スポーツ・イラストレイテッド
1993年7月12日号
4日のロケット
文:Sally Jenkins


凄まじいサーブで、ピート・サンプラスは22本のエースを決め、
アメリカ独立記念日にオール・アメリカンのウィンブルドン
決勝戦でジム・クーリエを負かした



今年のウィンブルドンには完璧と秩序があった。1977年以降初めて、2週間の間一滴の雨も降らなかった。そして観客は、果てしない日光浴とスター見物を楽しんだ。1927年以来なかった事だが、男子のトップ4シード―――ピート・サンプラス、ステファン・エドバーグ、ジム・クーリエ、ボリス・ベッカー―――が準決勝に進出した時、数に関する調和が形をとり始めた。7月4日のアメリカ独立記念日に、1984年以来初のアメリカ人男子同士の決勝戦で、世界1位のサンプラスが2位のクーリエを破った。前日には、女子世界1位のシュテフィ・グラフが100周年のウィンブルドン女子タイトルを勝ち取った。

バーブラ・ストライサンドとダイアナ妃を含む、多くの有名人がオール・イングランド・クラブに特別出演をしたが、ウィンブルドン劇における主役は、大会の有名な芝生だった。それは青々とした緑の谷間から、埃っぽい窪みへと変化していった。実際に、地面は非常に乾燥し、所々ひび割れたほどだった。硬い干からびた地面にはあまりにもデリケートな人々の中に、アンドレ・アガシがいた。ディフェンディング・チャンピオンで、友人ストライサンドの応援にもかかわらず、準々決勝でサンプラスにノックアウトされたのだ。そして決勝に進出したヤナ・ノボトナは、センターコートで記憶に残る挫折を経験した。
実際、今年のウィンブルドンでの唯一の水分は、女子決勝のすぐ後に落ちた。それはグラフが7-6、1-6、6-4で勝利し、3年連続、トータルでは5回目のウィンブルドン優勝の後の出来事だった。第3セットで4-1リードとした後、第8シードのノボトナは、最後の3回のサービスゲームでの4つのダブルフォールトを含めて、一連の痛恨のエラーを犯した。グラフと握手した時、そしてケント公夫人から準優勝のプレートを受け取った時、彼女は平静を保っていた。しかし公爵夫人が「ヤナ、私はあなたがいずれ優勝すると信じていますよ」と彼女を慰めた時、ノボトナは涙にむせび、一瞬王族の肩に頭を預けた。「私は自分にオーケー、あなたは負けた。そしてあなたはそれに対処しなければならない。1つの機会だったという事よと言い聞かせたの」とノボトナは後に語った。「でも私はちょっと失敗した」

優勝プレートを受け取るのを待っていたグラフもまた、泣き始めた。それは彼女の勝利が、対戦相手のこのような感情的苦痛を伴うものだったからだ。グラフの当初の有頂天は消え失せた。「試合の後、最初の数瞬はとても幸せだったわ」と彼女は言った。「けれども彼女の顔を見た途端に、何が彼女の心をよぎっているか、はっきりと分かったの。私達はみんな、そういう状況を経験してきた。それで私は本当に気の毒になったの」

グラフは試合にはとても満足できなかったので、1時間後には普通でない行動を取った。彼女は同僚で良き友人であるレネ・スタブスに、オール・イングランド・クラブに隣接したマルチナ・ナヴラチロワの借家へメッセージを届けてもらった。 グラフはその午後、ナヴラチロワと私的な試合をする事を望んだのだ。しかし、家にはナヴラチロワのコーチ、クレイグ・カルドンしかいなかった。ナヴラチロワは、ノボトナに6-1、6-1で敗れた準決勝の痛手を引きずっていたので、決勝戦を見ずにゴルフに出かけていたのだ。

グラフを含む多くのオブザーバーは、9回のチャンピオンで今年は第2シードである36歳のナヴラチロワが、決勝に進出するだろうと想定していた。「彼女がそこにいない事に、ガッカリしているわ」とグラフは決勝戦の前に語った。

実際、ノボトナは7回対戦して勝った事がなかったので、木曜日の準決勝の時点では、ナヴラチロワが10回目のタイトルを獲得するチャンスは、かなり高いと思われていた。しかしナヴラチロワは、しばしば年長のプレーヤーを悩ますつまずきを経験した。彼女の腕と足は、その試合では働かなかったのだ。彼女は殆どボールをクリーンヒットできないようだった。そしてラケットは、彼女を当惑させるような鈍い音をしばしば発した。「私は全くボールの感触を掴めなかった」と彼女は言った。「他に何ができたか分からないわ」ナヴラチロワにもまた、観客の中に名士の友人がいた。アカデミー賞獲得の女優エマ・トンプソンである。

24歳のノボトナへの敗戦が年齢のせい、あるいはこれで引退へより近づいた事をナヴラチロワは否定した。彼女は1990年のウィンブルドン以来、グランドスラム優勝はないが、他の大会で9回優勝しているし、堅実な世界4位である。ノボトナに負けた後、彼女は指を1本立て、少なくとももう一度戻ってくる事を約束してセンターコートを去った。「私は戻ってくるわ」と彼女は言った。

最近6試合のうち5回がフルセットまでもつれ込んでいるが、決勝の相手グラフに対して、ノボトナの戦績は3勝16敗でしかなかった事は、多くを物語っている。それでも、彼女は攻撃してミスしただけだと主張し、プレッシャーで崩れたとは認めなかった。「ただ悲しい結末だった。でも私は、自分にはグランドスラムで優勝する可能性があると、今まで以上に信じているわ」

その悲しい結末の前に、チェコ生まれのノボトナは、3人のグランドスラム優勝者を破っていた。準々決勝では、1990年USオープン・チャンピオンのガブリエラ・サバチーニを簡単に下した。そしてナヴラチロワを破り、グラフに対しては、センターコートで今まででも最も優美なテニスを披露し、殆どグラフを敗戦に追い込んでいた。彼女は素速くボレーを決め、あるいは器用なチップリターンやスライスでグラフをネットにおびき出し、次にロブやパスで彼女を抜き、グラフをきりきり舞いさせた。

グラフは第2セットの最初の5ゲームで、7ポイントしか取れなかった。そしてノボトナは第3セットの最初の5ゲームの間も、試合をコントロールしていた。しかし5-1リードとなるゲームポイントで、突然、連続して3つの恐ろしいエラーを犯した。彼女はセカンドサーブをミスしてデュースとし、フォアのハイボレーをふかしてグラフにブレークポイントを与えた。そしてオーバーヘッドをネットにかけ、ブレークを許した。そこから、ノボトナは見る見る崩れていった。そして勢いは明らかにグラフの側に戻った。ノボトナは最後の2ゲームで、1ポイントしか取れなかったのだ。

その後、グラフは自分が2本のウィナーを打った事、そしてボールを繋いだ事に対しては若干の賞賛に値すると指摘した。「気の毒に感じたわ」と彼女は語った。「ある意味でガッカリしている。なぜなら彼女はうまくプレーしたのに、勝利を決めなかったから。本当に信じられなかった。私を悩ませたのは、自分があまり良いテニスをしなかったという事だったわ」

しかし、グラフには跳ね返す力があった。大会に入った時、彼女は右足に強い痛みを抱えており、また4月に当時1位だったモニカ・セレスが刺された事件のため、精神的にも不安定だった。そのうえ1回戦では、彼女を怖じ気づかせるためオール・イングランド・クラブに現れたやじり屋に耐えなければならなかった。やじり屋が会場から護送された後、グラフは警備員に囲まれてクラブ内を移動した。

最後の3試合では、それぞれ危険なリードを取られた。準々決勝では、7-6、6-1で勝つ前に、第1セットでジェニファー・カプリアティに5-3とリードされた。そして準決勝の第1セットでは、スペインのコンチータ・マルチネスが4-1とリードした。その後彼女は自信を失い、グラフが7-6、6-3で勝利したが。

この事もグラフの功績である。忍耐心のあるチャンピオンは、ただ才気あふれたプレーで勝利を収めるだけでなく、対戦相手が取り逃がしたチャンスをものにできる者なのである。グラフより多くのウィンブルドン・シングルス・タイトルを勝ち取った女子は6人だけである。ナヴラチロワ、ヘレン・ウィルズ・ムーディー(8)、 ドロテア・ダグラス・チェンバース(7)、ブランチェ・ビングレイ・ヒルヤード(6)、スザンヌ・ランラン(6)、ビリー・ジーン・キング(6)。
サンプラスのウィンブルドン・タイトルは1つだけだが、彼にとっては意義深い第1歩である。彼が4月にクーリエから奪った世界1位に値する事を、彼自身、そして世界に証明したのだ。実際、感情的には脆いが、サンプラスはテニス界で最も完成された選手かも知れない。

彼は絹を切るハサミのように、静かに大会を勝ち上がっていった。イギリスのタブロイド紙に、面白くないというレッテルを貼られたほどだった。「ピートは退屈」という見出しも付けられた。おふざけのラジオ調査で、1,000人のイギリス人が次の質問に返答した。「ウィンブルドンで、あなたは誰と一緒に苺クリームを食べたいか?」サンプラスが獲得したのは1票だけだった(クリス・ベイリーが1位で、アガシ、アンリ・ルコント、フレッド・ペリーが後に続いた)。投票結果について、彼は肩を竦めて言った。「僕はラケットに物を言わせる。それが僕の全てだ。僕はただコートに出て、試合に勝つ」

サンプラスはまた、ヒポコンデリーと呼ばれた。何試合もの間、彼は元気がなく、右肩の腱炎の痛みに呻き、たじろいでいた。痛みがひどいので、大会を棄権しようかと思ったほどだと語った。「ウィンブルドン前週の水曜日には、痛くて自分で歯を磨く事もできなかった」ジンバブエのバイロン・ブラックとの3回戦で鼻血を出した時は、 かたわというラベルが貼られた。
サンプラスが本当に慢性的な病気で苦しんでいるのか、あるいは痛みの大部分が精神的なものなのか、誰も、サンプラスさえ確実には分からない。肩の痛みは「50パーセントは精神的なもの、50パーセントは肉体的なもの」だと彼は認めた。昨年のUSオープンでは決勝でエドバーグに敗れたが、彼は向こう脛の炎症とケイレン、ウイルス性胃炎の後遺症に苦しんだ。これだけは確実だった。もしサンプラスがウィンブルドンで優勝したいなら、そして1990年USオープン優勝で見せた可能性、ペリー等が予測した運命を実現したいなら、彼はそれを乗り越えなければならなかったのだ。

痛そうな表情だったが、サンプラスはただそれを成し遂げた。4回戦で彼はイギリス最後の希望、アンドリュー・フォスターを片づけ、コートを去る時に、敵対する観衆に拳を固め、罵りの言葉を吐いた。イギリスのファンに何と言ったのか後に尋ねられ、サンプラスは愉快そうに答えた。「ごきげんよう、ありがとう、と言ったのさ」

次に彼は最高の人気者、アガシを破った。10日の間、アガシは派手な振る舞いやストライサンドとの関係、続けてチャンピオンとなるための雄々しい努力などで、大衆を魅了していた。彼がどれほど「The Prince of Tides」に感服したか言うために電話して以来、ストライサンドはアガシの崇拝者であった。もしアガシが準々決勝に進出したら、ストライサンドはウィンブルドンに来ると約束していた。彼がそうした時、彼女は休暇を過ごしていたギリシャからロンドンまで飛んだ。彼女の到着はフリート街を興奮させた。彼女はセーラー服と船乗りの帽子で、彼の準々決勝に現れた。彼女はピョンピョン跳ねてアガシを声援し、サンプラスがエラーをするたびに拍手して、ファミリーボックスでサンプラスのサポーターを苛立たせた。

サンプラスが第5セット途中でトレーナーを呼び、痛む肩のマッサージを要請した時、アガシは勝利の間際であるように見えた。しかしサーブの腕が衰えたのはアガシであった。彼は続けて2度サービスゲームを落とし、4-2ビハインドとなった。サンプラスはそれから2回、簡単にサービスゲームをキープし、6-2、6-2、3-6、3-6、6-4で勝利した。これは大会中、彼にとって最も難しいテストだっただろう。彼はまた、自分にも名士の友人がいた事を知り、私的な満足感を味わった。大会の前の週、サンプラスはウィンザーの宮殿のような家で、エルトン・ジョンとテニスをしていたのだ。そこにはアンドレもいた。

準決勝では、サンプラスは1回もサービスゲームをブレークされず、ベッカーを7-6、6-4、6-4で下した。ベッカーは語った。「時々彼は、ファーストサーブとセカンドサーブの相違を忘れてたんじゃないかと思うよ」と。ベッカー自身、同じドイツ人で1991年ウィンブルドン優勝者のミハイル・シュティッヒに対し、5セットの準々決勝で27回の自分のサービスゲーム全てをキープして勝利した。しかし彼はサンプラスに対し、その安定性を保つ事ができなかった。サンプラスは大会中彼のベストショットを打ち、マッチポイントを握った。ベッカーはウィナー間違いなしというダウン・ザ・ラインのバックハンドパスを放った。しかしサンプラスは顔を歪め、ダイビング・フォアボレーでボールを捉えた。ボールは急激にネットの向こう側に落ち、ベッカーは追いつく事ができなかった。サンプラスは勝ち誇って拳をぐいと引き、コーチのティム・ガリクソンに向かって叫んだ。それは多分、サンプラスがテニスコートで見せた最大の感情であった。

クーリエ、彼のパフォーマンスは完全な驚きであった。特に彼自身にとって。「僕は明日ゴルフをしていると思っていたよ」先週の金曜日、もう1つの準決勝でエドバーグを破った後、彼は言った。

クーリエの強さは徹底的な準備の結果である。結局、彼は4つ全てのグランドスラム大会の決勝に進出した。そしてフレンチとオーストラリアン・オープンで2回ずつ優勝した。ひとたび緑の芝生の法則を掴むと、彼はベースラインから粉砕する脅威となった。2度のウィンブルドン・チャンピオンであるエドバーグは、恐らくずっと優れたグラスコートゲームを持っている。そのエドバーグに対し、クーリエは4-6、6-4、6-2、6-4で勝利したのだ。第1セットで競り合った後、クーリエは試合の主導権を握った。「最初は僕が主導権を握っていたが、ひとたびそれを失った後、戻ってこなかった」とエドバーグは語った。

大会中、クーリエは乱暴で喧嘩っぱやい、下品なアメリカ人であった。しかしその態度は、彼にうまく作用した。オーストラリアのジェイソン・ストルテンバーグとの3回戦では、審判を罵ったとして、危うく棄権負けになるところだった。紳士的なエドバーグとの準決勝でも、再び罵り言葉を吐いたように見えた。その言葉はペナルティを科せられなかったが、イギリスのマスコミは彼を非難した。「この世に完璧な奴はいないさ」試合後に記者会見でクーリエは言った。「もし僕らがそうだったら、かなり退屈だろう」そしてタイムズ紙の記者デビッド・ミラーに、外に出るよう促した。

しかしながら、どんな攻撃的態度も、決勝ではサンプラスの弾丸サーブを克服する事ができなかった。7-6、7-6、3-6、6-3の勝利への過程で、サンプラスは22本のエースを放った。その多くはセカンドサーブで、平均時速97マイルでラインに突き刺さったのだ。サンプラスはサービスゲームで、第1セットでは8ポイント、第2セットでは4ポイントしか失わなかった。

したがって、クーリエもサービスゲームを失わなかったが、結果的に2セットダウンとなった。第2セットのタイブレークでセットポイントを生かせなかった時、彼の運命は決まった。サンプラスはフォアボレーを放ち、それは辛うじてベースラインをかすめた。

第3セットでは、サンプラスはアドレナリンの衰えに苦しんだ。彼の肩はうなだれ、彼のゲームも然りだった。彼は注意散漫になり、クーリエは比較的簡単にそのセットを勝ち取った。しかし第4セットで、サンプラスは完全に立ち直った。彼はベースラインからの長いラリーに打ち勝ち、クーリエをブレークして4-2リードとした。サンプラスが5-2とした時、試合はほぼ決まった。

チェンジオーバーで椅子に座った時、サンプラスにはそれが分かっていた。彼は顔を手に埋め、首の上に氷を置いた。そしてゆっくりと深呼吸した。一瞬、センターコートの殆ど誰もが、サンプラスは具合が悪いか、あるいは怪我をしている―――もしクーリエが第4セットを取ったら、彼は第5セットを持ちこたえられないのでは、と感じた。サンプラスは青ざめた表情でコートに戻った。「僕は自分に冷静を保つよう言い聞かせたんだ」と彼は後に語った。

クーリエは簡単にサービスをキープし、そして突然、サンプラスはサービング・フォー・タイトルを迎えていた。「彼は疲れていると分かっていた」クーリエは言った。「だけど時速125マイルのサーブを打てば、あまり動かなくてすむからね。僕はまだサービスをブレークしなければならなかった」

クーリエは見事に最初のポイントを取った。そしてサンプラスはガックリした。しかしその後3本のビッグサーブを放ち、ダブル・マッチポイントを握った。「僕にとって世界最大のポイント」と彼なら言うだろう。

痛烈なフォアハンド・リターンに、サンプラスはハーフボレーをネットにかけて、クーリエは1ポイントセーブした。サンプラスは一瞬ベースラインでしゃがみ、そして立ち上がった。彼はもう1本サーブを打ち込んだ。クーリエはそれを浮かし、サンプラスは易しいバックハンドのボレーを決めた。そして歓喜して腕を突き上げた。

それはクーリエにとり、1カ月の内で2度目のグランドスラム決勝敗退であった。スペインのセルジ・ブルゲラが、フレンチ・オープンで彼を打ち負かしていた。「ぞっとするね」とクーリエは言った。「2回目の不愉快だ」

その後、サンプラスは非常にリラックスし、タブロイド紙に1行を提供した。ダイアナ妃がロイヤルボックスから彼を応援していた事に気付いていたかどうか尋ねられ、サンプラスは微笑して言った。「きっと彼女は僕に惚れちゃったんだろ」

クーリエもまた、選手の恋愛問題に固執するタブロイド紙を茶化さずにはいられなかった。サンプラスとの関係について尋ねられた時、彼はいたずらっぽく微笑み、ストライサンドに関する質問へのアガシのお決まりの答えを呟いた。「僕たちは友人、ただの友人さ」

サンプラスはしばしば、USオープン優勝には運もあった、当時は自覚のない19歳の子供が、ただ勢いに乗っただけだったと述べてきた。今回は、この機会の意味を分かりすぎるほど分かっていたので、コート上で気を失わんばかりだった。「このタイトルを僕から奪う事はできない」と彼は言った。「これでもう僕の1位について、議論はないと思うよ」

サンプラスがセンターコートで優勝カップを頭上に掲げた時、彼は新しい、価値のある音を聞いた。イギリス人が彼に拍手喝采していたのだ。「彼らは僕をだんだん好きになってきたんだと思うよ」後に彼は語り、微笑んだ。


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