スポーツ・イラストレイテッド
1990年10月(日付不詳)
集中
文:Bruce Newman


19歳でUSオープン・タイトル獲得を果たした今、ピート・サンプラスは
「脱線したり悪い態度をとったりはしない」と強く主張する


ピート・サンプラスは変わるまいと努めている:服を変えない、自分のゲームを変えない、路線を変えない、音楽を変えない、微笑を変えない、部屋を変えない、質問に答える時の、頭をかくキュートな仕草を変えない。まぁまぁ!

「彼のとても魅力的なところは、ごく普通の子供であるという事だと思う」とイワン・レンドルは語る。「彼は自分に何が起こったか、完全に理解してはいないだろう」

ピートへ:キュートな、そして感じよい男。決して変わらないでくれ。

車を変えない、宗教を変えない、髪型を変えない、浪費を20ドル以上に変えない、電話番号を変えない、水をワインに変えない、ダンスのパートナーを変えないでくれ。「親愛なるピート」と、ペンシルバニア州ハーバーフォードの崇拝者マリー・シェイは書く。「どうぞ服装規定を保ってください。そしてデザイナーにあなたを変えさせないでください。私達はあなたのようなきちんとした若者に、子供たちの模範となってもらう必要があるのです」マリーはおまけとして、アンドレ・アガシは「同性愛者である事を公表しているかに見えます」と付け加える。

おい、ピーーーート! ただ君らしくいてくれ。そして決して変わらないでくれ。ピート。

サンプラスは変わるまいとしてきた。「僕は良い心構えを持つ感じのいい子供だ」と彼は語る。あたかも自分自身に思い出させようとするかのように。「そして変わるつもりはないよ」

いいですか、先月のUSオープン決勝戦でサンプラスがアガシをストレートセットで片付けて以来、優勝の前には彼について聞いた事さえなかった人々が、彼に告げてきた、請うてきたのだ。変わらないで、と。彼は19歳で、史上最年少のUSオープン優勝者となったのだ。1890年にオリバー・キャンベルがタイトルを獲得した時よりも、5カ月ちょっと若い。「私はピートの事を19歳の男として受け止めてはいない」と、サムという呼称で知られる父親のソテリオスは語る。「小さな息子と思っている」

多分そういう事だ。多分それは、つまるところピート・サンプラスとはどういう人物かという事だ。アメリカの小さな息子。「僕はごく普通の19歳で、とても変わった仕事をしているだけだ」と彼は言う。

ピーーーート! ガラクタを取り出して、グランドスラムをしまう事を忘れないでくれ。ピート?

「もし僕が脱線したり、悪い態度をとったら、自分に失望するだろう」とサンプラスは語る。「僕は2カ月前と同じ人間でいたいんだ」

いつも通りであろうとサンプラスがそれほど強く考えている1つの理由は、彼が過去5年間、ひたすら変わり続けてきたに等しいからだ。彼は身長が(5フィート5インチから6フィートへと)伸びた。高校を中退した。ラケットを(ウッドからグラファイトへと)変えた。ランキングを(コンピュータ外から世界5位へと)変えた。バックハンドを変えた。コーチを変えた。そして、大方の子供のように、気持ちを変えた。気持ちの1つを、どんな方法にせよ。

サンプラスが1984年―――ジョン・マッケンローがそこでの4タイトルのうち最後のタイトルを獲得した―――以降フラッシングメドウで優勝した初のアメリカ人男性となった後、そしてチャンピオンシップ・ポイントでアガシのイヤリングをかすめて13本目のエース(大会全体では100本目)を放った後、彼がテレビを通して感謝を述べた最初の人物は、カリフォルニアの小児科医ピーター・フィッシャー博士だった。「彼がいなかったら、僕が今ここにいたかどうか分かりません」とサンプラスは語った。固唾をのむ国じゅうの人々は、フィッシャーという人物は、彼を特別に致死的なおたふく風邪からでも救ったのだろうか、と首をかしげていた。未来の10代チャンピオンは、自分の歯列矯正医に感謝するのだろうか?と。

しかしながら、フィッシャーはサンプラスに、単なる治療よりもはるかに医学的に複雑な何かをしたのだ。彼はサンプラスを神聖な器として扱った。幾分からっぽだとしても。「彼はとても風変わりな男だが、頭脳明敏だ」とサンプラスは言う。「恐らく明敏すぎるんだ。彼は僕の身体に自分の頭脳を入れたがっていたよ」と。フィッシャーはこの移植を完了する間際まで来ていた。サンプラスがおよそ1年前に自身の思考力を身につけ始めるまでは。そしてその時点で、混雑が始まった。

もし自分の身体に誰かの脳をはめ込まなければならないとしたら、恐らくその人物はフィッシャー氏であってほしいと望むだろう。彼は非常に多くの予備となる脳細胞を持っているので、それらは頭の頂上に溶岩ドームを形成してきたかのようなのだ。フィッシャーの知能指数は190もあるが、どのように指導すべきかは、必ずしも知らなかった。フィッシャーは決意のみによって自分をBレベルのテニスプレーヤーへと押し込み、自身の記述によると、「せめて並でありたいと熱望する」ゲームを持つ人物だったのだ。

サンプラスと彼の父親が初めてフィッシャーに出会ったのは、1979年、カリフォルニア州ランチョパロスベルデスの自宅付近にあるジャック・クレーマー・テニスクラブでだった。フィッシャーはゲームに欠け、現代のテニスコーチにとって共通の問題である金色の日焼けとふわふわした白髪にさえ欠けていた。サムが当時7歳の息子の指導について話をもちかけた日、フィッシャーはランキングを持つジュニアプレーヤーとヒッティングをしていた。「私が上手に見えたに違いないと思うよ」とフィッシャーは語る。「あるいはピートの父親はテニスについて、ほとんど何も知らなかったのだろう」

「それでコーチ代はいかほどですか?」とサムは尋ねた。

後に誰かが指摘したように、フィッシャーのコーチング経験の大半は、新生児に最初の呼吸法を教える事で成り立っていたのだが、彼は一瞬の間考えて、「無料です」と答えた。

「コーチをお願いします」とサムは言った。

昔かたぎのサム・サンプラスは、いまだにテニスを「上流階級のスポーツ」と見なしている。そして「恐怖のテニス・ペアレント」ランキングからは、できるだけ距離を置いている。ギリシャと東欧の移民の息子であるソテリオスはシカゴで育ち、1965年にワシントン D.C. へと移り住んだ。そこで間もなく結婚する事になる女性と出会った。ゲオルジア・ブロオウストロウスは19歳の時にギリシャを離れたが、テニスボールに関する知識はもとより、英語を話す方法さえ知らなかった。サムと結婚した時、彼女は美容院で働いていた。

サムは7年間、昼間は政府の航空宇宙エンジニアとして働き、夜はバージニア州マクリーンで、共同所有者であるデリカテッセンの経営に携わってきた。彼と妻は4人の子供たちと共に引っ越すだけの金を蓄えた。現在22歳のガス、21歳のステラ、ピート、17歳のマリオンは、うすら寒い東部から地中海性気候の南カリフォルニアへと移り住んだ。彼らは所有物すべてをファミリーカーの屋根に積み込んで、大陸の向こう側へと移動したのだ。6人の家族とホセという名のオウムは、7日間フォード・ピントにすし詰め状態だった。「我々は休暇中のグリスワルズ(1980年代のロックバンド?)みたいだったよ」とガスは言う。

家族がカリフォルニアへ移住する少し前に、ピートは地下室で古いウッドのテニスラケットを見つけ出し、壁に向かって何時間もボールを打ちつけていた。ピートが6歳の時、彼とステラは父親と一緒に、ランチョパロベルデスの新居から丘を下ったトーランスにある公園のコートに行った。そしてサムは、息子がボールを追いかけ、流れるような両手ストロークで優雅に打ち返すのを、驚きの目で見守った。「私はコートに初めて立ち、あれほどスムースにボールを打つ者を一度も見た事がなかった」とサムは語る。「それは世界でいちばん簡単な事のようだった」

ピートとステラはコートの常連になった。サムとジョージアはいずれもプレー経験がなかったが、レッスン費を節約するため、交替で子供たちにバスケット何杯分ものボールを打ち出してやった。プライベート・テニスクラブの会員になる事は、当時は問題外だった。しかし経済的な理由からではない。「私は彼らをごく普通の子供として育て、テニスの事は忘れさせるつもりだった」とサムは語る。

しかしながら、ある日ピートが公園でヒッティングしているのをたまたま見た2人の見知らぬ人が、彼の息子は天才児であるとサムを説得した。2人の男はサムに、少年には何らかの指導が必要で、それはクラブでのみ受けられるものだと説得したのだ。ピートはレッスンプロと共に練習すべきだ、と彼らに言われた時点では想像した事もなかったが、サムは徐々にテニスをする知人の名前をじっくり考え始めたのだった。強力なオーバーヘッドを持つ公認会計士、まずまずのフォアハンドを持つ婦人科医………。そこで彼は、小児科医としては確かに国のトップであり、サーブ&ボレーを専門とする男にピートを預けた。「私はピートの前には、本当の意味では誰のコーチも務めた事がなかった」とフィッシャーは語る。「だが時が経過するにつれて、私は指導する事を学び、そして彼はプレーする事を学んでいった」

Most of the time it is all Sampras can do to keep from laughing during his matches; he is still amused and amazed by the things he can do.
それがほぼいつも、試合中に笑うのを避けるためサンプラスにできるすべてだ。彼は自分にできる事を今でも面白がり、そして驚いているのだ。USオープンでも、ウィナーと凡ミス両方の後に、無邪気な笑顔があった。「子供の頃から、我々は彼をスマイリーと呼んでいた」と、サンプラスのグラウンドストロークを指導してきたレッスンプロ、ロバート・ランズドープは語る。「みんな彼のプレーを見たがった。彼はいつもあの微笑を浮かべていたからだ」

彼はごく幼い頃からまさにしたい事をしてきたので、テニスを始める前の思い出を持っておらず、ほぼ完璧な神の恩寵を受ける存在だった。「彼は7歳で、できる限りハードにスイングしていた」とフィッシャーは振り返る。「そして彼はラインに打って、微笑んでいた。ピートはいつも、自分がボールにできる事が好きだったのだ」

自分には何もできないと明確な事に関しては、小児科医のフィッシャーは他の分野の専門家にピートを任せた。フットワークのコーチ、ボレーのコーチ、そしてランズドープ。彼はトレイシー・オースチンが16歳でUSオープンの最年少優勝者となる前に、彼女を指導していた。ランズドープはしばしばフィッシャーを「善意のアマチュア」と切り捨てた。しかしサンプラスが9歳になるまでは、フィッシャーは少年のゲームを構築する者として揺るぎない立場にあった。そして彼は既にグランドデザインを思いついていた。「テニスプレーヤーを作り上げる概念は私のものだ」とフィッシャーは語る。「それは100パーセント、私だ。私が真に提供していたものは、テニスボールを打つ能力ではなく、思考プロセスだった。それは挑戦だった。ハリー・ホップマンの時代以降、なされてこなかった事を私ができるかどうか試す機会だった。誰かをゼロから育て上げ、キャリア全体を組み立て、さらにはゲームがプレーされる方法さえ変えるかも知れないという目論見だった」おお、それがすべてなのか?

意図はかなりシンプルだった:もしすべてが可能なら、サンプラスはロッド・レーバーになる筈だ。「僕は彼になりたいよ」とピートはかつて、悲しげとも言える様子で語った。フィッシャーはレーバーの試合を撮影した古い16ミリフィルムを借りてきて、彼と幼い実験仲間の2人はサンプラス家の暗い部屋に座り、過ぎ去った時代の揺らめく映像、テニスプレーヤーが白を身につけ、ラケットはウッドという映像を見つめたものだった。

「私の理想は常にレーバーだった。彼はあらゆるサーフェスで勝利できたからだ」とフィッシャーは語る。「彼は自分の望むどんな方法ででも勝利でき、しかも品位をもってそれを為す事ができた」フィッシャーはサンプラスの肉体に内在する事はできなかったとしても、彼の精神をコントロールする間際までは来ていた。「我々は左脳、右脳の1対だった」とフィッシャーは語る。

「ピートは非常に本能的で、私は分析的だ。我々2人は完璧にかみ合っていたのだ」

フィッシャーはサンプラス家で食事をするようになり、食べながら戦略のあれこれを語った。「彼は家族の一員みたいだった」とピートは語る。「ここに幼い子供である僕がいて、彼は僕を偉大なテニスプレーヤーに作り上げようとしていたんだ。僕は彼が命じる事をして、とりあえず協力していたよ」

サンプラスは9歳の時に初のジュニア大会に出場し、そして負けた。なんと、なんと1回戦で。彼が12歳以下のカテゴリーに出場していたのが主たる理由だが。事実、フィッシャーは最初から、彼を実際の年齢よりも上のグループで競わせていた。つまりサンプラスは自分より大きくて力強いプレーヤー達にたくさん負けたのだった。「彼は背が低くて、やせっぽちの小さな子供だったの」とステラは語る。

加えるに、フィッシャーは彼にサーブ&ボレーをさせたのだ。マッケンローを除いては、当時のトッププロの大半がベースライン・プレーヤーだったにもかかわらず。さらには、サンプラスはまだ背が低すぎて、山なりのサーブしか打てなかったのだ。「もし小さい子供がサーブ&ボレーをすると」とフィッシャーは語る。「大いにパスで抜かれる。そしてピートは大いにパスで抜かれた」

サンプラスが14歳になると、テニス史に両手バックハンドの偉大な選手は存在しなかったからとの理由で、フィッシャーは彼に両手バックハンド―――彼の最も信頼できるショット―――を手放すべきだと告げた。サンプラスが新しいショットを初めて試みた時、ボールはフェンス上方へ飛んでいった。「ピートは泣いた」とサムは語る。

「片手打ちに変えた時、彼は疑いなく彼の年齢における最高のプレーヤーだった」とフィッシャーは語る。「そして彼は、かつては打ち負かしていた者たちに負ける事になった。しかし彼は片手打ちを続けた。目標は子供の時にトロフィーを獲得する事ではなく、偉大なプロになる事だったのだ。私は恐らくピートのトロフィーの大半を持っているが、その数はあまり多くない。彼はゲームの方法を学ぶためなら、何回かの試合で負ける事をいとわなかったのだ」

「堅実なショットを失い、誰もが僕のバックハンドを狙ってくるのは、とても苛立たしかったよ」とサンプラスは語る。「だがやがて、すべてがまとまり始めたんだ」15歳の時、彼は1987年の少年ジュニア・デビスカップチームに加わり、そしてUSオープン・ジュニアの2回戦では、18歳以下の部の全国チャンピオンだったマイケル・チャンを負かした。チャンはすでにUSオープン本戦ドローにワイルドカード出場権を与えられており、2回戦で敗れた。それでも彼は、大会で1勝を挙げた最年少男子になったのだった。

その時までにサンプラスは現在の身長6フィートになっており、山なりサーブは大砲へと変わっていた。彼のサーブは強烈で、プレースメントも見事だった。そして対戦相手は彼のサーブをほとんど予測する事ができなかった。これもまた、フィッシャーによるデザインだった。「ピートのサーブを読む事はできない。彼のモーションは、ボールを打つまですべてのサーブで同じだからだ」とフィッシャーは語る。「私は彼にボールをトスアップさせ、それからサーブの種類を指示するのだ。フラット、トップスピンといった具合に。彼は私が指示するまで、どんなサーブを打つ事になるのか知りようもないため、違うモーションをする事はできなかったのだ」

ある日サンプラスがフィッシャーの厳しい監視に、そして自分をマリオネット人形のように操るやり方に、嫌気がさしてくるのは必然の運命だった。サンプラスが懸命に努力しているかどうかについて、2人は意見が合わないようになった。次には、金銭が問題になった。フィッシャーは、ついに、報酬を望んだのだ。「私は金銭を気にかけない。プライドの問題以外には」と彼は語る。「私は彼にとってどんな価値があるのか? ピートがただトロフィーを勝ち取っていただけの頃は、私にトロフィーをくれるだけで充分に報われた。彼は私に、できる限りのすべてを与えてくれた。だがピートが1年間に何10万ドルも稼ぐようになると、事情は少し異なってくる」

昨年11月、フィッシャーはサンプラスに、これ以上コーチを続けたいとは思わない、少なくとも無料では、と告げた。そして、よく考えたうえで、1年以内に電話するよう告げた。サンプラスは翌日に電話をしてきた。「あなたが決断して」と彼はフィッシャーに告げた。「今すぐに」フィッシャーは、自分は脅されたり困り果てたりする事はないと答えた。

彼らは3カ月間、口を利かなかった。サンプラスがフィラデルフィアのUSプロ・インドア大会で、初のプロ大会優勝を遂げるまで。彼はその決勝戦で(後にフレンチ・オープンで優勝する)アンドレス・ゴメスを破ったのだった。試合の後、トーナメント・ディレクターが脇に座る状況で、サンプラスは語った。「誰がフィラデルフィア、あるいはメンフィス、その他の大会で優勝したかなど、誰も覚えていない。名前を遺すのはグランドスラムだ」と。その夜、彼はフィッシャーに電話をかけ、彼がいなかったら優勝はできなかっただろうと告げた。「彼がピート・サンプラスらしくプレーしている時には、対戦相手が誰であろうと関係ない」とフィッシャーは語る。「女子とプレーしているようなものだ」

サンプラスは新しいコーチ、ジョー・ブランディと契約した。しかし試合中の集中力維持という問題を抱え続けた。それは長年にわたる彼の弱点だったのだ。かつてピートがジュニアの試合を戦っている最中、フィッシャーはガスに、隣のコートで行われている試合のスコアを知っているかと尋ねた。ガスは弟のプレーを見ていたので、まったく分からなかった。「ピートに訊いたら?」とガスは答えた。「きっと彼は知っているよ」

6月にフレッド・ペリーが、サンプラスは遠からずウィンブルドンで優勝するだろうと言っていたと耳にした時、10代の若者であるピートは言った。「フレッド、買いかぶりすぎだよ」と。そして1回戦で41位のクリスト・ヴァン・ レンズバーグに敗れ、自説を証明してしまった。しかしフラッシングメドウでは、彼はドローをひそやかに勝ち上がり、そして準々決勝では劇的な5セットマッチの末にレンドルを打ち負かしたのだった。サンプラスは驚くほど簡単に最初の2セットを勝ち取ったが、第5セットでレンドルを圧倒する前の2セット間は、調子の下降に苦しんだ。2日間のオフの後、サンプラスはマッケンローとの準決勝対決に怖じ気づいていた。マッケンローはその時までに大会の優勝候補になっていたのだ。しかし今回は、彼の集中力はぐらつかず、サーブの調子は揺るがなかった。マッケンローは4セットで敗れた。

2人の老いたライオンと比べれば、アガシは若々しい子猫ちゃんだった。彼はその時点までに2セットしか失っていなかったが、それでもなお、サンプラスは6- 4、6-3、6-2で彼に圧勝したのだった。試合後のインタビューでマイクを握った時に、サンプラスはもう一度、フィッシャーの貢献をすすんで認めた。「彼の尽力に対する報賞だった」とサンプラスは語る。

サンプラスとフィッシャーは友好的と言える関係にあり、両者ともプロとしての和解の可能性を否定しない。しかし話し合いは行き詰まったままで、フィッシャーはもはや、テニスに関する事柄について相談される事はない。

その晩ニューヨークでの夕食中に、サンプラスは自分の人生がどう変わっていくのか、考え続けずにはいられなかった。「あの晩は一睡もしなかった。ベッドに横になって、何が起こったのか、そして未来はどうなっていくのだろうか、考えようとしていたんだ」とサンプラスは語る。「信じられなかった。僕は今やエリートグループの一員だった。僕の名前は一流の男たちと共に、あのトロフィーに遺っていくんだ。レンドル、ベッカー、マッケンロー、コナーズ、そして………」彼はひと息つく。「そしてレーバーと。信じられなかったよ。ピート・サンプラス、カリフォルニア出身の19歳の子供が、あのトロフィーに刻まれるんだ。永遠にね」

幾つかの事柄は、決して変わらないのだ。ある人々さえも。


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