えるために何をすべきか、私には分からないわ」

USTA 新会長のハリー・マーミオンは日曜日、合衆国テニスのタレント不足に関する6カ月間の調査結果を、今月後半に受け取る予定であると語った。また、より多くのコーチを雇用する事、 USTA の地域トレーニング・センターを改革する事、選手養成プログラムに360万ドルの予算を追加する事などを含む提言を受けるだろうとも言った。「私はその数字が2倍、あるいは4倍であっても驚かないだろう」とマーミオンは語った。「これは重大な問題であり、我々はそれを解決していこうと決意している」

もちろん、サンプラスも他のいかなる合衆国テニスの偉人も、国のプログラムから現れたのではなかった。サンプラスは1970年代における合衆国のテニスブームが生み出した最後の結実である。テレビでジミー・コナーズやマッケンローを見て、テニスはカッコいいと思って成長した子供、ウィンブルドンはテニスの聖地であると解説者が言うのを信じた少年なのだ。「ここには他のどこでも感じない、その場を包むオーラがあるんだ」と、先週サンプラスは語った。「センターコートでのボールの響き―――それに意味があるように感じられるんだ」

しかしながら、サンプラスが選手として成熟してきた頃には、ブームはヨーロッパへと移行していた。そしてそこで、少女たちはチェコのスター、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、そしてもちろん、9回のウインブルドン・チャンピオンであるナヴラチロワの真似をしていたのだ。

ナヴラチロワにちなんで名を付けられ、テニスをするべく育てられたヒンギスにとって、ウィンブルドンのトロフィーが彼女の初のグランドスラム・タイトルである97年オーストラリアンのものより遥かに貴重であるのは、驚くべき事ではない。

「私はもしかしたら、このタイトルを獲得するには若すぎるのかもしれないわね」
土曜日の決勝戦で28歳のノボトナを6-2、6-3、6-3で破り、今世紀最年少のウィンブルドン女子チャンピオンとなった後、16歳のヒンギスは言った。真実以外の何ものでもなかった。もしテニス界で才能・手腕、そして勝負強さでサンプラスに比肩する者がいるなら、それはヒンギスである。

大会前、左膝手術に続くシュテフィ・グラフの欠場、ヒンギスがフレンチ・オープン決勝でイバ・マヨーリに思わぬ敗戦を喫した事に注目し、多くの識者はノボトナが、ついにチョーク・カラー(訳注:暴れると締まる犬の訓練用首輪。チョーク=勝ちビビリを掛けている)を外して、ウィンブルドンで優勝すると考えた。

ヒンギスは準備のグラスコート大会でプレーしなかったばかりでなく、2週間のほとんどの間、サーフェスをひどく嫌ってもいた。「芝生は嫌いよ。だって違う考え方をしなければならないんだもの」と、準決勝で同じ16歳のアンナ・クルニコワを6-3、6-2で破った後、彼女は言った。

しかしヒンギスはストレートセットで試合に勝ち続け、にっこり笑い続け、そしてグラフ(「もし彼女が戻って来るとしても、かつてと同じシュテフィではないでしょうね。彼女のキャリアはほぼ終わりよ」)、クルニコワ(「それほど大きなライバル関係だとは思わないわ。私は常に彼女より良かったし、いつも彼女を負かしてきたもの」)、ノボトナ(「 ヤナはとても良いテニスができるけれど、時々、ただ勝てなくなるのよね」)の存在を無視し続けた。

決勝でノボトナが完璧なグラスコート・テニスをして6-2とリードすると、ヒンギスのエンジンはかかり始めた。ロブを上げ、ネットへ出て、コートを広く使い、多彩なショットを混ぜ始めたのだ。彼女は第2セットを取り、そして第3セットでは次々と驚くべきバックハンド・パスを放った。

ノボトナは腹筋を傷めていたが、今回は狼狽したりしなかった。敗れはしたが、涙は流さなかった。1993年、グラフに対する悪名高い敗戦の後、ケント公夫人の肩でした時のようには。その代わりに、おどけてヒンギスと優勝プレートの取り合いをしてみせた。

一方ヒンギスは―――パリの日曜日を除けば今年は45試合無敗で、年間グランドスラムの途上であったかも知れないが―――テニス界トップの座を確かなものにした。

「私はウィンブルドン・チャンピオンとして、センターコートに立っていたわ」と日曜日、彼女は言った。「誰も私からそれを奪う事はできない。一生忘れないでしょう」

彼女がどのように感じるているか、29歳のベッカーはまさに知っている。彼にとっては、ウィンブルドンのような大会は他に存在しないのだ。彼のコーチ、マイク・デパルマが「ここはボリスが男になった場所だよ」と言ったように。1984年、彼にとって初のウィンブルドンで、ベッカーはビル Scanlon との対戦時に足首の靭帯を断裂したが、担架で運ばれる前に Scanlon と握手するため、止まって立ち上がるのだと主張した。翌年、17歳で、ベッカーはウインブルドン男子最年少優勝者となった。

彼は決勝でさらに6回プレーし、2回優勝した。ウィンブルドンで、最も甘美な、そして最悪の時を経験してきた。昨年、彼は右手首の腱を断裂し、無念の途中棄権をした。その怪我が長引く故障の悪循環を引き起こし、ベッカーは自分の終わりが来たのだと悟った。

1月にオーストラリアン・オープンで1回戦敗退した後、今年以降はグランドスラム大会から退くという決断を下した。「コート上で、もはや自分がそこにいるべきでないと感じたのだ」と、先週ベッカーは語った。「その後、妻のバーバラに言ったよ。『これ以上こんな風には続けられない。しかし我々はどうにかして6カ月間を過ごし、ウィンブルドンに到達しなければならない』とね」

彼は他の誰にも告げなかった。デパルマにも、オール・イングランド・クラブの役員にも、 元ウィンブルドン・チャンピオンのシュティッヒにも。ドイツにとり悲しい偶然の一致だが、シュティッヒ自身もピオリーンに準決勝で敗れた後、引退を決めたのだった。

ベッカーはウィンブルドンで、すべてストレートセットで4試合に勝ったが、サンプラスのサーブに対してはノー・チャンスだった。そしてその事に奇妙な安らぎを感じていた。

雨による3時間の試合中断の間、彼は独りでロイヤルボックスに座り、ノーマン・メイラーの著述を読んでいた。1974年にザイールで行われた(モハメド)アリ/(ジョージ)フォアマンの闘いに関するものだ。そしてセンターコートに視線を走らせていた。

後に、彼の最後のバックハンドが長く飛び、そしてサンプラスと握手をしてコートから歩み去ろうとしていた時、何が起ったのかを知っていたのはサンプラスただ1人だった。「僕は打ちのめされていた」と、サンプラスは後に語った。

2度、ベッカーは何も疑わない群衆へと向き直り、深くお辞儀をした。1時間後、彼はバッグを肩に担ぎ、お馴染みの回転するような足どりで、13番ゲートに向かって早足で会場を横切っていた。大勢の群衆は、通過するまで彼に気付かなかった。彼の顔は無表情だった。しかし黒い鉄製の門へと近づく一足ごとに考えていた。これがそうなのだ。最後の時。最後の時。

「正直に言うと、無事に去る事ができて嬉しいよ」と、その夜ベッカーは語った。「難しい時があった。続けて14年間プレーした。最初の頃はてんてこ舞いだった。そして僕は突然スターになり、どうやってあらゆる事に対処すべきなのか分からなかった。なんとかして長いキャリアを保とうと、常に祈っていた。そして自分の魂にこれといった大きな傷をつけずに、そうする事ができた。僕は薬中毒ではないし、アルコール中毒でもないし、3回離婚したりもしていない。まったくもってノーマルだ。かなりノーマルな生活を送る事ができている。僕にとり、それは常に最も大切な事だった」

ベッカーがまさにウィンブルドンから去るのを、1人の女性が目撃した。彼女は拍手をした。彼は速度を落とさなかった。



ピートが恐るべき強さを発揮した大会でした。4回戦のコルダ戦がフルセットまでもつれたのは、まあ、ちょっとしたアクシデントという事で………。第3セットのタイブレークで足を滑らせ、リードしていたのに流れが変わり、続く第4セットもタイブレークで失ったのでした。コルダは危険な相手だったし、実際はちょっとヒヤッとしました。(^^;

でもそれ以外はほぼパーフェクト。準決勝ウッドブリッジ戦では、足を滑らせて転んだ後に起き上がり、そのままラリーを続けてそのポイントを取るという奇跡的パフォーマンスもあったなぁ。後でウッドブリッジがそれについて訊かれ、「このポイントくらい僕にくれたっていいだろ!って思ったさ」とコメントしていましたね。

ベッカー戦では、ベッカーのサーブがエースだと思って移動し始めたら、フォルトのコールがあり、一瞬ストップモーションのように固まった後、自らエースを認めてまた動きだすという愉快なシーンもありました。ピートがベッカーとのフェアな対戦を楽しんでいる様子が伝わってくるようでした。

ネット際でのベッカーとのやり取り。テレビではアングルが悪くて、ピートの凍り付いた表情がよく見えなかったんですよね。後で雑誌などで堪能?しましたが。ピートは「彼のここでの最後の相手を務められ、光栄に思う」と言っていたのですが、2年後の1999年、ベッカーは前言を翻し、再びウィンブルドンに最後の出場をしちゃいました。まあ、彼らしいといえば彼らしいか。

表紙写真は、2000年ウィンブルドンで史上最多グランドスラム優勝を果たした後、USTA がニューヨーク・タイムズ紙に掲載した、ピートの偉業を讃える全面広告にも使われました。スーパーマンのような赤いマントを付けて。さらにそのマント付きの写真は、引退セレモニーでピートに贈られた記念プレートにも使われ………まさに「スーパー・ピート」を象徴するような、思い出深い写真です。


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