スポーツ・イラストレイテッド
1993年9月20日号
Severs and Follies サーブ(勲功)と愚行
文:Alexander Wolff


ピート・サンプラスとシュテフィ・グラフが王位を狙う者を片づけるまでは、
USオープンは泣き虫の子供と無名選手で溢れかえっていた

「カモーン、誰かさん!」
日曜日の、セドリック・ピオリーンとピート・サンプラスの男子決勝戦で、1人の観客が叫んだ言葉である。

今年のUSオープンでは、その言葉は少なくとも半分は正しかった。16人の男子シードのうち、7人が3回戦までに消え、男子ドローはまさに「オープン」であった。アメリカ人の選手は殆ど見当たらなかった、特に女子の側には。アメリカ合衆国の大会107年の歴史で、誰も準々決勝に進出しなかったのだ。

フラッシング・メドウの食べ物(準々決勝で負けたアンドレイ・メドベデフは「毒」と称した)、練習コート(4回戦で負けたジム・クーリエは「穴」と呼んだ)、スケジュール(「ベッカーに関しては非常にまずい」4回戦で負けたボリス・ベッカーは言った)等に対する、トップ選手たちの子供っぽい愚痴が止んだ時、ピート・サンプラスとシュテフィ・グラフだけが残っていた。彼らはプレーと同様に態度もハイレベルを保っていた。

「ニューヨークはみんなが考えるほど悪い場所ではないわ」とグラフが語った。サンプラスを代弁していたのかも知れない。

「僕は自分のテニスをし、そしてサインとか、しなければならない事をするだけだ」とサンプラスが語った。グラフを代弁していたのかも知れない。

それらのコメントは、今年のUSオープンは退屈だったと思わせるかも知れない。そうではなかった。

4月のハンブルグの大会で、チェンジオーバーの最中に失業中のドイツ人旋盤工がモニカ・セレス刺し、彼女が大会に出場不能となって以来、グラフの勝利の全ては、他の誰かが選んだもののようになっていた。残念である。その決定的な事件以来、グラフは6大会連続優勝、36試合連続勝利を収めていた。もし1月のオーストラリアン・オープン決勝でのセレスへの惜敗がなければ、彼女は2度目の年間グランドスラムを達成していたであろう。そして彼女は女子ツアーに君臨し、かつてセレスと共有していたプレッシャーを1人で背負っていた。

故アーサー・アッシュを顕彰する活動にセレスが不意に現れた時、刺傷事件問題は再浮上した。翌日、回復期の間にグラフから便りをもらわず、失望したとセレスはマスコミに語った。その発言はグラフには当てはまらなかった。彼女はハンブルグで入院中のセレスを見舞い、セレスが治療を受けているコロラド州ベイルに、何度も連絡を取ろうとしたのだ。IMGマネージメント会社のセレス担当者さえ、彼女との連絡には苦労していたのである。彼女はある日はグレタ・ガルボのように、また次の日はマドンナのように振る舞っていた。

「悪く聞こえると困るけれど、私は連絡を試みていたわ」決勝戦の後、丁重にセレシュに言及したグラフは語った。「彼女と連絡を取る事は、ただ不可能だった。他の人々も試みた筈よ」

長い間グラフが家と呼んできた2つの場所、ドイツのBruhlにある家族の家と、フロリダのボカ・ラトンに構えた両親の家に隣接する家は、複雑に絡み合った彼女の24年間のイメージを象徴する―――家族とテニス。それが、ニューヨークに構えた90万ドルの新しいペントハウスに、彼女がウキウキする理由である。それはマンハッタンはソーホー地区の端にある、警察本部を改装した3階建てアパートである。「私自身の場所を持って、自分で内装をするのは、ずっと望んできた事なの」USオープンの第1週を、カーテンを買いに行く事に費やしたグラフは言う。「近所はニューヨークの他の場所と違う。何軒かの小さな画廊やお店、レストランがあって、そこだけで小さな都市のようよ」

グラフは明らかにニューヨーカーの表情で、フラッシング・メドウのアクリル製芝生を歩き回った。彼女は転換点を迎えていた。敏速に仕事をし、笑わずに勝ち進み、アイコンタクトを避けた。4-6、6-1、6-0で勝利したマヌエラ・マレーバ-フラニエールとの準決勝、6-3、6-3で決めた土曜日のヘレナ・スコバとの決勝で、彼女は黒と白のアンサンブルを着用し、白いヘッドバンドと黒いリボンでコーディネートした。それはまさにダウンタウン・スタイルだった。居間のためのカーテンは、他の皆のためのカーテンとなった。

グラフはついに、人生のパートナーに彼女の厳格な父親、ピーター以外の男性を得た。25歳のミハエル・バーテルズはフォーミュラ3000のドイツ人ドライバーで、彼とシュテフィは付き合い方に非常に慎重だった。公の場で彼らを見る事は滅多にないが、8月初旬のサンディエゴの大会で、2人が手を繋いで会場周辺を散歩しているのが目撃された。1カ月前のトロントでのカナディアン・オープンでは、グラフが優勝トロフィーを受け取った時、1人のファンが「シュテフィ、愛してるよ!」と叫んだが、彼女は「私は予約済みよ」と答えた。

彼女の自信は明白である。「彼女はより自立していて、それは彼女のテニスに表れている」とコーチのハインツ・ギュンタードは語った。彼はグラフがバックハンド・トップスピンのパッシングショットを改善するのを助け、6フィート2インチのスコバがネットに出た時、そのショットは実にうまく機能した。グラフの父親がごたごたを起こし、セレスに1位を奪われ、ハンブルグ事件で情緒的に動揺(セレスを刺した男は、それでグラフが1位に戻るだろうからやったと語った)した事をタブロイド紙が酷評してきた後では、歓迎すべき光景である。若い女性のテニス選手が、ほぼストレートセットで大人への成長を遂げたのだ。

良かれ悪しかれ、グラフの選択した過程は男子にも強烈な印象を与えた。「凄いスピードで運転しても、事故はなし!」19歳になったばかりの、ウクライナ系ロシア人のメドベデフは言った。「ニューヨークで1回も事故を見た事はないけど、僕は100回くらい事故に遭いそうになったよ」

メドベデフはマンハッタンについて語ったに違いない。クイーンズでは事故はありふれていたからだ。そして彼は、フランスのピオリーンとの試合では「誰かさん」に負けた犠牲者の1人となった。ステファン・エドバーグ、ゴラン・イワニセビッチ、リチャード・クライチェクは、全員グランドスタンド・コートで敗れた。このコートはスタジアムコートより球速が遅いと見なされており、ビッグサーバーにその種の弁解のタネを提供した。ベッカーはスウェーデンの職人、マグナス・ラーソンに負けた。そしてクーリエもまたピオリーンに敗れた。彼は一度もプロ大会で優勝した事がなく、アンリ・デュモンという名前のコーチはそもそも経営コンサルタントで、第1週だけの契約だったが、決勝戦のために急遽コンコルドで戻って来なければならなかった。「僕はただ1ポワント(訳注:フランス語訛り)ずつプレーする」7-5、6-7、6-4、6-4でクーリエを負かした後、ピオリーンは言った。ああ、屈辱。クーリエは元来フランス贔屓なのに、クルーゾー警部に捕まり、手錠を掛けられてしまったのだ。

クーリエは練習コートへの不満を、ニューヨークの穴っぽこ上院議員アルフォンス・ダマトに持って行けば、もっとうまくやれたかも知れない。ダマトも通常ナショナル・テニスセンターに溢れかえる、名士達の1人である(ジャック、ソフィア、ウィルト、アレック、カーク、トム、ニック等も散見された)。アンドレ・アガシ劇の名場面―――19歳のスウェーデンのトーマス・エンクウィストが、アガシを1回戦で下した事―――で、彼が関係者あるいは名士になったかは不明である。しかし食べ物に譬えるならアガシはドーナツで、上には色々かかっているが、中心は空っぽな事を我々は知っている。敗戦の後、アガシは各ポイントについて考え抜く事の価値に疑問を呈した。それこそが、彼の新しいコーチ、パンチョ・セグラは彼にしてほしいと切望しているのだが。「彼にはテニス以外に気を散らす事がたくさんある」と、アガシについてサンプラスは言った。「どこへ行っても彼は群衆に囲まれる。彼は多分その種のオーラを発するんだろう。彼はそれが好きなのかも知れない。分からないけど」

サンプラスが考えるアガシの評価では、グランドスラム・タイトルを勝ち取る事はないと言える。3年前にフラッシング・メドウで優勝したサンプラスは、ショーコートに放り出された新参者だった。強烈なサーブを持つヒョロッとした子供が、無我夢中で2週間プレーし、結果的にアメリカ・テニス最高の栄冠を勝ち取る事になったのだ。彼はそれに続く事に対する用意ができていなかった。突如として浴びたスポットライトは、彼の内向的な性質と衝突した。一連の金儲けのエキジビションは彼を疲れさせた。イタリアのスポーツウェア会社セルジオ・タッキーニは、ウェアと靴の契約で年間200万ドルを彼に支払った。しかしその靴で彼に向こう臑の腱炎に見舞われ、デザイン変更がなされなければならなかった。

1992年1月、かつては凡庸なプロだったティム・ガリクソンがサンプラスのコーチになった。次のシーズン、彼らはヨーロッパのクレーコート大会を回り、サンプラスのフォアハンドを改善し、ラリーの中でポイントを組み立てる辛抱強さを学んだ。それはまさしくアガシが抵抗する要素である。サンプラスのフォアハンドは、ループ状のストロークや極端なトップスピンを加える事なく、より確かなものとなった。それは突然にラリーを終える事のできる、打ち破りがたいスライダーである。しかし彼はそれを早まって打つ事はないだろう。「もし勝つのに5時間を要するのなら、5時間戦うまでだ」とサンプラスは言う。

ガリクソンはサーブはいじらなかった。それは7月のウィンブルドンで、サンプラスに優勝をもたらした。そしてこのUSオープンの7試合で、7回しかサービスゲームを落とさなかった武器だ。準決勝でサンプラスが6-4、6-3、6-2で追いやったロシアのアレクサンダー・ボルコフは、1回もブレークポイントを握る事がなかった。日曜日の決勝戦では、サンプラスは各セットの第1ゲームをブレークし、後は流して6-4、6-4、6-3の勝利をものにし、ピオリーンの魂の殆どと、試合の醍醐味の大半を奪ってしまった。「私は強かった時代のパッカー・ファンだった」と、42歳でウィスコンシン育ちのガリクソンは語った。「ピートは他の皆が順応しなければならない類のゲームを持っている。かつてグリーン・ベイが力で圧倒したように、それが来る事は分かっている。ただ、それを止めなければならないんだよ」

サンプラスは自分のドローに「誰かさん」たちが残った事も、あるいは論争を好まない態度も、弁解する事を拒否した。彼もまた、食べ物について文句を言う事ができた筈だ。1年前エドバーグに決勝戦で敗れる前に、下痢で苦しんだのだから。その代わりに、サンプラスはロング・アイランドのホテルに閉じこもり、デリカテッセンからサンドイッチを調達してもらった。「僕はあまり論争が好きじゃない。論争は確かにチケットを売り、視聴率を上げるんだろうけどね。でも僕は自分のスタイルを変えないよ」

サンプラスがセグラ、トニー・トラバート、フレッド・ペリーといった、テニス界の長老のチャンピオン達を唸らせるのは、態度だけではない。彼がプレーする方法である。彼はテクノロジーではなく、テクニックの産物である。彼は16歳の時から、同じモデルのラケットを使ってきた。サーブの後ネットに出て、片手でバックハンドを打ち、クラシックなイースタン・グリップでフォアハンドを打つ。勝利の後に観衆に応えるため、手の平を外側に向けて腕を上げる癖さえも、先祖返り―――古代ギリシャ風である。多分ソテリオスという名前の父親から受け継いだ、先祖返り的な仕草なのだろう。彼の頭上に月桂樹の冠を想像するのは難しくない。

いろいろな意味で、この機械化オープン―――準備不足と判明したラインコールの電子システム、1996年までにナショナル・テニスセンターの規模を2倍にし、新しい23,500席のスタジアムコートを建設する件を仮承諾した市の政治家たち、それぞれ耳障りな音を立てる、いつもの飛行機と小型飛行船と地下鉄―――は、2人の非常によく油が差され、調整された選手をハイライトとして記憶されるであろう。しかし、サンプラスとグラフはコート上では機械のように見えるが、彼ら自身のやり方で人間として開花してきている。サンドイッチを「パンと詰め物」と宣伝するこの大会では、婉曲表現に浮かれ騒いでいるので、今年のチャンピオンはシンプルに呼ぼう。成熟した人間と。


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