スポーツ・イラストレイテッド
1996年9月16日号
勇気と栄光
文:S.L. Price



混沌、そして心に訴えかけるUSオープンで、
ピート・サンプラスとシュテフィ・グラフは不屈の精神を立証した

ガタの来ているルイ・アームストロング・スタジアムの左から右へ、セクションからセクションへと、大声で叫ぶ群衆を彼はゆっくりと見渡した。見る必要のある顔を探し出せるだろうと思いながら。ネットの手前に立ったピート・サンプラスは、生き生きとして見え、にっこり笑っていた。彼の隣には、打ち負かされ、そして忘れられた存在のマイケル・チャンが、足を小刻みに動かしながら控えていた。USオープン男子シングルス決勝セレモニーの初めに、両者はファンとお互いに向けて暖かな言葉を語った。そして間もなくスーツを着た男が、60万ドルのチェックとトロフィーをサンプラスに差し出すのだ。

しかし1996年USオープン・チャンピオンであり世界ナンバー1プレーヤーである彼は、まだその事を考えていなかった。群衆の中にトム・ガリクソンを見つけ出したからだ。2人は目と目を見交わした。サンプラスが頷き、ガリクソンが頷き返した。その交換には重要なすべてが含まれていた。気遣いと喪失、そして解放についてのすべての真実が。

「僕たち両方にとってとても辛い事だった。彼にはよけいに………ティムは彼の双子の兄弟だったからね」その後サンプラスは語った。「でも僕は彼が何を考えていたか分かったし、彼は僕が何を考えていたか知っていた。僕たちはただお互いを見て、そして分かったんだ。単にテニスについてじゃない、もっと多くの事についての時だ」

その時サンプラスは、多分初めて理解したのだ。終わったと。なぜなら日曜日、サンプラスは世界で2番目に優れたテニス選手をただ圧倒しただけではなかったからだ。

彼の4回目の―――そして最もドラマチックな―――USオープン・タイトルをただ獲得しただけではなかった。8回目のグランドスラム優勝で彼の偉大さをただ高めただけではなかったのだ。

いいや、チャンを6-1、6-4、7-6で一蹴し、コーチであり親友だったティム・ガリクソンが5月に脳腫瘍で亡くなって以来初のメジャー優勝を遂げる事で、サンプラスはまた、スポーツの陳腐な決まり文句を切り抜けるという感情的に消耗する務めから自分自身をも解放したのだ。ガリクソンの思い出の中でグランドスラム・タイトルを勝ち取る事から。

6月にはフレンチ・オープンで失敗していた。それは彼が一度も優勝した事のないメジャー大会だった。そして7月にはウィンブルドンで失敗していた。そしてスペインのアレックス・コレチャに対する、神話にも似た5セットの偉業だけが、彼がフラッシング・メドウで失敗する事を阻んでいた。

今回のオープンにあたり、サンプラスに近い人たちは張り詰めた緊張を感じ取っていた。「彼は自分自身のためにプレーするという段階に到達しなければならない」とトム ・ガリクソンは語った。

「他の人、他の目的のためにプレーするというのは、感情的なジェットコースターのようなものだ。それはただ彼に余計なプレッシャーをかける。そして彼は、このような公のやり方でティムの状況に対処しなければならなかったのだ」

それは最も思いがけない事であった。サンプラスは自分をストイックと称する。コート上では決してコナーズのような芝居じみた振る舞いをせず、オフコートでは決してベッカーの如く哲学者ぶる事はなかった。

しかしシュテフィ・グラフ―――個人的な困難によるソープオペラのまっただ中で、モニカ・セレシュを圧倒して21個目のグランドスラム・タイトルを獲得した―――よりも、そして恐らく記憶の中のどのアスリートよりもずっと、サンプラスは何百万人もの前で感情を表に出した。

1995年のオーストラリアン・オープンでは、ティム・ガリクソンの病気を知った後、彼は試合中に泣いた。95年のUSオープンでは、彼はコート上で勝利をティムに捧げた。今年のパリでは、彼は空を見上げ、ガリクソンが見返してくれているのを感じた。

追求には死との関わりがあった。しかしテニスコート上で最も雄弁な者にとっては、意味をなすものであった。サンプラスはガリクソンの葬儀で弔辞を述べようとして、終える事ができなかった。しかしサンプラスがラインの間に立つ時は、彼は見事に問題を終わらせている。「彼はコートの上で生き抜くのだ」とコーチのポール・アナコーンは言う。「競い合う時を除いては、彼はあまり感情を見せない」

それで、彼のゲームがこの2週間を通して勢いを増すにつれ、USオープンの混沌に新たな基準をセットした大会を掴み取ったのだった。



フラッシングメドウは常に、最も手に負えないグランドスラム大会であった。疾走するジェット機、法外な値段の食物、狭苦しい施設、不作法な群衆の不快なごたまぜ。

ルイ・アームストロング・スタジアムが、翌年には隣に建設中の最新技術を駆使した2億3,400万ドルの施設に置きかえられても、ほとんどの選手は惜しんだりしないだろう。「この場所に慣れるには10年かかるだろう」と、世界3位のオーストリアのトーマス・ムスターは言った。

スタジアムは最後の無秩序な衝撃と共に終わりを迎える事が決まっているように見えた。男子シードのシステムが急に変更され、誰もコートに身を置く前から、オープンは論争に満ち満ちていた。フレンチ・オープン・チャンピオンのエフゲニー・カフェルニコフは、その時点で4位だったが第7シードにされ、苛立ちから棄権した。そして他の選手たちも同調するおそれがあった。

ニューヨーク市長のルディ・ジュリアーニは大会をボイコットした。第1の理由として、隣接するラガーディア空港の発着ルートを変更する事は公共の安全を脅かすという間抜けな心配から、そして次に、高い価格への抗議から。

次に、ムスターが私的な車と会場外の警備員、彼の仲間への優待席を拒否された時、彼のコーチ、ロニー・ライトゲーブはトーナメント・ディレクターのジェイ・シュナイダーを「いかさま師」と呼んだ。さらに続いた:グラフの父親、ペーターは脱税のかどで公判中だったが、ドイツのマスコミは彼女のニューヨークのアパートを張り込んだ。にも関わらずシュテフィは決勝へと押し進んだ。

アンドレ・アガシはチャンとの準決勝で、寝間着を着た港湾労働者が夢遊病のうちにプレーしているような有り様で、彼の闘争心に関する、かつてのようなあらゆる質問を浴びつつ、96年のスラム・キャンペーンを終わらせた。Fergieが目立っていた。

しかしサンプラスが準々決勝でコレチャと対戦した時、他のすべては消えていった。それはただ、テニス史で最も目を見張る試合の1つであった。オーストラリアの天才マーク・フィリポウシスを3セットで圧倒した後、31位のコレチャをスムースに片づけると予想されていたが、暑くムシムシした2週目の木曜日、サンプラスは自分が倒れないでいるための闘いをしていた。

コレチャは素晴らしいフォアハンドで彼を苦しめ、ほとんどエラーをしなかった。一方サンプラスは1対2と1セットダウンの状態で、ペプシを飲んで自分を生き返らせ、胃を落ち着かせようとしていた。第5セットまでに彼はひどい脱水状態に陥り、4時間9分の試練が終わった時には、半ガロン(約2リットル)近い点滴を必要とした。こんなに気分が悪くなった事は一度もなかったとサンプラスは語った。

第5セットのタイブレーク1-1で、サンプラスはベースライン後方によろよろと歩き、そして吐いた。最後には鼻からも吐瀉物がしたたったが、彼はサーブを打ち、ポイントを勝ち取った。

だが試合の終わりはほど遠かった。空へ目を向け、あるいは痛みに呻きつつ、サンプラスはループのグラウンド・ストロークを打ち、いいサーブを打ってなんとかイーブンを保った。

タイブレーク6-7では、彼は死にものぐるいの、腕をいっぱいに伸ばしたフォアハンドボレーでマッチポイントをしのいだ。「信じられなかった」と、その後コレチャは言ったものだった。

それはただ、試合の最も驚くべき瞬間を準備したにすぎなかった。降参するかのように、サンプラスは時速76マイル(約121キロ)のファーストサーブをデュースコートに打ったが、ほんの少し長かった。「僕はとにかく終わらせたかった」とサンプラスは語った。「ラリーに持ち込みたくなかったんだ」

それで彼は賭けをした。トスを上げ、時速90マイル(約144キロ)のセカンドサーブをコレチャのフォア側に打った。鋭い角度がつき、両者を驚かせた:エースだった。「信じられなかったよ」とサンプラスは言い、コレチャは立ち直れなかった。次のサーブはサンプラスのマッチポイントだったが、コレチャのセカンドサーブはロングだった。

しかしサンプラスはそれがアウトかどうかよく分からなかった。次の瞬間、彼は顔を歪めた。「僕がいままでに聞いた最高の音は、あのサイクロプスが鳴った音だったよ 」と彼は言った。

次の最高はすぐ後に来た。サンプラスが手を挙げた時、スタジアムは地鳴りのような唸りに揺れた。それはサンプラスにとって決定的な勝利だった。試合の数分後、ジョン・マッケンローはサンプラスのガールフレンド、デレイナ・マルケイを見つけ、「私にはあれほどのガッツはない」と、うっかり口に出した。

最後の瞬間までサンプラスは平静を保っていた。スラム・タイトルを勝ち取らなくても、ガリクソンの死を乗り越える事ができたと信じ始めてさえいた。しかしそうではなさそうだった。1991年後期から95年オーストラリアン・オープンまで、サンプラスはティム無しでスラム3大会を過ごした事がなかった。彼はティムをコーチとして4つのタイトルを獲得したのだ。

そして今、メルボルン、パリ、ウィンブルドン、あるいはニューヨークに到着する時「それは僕に思い出させる」とサンプラスは語った。「僕はロッカールームにいて、みんなが近くにいる、そしてトムがいる、それが僕にティムの事を思い出させる。それはむしろ痛みを甦らせる」と。

コレチャとの試合は、彼にこのように競う事を教えたのはガリクソンであったと思い出させた。その後、サンプラスがエージェント、コーチ、トレーナーと共に狭苦しい控え室でグッタリしていると、マルケイが飛び込んできた。

彼女はサンプラスの顔を見、彼は彼女の顔を見た。そしてすべての痛みが戻ってきた。サンプラスが泣き始めると、他の人たちは彼とマルケイを残して急いで外に出た。「これはティムのためだ」彼らは抱き合い、サンプラスはすすり泣きながら言った。「これは彼のためなんだ」


彼女の父親は脱税の罪に問われて公判中で、ドイツのマンハイムで拘置所に入っている。母親のハイジはオープンのクラブハウスで、テーブルの向こう側に座っている。決勝戦の後、日曜日の夜である。彼女の前にはシャンパンのグラスがある。

「優勝すると、様々な感情が押し寄せるわ」とグラフは言う。「時には泣きたいような、時には叫びたいような気がする。今日、私は確かに叫びたい気分よ。良いテニスをした事はとても嬉しかった。そんな事が可能だとは思わなかったわ」

誰が思っただろう? グラフは慢性的なふくらはぎの怪我に苦しみ、オープンに参加できないかも知れないほどだった。そして大会第2週にピーターの裁判が始まれば、プレッシャーが増すだろうと分かっていた。

シュテフィの集中はぼろぼろだったので、コーチのハインツ・ギュンタードは彼女が早い段階で負けるだろうと半ば予想していた。差し迫ったドイツへの帰国という考えが常に頭にあった。

「それはあまり楽しくない時になるでしょうね 」とグラフは言った。「だから私はこの数日間を宝物のように感じるの。そう長くは続かないでしょう」

しかし彼女が言うように、ここでの勝利は彼女に力を与えるに違いない。大評判のスイス選手、マルチナ・ヒンギスが女子テニスの「新しい世代」と呼ぶ挑戦をグラフは寄せつけず、ヒンギスともう1人のティーンエージャー、ロシアのアンナ・クルニコワのカードを試し、捨て札とした。

それから、去年のクラシック・ファイナル以来、初のモニカ・セレシュとの対戦に誰もが再び興奮する前に、グラフはセレシュを7-5、6-4で精力的に片づけ、争う者のない女王として1年を終えた。

「私はそれを変えようとしたけれども、うまく行かなかった」と、1995年決勝の再現についてヒンギスは語った。彼女は近いところまで来た。

りんごの頬と短気な性格を持つ彼女は、91年のジェニファー・カプリアティ以来初の、オープン準決勝に進出した15歳の選手となった。ヒンギスは第1セットを通じてグラフに挑み、ガスを使い果たす前には、5回セットポイントを握った。

早咲きのオールコート・ゲームと一般的な外見で、彼女はツアーの若いホットな存在となる。「マルチナはとても良いという状態を受け入れられる」と彼女の母親・コーチであるメラニー・ゾグは言う。「彼女は常にナンバー1だった。それ以外の事は何でも面白いでしょう」実際ヒンギスは、セレシュよりも一貫してグラフに圧力をかける事ができた。「奇妙な結末だったわ」とセレシュは言った。

それは本当に、これまでのグランドスラム決勝で最も変わったものであった。グラフがサービング・フォー・マッチを打つ時には、黙示録にも似た嵐がスタジアムを襲おうとしていただけでなく、くすくす笑いを抑えるため、セレシュがグラフのサーブを止めなければならないポイントもあった。

1人の男が「ハッピー・バースデー」を歌う―――下手くそだが―――声が、グランドスタンドから流れてきた。そこではトム・ガリクソンが、ディック・ストックトンと組んだ45歳以上ダブルス優勝の9,500ドルの小切手を受け取っていた。トムとティムは日曜日に45歳になったのだ。

日曜日に目覚めた時、サンプラスはティム・ガリクソンの事を考えていたわけではなかった。彼はチャンの事を考えていた。同じくグランドスラム大会最終日の、誰もいないロッカールームがどれほど好きかという事を考えた。「最初の週はてんてこ舞いだ」と彼は語った。「シャワーも浴びられないし、空き場所がない。でも毎日徐々に空いてきて、そして最後の週末には、ロッカールームを歩いていても誰にも煩わされない。僕はそれが好きだ」

その午後早く、彼はロッカールームに座っていた。その同じ場所で、サンプラスに準々決勝で敗れた後アレックス・コレチャは泣いた。準決勝に屈した後ゴラン・イワニセビッチはラケットを投げ、蹴りつけた。チャンは決勝戦の後、自分を立ち直らせるために来るだろう。しかし今、サンプラスは独りで、フットボールを見ながら思い出していた。

雨で彼の試合が遅れる事になった時、サンプラスはコレチャを下した後にグッタリしていたのと同じ、狭苦しい部屋に移動した。彼はほぼ3時間の待機の間、コーチ、トレーナーと徹底的に論じ合った。ようやく、彼はチャンと一緒にコートに出ていき、そして1時間59分後には戻ってきた。彼の人生における大きな部分を取り戻して。

「ティムは今でも僕と一緒だ」日曜の夜遅くサンプラスは語った。「でもトムは良い点を指摘した。僕は今、僕自身のためにプレーする事ができる」


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