スポーツ・イラストレイテッド
1994年7月11日号
最後の喝采
文:S.L. Price


ピート・サンプラスとコンチータ・マルチネスは、ウィンブルドンの勝者であった。
しかしマルチナ・ナブラチロワはショーをさらった

偉大な人物が終わりを告げる事より甘やかなものはない。あまりに長い年月やってきて、ある日、才能の大方は使い尽くされ、もう充分には残されていない事に気付くのだ。

7月のある土曜日まで22年間連続、13,118人の観客とウィンブルドン・センターコートに抱かれて、ところどころ剥げた最も愛する芝生の上に、マルチナ・ナブラチロワは立っていた。

そして呻く。ボールはネットを越えて落ち、彼女は走るがチャンスはない。「エ〜〜〜ッ!」喘ぎながら言う。フォアハンドをクロスに打ち、同点にして吠える。「カモン!」

37歳にして、攻撃する事が必要だからだ。稀なフォアハンドパスでコンチータ・マルチネスのゲームをブレークし、「イエス!」と大声を出す。そして顔のところで握り拳を作る。空に向かって話をする。敗れる。

偉大な者は出現しているのか? 時には音もなく現れる。音を立てる必要がないのだ。肉体、精神、才能は、MIT(マサチューセッツ工科大学)で設計されたかのように調和している。

7月の日曜日、ここにピート・サンプラスが、滑るように軽やかな動きで、2年連続でウインブルドンを圧倒的に勝ち進む。ゴラン・イワニセビッチはずっと、彼の新しい精神力について話してきた。

しかし第3セットで、それは嘘になってしまった。サンプラスはエースを放ち、驚きもせず、ただ頷く。なぜなら22歳で歴史を追っているからだ。ソフトなボレーで相手を抜き、踵を返す。相手はラケットを振ろうともしない。泣きそうに見える。

「彼はあまりにも良すぎた」と、イワニセビッチは後に繰り返し言った。「私の中でピート・サンプラスは、ロッド・レーバー以降の最高の選手である」と、イワニセビッチのマネージャであり、1959年からツアーに存在しているイオン・ティリアクは語った。「彼は世界で最も完成されたプレーヤーである」

それが1994年のウィンブルドンであった。番狂わせのフェスティバルで始まり、規則とコート上での振る舞いに関する毎日のセミナーのようになり、空前の世代交代で終わった。土曜日、22歳のマルチネスは、10回目のウィンブルドン・シングルス優勝というナブラチロワの望みを止めた。スペイン女子として初めて、テニス界最高の大会で優勝し、新たなスペインの征服を続けている。ウィンブルドン最後となった試合の最終セット、ナブラチロワはブレークポイントで2度ダブルフォルトを犯した。かつては完璧だったボレーを、何度もネットにかけた。一方マルチネスはよるべない伝説的選手に、目も眩むようなパッシングショットを次々と放ち、6-4、3-6、6-3の勝利を挙げた。

それはウィンブルドンに限らず、彼女の最初のグランドスラム決勝戦であった。しかしマルチネスは容赦なく、地震にもかき乱されないかのようなプレーをした。最後に、灰色のイギリスの空にラケットを放り投げ、ナブラチロワに抱き締められた後、マルチネスは自分が何をしたのか分かり始めた。「彼女はだんだん足が立たなくなっていったから、私が支えていたわ」とナブラチロワは言った。「初優勝の時にどう感じたか覚えている。初めての時は最高よ。まさに純粋な感じなの」

同じく2回目も悪くない。1985、86年のボリス・ベッカー以来、初のウィンブルドン連続優勝を成し遂げ―――そして最近5大会の内4回目のグランドスラムタイトルを獲得し―――サンプラスは彼の世代の傑出した選手としての評判を堅固なものにした。サンプラスは既にATPコンピュータ・ランキング史上、1位と2位の間に最も大きい差をつけていた。そして彼は良くなる一方である。

彼は7試合で1セット落としただけで、サービスゲームは3回失っただけだった。1992年のウィンブルドン・ファイナリストであり、現在2位のイワニセビッチに対し、彼は2回ブレークポイントを握られただけで、両方ともセーブした。最初の2セットをタイブレークで取った後、サンプラスは自分のゲームのレベルをさらに引き上げた。第3セットの第2ゲームで、彼は鮮やかにイワニセビッチの最大の武器―――時速136マイルと計測されたサーブ―――を打ち崩し、そこから6-0の死刑執行までは数分だった。

サンプラスは長い間、控えめな2人のオーストラリアン・テニスの偉人、レーバーとケン・ローズウォールからモチベーションを得てきた。そして彼は今、滅多にアスリートが到達しえない位置―――自分のアイドルに追い付くところまで来ている。「僕はだんだん近づいている」とサンプラスは語った。「僕はそこに向かっている。グランドスラムに優勝する事で、人々や自分自身に、僕が歴史の中に書き加えられる事を証明してきた」

だからイワニセビッチがマッチポイントでショットをアウトさせた後、サンプラスがセンターコートをオーストラリアのビアホールのようにみなすのを見ても、それほどショッキングではなかった。サンプラスは観客にラケットを放り投げ、アガシのようにシャツを脱いで放り、さらにもう1枚を投げ入れた。「全部脱ぐべきだったかな。連続優勝したんだから」と彼は言った。

経験不足のマルチネスは、最終ラウンドの登場に際し、もう少し礼儀正しく臨んだ。
「私は神経質だったわ。考えたの、ああ、神様、私は何をするんでしょうか? あそことあそこで、膝を曲げて会釈しなければ。うまく出来なかったらどうしよう?って」

テニスの心配の方が少ないほどだった。マルチネスは93年ウィンブルドンでは準決勝に進出したが、この日は、まるで芝生のために生まれたかのようにプレーした。スペインのモンソンで成長し、彼女はマルチナと命名した壁に向かって練習した。土曜日の終わりには、彼女は本物のマルチナを打ち負かしていた。「試合全体を通して、私は素晴らしかった」とマルチネスは言った。テニス界は新しいスターを得たと発表するにふさわしい、見事なプレーだった。

そしてふさわしい時でもあった。1991年以来のナブラチロワのグランドスラム・シングルス決勝への進軍は、魅力的なドラマを生み出した。しかしそれはまた、1位のシュテフィ・グラフを除けば、女子テニスがいかに層の薄いものであるかを浮き彫りにしていたのだ。グラフが1回戦でノックアウトされ、モニカ・セレシュとジェニファー・カプリアティが、少なくとも一時的に不在という状態で、女子のドローは海底トンネルより広く開かれていた。

ジジ・フェルナンデスが準決勝に足を引きずって登場するまで、ナブラチロワはまともな挑戦を受けていなかった。フェルナンデスは99位で、膝の後ろの腱と大腿四頭筋を痛めていた。「私は足がないようなものね」と彼女は言った。30歳のフェルナンデスは引退を考えており、アスペンの隣人、マルチナを応援していた。言い換えれば、ナブラチロワは一度も厳しい競り合いに直面していなかったのだ。

「大して気にしないわ」苦しみながら6-4、7-6で勝利した後、ナブラチロワは言った。「私は決勝に進んだのよ」2週間の終わりまで、それが最も重要な事であった。史上最高のウィンブルドン・チャンピオンが、芝生でファイナル・ランを行う、その事がただふさわしいように思えた。「これが私の望んだもの、格好良く辞める事よ」とナブラチロワは言った。

ダイアナ妃、歌手の k.d. lang、南アフリカ大統領代理F.W. デ・クラーク、みんなが女子決勝に出席する前で、彼女はそうした。しかしウィンブルドンと彼女の絆は、王権よりも深い。「このコートは彼女のコートよ」と、かつてクリス・エバートは語った。芝生ほどナブラチロワのゲームに適したサーフェスはない。そして彼女が1978年に初のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得する場所として、他のどんな大会もこれほど純粋な感情を呼び起こさなかった。

第1週の間に、皆が帰った後のセンターコートをナブラチロワは訪れていた。「夜、番犬と一緒にね」畏敬の念に打たれてクラクラしている10代の少女のように、一人っきりでその場所を見る。何故ここがテニスで最も崇拝される場所なのか、彼女ほど思い出させてくれる人はいるだろうか?

「私はウィンブルドンを初めて知った時から愛していた。それは、ある人をもっともっと愛するようになる関係のようだわ。愛情は深まり、そして報いられてきた。私はこの場所を骨の随まで感じる。コートに出ると、全てのチャンピオンの存在を感じる。亡くなった人も、生きている人も。そんな場所は他にないわ」

だがイギリスのクレア・テイラーとの初戦の前は、この場所がナブラチロワのゲームを復活させるという兆候はなかった。94年フレンチ・オープンの1回戦で完敗した後―――ウンザリしてラケットを壊した―――ウィンブルドン前哨戦のイーストボーンでは、彼女はスローで覇気もないように見え、準々決勝で39位のメレディス・マクグラスに敗れた。「全てが遅くなっている」と、昨年のウィンブルドン・ファイナリストのヤナ・ノボトナは、ナブラチロワについて語った。「彼女の意欲はあるけれど、身体はもうこれ以上できないようだわ」

しかし、ナブラチロワのコーチ、クレイグ・カードンとビリー・ジーン・キングは、もう一度ウィンブルドンで―――そこで既に合計18タイトルを獲得していたが―――優勝できる、以前の魔法の力を感じるだろうと彼女に言い続けた。彼らは正しかった。テイラーと対戦するためセンターコートに出ていった時、その日初めて太陽が顔を出した。彼女は歩きながらテイラーに言った。「見てごらんなさい。楽しんで。滅多に起きる事じゃないわ」

だがそれは起こった。ナブラチロワはさらに5回勝ち、ノボトナに対して最初のセットを落とすまで、1セットも失わなかった。その試合の残り、彼女は大会中ベストのテニスをした。最後の2セットの結果は、6-0、6-1とワンサイドに近かった。「それは予想しなかったわ」とナブラチロワは語った。

そして再び、何も予想すべき時ではなかった。大会が始まった時、マルチネス優勝のオッズは33対1に過ぎなかった。2週間前のスタート時、スペイン国王の存在に鼓舞されたと力説する彼女の優勝に、誰が賭けただろうか? 確かに2人の臣民、 セルジ・ブルゲラとアランチャ・サンチェス・ヴィカリオは、フレンチ・オープンで優勝してはいたが。

また長年のウィンブルドンの寵児、ボリス・ベッカーが、評判を失墜させて去るとは、誰が想像しただろうか? 現役選手の中でベッカーだけが、ナブラチロワにも似たセンターコートとの繋がりを主張する事ができたのだ。9年前、17歳でノーシードだったベッカーは、優れた手榴弾を携えて、牧歌的なウィンブルドンのシーンに飛び込んできた。彼はダイビング・ボレーを試み、春の匂いを嗅ぐ犬のように草の上を転がった。彼ほどオール・イングランド・クラブで人気のあったチャンピオンは殆どいなかった………今までは。

1990年オーストラリアン・オープンで、ジョン・マッケンローがスポーツマンらしくない行為のために退場させられて以来、選手がこれほどテニス界から非難された例はなかった。ベッカーはツアーの中でも賢明なメンバーの1人と見なされてきて、マックのようだと描写された事は一度もなかった。しかしウィンブルドンでは、ハビエル・フラナとの3回戦で、トイレット・ブレークの最中にトレーナーから足のストレッチを受けた事に対し、1,000ドルの罰金を科せられたのだ。

そしてアンドレイ・メドベデフとの4回戦では、第5セットでマッチポイントを握ってはいたものの、メドベデフがサーブを打とうとした時に、ベッカーは巧みに時間稼ぎをしたと非難された。「もし充分に優れているのなら、不正な事をしないで勝つべきだ」とメドベデフは言った。中でもマッケンローは、ベッカーの失格を要求した。

ベッカーを弁護するなら、彼はブレークの間に手当てを受ける事が、規則に反するとは知らなかった。彼は初めから、試合のペースを握ろうとしていた。「彼らが声高に言うのは、多分負けた事が主な理由だろう」と、ベッカーは自分を非難する者たちについて語った。「これは小さい大会ではない。我々は若干の楽しみを得るためにプレーしているのではない」

確かに。しかしフラナの論点はもっと強いものだった。ゲームには常に、王に対する罰と庶民に対する罰とは重さが違うという、ダブル・スタンダードの疑いがあった。ベッカーはもう10年もツアーにいるのだから、トイレに行く間に何が許されるのか、知っているべきだ。その事を考慮すると、彼への罰金は著しく軽いものに見えた。フラナは言った。「もし僕がしていたら、どうなっていただろう? 僕を失格させるのは、王様たちを失格させるほど大した事じゃない」

他のどんなスポーツも、滅多にない行動のために、それほど多くの規則は定められていない。試合の間に無許可の治療を受けるのは不正行為である。ベッカーは失格にされるべきであった。ウィンブルドンからのベッカーの苦い去り方は、涙を誘うナブラチロワの最後の別れの裏面であった。

誰かが叫んだ。「マルチナ、来年も戻ってきて!」しかし彼女は首を振り、投げキスを送った。ナブラチロワは語った。「とても甘やかだった。私が感じるものを人々も感じる、それを共有できるのはステキだわ。私は自分を通して、人々をウィンブルドンに近づける事ができる。彼らはそれを感じられる。そして私がいなくなっても、それは続くのよ」

彼女は伝統にのっとってコートを巡った。 敗者がチャンピオンとして歩む、初めての時と記憶されるだろう。センターコートの群衆は立ち上がり、ナブラチロワに最高の喝采を送った。午後4時20分、彼女は退場口へと向かい、膝を曲げて会釈した。そして突然立ち止まり、芝生を一つまみ手に取った。75分後、彼女はクラブ入口から歩み去り、車に乗ってゆっくりと遠ざかっていった。2人の少女が背後の黒い鉄の門を閉じた。


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