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スポーツ・イラストレイテッド 1995年7月17日号 素晴らしい勝利 文:Sally Jenkins |
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面倒の多かったウインブルドンの2週間は、 ピート・サンプラスとシュテフィ・グラフが 取り戻した秩序に従い、終わりに近付いた |
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もしチャンピオンシップが霧で覆い隠されるべきであるなら、このウィンブルドンがそうであった。その代わりに、太陽はそのすべての上に輝いた。明るい光線がジェフ・タランゴのバカな、禿げかかった頭を露わにした。太陽光線が、アンドレ・アガシの膨らんだ白いショーツの内部を明らかにした。頭に巻いた布きれ、不可解にも卑屈なプレーも手伝って、彼を世界1位の選手というより所帯じみた様子に見せた。 白日の下にさらされたのは、失踪事件と低次元のドラマだった。多分、マーフィーという名前の男に、オール・イングランド・クラブのゲートを潜らせた時、そして進歩という名の下にボールに細工をし、グラウンドを掘り起こした時にそれは起こったのだろう。ピート・サンプラスとシュテフィ・グラフに感謝しよう。さもなければ、見出しは「掃除婦がウィンブルドンを勝ち取る」となっていただろう。 2週間の大部分が、およそ伝統以外のあらゆる事に独占された。1968年にオープン化して以来、27年間のウィンブルドンで失格になった選手はいなかったが、突如3人出た。あるノミ屋はゴラン・イワニセビッチが大会中に微笑するかどうかについて賭けをした―――そして、彼がそうした時、1人の奴に1,700ドルを払わなければならなかった。 子供も大人もにせ物の顎髭ともみ上げ、輪のイヤリング、頭を覆う布きれを含む、アガシそっくりの格好をして会場をぶらぶらした。気温が華氏110度に達すると、太陽に頭をやられたバカバカしさが充満した。「こんな風な事は、今まで一度も見た事がない」と、1991年以来初のグランドスラム決勝に進んだボリス・ベッカーをコーチするニック・ボロテリーは言った。「なんでもありという様相だった」 しかし最も異様な部分は、結局このウィンブルドンはクラシックなものになったという事であった。1927年にシード制が始まって以来初めて、男女ともトップ4シードの選手たちが準決勝に進んだ。その時点から、大会は決勝のクライマックスへと向かう雄大な、オーケストラのようなテニスを提供した。 女子決勝では、グラフはアランチャ・サンチェス・ヴィカリオに4-6、6-1、7-5で勝利した。それは1970年にマーガレット・コートがビリー・ジーン・キングを14-12、11-9で下した試合以来、最高のものだった。そしてサンプラスはベッカーを6-7、6-2、6-4、6-2で破り、3年連続のウィンブルドン・タイトルを獲得した。「ヒストリー、ベイビー」と、サンプラスはセンターコートスタジアムで、大喜びして言った。「美しい日だ」 ベッカーが準優勝のプレートを掲げた時、サンプラスより大きなどよめきが起こった。多分、ベッカーが17歳でウィンブルドン初優勝を遂げて以来、ちょうど10年目の記念の年であるという事実を反映していたのだろう。しかし長い目で見れば、これはサンプラスの日として記憶されるであろう。 ベッカーは27歳で、1984年に31歳だったジミー・コナーズ以来、最年長の決勝進出者となったが、もうそこにはない何かを得ようと努めているようだった。彼はサンプラスの時速129マイルのサーブに対し、1回もブレークポイントを得られなかった。「もう雨を望むだけだ」とベッカーは言った。ベッカーをさらに落胆させたのは、サンプラスは68のウィナーに対し、7つのアンフォースト・エラーしか犯さなかった事だ。「僕は自分を責める事はできないだろう」とベッカーは語った。 普段は冷静なサンプラスだが、彼はシャツを脱いでギャラリーに放り、次いでコップの水をかけた。「Three Pete」という言葉は、すぐにサンプラスのタイトルに用いられた。しかしそれは彼の成し遂げた事を正当に表してはいなかった。サンプラスは第一次世界大戦以来3人目、そしてアメリカ人としては初めて3年連続優勝を達成し、フレッド・ペリー(1934〜1936年)、ビョルン・ボルグ(1976〜1980年)に加わったのだ。 またそれは、彼の今年最初のグランドスラム優勝でもあった。コーチのティム・ガリクソンが脳腫瘍で倒れた後、彼は1995年オーストラリアン・オープン決勝でアガシに敗れた。ガリクソンが病気になって以来、サンプラスもまた足首の捻挫、1位の座をアガシに奪われた事、フレンチ・オープンでの1回戦敗退に苦しんできた。「今年になって起こった様々な事を考えると、これは最も感動的な優勝だ」と、サンプラスはガリクソンに勝利を捧げて語った。「このような勝利の翌朝、目覚めるのは最高の気分なんだ。もし眠れればだけどね」 グラフにとって、6回目のウィンブルドンタイトルは、最も苦しい勝利であった。彼女は背中の骨の痛みを抑えるため、炎症止めの注射をしてプレーした。大会前にはさらに別の怪我をし、マルチナ・ナヴラチロワと組んで出場する予定だったダブルスを、間際になって棄権する事になった。「とても難しかった。想像もつかないでしょう」と彼女は言った。 しかし彼女のフィットネスは、決勝戦で2位の最もタフな選手サンチェス・ヴィカリオとの我慢比べに勝った時、それほど疑わしいようには見えなかった。そして彼女が勝ち取った最後から2番目のゲームは、多分センターコートで今までにプレーされた中でも最高のゲームだった。32ポイント、13回のデュースを繰り返し、20分かかって、ついにグラフがサンチェス・ヴィカリオのサーブをブレークし、6-5リードとしたのだ。 グラフは次のサービスゲームを簡単にキープし、タイトルを獲得した。これで彼女の今年のマッチレコードは32勝0敗となった。彼女はファミリーボックスに上がり、家族と抱き合った。そして暗い廊下に駆け込んで、センターコートにまで響き渡る喜びの叫び声を上げた。 たび重なる怪我に苦しめられるにつれて、グラフのタイトルは彼女にとって、ますます貴重なものになってきている。2年前、彼女は傷めた足でウィンブルドンに勝った。彼女は副鼻腔、肘、肩に問題を抱えてきた。昨年9月、USオープンでサンチェス・ヴィカリオに敗れた後、背中の慢性的な病気を診断されたが、それ以来、健康を取り戻す彼女の闘いは、勇気に満ちたものであった。 しかし、グラフの努力も素晴らしかったが、強い意志で偉大な選手たちの中に己の地位を築こうとするサンチェス・ヴィカリオの出来映えも、さらに印象的だった。サンチェス・ヴィカリオはスペインで生まれ、クレーコート育ちだが、心構えを変える事で初のウィンブルドン決勝に進出したのだ。サンチェス・ヴィカリオの目を突如開かせたのは、昨年のコンチータ・マルチネスの優勝だった―――同国人でありライバルでもある彼女にできたのなら、彼女にもできるだろうと。 彼女は準決勝では6-3、6-7、6-1でマルチネスを下したのだから、それは明らかであった。「実を言うと、私は今まで本当に充分には、この大会のために準備してこなかったの」と、サンチェス・ヴィカリオは語った。「私はここで良い事について考えた事がなく、悪い事ばかり考えていたの。芝は牛のためのものだなんて、いつも不平を言っていた。バウンドについて、天候について不平を言っていた。他の人々より長くかかったけれど、ついに私は自分の心を変えたのよ」 サンチェス・ヴィカリオのキャリアにおいて、将来の発展に繋がる可能性のある時は、ファイナルセットの第11ゲームに訪れたのだろう。彼女とグラフは行きつ戻りつし、グラフが6つのブレークポイントを握ったのに対し、サンチェス・ヴィカリオは8つのゲームポイントを握った。破滅的とも言える守備的プレーが、ついにサンチェス・ヴィカリオを終わらせた―――ネットに出てゲームに片を付ける多くの機会があったにも関わらず、彼女は中央とバックコートからプレーしたのだ。 前に出始めたのはグラフであった。そして彼女のボレーが試合の差を付けた。サンチェス・ヴィカリオは繰り返し、クロスコートのフォアハンド・パスで得点していた。13回目のデュースで、彼女は再びクロスコート・パスを試みたが、あまりにも頻繁すぎた。グラフは予測してアングルをカバーし、オープンコートにドロップボレーを打った。次のポイントで、グラフは得意のインサイド・アウト・フォアハンドを決め、ゲームを―――そして実質上試合を終わらせた。ウィンブルドンの歴史の中で、1980年のマッケンロー/ボルグ戦における18-16のタイブレークだけが、ドラマ性・卓越において、これに匹敵するだろう。 この試合は、ある意味で女子テニスを救った。この時点では、その長所を殆ど示していなかったのだ。1993年のハンブルグで大会中に刺されて以来、モニカ・セレスはツアーを休んでいたが、グラフの優勝後、大いに待ち望まれていた発表をした―――テニスに戻るであろうと。 それは女子ツアーにとって最高のニュースになるはずだった。ツアーはタイトル・スポンサーもつかず、選手層の薄さに悩んできたのだ。しかしWTAのトッププレーヤーたちは、さほど寛大な返答をしなかった。彼女たちはセレスに6大会の間、特別な準1位の地位を与える事には同意したが、長期的にはどのようにセレスが復帰するかについて、同意できなかった。 適切な手順を提案できず、解決無しでついに棚上げされた。「彼女たちはモニカに戻ってほしいという点では一致しているけれど………」セレスをコートに戻す事が、自分の主要な仕事だと考えてきたナブラチロワは語った。「みんな、自分の小さい縄張りを守っているのよ」 それは大会の比較的穏やかな論争の1つであった。失格になった最初の選手は、イギリスのティム・ヘンマンだった。ダブルスの試合中、怒って打ちつけたボールが偶然ボールガールに当たり、青くなった。そしてジェフ・タランゴ。彼はアレックス・ムロン戦の最中に、主審ブルーノ・ルボーに違法行為があると非難し、大股にコートを出ていった。彼の妻ベネディクトはルボーに平手打ちを喰らわし、 事態をさらに悪化させた。タランゴは国際テニス連盟によって15,500ドルの罰金を科され、「ゲームの高潔性と正反対の行為」のため、さらなる調査の下にある。結果によっては、彼は出場停止と6ケタの罰金を科せられる可能性がある。 そして、マーフィー・ジェンセンの失踪騒ぎがあった。彼はミックスダブルスの試合に現れなかった。そして事故を起こしたか、あるいは誘拐されたかも知れないと報告された。ジェンセン一家は心配していたが、全くそうではなかった。マーフィーは1週間前のノッティンガムの大会で、寝過ごして試合に出なかった事があった。そして失踪の前の晩、彼はチョウ氏の中国料理レストランで、友人グループと一緒にディナーを楽しんでいた。 母親パットによれば、彼はウィンブルドンのミックスダブルスの試合に向かう途上で交通渋滞に巻き込まれて、ラジオで棄権扱いになったと聞き、失態が恥ずかしくて、かつての大学の相棒と一緒に魚釣りに行ったという事だった。「それがマーフィーなのよ」と彼のパートナー、ブレンダ・シュルツ-マッカーシーは言った。そして大会の終わりまでには、ジェンセン自身がその話を認めた。 かつて芝生の斜面だった所に新しいナンバー1コートを建設するという、ウィンブルドンの決定に関する建築の討論が加えられる。さらに、ボールに関する騒動もあった。昨年のサンプラス対イワニセビッチの決勝戦が単調なサーブ・コンテストのようになり、ラケット技術がグラスコートテニスをすたれさせているという非難に狼狽して、ウィンブルドンは少し重い、空気の抜けたボールを導入したのだ。 それは何を達成したか? イワニセビッチは大会中175本のエースを決めた。その中にはサンプラスとの準決勝で決めた、大会記録に4本欠ける38本のエースも含まれている。しかしプレーにおいては、サンプラスの方がイワニセビッチより上だった。彼は7-6、4-6、6-3、4-6、6-3で勝利した。「僕は常に不運だ」と気難しいイワニセビッチはその後に語った。「僕は今までで最も不運なプレーヤーだ。おそらく不運に生まれついてるんだ」 彼の唯一の不運は、サンプラスと当たった事だった。必要な状況で自分のゲームのレベルを引き上げる彼の能力は、トレードマークになっている。大会の間、気を散らす物事を最小限にしておく彼の才覚もまた然りである。彼はロンドンでは、事実上閉じこもっていた。たいていはホテルのスイートルームにいて、ガールフレンドのデレイナ・マルケイが料理する食事を食べていた。「僕は非社交的なんだ」と彼は認めた。 彼が外に出るのは、試合と練習のためか、あるいはクランペットというサンドイッチ店にしばしば出かける時だけだった。そこで彼は新聞を読んだり、その日の出来事をデビスカップ監督のトム・ガリクソン―――ティムの双子の兄弟―――と論じたりした。トムは大会の間、サンプラスには貴重な身代わりの仲間であった。そして彼が「ピストル」と頻繁に叫ぶ声は、決勝戦の間サンプラスを元気づけた。この2週間、サンプラスにとっての夜の重大事は、バックギャモンでガリクソンに「数ポンド」を取られる事であった。彼は500ドルの借金で大会を終えた。 一方、ベッカーはビッグマッチとなった準々決勝で、フランスのセドリック・ピオリーンを6-3、6-1、 6-7、6-7、9-7で下した。それから彼は大会の人気者、アガシを倒した。ベッカーは実際の年齢より年長のようにあろうと努力したものであったが、いま彼は若さを取り戻そうとしているようだ。 彼は動機付けの技能で知られるボロテリーをコーチに雇った。それをベッカーは、ボロテリーは「僕をベッドから追い立て、練習コートへ向かわせる」事で応用していると語った。結果は、かつては彼にとって慣例であった、一種の疾走であった。ベッカーがピオリーンを破り、コートを去る時、彼は指で空を指し、目には光があった。「もし僕があの試合に負けていたら………」と彼はボロテリーに言った。それから彼はアガシをやっつけた。 通常、アガシが決勝に進出しそこなう事は、ここでは国家的悲劇のように見なされた。彼の因習を打破するような態度とスターの素質は、イギリス人の好みなのである。彼とブルック・シールズは、プラネット・ハリウッドから料理を運ばせ、賃貸した家で夕食を取ってタブロイド紙を避けた。あるいはレストランの「クリムゾン・タイド」と「アポロ13」が上映されている後方の部屋へこっそり入り込んだ。 彼のだぶだぶの服装、シャツと膝の周りでバタついているショートパンツ―――「頭の布きれと靴以外、何もフィットしていない」とパム・シュライバーが述べた―――は、安直なトレンドになった。「あなたのショートパンツが透けている事に気付いていますか?」と1人のタブロイド紙リポーターが尋ねた。「明らかに、君は気付いてるね」とアガシは答えた。 しかしベッカー戦で、アガシは彼より大きいウィンブルドンの偶像である選手に出くわした。そして、マーフィー・ジェンセンのように、彼は突然大会から姿を消した。1セットを取り、第2セットで2回のサービスブレークをして、アガシは自信過剰になり、ベッカーを試合に引き戻してしまったのだ。そして、ベッカーは2回のタイブレーク―――各々で小さい奴は1ポイントしか取れなかった―――を制し、2-6、7-6、 6-4、 7-6で試合を終え、アガシに対してドアを閉ざした。「まだ大きい熊にも命がある」と、2年前にかつての生徒アガシとギスギスした別れ方をしたボロテリーが自慢げに言った。 しかしベッカーの感情的・肉体的な犠牲は、決勝戦で明らかになった。足は重く、15のダブルフォールトを犯した。競争心が激しくて、ロッカールームでサンプラスと胸をぶつけかねないほどの時もあったとベッカーは語った。もはやそうではない。ベッカーはかつてセンターコートを自分の家と呼んだ。しかし明らかに奪われたのだ。「かつては僕のものだったが、今は彼のものだ」と彼は言った。 ここにサンプラスが、若い23歳の年齢において達成した事がある。6つのグランドスラム・タイトルで、彼はロイ・エマーソンの記録である12の半分に達した。そしてコナーズ(8)とマッケンロー(7)の優勝回数に素早く迫っている。マッケンローとビル・チルデン、アメリカ人男子としては他にただ2人だけが、同じ回数ウィンブルドンで優勝していた。 彼はいま一度、世代を代表する選手として記憶される、説得力ある事を成し遂げたのだ。再びトロフィーを獲得し、サンプラスはウィンブルドンの地下室で、足を揺すりながら座り、電話した。「僕はこのスポーツを長い、長い間する事ができるよ」と彼は語った。 |
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