アメリカ版TENNIS
1997年9月号
ポール・アナコーン:偶発的なコーチ
インタビュー:Peter Bodo


ポール・アナコーンは、若かりし選手時代、その手ごわいボレーを活用するべく、あらゆる機会に恐れずネットに攻撃をかける、徹底的なサーブ&ボレーゲームをしていた。この超攻撃的でリスキーなゲームは、アナコーンの個性の表れであり、 同時に彼が、自分の強さと弱さを現実的に理解している事も明らかだった。

テニス社会において、アナコーンは思慮深く思いやりのある、評判の良い人物であった。アナコーンのシングルスのキャリアは、1993年には終わりに近づいていたが、ダブルスは続けており、ATPツアーの仕事にも関わっていた。

それから、2つの出来事がアナコーンのキャリアを変えた。椎間板ヘルニアになり、ツアープロとしてのキャリアを断念しなければならなかったのだ。

その少し後、友人のティム・ガリクソン 、すなわちピート・サンプラスのコーチが、脳腫瘍で倒れた。

1995年3月、ガリクソンの病状が容易ならないものになった時、サンプラスはアナコーンに、仮のコーチとして引き継いでくれるよう頼んだ。不幸にも、ガリクソンは回復しなかった。

そしてアナコーンはそれ以来ずっと、サンプラスと組んでやってきた。本誌はウインブルドンでアナコーンに、その後の彼の生活、サンプラスと過ごした時について語ってもらった。


あなたはどちらかと言えば、偶発的にコーチになりましたね。ピートとあなたの関係が、これほど長い間、あるいはこれほど実りあるものになった事に、驚いていますか?

アナコーン:自然の相性だった。私は昔からティムの友人だったし、ピートが16歳くらいの頃から知り合いだったからだ。私にとっての全体的な目的は、ティムが回復するまでピートのそばにいる事だった。基本的には、悪い状況の中で最善を尽くすのを手伝う事だった。いい事だった。私たちは自尊心が傷つくのを、大して心配しなくてもよかったからね。

それは、ティムが回復したら、私が「オー、ノー、私は仕事を失った」と考えるようなものではなく、ティムが良くなるためのものだった。不幸にも、考えていたようにはならなかったが。しかし、もし素晴らしい選手をコーチするとしたら、ピートより良い人物はいないだろう。それは彼の人柄によるものだ。彼はとても誠実だし、想定した事を実行に移そうとする場合、彼とならすべてうまくいく。

ティムの病状からくる感情的な問題、あるいはピートのゲームをスピードアップさせたり、彼の個人的なニーズに応えるにあたり、まずむずかしかった事は何ですか?

アナコーン:それは連動したものだったと思う。しかし最も心を打たれたのは、逆境に対するピートの強さだった。これは、なぜ彼がこんなにも素晴らしい、無比のプレーヤーであるかという事をも物語っている。

私がピートと一緒にツアーを回るようになった1995年の春、彼はローマで1回戦負けし、全般的にクレーでは苦しんでいた。ハンブルグではまあまあだったが、フレンチ・オープンでは、同じく1回戦で敗退した。彼は明らかに自分のテニスに苦しんでいた。フランスから戻る飛行機の中で、彼を立ち直らせるために何ができるか、私は考えを巡らせていた。少しばかり、自分に課したプレッシャーを感じていた。

それから1〜2週間後にイギリスへ行ったら、突然、彼はボールをうまく打つようになり、そのままクウィーンズではシングルとダブルスに優勝し、さらにウインブルドンで優勝した。逆境と成功に、同じように向き合う彼の対応と姿勢に、私は驚かされた。

困難を抱えても彼は決して狼狽しないし、勝つ時もまた、特別な振る舞いはしない。それが、ピートという人物のカギだ。ピートには怯えもないし、尊大さもない。それが、彼を真のチャンピオンにするもの―――彼のものの捉え方だと思う。

ティムの病状に関わる感情的な衝撃には、どのように対応したのですか?

アナコーン:我々はその事を話し合いはしたが、こだわりすぎはしなかった。私は19歳の時、親友を失っていたので、いくらかピートの力になれた。親友は白血病で亡くなったのだが、その事を通して、恐ろしい病気や早すぎる死という悲劇を私は経験していた。ピートは同じく若く、そして近しい誰かを失った事がなかった。ピートとティムの間には、本当に特別な絆があったのだ。

私は決して、たとえ可能だったとしても、その関係に取って代わろうとは考えなかった。そして今後も、誰もそうしないだろう。ともかくすべては、悪い状況の中で最善を尽くし、辛い事にも前向きな姿勢で取り組む事に帰着していた。いささか常套句ではあるが、ピートがティムのためにできるベストは、いいプレーをする事だった。

病気の初期の段階では、ティムはテレビで試合を見ており、ピートとは頻繁に電話で話していた。それはもちろん、ピートが悲しみに浸るためのものではなかった。結局、ピートが順調にやる事は、ティムのため、ピートのため、そして私のためにも、癒しとしての大きな価値があった。

初めてピートに会った時の事を覚えていますか?

アナコーン:ええ。私がまだプレーしており、彼が16歳くらいの頃、パームスプリングスで彼とヒッティングをした。その夜、コーチであった兄に「この子は、素晴らしい選手になるだろう」と言ったものだった。そして1〜2年後、ウインブルドンの期間中に、ピートはここロンドンで、私や私の家族と少し一緒に過ごした。

当時すでに、マイケル・チャンとアンドレ・アガシは大いに注目されており、ピートは70位くらいだった。私は彼に、自分の進歩の度合いについて、落胆したり疑いを持ったりしないよう理解させようとした。なぜなら、彼らの見通しの範囲はもっと小さかったからだ。

マイケルは常に、カウンターパンチャーとしての能力、および足の速さとベースラインでの安定性が、自分の大黒柱になると承知していた。アンドレは素晴らしいグラウンドストロークを備えた、グレート・リターナーだった。しかしピートは非常に多くの武器を持っており、どのように、いつ、すべての武器を使うべきかという感情的な学習が、むずかしいところだった。

その過程を体験する事が、テニスを面白く、興味深いものにする部分だと示唆した。実を言うと、ピートがその会話を覚えているかどうかは分からない。だが、どうやったのか、彼のプレーがまとまるのに、そう時間はかからなかった。いかに速く、彼が自分のすべての武器の生かし方を学んだか、いまでも私には驚きだ。

偉大なチャンピオンは、みな強い自尊心を持っていますが、ピートはいつ、どのように、それを示すのですか?

アナコーン:ピートは私が知っている中でも、最も凄まじい競技者の1人だ。このように抑制された方法で、どうやってピートはこれほど競争心を強く持てるのか、多くの人にとって理解しがたいのは承知している。その意味では、ピートは他の偉大な選手の誰よりも、ビヨン・ボルグ的だ。

先日、ウインブルドンのロッカールームで、ジョン・マッケンローが、ピートはもっとコート上で激しさを見せるべきだと言ってきた。そしてピートはただこう言った。「僕は僕だ。僕はあなたやジミー(コナーズ)のような、激しやすい気性の持ち主ではない。願わくば、僕が僕でしかあり得ない事を、みんなが理解してくれたらと思っている。僕には自分なりの競い方、集中の仕方がある。それと僕の才能とで、充分楽しませられればと望んでいるよ」と。

自尊心の問題は興味深い。というのは、自分のコントロール外の事については、全く対抗心を抱かないという、非凡な資質をピートは備えているからだ。ボリス(ベッカー)がメディアとの900万ドルの契約を進めようが、アンドレが莫大な広告に関わろうが、ティム(ヘンマン)とグレッグ(ルゼツキー)がロンドンで信じがたいほどの注目を集めようが、ピートは幸せだ。彼らを妬んだりはしない。彼の態度は「僕はできるだけ一生懸命やる。どんな結果になろうと、自分の仕事をするだけだ」というものだ。

ピートのコーチになった時、あなたのコーチング計画は、どのようなものでしたか?

アナコーン:ピートほどのレベルの者と関わる時には、目標を設定してそれを達成するというよりは、目標を成し遂げない時に何をすべきかという事になる。

テニスで言えば、私はトップ近くまで行った事がある。トップレベルのテニスをした事がなくても、優秀なコーチであり得ると言う人々に、いろいろな意味で同意するが、その事は私にとっては重要であった。

スタンドに座って見ていても、特定の場面でショットをミスしたり、あるいはサーブが入らないのはなぜか、そういう立場に立った事のある者だけが、実際の感覚を理解できる時があると気づいた。ある特定の失敗を理解し、対処するという意味で、私には非常に重要だった。

初めにピートは、あなたに何を望んでいるか説明したり、あるいはお互いに、感じている事を、多少は話し合ったりしたのですか?

アナコーン:状況が状況だったので、私たちは四角四面なやり方で始める必要はなかった。コミュニケーションが、特に始めは、非常に重要であると私は感じていた。自我と感情を脇にのけて、話し合わなければならない。ごく未熟な段階でないのなら、「僕に必要なのはこれで、これについては意見を聞かせてほしいし、あれはそうでもない。これにもっと集中して取り組みたいし、あれはそうでもない」といった具合に、選手は自分の考えを言わなければならない。

それで、我々はそういう事について、少しばかり話し合った。ピートについて言えるのは、彼は迎合されるのが嫌いだ。大げさな扱われ方をされるのは好きでない。そして彼は、あれこれ管理しようとする人、押しつけがましい人、あるいは宣伝屋に囲まれるのを好まない。

最初はむずかしかった。信頼してほしかったし、すべてについて配慮していると、常に彼に請け合いたかったからだ。しかし、彼は「ただやるだけでいい。説明する必要はない。僕は信頼している --- さもなければ、そもそも僕たちは一緒にやってないよ」というタイプだと分かった。

ピートは四六時中テニスについて話すのを好まない。我々は前の夜に、5〜10分くらい試合について話し合う。これは対戦相手がする事―――ABC、そしてこれが彼の傾向、という具合に。それから、ピートがコートに出る数分前に、いくつか特定の事について話をする。

ピートがコーチに望む事、あるいは望まない事は何ですか?

アナコーン:彼はスッキリした、簡潔な説明が好きだ。そして基本的でシンプルな作戦を好む。我々は20分間も座り込んで、50もの事について話し合ったりはしない。通常、まず彼が、次の対戦相手との過去の経験について話すところから始める。それから、相手についての結果や所見 ―――何が彼に有効か、何はまずいか、彼の快適な領域、彼のパターンなどについて、私の情報を伝える。

しかし、前にも触れたが、ピートは非常に多くの技能を持っているので、自分のゲームに気をつけて、すべての技を使い、そしてパターン化したプレーを避けるなら、うまくやるだろう。

あなたのテニスのやり方に沿って、ピートを作り直したいという気持ちになった事はありますか?

アナコーン:多くの人々が、コーチとはそういうものだと見なしているようだが、もしふさわしいコーチなら、2つの事を考えに入れる。まず私は、たとえ望もうとも、自分がベースライン・プレーヤーではないと承知していた。そのやり方では、私はうまく行かなかっただろう。一方、ピートは多くのオプションを持っている。

ピートに関する当初の私の重要なテーマの1つは、彼は充分に自分の運動能力を生かしていないという事だった。彼は素晴らしいアスリートだ。この事は、若干の事情通の人々さえ理解していないようだが、それは、彼は同時に素晴らしい、純粋なテニスプレーヤーでもあるからだ。そこで私は、ピートはネットにつく事により、進み出て意志を知らしめる必要があると感じていた。彼にはそのための運動能力と、ラケットの技能が備わっていた。

もちろん、彼はステイバックしても素晴らしい。しかしNo. 1プレーヤーなら、大胆な行動を押しつける事への、心理上の利点がある。もし私が、たとえばチャンに対してチップリターンで前に詰めても、何も意味しないだろう。だが、ピートがそれをするなら、話は全く違う。彼には攻撃的なプレーをする運動能力があり、またそうする事で、他のプレーヤーを威嚇するオーラがある。

ピートが悪いプレーをする時には、何か特定の理由がありますか? それは精神的なもの、あるいは肉体的なものですか?

アナコーン:ピートに元気がなかったり、あるいは何であれ、そういう折、みんなは重大に捉えすぎるようだ。だが1年間に35週もツアーを回っていれば、いつも素晴らしいプレーをするというわけにはいかないと、彼には分かっている。ピートにとっての良くない兆候は、パターンに陥る時、あるいはチャンスがあるのに、違った事をしようとしない時だ。

ピートの生来の能力に嫉妬する、もしくは、成功と勝利についていま知っている事を、自分のキャリアの最中に知っていたら良かったのに、と思う事はありますか?

アナコーン:他の人々が彼について考えたり言ったりする事に、ピートは全く影響されないが、それには本当に感服する。私がプレーしていた時は、自分のテニスに対するアーサー・アッシュやスタン・スミス、あるいは他の人の発言を、重んじすぎたきらいがあった。そのたぐいの事を聞くうちに、いつの間にか自分を蝕み、むしろ効力を低下させる事もあるのだ。

嫉妬心に関しては、時にピートが何かをするのを見て「あぁ、そんな事ができるようになるのなら、殺しも辞さなかっただろう………」と思ったりする。すべてとても簡単だと考えているのか、彼に尋ねてみたかった事もあった。またピートのような人間は、自分のしている事の真価を認められるのか、どれほど資質に恵まれているか、こんなむずかしい事を、どれだけ易しく見せているか、理解できるのだろうかと思ったものだった。

心の奥深くでは、ピートはそれら全部に気づいていると思う。しかし、独りよがりは承知の上で言うのだが、彼は自分が知っているという事を、誰にも知られたくないのだろう。また彼は、自分の才能は与えられたもので、幸運だと受け止め、それで好き勝手をしたり、増上漫な振る舞いをしたり、あるいは人を服従させる許可証を与えられたのではないと考えていると思う。彼はただコートに出て自分の仕事をし、そして結果を見なければならないと考えている。

ピートとアンドレは、本物のライバル関係を築いていくと感じていましたか? それとも、それは希望的解釈だと思っていましたか?

アナコーン:それは本物のライバル関係だった。アンドレは史上最高のボールストライカーの1人に違いないと考えているからだ。彼はコナーズをさえ凌ぐリターンをした。そしてピートは素晴らしいサーブを持っていた。良い相性だった。ただアンドレは、ピートのように、毎週毎週競う事を楽しむのではないようだ。

そういう喜びを彼の目に、あるいは多分彼の脚にさえ、常に見ることができるわけではない。ピートはこのスポーツをする事が好きで、しかも頻繁にするのが好きだ。アンドレはしばらくの間人々を完敗させ、そして次には他の事をするのを好むように見える。しかし1995年の夏、ピートは旗幟を鮮明にしたと思う。彼は多くの試合をし、いくらか勝ち、いくらか負けたが、最終的に最高のものを披露したのだ。

ティムに降りかかった悲劇に、ピートは終止符を打つ必要があると、昨年は大いに取り沙汰されましたが、USオープンに優勝するまでは、彼に本当にそれができるようには見えませんでした。その状況解釈は正確だったのですか?

アナコーン:それは面白い。我々はUSオープンの後、ヨーロッパへ向かう飛行機の中で、全体について話をした。答えはイエスであり、ノーでもある。ある程度までは、すべては、メディアがその意見をどのように捉え、責任を負うのかにかかっていた。

実際のところ、フレンチ・オープンでは、ピートは本当にティムのためにプレーしていると感じていた。彼はずっとティムの事を考え続け、勝つためにできる限りの事をした。しかし少し及ばなかった。その後は、終わったのだ。彼はティムの事を大いに考えたし、おそらくこの先もそうだろうが、残りの夏も同じ重さを引きずっていたわけではなかった。

そしてUSオープンで、みんな再びその事を話し始めた。さらに、彼が具合を悪くした試合があり、話題は再燃した。それは確かに彼に影響を与えたし、すべての状況について、彼は再び考えなければならなかったのも確かだ。そしてついに、ティムを亡くしてから初めて、グランドスラム大会で優勝できたのは素晴らしかった。いろいろなロジックもあったし、素晴らしいドラマでもあった。しかし使命感のような感情が、はっきりした形でピートの内部にあったのは、当初のフレンチ・オープンでだけだった。

あなたはコーチであり、また子供の親でもあります。ある親が来て、「私は我が子をピートのようにしたい」と言ったら、あなたは何と言いますか?

アナコーン:ピート・サンプラスはただ1人だ。ステファン・エドバーグ、あるいはジョン・マッケンローも1人しかいないのと全く同じように。ピートの場合、彼はロッド・レーバーのような、紳士的なプロになりたいと望んでいた。だが、自分はレーバーになる、あるいはなりたいと考えていたわけではない。彼は彼なりのやり方を、見いださなければならなかった。

だから私なら、そんな高遠な目標を達成するのは非常に、非常にむずかしいし、彼らも彼らなりのやり方を見いださなければならないと、両親に認識させるだろう。また、何かを学ぶためには、柔軟な態度で臨まなければならない。私は子供に初日から「ゴルフクラブを振って、偉大なプロになる」と言うやり方がいいとは思わない。タイガー・ウッズには有効だったが、それはごく例外だ。

あと3年、あるいは5〜7年先、あなたはピートのコーチをしていると思いますか?

アナコーン:心からそれを望んでいる。先日、この先どうするのか、ピートのコーチでなくなったら何をするのかと尋ねられたが、私は「そうですね………」と言葉が続かなかった。さて、どうするだろうね? とても辛いだろう―――それは彼の成績のためだけではない。むしろ彼の人柄のせいだろう。

ピートと一緒にいるというのは、大勢の取り巻きと交際したり、あるいは、彼と仲間たちがくつろげるよう、レストランを貸し切りにしてもらうというような事ではない。仕事の面では、甘やかしたり、手控えたりという事がない。ピートはそういう事は望まない。彼にモットーがあるとすれば、それは「何事も必要以上に大げさにするな」とでもいうものだろう。コーチにとって、これ以上何を望めるだろうか?


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