スポーツ・イラストレイテッド
1994年2月7日号
グランド・スラミングス
文:Sally Jenkins


トップランクのピート・サンプラスとシュテフィ・グラフは、
オーストラリアン・オープンで全ての挑戦者を打ち破った


オーストラリアン・オープンですべき事、それは国旗にくるまり、缶ビールを飲み、自国のために選手たちを野次る事である。もう何年間も、クレージーなスウェーデン人たちは顔にペインティングをし、ビールのケースを携え、ステファン・エドバーグが鮮やかなショットを決めるたびに、スタジアム最上段で揃いの声援を送っていた。そして先週は日本のファンが、驚きの女子準決勝進出者・伊達公子に、騒々しい礼拝を繰り広げていた。

しかし日曜の男子決勝では、ピート・サンプラスとトッド・マーチンが、このイベントを完全にアメリカ人のものに変えた。学生のようなヘアスタイルの、ボーイスカウトのポスターボーイのようなサンプラスとマーチンは、メルボルンのフリンダーズ・パークを訪れたやかましいアメリカの観客を二手に分けた。「カモン、ピート!」「カモン、トッド!」の声援が交互に飛び交い、ついには外野席から「カモン、両方とも!」の声が飛び出した。

興味の尽きない全く互角の第1セットで、2人の選手はロケット弾のようなショットをネットの向こう側に放った。それからサンプラスは、彼が男子ツアーの残りに対してもしてきたように、容赦なくマーチンを引き離し、7-6、6-4、6-4のスコアで、1994年最初のグランドスラム・タイトルを獲得した。

サンプラスが今年4つのグランドスラム大会をさらう事について話し始めるのは、少し早すぎるだろうか? 恐らく。しかし囁く程度なら、早すぎる事もないだろう。サンプラスは記録に照準を合わせている。そして彼のヒーロー、ロッド・レーバーと共に語られるようになりたいと、口にしてきた。レーバーは1969年に年間グランドスラムを達成した最後の選手である。ウィンブルドンとUSオープンで優勝し、1位まで上り詰めた93年のシーズンに、どのくらい進歩したか聞かれ、サンプラスは「多分、全部勝てるくらい」と答えた。オーストラリアン・オープン優勝の後では、それほど大胆にも聞こえなかった。

メルボルンでサンプラスより圧倒的だった唯一の人物は、女子チャンピオンのシュテフィ・グラフであった。第2シードのアランチャ・サンチェス・ヴィカリオを6-0、6-2、57分で下した試合は、オーストラリアン・オープン決勝の中でも最短の1つだった。サンチェス・ヴィカリオは、グラフの斧のようなストロークの恰好のターゲットでしかなかった。グラフはセットを失う恐れさえなく、4大会連続、15回目のグランドスラムの栄冠を獲得した。彼女は自分のプレーぶりに興奮していた。「こんなプレーをする時は、試合のスコアとか長さ、あるいは1回戦か決勝戦かなんて事は気にかけないわ。ただ素晴らしい気分なの」と彼女は語った。

グラフは嬉しすぎて、それが元1位のモニカ・セレシュの不在を反映している事を考えられなかった。セレシュはドイツのハンブルグで刺され、9カ月後もまだ活動していなかったのだ。しかしグラフは、挑戦がある時には、ゲームがいっそう面白くなる事を認めた。セレシュ、あるいは高校卒業のために長期休暇を取っているジェニファー・カプリアティがいないと、女子のドローは殆ど空っぽのようだった。

すなわち、グラフがカリフォルニア出身の6フィート2インチ、17歳のリンゼイ・ダベンポートと対戦するまでは。ダベンポートは自意識のないクスクス笑うような女の子で、ロージー・カザルスというよりは、 ロージー・オドネルに似ている。しかしコート上では、殺し屋のようなストロークを持っている。彼女は第6シードのメアリー・ジョー・フェルナンデスを番狂わせで破って準々決勝に進出したが、そこでグラフに3-6、2-6で敗れた。

グラフがダベンポートを下すと、待っていたのは第3シードのコンチータ・マルチネスに番狂わせで勝った伊達だった。伊達は両手利きの驚くべき選手で、グラフへの3-6、3-6の敗戦で見せたよりも遙かに良い選手である。意志の固い日本愛国者は、国際女子テニス協会から英語を学ぶよう命じられた。伊達はメルボルンでは自分で米の昼食を料理し、試合の後には膝に鍼治療を受けていた。彼女はオーストラリアでの活躍により、7位まで順位を上げた。

ダベンポートと伊達は、それなりの時間グラフと戦ったが、サンチェス・ヴィカリオは全くできなかった。ベーグルを喰らった第1セットでは、12ポイント取っただけだった。セレシュが戻らないなら、グラフは1988年のグランドスラムを繰り返す事もできるだろう。実際、彼女は5年前よりさらに良いかも知れない。

一方サンプラスは力強く洗練されたプレーをし、ボリス・ベッカー、アンドレ・アガシ、マイケル・チャン等の欠場は殆ど忘れられていた。ベッカーはドイツで最初の子供の誕生を祝っていた。アガシはラスベガスで、手首の手術からの回復途上だった。チャンはただプレーする事を望まなかった。彼らの出場は重要ではなかっただろう。

寡黙なサンプラスは、ラケットに物を言わせるのを好む。まあ、たしかに雄弁だった。2回戦でエフゲニー・カフェルニコフという名前の未知のロシア人から、フルセットの末に逃げ切った後は、サンプラスは試合のたびにどんどん良くなっていった。彼が絶妙なフォームにまで達した事は、準決勝で2回優勝のディフェンディング・チャンピオン、ジム・クーリエを話にならないほど簡単に6-3、6-4、6-4で下した試合で伺えた。サンプラスはクーリエに最近7回対戦した内の6回勝っており、敗れたクーリエは何をすべきか途方に暮れているようだった。「多分チェンジコートの時に、彼の足でも折るんだな」とクーリエは語った。

初めてグランドスラム決勝でプレーしたマーチンも、答えを持っていなかった。しかし6フィート6インチのマーチンが、将来サンプラスを苦しめる事ができそうだという兆候はある。マーチンは1993年、5人のトップ10選手を破り、ウィンブルドン準々決勝に進出して、87位から13位まで上がった。「僕はいつも彼の可能性を信じていた。だから彼が決勝まで来た事には全く驚かない」とサンプラスは語った。

23歳のマーチンは、アメリカには才能あるテニス選手が存在するという1例である。ほんの数年前には、ジョン・マッケンローとジミー・コナーズに代わる者はいないと思われていたのだ。マーチンの進歩には、主に2人のアメリカテニス協会のコーチが寄与している。1人はデビスカップ監督のトム・ガリクソン、1人はホセ・ヒゲラスで、彼はチャンとクーリエをグランドスラム・タイトルに導いた。

マーチンはオーストラリアに来る前に、ヒゲラス、ガリクソンと一緒に、カリフォルニアのパームスプリングスで2週間準備をした。ヒゲラスはそこで指導を行っている。 アメリカの選手たちがミニ訓練キャンプのために、オフシーズンの間パームスプリングスに集まるのは、通例になってきている。今回マーチンはクーリエと一緒に練習し、食事をして、ゴルフコースでは彼から30ドルをせしめた。同じくサンプラスとも一緒に練習・ゴルフをした。サンプラスのコーチは、トムの兄弟ティム・ガリクソンである。

またマーチンは、同じく伸び盛りの若手、マリバイ・ワシントンとも良き友人・練習仲間である。先週ワシントンは初めてグランドスラム準々決勝に進出し、マーチンに敗れた。アメリカの選手たちがお互いに切磋琢磨し、レベルを上げてきている事に疑問の余地はない。さらにメルボルンで、サンプラスとマーチンはクリーンな若者として、懸命に励んだ。そのイメージは、今多くのアメリカ人選手に好まれている。「ミルクを1杯もらえれば、僕は幸せさ」とマーチンは言う。彼は準優勝のトロフィーを受け取り、自分をただ「典型的なアメリカ人」と称した。

それでもなおサンプラスは、彼の良い態度のために不快な経験をこうむってきた。彼はウィンブルドンで優勝した後、プレスから「退屈」のレッテルを貼られたのだ。オーストラリアン・オープンが始まる直前、以前のチャンピオン、ジョン・ニューカムは、サンプラスにはカリスマ性がないと激しく非難した。サンプラスは「僕が冗談を言う事をジョン ・ニューカムが望んでいるから、僕は言わないよ」と切り返した。サンプラスは最も才能あるテニスプレーヤーであるだけではなく、最も感じの良い人間でもある。彼は素晴らしい選手であるために、無作法者である必要はないという事を証明しようとしているようだ。「僕は正しく振る舞おうとしている事に対し、詫びる気はない」と彼は語った。

マーチンはと言えば、さらに刺激的な面はない。彼について唯一カリスマ的なところは、スケールの大きい、オールコート・ゲームである。それは時速120マイルのサーブ、むち打つようなグラウンドストローク、リーチの広いネットカバーを伴っている。印象的なリーチの広さを生かし、マーチンは翼手竜のようにネット上から襲いかかってくる。しかし彼のゲームは、最近までほとんど注意を引き付けなかった。サンプラスやクーリエは早くからプロツアーに参加したが、彼は2年間ノースウエスタン大学で言語学を勉強した、遅咲きの選手だからだ。

もし礼儀正しいマーチンに、何か荒々しい面を見つけるなら、それはポケットビリヤードへの情熱である。ミシガン州ランシングの自宅に帰るといつも、彼はポケットというビリヤード場に行く。そこで彼は競技大会に参加するのだ。「僕はテニスよりビリヤードの方が神経質になるよ」と彼は言う。

オーストラリアン・オープンの決勝に進出するには、最大の勇気を必要とした。マーチンは8回のタイブレークの内7回を取り、その中にはエドバーグに3-6、7-6、7-6、7-6で勝利した、準決勝での3回も含まれていた。しかしサンプラスとの第1セットで、マーチンの驚くべき記録は止まった。マーチンには6回のチャンスがあったが、サンプラスのサービスをブレークする事ができなかった。サンプラスがタイブレークで勝った時、マーチンの魔法は消えていた。サンプラスは第2セットでは4-1、第3セットでは5-1とリードを広げたが、その後サンプラスのエラーもあって、マーチンは各セットを見苦しくないものにする事ができた。

その後、友人同士の2人のアメリカ人は、ネット越しに抱き合った。「今日は僕の日ではなかった。でも過去13日間は、僕のための日のように思えた。だから僕はそれが嬉しかった」とマーチンは語った。

その後、サンプラスがグランドスラムを達成するチャンスについて答えた。最も厳しいテストは、サンプラスがまだ優勝していないクレーのフレンチ・オープンだろう。
「ああ、彼はできると思うよ。この男、マーチンが彼の途上にいなければね」とマーチンは言った。


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