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スポーツ・イラストレイテッド 2000年7月17日号 長き時代へ 文:S.L Price |
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ピート・サンプラスが記録的な13回目の、そしてビーナス・ウィリアムズが初めての グランドスラム・タイトルを勝ち取り、感動的なウィンブルドンの2週間に 過去と未来が遭遇した |
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終日の曇り空は、雨による遅延と試合中止のおそれをもたらしつつ、訪れ、そして去っていった。今、すべては落ち着いていた。闇がウィンブルドンのセンターコートに降りていた。テニスシューズ、ネットのコード、シャツとショートパンツ、そしてコートのラインさえも、その鮮やかな白さは夕闇に溶け始めていた。 午後8時55分だった。ピート・サンプラスが、13,812人の観客が、アメリカ NBC 放送の経営者が、そしてフライトを予約してある誰もが、待つ家族のいる誰もが、ただもう1回のブレークを必要としていた。試合が月曜日に持ち越されるのを阻止する、もう1回のブレークを。サンプラスがオーストラリアのパトリック・ラフターを葬り、歴史へとサーブするための、もう1回のブレークを。 誰もがちらちらと空に目をやっていた。サンプラスは勝利に間に合うのだろうか? 彼はラフターを追い詰めていた―――2セット対1セットとリードし、4-2アップ、ラフターのサービスゲームで15-40、セカンドサーブ―――が、すべてはこの瞬間にかかっていた。 ラフターは彼の最も価値ある武器を放った。時速91マイルでキックする厄介なサーブをサンプラスのバックハンドへと。サンプラスは高い位置でボールを捕らえ、力ずくでアドコートのサイドライン沿いに持っていった。 突進するラフターが届くにはあまりにも遠かった。一瞬、その場は静まりかえったままで、それからどよめきが噴出した。 2人の男は各々の椅子へと歩いた。ラフターは知っていた。誰もが知っていた。終わった、と。サンプラスはサーブに向かうところだった。記録を破る13回目のグランドスラム・シングルス優勝へ、7回目のウィンブルドン・タイトルへと。夜も、サンプラスの痛む左脚も、記録保持者であるロイ・エマーソンの精神も、いずれも彼を止める事はできなかった。 |
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2人の男は座っていた。サンプラスは涙が込み上げてくるのを感じた。2週間のストレス、10年間の貴重な努力が沸きたってくるのを感じた。「僕は勝とうとしていた。それが胸を打ったんだ。強く胸に迫ってきた」と、サンプラスは後に語った。「来ようとしていたんだ、ずっと夢見てきた瞬間が」 時計が午後8時56分を指し、主審のマイク・モリセイが、2000年ウィンブルドン選手権の最も重要な言葉を告げた。「タイム」 日曜日の決勝戦、そして大会全体が、それにかかっていたのだ。タイム、そして時とサンプラスのレースに。タイム、そして彼の最も永続的な功績を揺るぎないものとできるまで、その破壊を遅らせる必要性。タイム、そして人の物の見方を変える道のり。 日曜日、サンプラスの人生に関わるすべての顔が一同に会していた。両親のサムとジョージア、彼の手にラケットを与えた最初の人物は、カリフォルニア州パロスヴェルデスの自宅から飛行機で来ていた。1992年USオープン以来初めて、サンプラスがグランドスラム決勝戦で戦うのを見るために。 |
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サンプラスの婚約者ブリジット・ウィルソンがいた。6月にイギリスへと出発する前夜、彼はプロポーズしたのだ。同じく親友のジョン・ブラック、エージェントのジェフ・シュワルツ、そしてコーチのポール・アナコーンがいた。彼に最も影響を与えたコーチ、故ティム・ガリクソンの顔さえも、双子の兄弟トムの中にあった。「ティミーは誇らしく感じた筈だ」と、トムは彼に語るだろう。 勝とうが負けようが、サンプラスは皆にいてほしかったのだ。彼は28歳になり、19歳で初のグランドスラム大会に優勝した時には知らなかった事を知っているからだ。 「年齢を重ねると、他の事がテニスより意味を持つようになる。僕にとっては、彼らがここにいてくれる事、分かち合ってくれる事が重要だった。キャリアを終えた時に、それは思い出となるのだから」 |
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時は近づいている。サンプラスはそれを知っている。来月には誕生日を迎え、そして昨年は肉体との闘いだったからだ。1999年USオープンでは、椎間板ヘルニアのために彼は欠場せねばならず、何日間も歩く事もままならなかった。 2000年オーストラリアン・オープンでは、大臀筋断裂がアンドレ・アガシとの叙事詩的準決勝に負担をかけた。2週間前のウィンブルドン1回戦の後には、左向こう脛の腱炎がサンプラスを襲った。そして決勝戦の前日まで、練習を不可能にした。 これが他の大会であったら棄権していただろう、とサンプラスは決勝戦の後に語った。2回戦の後に棄権を考えたと。 しかし常に、彼の前にぶら下がっていたのは、ポイントが短く、さらに彼のサーブが最も物を言うグラスコートでプレーするには、これまでで最も魅惑的なドローだった。 |
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日曜日の試合で第12シードのラフターと当たるまで、サンプラスが対戦した最高ランクの選手は56位のジャン - マイケル・ギャンビルだったのだ。エマーソンの記録は目前にあった。サンプラスにこのようなチャンスがもう一度来ると、誰が言えただろうか? 2週間で、彼の自信はすり切れていた。向こう脛に鍼療法、マッサージ、アイシング、抗炎症剤、鎮痛剤の治療を受けた。毎日何時間もの治療を受け、試合には「最悪の気分で」臨んだ。「ラケットが手にしっくり来なかった」 日曜日、雨は事態をさらに悪くした。決勝戦の開始が1時間遅れ、2度の試合中断もあって遅延は3時間近くに及んだのだ。ラフターが第1セットを取り、第2のセットのタイブレークで4-1リードとした時、サンプラスは自分が負けると考えた。だがそれから、ラフターはアンフォースト・エラーを重ねて崩れた。彼はその後「僕は狼狽していたよ」と認めた。 サンプラスがタイブレークを取り、試合はイーブンとなった。ラフターの気力とサーブは二度と回復しなかった。そしてサンプラスは変わらず強いままだった。第4セット5-2で彼がサービスゲームに臨んだ時、今や暗くなったスタンドで幾つものフラッシュが閃き始めた。2本の速いサーブとバックハンド・ボレーの後、サンプラスはチャンピオンシップ・ポイントを迎えていた。最後のサーブが時速122マイルで炸裂した。ラフターにチャンスはなかった。 |
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「これまでに優勝した中で最も困難なスラム大会だった」と6-7、7-6、6-4、6-2で勝利した後にサンプラスは語った。そして「最も喜びを感じる」と。 サンプラスは腕を挙げた。ラフターと握手をし、ラケットを置いて、一歩進み、サービスラインで屈み込み、そしてすすり泣きし始めた。彼はウィンブルドンにおける最も偉大な男子チャンピオンとなったのだ。彼のサーブ&ボレー・ゲームとはにかみがちな物腰は、常にオールイングランド・クラブには似合っていたが、日曜日ほどそうだった事はなかった。 サンプラスは自身が昔を思い起こさせる存在である事を誇りにしている。そして照明塔のないスタジアムで、格納式屋根を要求する声が再び上がった日に、サンプラスとセンターコートは妙に現実離れした、そして古風で趣きある絵画のような情景を創り上げていた。 スタンドにいる父親、母親と抱き合うために、サンプラスは観客で混み合う広い階段を登っていった。両親は一日じゅうカメラマンを避けてきたが、レポーターが近づいてくると狼狽したようだった。彼らは息子に彼を愛し、誇りに思うと伝えていた。それで充分だったのだ。 |
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サム・サンプラスは放送ブースの屋根で踊ったりはしない。「サインを掲げたりもしないよ」とサンプラスは言った。「父はウィリアムズ氏のように注目されるのが好きじゃないんだ」 そのコントラストは、もちろん、これ以上ないほど際立っていた。日曜日の行為は、過去への黙礼だった。しかし前日、ウィンブルドンは予想できない未来を見ていた。 ビーナス・ウィリアムズの父親、リチャードが、手書きのサイン(「私にはよく冷えたコカコーラが必要だ。これはビーナスのパーティーで、誰も招待されなかった!」等)を掲げている間、彼女は前回優勝者のリンゼイ・ダベンポートに6-3、7-6で勝利し、初のグランドスラム・シングルスタイトルへと向かっていた。 試合にはドラマ性が欠け、両者ともダブルフォールトとアンフォースト・エラーを重ねて、神経をすり減らすような展開だった。しかしビーナスの偉業は否定できなかった。タイトルへの途上で、ナンバー1のマルチナ・ヒンギス、妹のセレナ、そしてダベンポートを下し、1997年USオープン決勝戦へと押し進む中で披露した有望さを、 20歳のウィリアムズがついに実証したのだ。 |
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土曜日にダベンポートを消し去った後、ウィリアムズは笑い、そしてコートの周りを跳ね回った。同じく彼女の父親は NBC ブースの上に乗り、ジャンプし始めた。解説者のクリス・エバートが言った。「屋根が落ちてくるかと思ったわ」 それはウィンブルドンが見た事もないようなものだった。それどころか、ウィリアムズ一家がこの2週間にしてきた事は、型破りとも言えるものだった。ビーナスは優勝をほとんど期待されていなかった。彼女はこの1年でたった9試合しかプレーしておらず、なぜか姿を消していたが、ツアーに戻ったばかりだった。 99年USオープンで18歳の妹が優勝し―――その3週間後、セレナに初の敗北を喫した―――ビーナスは「自分自身について悩む」状態だった、と土曜日の夜遅くに語った。「私はいわば、ビーナス、あなたはある時点で克服し始めなければならない、線を越えなければならない、という感じだったわ」 だが両手首の腱炎を再発し、彼女はオーストラリアン・オープンを欠場した。ニュースのないまま数カ月が過ぎ、3月にはマイアミで開催されたエリクソン・オープンに父親のリチャードが現れ、ビーナスに引退するよう助言したと言明した。彼女はフロリダ州パームビーチ・ガーデンの自宅にいて、テニスを見てはいたが、練習はほとんどしていなかった。 |
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「素晴らしかったわ」とビーナスは語った。「セレナと母はツアーへ出掛け、私と父は深夜にソファで『ゾロ』を見ていたの。私は居眠りし、目覚めてボンヤリしていると、父がベッドに寝かしつけてくれた。とても長い間自宅にいて、不思議な感じだった。そしてついに家を出たの。もうゾロはいいわって」 彼女は先月のフレンチ・オープン準々決勝でアランチャ・サンチェス・ヴィカリオに為すすべなく負け、グラスコートでの準備なしで2週間前にウィンブルドンへとやって来た。 それでも、2つのスラム大会の間に1週間自宅で過ごした際、ビーナスはウィンブルドンのチャンピオンズ・ボールで着用するドレスを買った。家族を別にすると、彼女は自分がブレイク間際であると承知していた唯一の人間だった。「彼女はグランドスラム大会でトップ選手に勝っていないわ」とダベンポートは準々決勝の後に言った。「誰にも」 しかし先週の準々決勝で、ビーナスはトップにランクされた選手を動揺させ続け、ゲームのエリートであるヒンギスを6-3、4-6、6-4の勝利で屈服させた。「多分ほかの誰かがナンバー1に値するのでしょう」とヒンギスは言った。 |
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リチャード・ウィリアムズは長い間、娘たちがその地位を争うと語ってきた。そしてその日は避けがたくやって来るようだ。ヒンギスを破った後、ビーナスはスタンドを見渡して父親を指さした。父親も娘を指さし、そして2人は跳びはね合った。 セレナは彼の隣りに座り、嬉しそうだった。しかし父親が彼女を抱きしめようとすると、気乗りしない様子で彼を軽く叩いた。セレナもまた、ウィンブルドン・ボールのためにドレスを購入していたのだ。今や彼女は、ダンスのチャンスを懸けて準決勝で姉と対戦しなければならなかった。 セレナが勝つだろうと思われた――― 彼女はそれまでの5試合で、13ゲームしか落としていなかったのだ。サンプラス、アンドレ・アガシ、マルチナ・ナヴラチロワ等は、彼女がビーナスを打ち負かすと予想した。 だが女子ツアーにより近い者たちには確信がなかった。ヒンギスは結果を「家族の問題」と呼び、その時の心理的な重みによっては、セレナが隙を見せてビーナスに強みを与える事もあり得る、というのが一般的な見解だった。 2人が対戦すると、セレナは不安定で消極的な別の選手のようだった。そして彼女が第2セット4-2リードから連続で10ポイントを失い、ビーナスを試合に引き戻してしまったという事実は、今度は彼女の番だからビーナスが勝つと信じたがっている誰もに根拠を与えた。両者とも、取り決めなどないと否定した。 |
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「そんな××な事を言うなんて、まったくもって恥辱だ」とリチャードは金曜日に語った。「マッケンローと弟がプレーした時は? クリッシー・エバートと妹がプレーした時は? 誰も彼らにそんな事を訊かなかった。しかし我々には、誰もが忌々しい××を言い立てる。ここにテニス界最高の2人の女性がいるのだ。ビーナスとセレナがいなかったら、この××―――テニス界は終わりだ。ヒンギスや他の女子は、売るに値しないのだから。人々はそろって××な事を言うのか? 恥ずべき事だ」 試合が2人の姉妹にとって辛いものだった事は否定し難い。マッチポイントでダブルフォールトを犯すと、セレナは立ち止まり、信じられないという様子で頭を抱え、それからネット際のビーナスに向かってよろよろと歩いていった。ビーナスは握り拳をつくる事もなく、微笑む事もなかった。無表情で、腕を妹に回し、そして「ここから出ましょう」と言った。勝利してこれほど悲しかった事はなかった。 「ひどい気分だった。嬉しくないわ、控えめに言っても。セレナはウィンブルドンで勝つと信じていた。私たちは共に信じていた(勝つつもりだと)。どちらかが負けるというのは、ひどい気分だったわ」 |
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しかしビーナスが土曜日に勝利を得て、1975年のアーサー・アッシュ以来初のアフリカ系アメリカ人、そして1958年のアリシア・ギブソン以来初の黒人女性として大会に優勝した時には、ただ喜びだけがあった。ビーナスは家族席まで登っていき、姉妹は顔を寄せ合って楽しげに囁きを交わした。 「彼女ったら、何年間も見つからなかった私のシャツを着ていたわ」とビーナスは言った。彼女はセレナとチームを組み、月曜日にはダブルス・タイトルを狙うのだ。「私は彼女のズボンをはいているけど、返さないわ。私たちは愛し合ってるのよ」 愛と時。それら2つの単語は、テニス大会の最中、大いに喧伝される。しかし今年は、ウィンブルドンが終局へ近づくにつれて、普段よりもっと鳴り響いていた。サンプラスは両親と抱き合ってから、トロフィーを受け取るために階段を降りてきた。彼はコート上でのインタビューで観客を前に、両親への、婚約者への、そしてウィンブルドンへの愛を語った。 彼はカップを掲げてコートの周囲を巡り、カメラのフラッシュが夜気の中で花火のように閃光を放った。その光景には、ずっと前の時代にモノクロ写真で撮られたかのような気高さがあった。 午後9時12分だった。サンプラスは退場口に向かって歩き始めたが、人々の拍手喝采は止もうとしなかった。花模様のドレスを着た女性たちは、コンクリートの壁を手で叩いた。男性たちは傘の先端で冷えた石の床を打ちつけた。 サンプラスはトロフィーを掲げていた。暗闇と歴史の中に、彼は姿を消した。 |
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