スポーツ・イラストレイテッド
1990年9月17日号
スター誕生
番狂わせの時

文:Alexander Wolff


10代のエース、ピート・サンプラスと新生ガブリエラ・サバティーニは、
USオープン史上最も意外な成り行きの1つとなった今大会における、
予想外のチャンピオンであった


彼はボールボーイからボールを3個もらい、チェックする。一番ケバだったボールを、小型のブラックバスだったかのように投げ返す。その前に、ほんの少しだけ眉をひそめるかも知れない。それが、ピート・サンプラスが見せる唯一の感情表現である。彼はUSオープンの史上最年少チャンピオンであり、1984年以来のアメリカ人チャンピオンでもある。彼はボールを2個選び、1個をポケットに入れ、最もケバの少ないボールを持ち―――「僕はケバの薄いのが好きなんだ。その方が速く飛んでいくから」―――構え、銃の撃鉄を起こし(トスを上げ)、そして、何かしなければならない哀れな人間に向かって撃つ(強打する)。

大会中に100回、世界最高の選手たち―――アンドレ・アガシ、イワン・レンドル、復活したジョン・マッケンローを含む―――は、サンプラスのサーブに対し、何もできなかった。19歳で第12シードの彼は、今やアメリカ三大ネットワークのモーニングショーに出演する有名人だ。「僕は速球とチェンジアップを持っているんだ」と、野球のトリプルAから上がってきたばかりの有望選手のように語る。

サンプラスはアメリカテニス界に、まさに歓迎されている。彼は信心深いマイケル・チャンや仰々しいアガシとは違うからだ。彼のスタイルはクラシックなサーブ&ボレーである。いつの日か、このギリシャの祖先を持つ南カリフォルニアの子供は、ウィンブルドンで優勝するだろう。しかし、サンプラスはUSオープンと永遠に結びついているだろう。ボリス・ベッカーがウィンブルドンで、マッツ・ビランデルがフレンチ・オープンで生み出され、彼らがその大会と結びつけられるように。

テニスン(イギリスの桂冠詩人)か誰かに? 日曜日の決勝戦で、サンプラスは轟くようなショットを放ち、ボレーをし、アガシは右に左に大砲を見守るだけだった。アガシは答える事ができず、理由も分からなかった。「なぜお前はそんなにノロマなんだ?」と、彼はポイントの間、自分にブツブツ言った。フラッシングメドウのプレス席で、アナウンサーが「サディスティック」と呼んだ数字にその答えはあった。サンプラスは試合で13本のエースを打った。最初の2セットの間、アガシは1本のブレークポイントも得られなかったばかりか、サンプラスのサービスゲームではデュースにさえ持ち込めなかった。彼のサーブは決勝を通して、時速120マイル近辺のスピードだった。 決勝のスコア―――6-4、6-3、6-2―――は、冷酷な数列だった。

この「黒い眉」のUSオープンでは、もう1人の予想外に沈着なアルゼンチンのガブリエラ・サバティーニが、トップシードのシュテフィ・グラフを6-2、7-6で破り、女子のタイトルを獲得した。その結果、1990年はほぼ四半世紀ぶりに、8人の異なった選手が各グランドスラムのシングルス・タイトルを獲得するという年となった。

サバティーニの勝利は殊に心地よく、夏の間のガビー・バッシングを打ち消した。ウィンブルドンの間、イギリスのマスコミは彼女を笑いものにし、あるタブロイド紙などは彼女の歩く姿を「太った鴨」のようだとまで書いていた。アメリカでは、USオープン最中にある全国雑誌が、彼女は決してグランドスラムで優勝しないだろうという理由について、長々しい解説をぶった。

毎年開催されるアメリカのスポーツイベントで、USオープンほど長いものはない。したがってその2週間を通して、面白い事を見つけ出して離さない奇妙な力がある。ニューヨークという都市の過激な性格は、未だにその大きな部分を占めていた。しかし、今年はかなりリラックスしたものとなった。これまでフラッシングメドウは、「テニスおたく」の市長デビッド・ディンキンズの仕事の一部だった。彼は隣接するラガーディア空港の管制官を説き伏せて、普段はナショナル・テニスセンター上空を通過する、耳を聾する飛行機の航路を変更した。残ったのは飛行船の低いうなり音と、地下鉄の断続的な車輪のきしみ音だけだった。

スタジアムでは、ウィルト・チェンバレンが「NO I'M NOT」とプリントしたTシャツを誇示していた。「マルチナ・ナブラチロワは私のお手本」と書かれたボタンは、マーガレット・コートと、ナブラチロワ(彼女は4回戦で、マニュエラ・マレーバ・フラニエールに驚きの敗戦を喫した)のライフスタイルに対する彼女の最近の批判へのしっぺ返しで、赤・白・青とゲイの権利を象徴するラベンダー色に塗られていた。一方、悪名高いまでに高額の軽食スタンドで、密漁してきたサーモンに対して3.5パーセントのAPR融資を得られるという噂はでたらめだった。

多分、テニスに対する最大の脅威は、お節介で軽率な父親だろう。彼らはなぜか女子選手の周りに、特にいちばん若い者たちの周りによく出現する。フレンチ・オープン・チャンピオンのモニカ・セレシュの例を見てみよう。6カ月前にニック・ボロテリーをコーチから解雇して以来、16歳のセレシュは、漫画家である父親カロリの助言をもっぱら頼りにしてきた。彼はUSオープンの2週前にラケット契約を変更し、3回戦で対戦するノーシードのリンダ・フェルナンドについては、セレシュが後で語ったところによると「フェルナンドはベースライン・プレーヤーで、ネットには出ない」という間違った考えに基づいて作戦を立てさせ、準備を誤らせた。

「気付いたわ」映画ロッキーのファンであるフェルナンドは、1-6、6-1、7-6という魅惑的な勝利の後言った。24歳のイタリア人は第1セットの終わりまでに神経を落ち着かせて、次にセレシュをコートの中から遠ざけた。その戦略は、WTAガイドからセレシュが容易に発見できる筈のものだった。曰く「フェルナンドはサーブ&ボレースタイルのプレーをし、得意なサーフェスはハードコート」と。ボロテリーは「だから言っただろう」と言わずにはいられなかった。

ステファノ・カプリアティは、金目当てのように見えた。消耗する夏に、彼は14歳の娘ジェニファー―――グラフにストレートでやられた敗者―――に、9年生クラスの登録をするためにだけフロリダ州ボカ・ラトンの家に帰る事を認め、すぐさまニューヨークにとって返し、3日間のコマーシャル撮影と、店への出演をさせた。今月後半には、彼女は東京でもう1大会に出場する予定になっている。

テニス界で子供に最も影響力を持ち、溺愛する父親は、相変わらずピーター・グラフ―――娘シュテフィをチャンピオンにした男―――である。しかし、ほんの2年前に年間グランドスラムを達成した若い女性は、春以降抜け殻のようであった。その春、西ドイツのマスコミは、ピーターとプレーボーイモデルとの関係について、忌まわしいスキャンダルをすっぱ抜いたのだ。それ以来シュテフィは、捉え難い安寧を手探りしていた。先週の土曜日にサバティーニに負ける時まで、彼女はボカ・ラトンにある彼女の家をベースとし、北アメリカに連続8週間滞在していた。グラフは同じく、この夏彼女を苦しめてきた多数の身体的不調―――アレルギーから副鼻腔炎、肉に食い込んだ足の爪に至るまで―――は、感情をかき乱される前兆であったと確信していた。「気分がいい時には、身体はこんな風に物を言うのよ」という言い方を彼女はした。

これらの事から立ち直る過程で、グラフのテニスは突然脆弱にもなったようだった。いつもなら数ゲーム分の価値のある、彼女の神秘性は失われている。ウィンブルドン準決勝敗退後の最初の大会、カナディアンオープンで、彼女は自信を取り戻す必要性について語った。これはグラフサイドにとっては危険信号であった。ピーターは常に「気力とか自信などという言葉は、我々の辞書にはない」と強く主張していたからだ。それでも、人生の浮き沈みを考慮しても、ニューヨークで彼女のゲームは最高の状態に戻っているかに見えた。彼女は一種の Fahrvergnugen で決勝までスムースに勝ち上がってきたし、彼女を負かしたサバティーニが、本当にいいプレーをした事を誉めるべきだろう。

サバティーニは器用さと男性アスリートも羨む体格を持ち、サーブ&ボレーヤーとして成功するのではと示唆されつつも、常にゆったりしたフォームの古典的なストロークを打っていた。彼女の有り余る運動能力を生かし始めたのは、新しいコーチ、カルロス・キルマイヤーであった。メアリー・ジョー・フェルナンデスとの準決勝では、第1セットで1-4ダウンとなり、彼女は途方に暮れているように見えた。「私は彼女にプレーさせ、自分では何もしていなかった」とサバティーニは後に語った。「自分自身に、何かをしなければと言い聞かせたの」

彼女はそうした。より大胆なネットゲームに頼り、第1セットをなんとか奪取した。そして第3セットでは、ダイビング・バックボレーのウィナーでマッチポイントを握った。デコターフ2のサーフェスに打ち込んで7-5、5-7、6-3の勝利を挙げ、サバティーニは決勝戦での戦略を整えた。「私はシュテフィを負かす準備ができていると思う」と彼女は語った。その大胆な宣言が真実である事は、決勝で早くも明らかになった。サバティーニは余裕を持って第1セットを戦い、鮮やかなクロスコートのフォアハンド・パスで、第2セットのタイブレークを制した。「もしシュテフィが勝つなら、それは私が負けるのではなく、彼女が優っていたという事でしょう」と、サバティーニは語っていた。シュテフィは優らなかった。サバティーニはタイブレークで、最後の7ポイントの内6ポイントを取り、最後のポイントは彼女のフォアハンド・パスがラインをかすめていた。

グラフを破る方法は、より見えてきている。そしてサバティーニは、それに幾つかの貢献をした。彼女はアプローチショットをオープンコートに打ち、グラフを動かしてパスを打たせた。キルマイヤーがサバティーニに作戦を授けたのだ。ローラン・ギャロスでのサバティーニの不名誉な早期敗退の後、彼らは6月にチームを組んだ。「何かが上手く行っていなかった。それにアンヘル・ヒメネスとの関係は、マンネリになってきていた」と、エージェントのディック・デルは語った。

パリである晩遅く、新しいコーチ候補の短いリストを検討した後、デルはキルマイヤー―――ブラジル出身のお気楽な元プロ―――に決めた。「もし彼がガビーをもっと賢明にできれば、彼女は15〜20パーセント良くなるだろう。彼女はあらゆるショットを持っているが、どのようにポイントをプレーすべきか分かってなかった」

サバティーニはかえって動きを悪くしてきたウェイト・トレーニングを止め、テニスのメンタル・トレーナー、ジム・レイヤーと過ごし、自分に対する疑いを取り除いた。またロープ跳び、1日に少なくとも45分のランニングをし、腹筋とフットワークのエクササイズをした。アメリカのマスコミはカプリアティに夢中で、セレシュとナブラチロワの番狂わせの敗戦に注目が集まり、サバティーニは静かにドローを勝ち進んだ。しかし彼女が最初のグランドスラム・タイトルに近づいてさえ、父親のオズワルドはブエノスアイレスに留まっていた。「私は勝っていて、幸運のためにはここにいた方が良いと、父は言ったの」

同じく、サンプラスの父親も家に留まった。息子の援軍である両親、カリフォルニアのランチョ・パロス・ベルデスに住むソテリオス(サム)とジョージア・サンプラスは、非常に感情的になるので、息子の試合をテレビの生中継で見る事もできない。結果を知ってから録画したテープを見る方を好む。それよりも、ピートは現場のサポートを信じている。彼にはコーチのジョー・ブランディがいる。しかし彼の精神的な師は、他でもない、準々決勝で彼の犠牲者となったレンドルである。昨年12月、マスターズの準備に際し、レンドルはコネチカット州グリーンウィッチの自宅に、トレーニングとヒッティングのパートナーとしてサンプラスを招いた。サンプラスは、レンドルを世界最高のプレーヤーにした禁欲的なライフスタイル―――厳しい訓練、たくさんの睡眠、 勝つための食事―――を経験した。

昨年の終わりからUSオープンが始まるまでの間に、サンプラスは81位から 12位まで着実に順位を上げた。それでも、自分がその大会でしでかす事については、何の予感も持っていなかった。実際、 3回戦でヤコブ・ラセクを簡単に下した後、サンプラスは自分のチャンスについて次のように要約した。「多分2〜3年の間に。でも今すぐというのは現実的だと思わない」

レンドルを6-4、7-6、3-6、4-6、6-2で破り、番狂わせを演じた後初めて、サンプラスは優勝できるかも知れないと感じた。決勝戦で、彼は最初の2セットでは、早い段階でブレークを掴んだ。第3セットまでには、アガシの意気は砕かれていた。第3セットでアガシをラブゲームでブレークし、サンプラスは4-2とリードした。ロビー・ベンソン(ピートによく似た有名人?)は、どこにいても、人々が道で彼を止め「おい、君はピート・サンプラスじゃないかい?」と言う見込みに対して、身を引き締めていたに違いない。

サンプラスは、アガシの準決勝での対戦相手から学んでいた。「アガシは3時間、コーナーへボールを打っていた」と、7-6、3-6、2-6、3-6で敗れた後にベッカーは語った。しかしサンプラスは、ベッカーがアガシにそうさせたと気付いていた。「ベッカーの作戦は良くなかった」とサンプラスは言った。「彼は強打でアンドレを打ち負かそうとした。彼はできるだけ早くネットにつくべきだった」

ほんの5年前、サンプラスは両手バックでカウンターパンチャーのジュニアの1人に過ぎなかった。1985年のイースターボール・ジュニア大会で不首尾に終わった後、当時のコーチだったピーター・フィッシャー博士は、彼にゲームを変えるよう説得した。サンプラスは片手バックにし、ロッド・レーバーのテープを参考にサーブを改善して、ネットに出るようになった。初めの内、その変更は性急だったように見えた。彼はかつては容易に負かしていたプレーヤーに敗れ、順位は急激に下がった。しかしその変更は、後に報われる事を意図してのものだった。サンプラスの身体が成長するにつれて、彼のサーブ&ボレーゲームは噛み合うようになってきた。

安全なスイングドアが開かれていたのに、それが閉じてきて顔をぴしゃりと打たれたのは、アガシの不幸であった。今年出場したただ2つのグランドスラム大会で決勝に進出し、彼を負かすには、相手の1人(アンドレス・ゴメス)は年を取りすぎているように見え、もう1人(サンプラス)は若すぎるように見えた。アンドレは oh-fer であった。

発表されたばかりのカメラコマーシャルでアガシが言うように、イメージは全てであるかも知れない。しかし実人生の騒動の中では、時にうわべははぎ取られる。チェコのペトル・コルダと対戦した2回戦では、アガシはラインコールに異に唱え、主審のウェイン・マッキュエンに聞こえる所で禁止用語を吐き、警告を喰らった。1987年、まだ新人だった頃のアガシのイメージは、信仰を取り戻したキリスト教徒のようであった。しかし「アンドレ牧師」がマッキュエンに引用した新約聖書のページを探し出す前に、アガシは主審から顔をそむけて、別の野卑な言葉を吐いた。それに続くチェンジオーバーの間に、彼はマッキュエンの方向につばを飛ばした。

スーパーバイザーのケン・ファーラーと、トーナメント・レフェリーのキース・ジョンソンが招集され、アガシがつばを吐いた事に対して、 ポイントペナルティが課せられるべきか検討した。一歩間違えば退場寸前だっただろう。アガシは突如として、自分の命運がいかに危機に瀕しているか、気付いたようだった。「偶然だったんだ」と、彼はマッキュエンにタオルを差し出しながら弁解した。

アガシは幸運であった。ファーラーとジョンソンはアガシの申し立てを信じ、ファーラーの言葉によると「選手に疑いを追及されない特典を与えて」ポイントペナルティを無視する事に決めた。翌日、事件のテープを再検討した後、ファーラーは騙されていた事に気付き、アガシに3,000ドルの罰金を課した。しかしその時までに、アガシは無事3回戦に駒を進め、主審は排除されていた。

マッケンローに言及しなくては、規律に関する報告は完全ではないだろう。アンドレイ・チェスノコフに勝った3回戦では、彼のサーブの時に最前列席の女性が喋っているのを聞くや否や、マッケンローは立て続けに無作法な言葉を浴びせ、彼女を痛罵した。その女性も猥せつな言葉で応酬すると、マックの卑屈な宣伝係であり、USAネットワークの解説者でもあるビタス・ゲルレイティスは、「彼女の犠牲者」を作らないよう力説した。

この不面目な事件はあったが、31歳のマッケンローは驚くような勝ち上がりを楽しんでいた。4回戦では、彼は6歳年下で第7シードのエミリオ・サンチェスにフルセットで競り勝った。そして準々決勝では、強烈なサーブを持つ若いアメリカ人、デビッド・ウィートンと対戦し、テニスを点描画に変えた。 マッケンローはドロップボレーで無数のポイントを勝ち取った。一方ぎこちない6フィート3インチのウィートンは、ベースラインに釘付けになり、1-6、4-6、4-6で敗れた。

8週間前のワシントン D.C. では、マックはひどいプレーで113位のデリック・ロスターニョに敗れ、ノーシードで臨むフラッシングメドウで自分が何かをしでかす事は、「非現実的である」と宣言したほどだった。それでも彼は元のコーチ、トニー・パラフォックスと組み直した。彼はマックに、対戦相手をラリーで打ち負かそうとせず、かつてやっていたように、あらゆる機会にネットへ詰めるよう勧めた。その戦略は、準決勝でサンプラスと対戦するまでは効いた。

マックは悪い出来ではなかったが、第1セットを失った。そして、サンプラスのサーブに対して挑戦を開始する事に失敗し、第2セットを失った。マッケンローは第3セットを取った。もしマックがどうにかして第4セットを取っていれば、観客を味方に付け、そのまま勢いに乗って勝利をものにできたかも知れなかった。しかしサンプラスは、サービスリターンもサーブと同じくらい破壊的で、先手を取った。彼は17本目の、回転のかかった時速117マイルの速いサービスエースで試合を終わらせた。

敗戦の後、マッケンローは長い間で初めて、墓碑銘を読むような不機嫌な調子で話をしなかった。「人間は決して希望を捨てない」と語り、ジミー・コナーズは31歳でUSオープンに優勝し、ケン・ローズウォールは39歳でウィンブルドン決勝に進出した事を付け加えた。「次は、サンプラスやアガシのような男が優勝候補になるだろう。彼らは今までとは違うプレッシャーを感じる。僕はただプッシュし続けるのみだ」

しかしマックがプッシュしても、サンプラスのような若者も最初から押してくる。「今後のキャリアで何をしようとも、僕はUSオープンのチャンピオンです」と、日曜日の夜トロフィーを受け取って、サンプラスは群衆に語った。

ある者達にとっては、イメージが全てかも知れない。しかしサンプラス―――地に足の着いたエースで、 将来の「NO I'M NOT」Tシャツ―――は、現実にも何らかの価値がある事を証明したのだ。


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