アメリカ版TENNIS
2000年9月号
勝つために生まれた男
文・インタビュー:Peter Bodo


彼は決してインタビューが好きではない。ピート・サンプラスは
ラケットに物を言わせ、そして他者に分析させる方を好む。
だが、彼が世に躍り出たUSオープン優勝から10年後のいま、現世代の最も
偉大な選手は(全世代ではないかも知れないとしても)、長く語る事を承諾
してくれた―――彼の成功と悲劇について、彼のストレスと満足感について、
そして彼の愛と喪失について。

食べ物の好みがチーズバーガーとフライドポテトという男にしては、ピート・サンプラスは家に関しては趣味がいい。

広々とした牧場主タイプの家は、ロサンジェルスの高級住宅地ベネディクト・カイヨンの、ツル植物や低木林に覆われた険しい丘の上に建っている。

所有者と同じくシンプルかつ堅実で、控えめなエレガンスを備えたモデルである。

それはまさに「男性的な住まい」と言えよう。深いアースカラーが基調で、磨き込まれた堅い木の床、むき出しの梁、暖炉、高級男性クラブで見られるような重厚な、しかし心地よい家具がそろっている。

家具はあまり置かれておらず地味だが、白い蘭の花を含むいくつかの大きな鉢植えの植物が、暖かみを添えている。

リビングルームの壁の一面は白い本棚になっており、1つの段にはマクドナルドのスーパーサイズ・コカコーラくらいの大きさの、6つのウィンブルドン・トロフィーが飾られている(7月には7つになるだろう)。別の段には4つのUSオープンのトロフィーが、また別の段は5つのATPチャンピオンシップのトロフィーが占めている。

白いTシャツに赤いバギーショーツという服装のサンプラスは、階段を降りてきて、握手とトレードマークである屈託のない笑顔で私を迎えてくれた。彼はもう29歳である。だが、彼のカールのかかった髪には、ところどころ薄くなった箇所があるものの、少年ぽい顔つきを保ち、歳より若く見える。そして、テレビで見るより明らかに小柄に見える。

私たちはプールのある中庭に向かった。プールは掃除されていない。誰かがするはずなのだろうが、サンプラスは気にしていない。私たちはアウトドア家具のアボカド色のクッションに座り、テープを回した。

サンプラスは自分の感情を表現する事を決して心地よく感じないので、愛情に関わる話をする時ははにかんで、おどけた冗談で質問をはぐらかそうとする。彼は時おりオレンジ・ゲータレードをガブッと飲み、自分の手に注意を促すように、神経質そうに指関節を鳴らす。白くなめらかな、長いきれいな指だ。

ラケットを握ると、その手はとてもよく働く。彼が史上最年少のUSオープン・チャンピオンになったのは、10年前の今月だった。それに続く10年間、彼は史上最高の選手になる事を追い求めてきた。それは今日むしろ彼が語るのを好む話題だ―――テニス人生における、いい時期と辛い時期について。


あなたがこの場所を見渡して、それから楽天的でニコニコしていた15歳の頃を振り返った時、これらすべてを所有するようになると、考えた事がありましたか。

ピート 僕は自分が成功するだろうと思い込んでいたよ、みんな僕に対してそう予想していたからね―――ここまでの成功は予測しがたかったけれど。棚のトロフィーが目に入ると、圧倒される事があるよ。

でもこのレベルの快適さは、決して主たる目的じゃなかった。僕は幸せでいるのに、そう多くの物を必要とはしない。僕はいつもあまり浪費もせず、シンプルな生活を送ってきた。テニスについて回るお金は、僕を駆り立てるものではない。プロになったばかりの頃は、経費節約のため、しょっちゅう兄のガスと同じ部屋に泊まっていたよ(ガスは現在32歳で、スコッツデール大会のアシスタント・ディレクターを務めている)。

現在の僕はジェット機とかステキな車とか、あらゆる贅沢品や快適さを手に入れる事ができる。家族が一生経済的に保障されていると分かっている。それは僕にとって、とても重要な事だ。少々奇妙なのは、プロになった時、テニスでここまでの成功を望んでいるのかどうか、自分でも定かではなかった事だ。だけど、キャリアの初期に起こったいくつかの事を通して、自分がそれを本当に望んでいると悟ったんだ。

1990年USオープンでの、予想外の優勝後に経験した困惑について触れているのだと思いますが、名声はそんなにひどくあなたを打ちのめしましたか。

ピート そうだね。90年にUSオープンで優勝した時は、僕は人間としてもテニスプレーヤーとしても、準備ができていなかった。たまたま素晴らしい2週間を経験しただけなんだ。

そうとしか説明しようがないよ。その他の点では僕は本当に未熟な、自信のない子供だったんだから。

優勝した翌朝、僕はあらゆるトークショーに出演した。そしてひどく居心地が悪かった。19歳になったばかりの子供にとっては、あらゆる関心を寄せられるなんて、とても辛い事だった。僕は人見知りがちで未熟な子供でしかなかったんだ。

突然みんなが、僕にいつもいい機嫌でいる事を期待したけど、大半の19歳の人と同じように、僕が本当に望んでいたのは、うまくやっていける快適な領域を見つける事だった。そして名声は、全く含まれていなかった。みんなが僕に何を望んでいるのか理解しようとして、精神的にまいってしまったよ。また、自分のしでかした事が後の生活に影響すると知って、怯えてしまった。

何よりも、自分のゲームはまだこの優勝をサポートできないと分かっていた。優勝後、僕はコート上でマークされていると感じるようになったけど、まだそれをかわせるほど良いプレーヤーじゃなかった。僕はただおとぎ話のような2週間を過ごしただけだったのに、それをバックアップする責任という代償をしょい込んだ。1993年に2度目の優勝を遂げ、精神的にもそれを受け入れ、自分の地位を守っていけるだけ進歩するのに2年間かかったんだ。

いま僕は最初の優勝について愚痴をこぼしているけど、もしもう一度最初からやり直すとしたら、もう少し後で優勝したかったよ。

翌年のUSオープン準々決勝で負けた後、忘れがたい記者会見を経験しましたね。その中であなたはプレッシャーから解放されたと言ったのですが、その結果ジム・クーリエやジミー・コナーズを含む多くの選手が、それを非難しました。あなたは言った通りに感じていたのですか、それとも誤解されて受け取られてしまったのですか。

ピート そのエピソードはよく覚えているよ。僕にとっては、最もメディア受けの悪かった1つだったね。だけど僕はインタビュールームに行って、感じている事を言っただけなんだ。それはあの時点で、僕が感じていた事だった。負けて喜んでいるかのような印象を与えてしまったけれどね。

あの発言は、僕には才能はあったけれど、グランドスラム・レベルの大会で安定した勝者になるには、メンタル的に何が要求されるか、あの時点では全く分かっていなかったという事実を反映していた。

あなたのコメントは、興味深い疑問を提起しましたね。チャンピオンは生まれながらのものでしょうか、それとも作られるものでしょうか。

ピート 僕の場合は、おそらく生まれながらだと言わなければならないだろうね。ごく基本的なレベルでは、テニスは僕にとっては簡単なものなんだ。きっと僕は、いい遺伝子を持って生まれてきたんだろう。でも、才能は与えられていたが、メンタル的には、それなりの方法で自分を作り上げなければならなかった。その意味で言えば、僕は作られたチャンピオンだ。

ちょっと誤解を招くかもしれない。というのは、僕はスポーツ心理学者のところへ行って、複雑なカルテで自分のテニスをダメにしたり、長所を探して何の答えも返ってこないままにするような人間じゃないからね。だけど、テニスをプレーする際のメンタル的な側面を、決して軽視はしないよ。僕はただもうちょっと自然にやるんだ。

あなたはよく、物事を過剰に分析するのは嫌いだと言ってきました。それはあなたの気質ですか、それとも詮索好きな世界から自分を守るために、そうなってきたのですか。

ピート 立場ゆえというより、僕自身の気質だよ。物事をできるだけシンプルに保ち、些細な事を分析したりするのを避ける。物事を複雑にしすぎない―――これは僕が人生やテニスについて考える時のやり方なんだ。

時に人々が僕のテニスを理解するのに苦労して、なぜ僕がこんなに成功したのか、明らかにしようとしている事は知っているよ。だけど僕にとっては、テニスはいつもとてもシンプルで、自然なものなんだ。ごく当たり前に受け止めているものだ。僕がいいプレーをする時は、簡単なものだ。僕はいつもそんな風にテニスに取り組んできた。

僕はいろいろな状況に対して、ストレスを受けたり、考えて苦しんだりする人とは違い、これは大した事じゃない、なぜもっともらしく見せるんだ、というようにまず反応するタイプの人間なんだ。それは毎日の生活でも同じだ。

あなたを偉大なチャンピオンにしている強みの1つは、世界を腕の長さ分だけ遠ざけて、自分の行動に影響させないようにする独特の才能だと、ボリス・ベッカーが言った事がありますが、正確な洞察ですか。

ピート とても正確だね。非常に。僕は自分のテニスを他の事と切り離すのに、とても長けている。生活にあまり多くの人を関わらせないし、知り合いさえそう多くはいない。

僕は自分を駆り立てているが、見過ごされがちだ。僕はとてもさり気なく見えるからね。だけど自分が欲しているものを知っているし、それを成し遂げるために必要な事はなんでもする。

テニスに関して言えば、有名になる事とか、人にどんな風に見られるかとかは気にかけない。優先するのは勝つ事だ。僕は最後にカップを掲げたい。そして何年もの間、そのためには何が必要かを考えてきた。このやり方は僕にはうまく行っているし、僕が知っているすべてだ。

そのような姿勢―――隔たりを保っている事は、あなたの個人的な生活に影響をもたらしますか。近しい人たちは、あなたを理解しにくいんでしょうか。

ピート ポール(アナコーン。サンプラスのコーチ)を含む何人かから、聞いた事があるよ。僕は不可解で、ロッカールームでも、他のみんなは僕を理解しがたい人間だと見なしていると。それは僕が意図的に―――何かイメージとかオーラとかを作り出そうとして―――しているんじゃない。

でも僕の愛している人たち―――家族は違う。近しい人は誰も、僕がよそよそしく見える事に不満を言ったりしないよ。僕は誰かを知るようになるのに、少し時間がかかるんだ。そして初めは、自分が考えている事や感じている事を表さないかもしれない。でもその人を信頼したら、僕はシールドを降ろして開けっぴろげになるんだ。

あなたが属していた並はずれた世代の選手たち―――アンドレ・アガシ、ジム・クーリエ、マイケル・チャン―――は、あなたが時代を越えたチャンピオンになっていくのに、関与していましたか。

ピート もし僕を駆り立ててきた彼らがいなかったら、今日の僕はなかっただろう。年表を見たら、僕は最後に頂点に達したのだと気づくだろう。マイケルは1989年にフレンチで優勝した。僕は1990年にUSオープンで優勝したけど、その後一度消え、一方ジムが現れて91・92年のフレンチで優勝し、世界1位になった。アンドレもトップの方にいたしね。

妬みはしなかったけれど、彼らが僕を飛び越えていくのには、少し悩まされたよ。僕はそこまで到達する事が果たしてできるんだろうかと思っていた。それは、自分がゲームに何を求めているのか暗中模索していた時期に、意欲を高める助けとなった。ジムと練習していた時、目を開かせてくれたんだ。「僕は彼を負かす事ができる。だったらなぜ、僕にも同じ事を成し遂げられないと言える?」と、そんな風に考えられる機会があったんだ。

いつも、みんな他の誰よりも高い目標を設定しているようだったが、僕らはそれを発奮材料とした。みんな自分の足跡を印そうとしていて、ある意味で不安でもあった。現在、僕らはお互いの業績を認め合えると思うよ。自分自身でそこへ到達したんだから。そのために何が必要か知っているし、僕らの間に特別の繋がりを生み出しているんだ。

あなたはしばしば、ただ才能を生かしてトップまで波に乗っていった、無頓着な人間だと性格づけられますが、笑わせられますか。

ピート うん、ちょっとね。そこには競争心と集中する能力もあるよ。うまく隠されているから分かりにくいだろうし、現在のスポーツ界の傾向とは違うだろうけど。僕はジョン・マッケンローというより、ビョルン・ボルグとかラリー・バードタイプなんだ。きっと育ち方や人間性からくるものだろう。僕は物事を内に秘める人間で、ヒステリックに叫んだりする人間じゃない。

デビッド・デュバルと、ゴルフのラウンドを回った事がある。彼は誰に対してもとても感じが良かったけれど、同時にいいプレーをしたがっているのだと分かった。僕たちがプレーする前に、彼は集中するために独りになりにいった。それに気付いて、「ああ、僕と同じだ」と思ったよ。

ご両親のサムとジョージアは、人前に出ない事で知られています。彼らの性格を描写してくれますか。また、あなたにどんな影響を与えたのでしょう。

ピート 僕はテニスを自分で見つけた。彼らはただ、僕のテニスへの関心をサポートしてくれたんだ。それは経済的負担だった。しばらくの間、父は2つの仕事をしていたんだよ(サム・サンプラスはもう引退しているが、エンジニアでありレストランの経営者だった)。

初め父は、テニスの本を読んで僕をコーチしようとしたんだ。でもそう長くは続かなかったし、いまでは笑い話になっているよ。父は僕を最初のコーチであるピート・フィッシャーにゆだねたんだ。だけどたいていはレッスンの場にいてくれたし、試合や大会に車で連れていってくれた。だから父は僕のテニスに関わっていてくれたけど、コート上ではなかったという事だ。彼は賢明にも、自分が何を知らないかを承知していたんだ。

父はある種の人格の持ち主だ。僕のように、人々との間に隔たりを保っているけれど、ひとたびその人を信頼し好意を持ったら、最後まで誠実さを貫くんだ。少し時間はかかるけれどね。妹の夫フィル・ホッジズが父のシールドを通り抜けるのには、1年かかったよ。それと父は電話の応対では、あまり優しそうに聞こえないんだ。僕の子供時代の友だちは、電話してくるたびに、ちょっとビクビクしていたよ。

でも父も神経質になるんだ。父も母も1990年のUSオープン決勝を見ていられなくて、パロス・ベルデスの自宅近くの商店街を歩き回っていた。家電ショップのそばを通った時、僕が勝ったのを知り、そこのテレビで僕が優勝トロフィーを掲げているのを見たんだ。

ジュニア時代、僕は自分より年上の区分の試合に出ていた。12歳の時には16歳のグループでプレーしていたんだ。厳しい試合の最中、しばしば父を見たよ。そしたら彼はどうしたと思う? 僕に手を振って、散歩に行ってしまうんだ! そして僕は、その場で自分は独りぽっちなんだって感じた。その経験が、今日の僕を作り上げたと確信している。僕をタフにし、自立心を強くしたんだ。それが、僕が試合の最中、関係者席を見るシーンがめったにない理由だよ。

母は家族のよりどころだ。僕がテニスに夢中だったから、母はいつもテニスボールを与えてくれた。でも母は、子供以外の関心事は、そうたくさん持っていなかった。母は25歳の時、6人の姉妹と2人の兄弟を含む家族で、全く英語が話せないままギリシャから移住してきたんだけど、最初はすごく貧しかったんだ。初めの何年間かは、直接セメントの床に寝る事もあった。その後美容師になり、母の職場で父と出会い、父の仲間の1人が母を誘うよう勇気づけたんだ。

母は家族の世話をしてくれる。教育は全く受けていないけれど、豊かな常識を備えていて、人の心がよく分かるんだ。母の才能はその優しい心だ。物静かだけど、とても強い女性だ。

最近ロサンジェルスで行われたデビスカップ・対チェコ戦で、ご両親は珍しく公の場に姿を見せていましたね。あなたの試合を見る気にさせたものは何でしょう。

ピート 僕がロサンジェルスに戻った事を含む、すべての状況ゆえだよ。

20代の前半、僕はテニスに集中するために、家を離れてフロリダに住む事にした。そのプランはうまく機能したけど、しだいにテニスに囚われすぎ、ゲームをあまり楽しめないようになってしまった。僕が家族と過ごす時というのは、ほとんど電話でだけだった。

現在はロスに戻り、自分がルーツに帰ってきたと感じている。姉のステラとは週に3〜4回会っている(ステラは31歳で、南カリフォルニア大学・女子テニス部のコーチをしている)。両親の家には週に一度くらいは立ち寄っている。ここに戻ってきたのは、僕の人生にとってとても良かったよ。

父はデビスカップでは、まず全部の試合を見てくれた。そして僕が勝敗を決する第5試合(対スラバ・ドゼデル戦)に勝った後、コートに来て僕を抱き締めてくれた。本当にいい心地だった。

本当は両親はいつも試合の時、僕といたかったんだと思うよ。だけど、僕に自分たちの心配をさせたくなかったんだ。きっと僕はあれこれ気をもんだだろうから。僕はけっこう心配性なんだ。ちゃんとチケットは手に入れただろうかとか、ホテルはいいだろうかとかね。そんな事が気になるんだ。

面白いのは、僕がどんなに彼らにそこにいてほしいと思っているか、僕自身が実際に明らかにしなければならなかった。両親が来てくれる事が僕にとってどんなに大切か、僕が彼らのところに行って話さなければならなかったんだ。

子供時代の最もステキな思い出は何ですか。

ピート どんなに長く考えても、いつもテニスの思い出に行き着くね。試合に勝った事。学校から帰ってきてコートに行き、こつこつ精を出して練習した事。そして進歩していった事。

高校では友人がいなかった、僕が練習していたジャック・クレーマー・クラブ以外にはね。誰とも遊びに行かなかったし、他のスポーツは何もしなかったし、社交的催しにも参加しなかった。だから昼休みは最悪で、僕は家に戻っていた。他の子にとっては、僕は「テニス漬けの男」でしかなかった。でもそれで構わなかった―――テニスに情熱を向けていたからね。

僕は感傷的なタイプじゃない。昔のテディベアも、最初のテニスラケットも残してない。実際、自分の思い出の品は、ほとんど持っていない。毎年僕がウインブルドンで優勝すると、イアン・ハミルトン(サンプラスの大スポンサーであるナイキの元重役)がロッカールームに来て、サイン入りの靴をねだるんだけど、僕はただ笑って彼にあげちゃうんだ。

あなたは、普通の青春時代を経験しそこなったと感じていますか。

ピート いや、特にはそう感じない。大学に行ったら楽しかったかなと、思ったりはするけど。ステラとその事をよく話すよ。彼女は自立やパーティーや楽しい事が好きなんだ。もし何かを得そこなったと思い始めたら、僕の仕事はスポーツをする事だと、自分に思い出させなければ。あらゆる子供にとっての夢が実現したんだからね。これよりいい事なんてないと思うよ。

あなたは神を信じていますか。もしそうなら、信仰をどのように表しますか。

ピート 僕は間違いなく信じているよ。家族と一緒に、日曜学校とギリシャ正教の日曜礼拝に行っていた。それは両親が僕を育てたやり方で、僕もいつの日か、自分の子供をそんな風に育てるつもりだ。

さしあたりあなたは独身のままで………女優との付き合いを好んできたようですが、あなたには隠れた派手な面がありますか。

ピート そういう話をするのは、あまり心地よくないんだけど………。でももし、僕がきわどい独身男性のライフスタイルを送っていると示唆しているのなら、あまり的確ではないよ。僕は女の子をひっかけに行った事は一度もない。そういうのを楽しんだ事はないし、僕はむしろ人生のすべてにガードが堅すぎて、奔放な生き方ができないんだ。時たまナイトクラブに行き、ちょっとお酒を飲んだり楽しんだりはしたけど………でもナイトクラブでは、自分の妻になる女性に出会う事は決してないと知っていたからね。

結婚は僕がキャリアに取り組んできたやり方とは、あまりうまく行くものではない。でも僕は結婚し、子供をほしいと確かに思っているよ。その日は近づいている(このインタビューの少し後に、サンプラスは女優のブリジット・ウィルソンと婚約した。

彼女の出演作は「Love Stinks」「Billy madison」「The Real Blonde」など。マシュー・マコノフィー、ジェニファー・ロペスらと共演の「The Wedding Planner」が最近クランクアップした。結婚の日取りは未定)。

あなたのウィンブルドンでの記録は並はずれていますが、初めからうまく行ったのではありませんね。最初は芝のサーフェスが好きではなかったし、4年目の1992年までは2回戦を突破した事もありませんでした。どうやってそれを変えたのですか。

ピート 何年間か、芝は適正なサーフェスではないと感じていた。最初の2〜3年間、僕はいわば「うえっ! このサーフェスは不愉快だ。サービスは簡単にキープできるけど、7-6、7-6、7-6で負けるんだ」という感じだった。僕の心構えはすごく否定的だった。ピート・フィッシャーはいつも、僕はうまくやれるはずだって主張していたけどね。

ティム・ガリクソンが僕のコーチになった時、彼もフィッシャーと同じように感じていた。1992年、僕らは芝で勝つために最も必要な2つの事―――優れたセカンドサーブと鋭いリターン―――に、真剣に取り組んだ。その年ウインブルドンで、僕はある日マッケンローの隣のコートで練習していた。彼は僕が芝について否定的な事を言うのを聞いていた。彼は、僕は芝に適した素晴らしいゲームを持っているのに、心構えがなってないと異議を唱えた。

それはサラリと言われた批評だったけど、僕の心に染み込んだんだね。それから8年間で6回優勝した事と関係づけて説明できるから。僕が否定的な心構えを変えるまで、峠を越える事はできなかったんだ。

マッケンローは現在デビスカップの監督でもありますが、彼との関係は多彩なものだと表現するのは適当ですか。

ピート ジョンと僕とは、性格という点でおよそ正反対だという一言で、多くの事に説明がつくと思うよ。

僕らは、デビスカップを含めて、意思の
疎通がうまくはかれない事があった(今年の2月、サンプラスがお尻の筋肉の怪我でデビスカップ1回戦・対ジンバブエ戦を欠場した際、マッケンローは、そもそも彼はハラレに行きたいとは考えていなかったと主張した)。

ジョンは事件を引き起こすのが好きだ。彼が論争や感情的な事柄を大きくするやり方は、僕のやり方とは違う。でもひとたびそれを理解すれば、彼と関わっていくのは容易になる。大きな利点は、彼はハイレベルな選手だったし、アンドレや僕のような選手を、コート上でどう遇したらよいか分かっている事だ。

ここ数年マッケンローは、あなたはもっと華やかになり、もっと感情をあらわにすべきだと示唆してきました。その事に腹が立ちましたか。

ピート 僕自身ではないように振る舞えとか、もっとエキサイティングになるよう努めろなんて誰かに言われるのは、最も下らない精神的な負担だよ。僕らはみんなそれぞれ違う人間なんだ。誰かが他の人に、その人本来の姿から外れるように言うなんて、不可解だよ。

僕は自分のプレーのやり方や自分が伝えているものに、何の弁明も必要ない。子供たちが僕のプレーを見て、そこから何か手がかりを得る事さえあると知っても、全然恥ずかしくなんかないよ。それに、僕は自分本来の物静かなやり方によって、自分でもおよそ到達できるとは考えていなかった地点まで来られたんだと思っている。

あなたの個人的なキャリア・ハイライトには、どんなものがありますか。

ピート まず最初のUSオープン優勝だね。1999年ウィンブルドン決勝のアンドレ戦もあげられる。大舞台でトップの相手に対して披露した、いままでで最高のプレーだった。あの日は何もかもうまく行った。1995年のデビスカップ決勝・ロシア戦もあげられる。 最も苦手なサーフェスのクレーで、タフなチームを相手に、シングルス2試合とダブルスに勝ったんだからね。

他には2つある。タイトルマッチではないけれど。1997年オーストラリアン・オープンと1996年USオープンだ。

メルボルンでは、カルロス・モヤと対戦した決勝は、とても楽な試合だったけど、4回戦は華氏140度の暑さの中でタフな5セットを戦い、僕はもうちょっとでドミニク・ハバティに負けるところだった。

96年USオープンでは、エピック・マッチとなったアレックス・コレチャとの準々決勝があった(サンプラスは第5セットのタイブレーク中に嘔吐しながらも、4時間9分のマラソンマッチを制した。そして決勝ではチャンを下して優勝した)。

あなたのキャリアにおける "F" ワード(忌々しい時に使う悪い言葉)は、「フィットネス」のようですね。あなたが必ずしもいつもベストの体調ではないと主張する批評家は、正しいと言えますか。

ピート コレチャ戦の後、「グローブ・アンド・メール」紙の記者トム・テビューが、僕は地中海性貧血症―――地中海地方の血統の一部が、遺伝的に持つ鉄欠乏性貧血症―――を抱えているという記事を書いた。彼は正解を引き当てた。僕はそうなんだ。時に無気力で不活発になり、外見にも出てしまう―――うなだれた犬みたいな様子になるのは、一部にはその貧血症のせいもある―――特にとても暑い時はね。

それを補うために、できるだけの事はやってきた、鉄剤を服用するって事だけど。鉄分の数値を上げるように努める以外は、これといって他にできる事はないんだ。いままでこの事実を認めた事はなかったけれど、それは僕がハンデを抱えているという事を、対戦相手に知らせて自信を与えたくなかったからだ。

僕は胃にも問題を抱えている。物事を内に秘めて、ストレスを生み出している事が原因の一部だけど。自分でも気づかないうちに、コレチャ戦の2年ほど前から、小さな胃潰瘍ができていたんだ。厳しい暑さの中でプレーするのは、この2つの病気のどちらにとっても助けとはならないよ。

それ以外には、そもそも僕はたとえばクーリエみたいに、できる限りハードに鍛えるというタイプの性格でもないし、身体でもない。細身の男はまた違うんだ。僕はステファン・エドバーグのような感じに身体を作っている。彼もとりたててフィットネスで知られていたわけじゃなかった。

だけどこの問題はいつも頭の中にあって、自分のゲームを最大限まで強化するために、コート上でもジムでも、必要な事はすべてトライしてきた。僕の現在の目標は、オフの時やツアーを休んでいる時も、フィットネスレベルを高く保っていくという事だよ。

あのコレチャ戦は、フラッシング・メドウで成功を収めるためには、あなたはいかに悪戦苦闘してこなければならなかったか、という事を象徴していますね。あなたにとってUSオープンは、いささかジェットコースターのような感じだったと言えますか。

ピート まあ、不満は言えないよ―――自分の国のタイトルを4回も獲得しているんだからね。でもウィンブルドンに比べると、興味深くはあるけど、スムースなものだとは言えないね。多分、USオープンは、長い1年の最後のグランドスラム大会だという事も関係しているのだろう。たとえば、昨年大会が始まる直前に椎間板ヘルニアになった事などにも、説明がつくかも知れない。

USオープンでは、僕はいつも必要以上に自分を苦しめてしまうんだ。1993年から1995年にかけて作った記録によって、僕は自分で目標を高くした感がある(サンプラスはその3年間、毎年2大会のグランドスラムに優勝している)。そして96年、人々が非常に大きな期待を寄せていたのを覚えている。その年、僕はUSオープンまで、グランドスラムで優勝していなかった。そして僕が滑り落ちていくと、人々が囁いているのが聞こえてきた。僕はタイトルが欲しかった。すごく欲しくて、その結果、僕の胃はひっくり返るハメになった。それがコレチャ戦で起こった事だよ。

後になって、テニスは僕の人生を使い尽くしていると気づいた。僕はあまりにも強く勝ちたいと望み、あまりにも集中しすぎて、現実を見失っていた。コート上をさまよい、吐いて、それに気づくに至ったんだ。後でポールと話し合ったけど、僕は自分に厳しすぎるから、気をつけなければいけないと言われた。でもそれは同時に、なぜ僕がそんなにうまくやってきたかを説明する一助にもなっている。

あなたは成功のために大きな代償を払ってきたと感じていますか。

ピート そうでもない。人目につく事、注目を浴びる中で生活していかなければならないという事が、おそらく最も辛い部分だね。でもそれさえも、そう悪くもない。あるレベルでは喜ばしいものでもある。できるものなら注目はシャットアウトしたいけど。

でもどうして自分の幸運に不満を言える? もし不満を言ったら、それを聞いてもらえるよりは、ピシャリとやられるだろう。

もっと共感を得たいと感じた事はありますか。

ピート 2つの出来事についてね。1つはロシアに勝って、デビスカップで優勝した事だ。僕はとても誇りに思っているけど、ここアメリカでは評価されなかった。もう1つは、1998年に6年連続1位の記録を作った時だ。層が非常に厚くなっている中、この記録はなかなか破られないと思う。僕はどんな記者会見でも、この事を記事にするアメリカ人がヨーロッパに1人も来ていないと、大声で不満を言ったりはしなかったよ。でもヨーロッパの報道陣が質問し続けるから、僕は感じている事を話したんだ。

けっこう、たしかにメジャーリーグ・ベースボールの年間ホームラン記録を破ったわけじゃないよ。そしてもし僕が、充分な賞賛を受けていないと不満を言ったりしたら、みんな僕を非難するんだ。だけど僕は人間だ。僕にだって感情がある。もし多大な犠牲を強いられるような事を経験して、それが評価されてないと感じたら、心に響くよ。誰だってそうだと思うよ。

その際の犠牲はどんなものでしたか。

ピート ひどい期間だった。僕は本当にこの記録を打ち立てたいと、よく考えた末に決意したんだ。たとえそれが、ヨーロッパにほぼ2カ月間ずっと滞在し、プレーし続ける事を意味していようがね。実際僕はそうしたんだけど。たとえばウインブルドンで勝つのとは違い、この記録は一生に一度しかチャンスがない類のものだ。

あまり多くの人には打ち明けていないけど、その年の10月末にシュツットガルトでクライチェクに負けた後、僕はいまだに2位で、どうなっていくか何の保証もなかった。次のパリ・インドアの時、ポールに部屋に来てもらって話したんだ。「僕は本当にもがき苦しんでいる。この記録の事を考えずにはいられないんだ。僕はすごく精力を傾けている。もし記録が得られなかったら、どうやって対処していったらいいんだい?」ってね。僕はあまり経験しない立場に追い込まれたんだ―――失う事への恐れだ。そしてそれは重大な事だった。

でも僕は、この強迫観念を振り払う事ができなかった。その奮闘は報われたと思うかどうか、現在聞かれてさえ、僕に言えるのは「そうだね………多少は」というのが精一杯のところだ。だって、代償として僕からあまりにも多くを奪ったからね。僕の髪はゴッソリ抜け落ち、食べられなかったし眠れなかった。7週間闘い続けて仕事を成し遂げ、僕は家に帰ったけど、精神的にも肉体的にも、人生でこんなに疲労した事はなかった。最後に考えたんだ、これは戦争じゃないってね。僕は自分の人生のために戦っているわけじゃない。

僕を知る人たちは、僕が時々、ただ試合に勝つために自分を苦しめているという事を理解している。ある意味で、僕の人生はバランスが取れていなかったと言えるよ。だけど僕はいま学んでいるんだ。ロサンジェルスに戻り、家族やガールフレンドとより多くの時を過ごす事は、僕を少し変えるのを助けてくれている。テニスの試合に負けても結構だと悟ったんだ。自分の競争心が少し激しさを失っても構わないよ。とにかく僕はプレーし続けたいんだから。もし僕がへまをやって二度と大きな大会で勝てなくても、それはただそういう事だ。僕が今後やらない1つの事は、あの時の記録を追い求めたような状況には立ち入らないって事だ。

アンドレがキャリアの終盤になって、実力者、そしてあなたのライバルとして再び現れた事を嬉しく思いますか。

ピート もちろん。この2〜3年、お互いに対戦してきて、アンドレが僕のキャリアにとってどんな意味があるか、より分かってきたんだ。以前はアンドレとの関係、あるいはライバル関係を、それほど特別のものとは見なしていなかった。でもいまは違う。僕らはお互いに、何が進行しているのか認識していると思うよ。互いに多くをもたらし合っている。僕らのゲームはとてもうまくかみ合っていて、どちらがいいプレーをしても、本当に輝きを放つ事ができるんだ。僕らのライバル関係は僕たち自身にとってもいいものだし、テニスにとってもいいものだ。

皮肉にも、必ずしもいつもアンドレがその場にいたわけじゃなかった事は、ある意味で僕のキャリアをも損なっている。セルティックスにはレイカーズがいたし、アリにはフレイザーがいて、ボルグにはマッケンローがいた。僕にはアンドレが………時々いた。僕らのライバル関係は、お互いにとって最もいいものだ。僕らが後世に残すものを作り上げるのを助けている。僕らはそれを分かっているし、その事について話し合う必要さえないんだ。

あなたは長年にわたり、3人のコーチ―――フィッシャー、ガリクソン、アナコーンに大いなる忠誠を示してきました。その彼らのうちの2人は、たいへんな悲劇を経験しました。ピート・フィッシャーの転落(彼は子供に対する性的いたずらにより、1998年に投獄された)と、1996年にティム・ガリクソンが脳腫瘍で死亡した事は、あなたに影響を与えていますか。

ピート ピートが牢に入る時まで、僕はもう長い間、彼の人生とは関わりを持っていなかった。事件についてはあまり詳しく掴んでいなかったけれど、彼が何をやったとしても、友人として彼を見捨てる事はできないと分かっていた。彼は僕の人生で、大きな役割を果たしていた。今日の僕があるのは、彼が大いに関係しているし、そのような人を見捨てたりはできないよ。約1年後に彼が牢を出た後、どういう人生を送れるのか想像するのは難しい。悲しい事だ。

ティムの事は、本当にもっと辛かった。彼が病気になった時一緒にいたし、まさに僕の目の前で亡くなったんだ。ピートが経験してきた事を軽く見なすわけではないけれど、ティムが堪え忍ばなければならなかった事より悪い事なんて、想像もできない。その間もプレーし続けるのは辛かった。特に、これはひどく悲しい個人的な経験なのに、僕は公の場でそれに対処していかなければならなかったからね。彼は確かに、人生についての新しい物の見方を僕に残してくれたよ。

ここ数年を通じて、人々について学んだ主な事はなんですか。

ピート 誰もが必ずしも正直ではないという事、そして僕は率直にものを言う人にだけ興味があるという事だ。僕の態度は基本的に、僕はいつも正直でいる、そして相手にも正直でいる事を期待するというものだ。

将来、あとどのくらいテニスを続けるのですか。

ピート あと何年というような具体的な年数は据えられないけれど、欲求が持続する限りプレーし続けるよ。僕にとって恐ろしいのは、僕のプレーの仕方や感じ方だと、たとえ35歳になっても、ウィンブルドンかあるいはUSオープンで優勝するチャンスがあるだろうと思える事だ。

とりあえず、もうしばらくやるよ。エフゲニー(カフェルニコフ)は、自分がグランドスラムで優勝したり、長い間1位でいるための道のりにおいて、僕が主たる障害物だと確信している。ロッカールームで会うたびに、彼は僕に尋ねるんだ。「ところでピート、どのくらい長くプレーするつもりかい?」ってね。僕のお決まりの答えは「さてね、僕には分からないよ、君はどのくらい長くプレーしようと思ってるのかい?」というものだよ。


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