フランス版tennis
1998年12月号
ピート・サンプラス インタビュー
インタビュー:Yannick Cochennec


訳注:このインタビューは、1998年10月にリヨンで行われました。フランス語版をミスCsilla Kissという人が英語に翻訳したものです。文中のカッコ内には、彼女のコメントが入っています。


ちょうど10年前、デトロイトであなたは初めて、トップ10選手であるティム・メイヨットを破りました。現在のあなたは、それをどんな風に記憶していますか。

ピート・サンプラス 僕は17歳で、プロになったばかりだった。そして自分自身について、さまざまな疑問を持っていた。自分の居場所を探していたけれど、それが分からなかったんだ。僕はシャイで内気な性格で、当初は、たとえばロッカールームでも居心地がよくなかった。

幸いにも、僕はレンドルの家で彼とトレーニングをする機会に恵まれ、その経験が目を開かせてくれた。偉大な選手になるためには、どれほど真剣に取り組まなければならないかを、彼は示してくれた。それ以前は、僕は自覚していなかったんだ。

だけど僕の場合は、すべてが非常に速く進んだ。サテライトではほとんどプレーしなかったし、2〜3回チャレンジャー大会に出ただけで、半年後にはすでに100位以内に入っていた。チャン、アガシ、クーリエなど僕のライバルたちの存在も、あの時点では助けになっていた。彼らは僕より早く結果を出していたので、彼らにできるなら僕にもできないはずはないと思う事ができた。彼らは僕を刺激したよ。
そして1990年には、奇跡が起こった。フィラデルフィア、USオープン………夢の始まりだった。

この10年を振り返った時、どんな思いがいちばん強いですか。夢はかないましたか。

ピート 信じられないくらいだよ。こんなにも多くのグランドスラム・タイトルを獲得したり、こんなに長い間ナンバー1でいるなんて、考えてもみなかった。さっきも言ったように、10年前は疑問だらけだった。僕にはいい選手になるだけの才能があるんだろうか、もっと先へ進むための心構えや精神力を持っているんだろうかと、自分に問いかけていたんだから。

幸い、僕が負けたいくつかの重要な試合、特に92年のUSオープン決勝でエドバーグに負けた経験が、僕の進むべき方向を示してくれた。僕は自分の性格を知った。ファイナルに進出するだけでは満足できないと気づいたんだ。僕はもっと多くを望んでいた。

それ以後、僕は違った選手になった。17歳の僕といまの僕の違いはそれだね。10年前は自分のいる位置に満足していたけど、いまはベストでなければ満足できない。

今シーズンはまだ終わっておらず、あなたには6年連続1位という目標が残っていますが、あなたにとって今年は非常に厳しい年だったと思いますか。特にモチベーションという点について。

ピート ある意味ではそうだね。最初の6カ月間はとても厳しかった。僕はオーストラリアでシーズンを始めたけれど、準備ができていないと分かっていた。実際は休養が必要だった。前年のデビスカップ決勝で怪我をして、充分に準備するチャンスがなかったんだ。オーストラリアン・オープンに出場したのが間違いだったとは言わないけれど、1年の間には、時には休養して、試合から離れる事も必要だと知らされた。特に年齢を重ねてくるとね。

肉体的にも精神的にも疲れている時には、息をつくいとまがない。競争のレベルが非常に高いから、相手が遠慮してくれるなんて事は期待できないよ。
(思うに、他の選手が簡単に負けて、息をつかせてくれる事を意味しているのでしょう)

今年はアップダウンが激しかったけれど、ウィンブルドンが僕を救ってくれた。後に98年を振り返った時、ウインブルドンのおかげで、僕はやはりいい思い出を見つけられる。そして、だから1位でいられるんだろう。

もし次にあなたが同じような状況におかれたら、オーストラリアン・オープンには出場しませんか。

ピート 正直言って、同じような状況に陥りたくないね。だから今年はデビスカップでプレーしないと決めたんだ。僕は12月の第1週にまで、コートに立っていたくない。

しかし今年の「マスターズ」はかなり遅い時期にあります。97年は2週間前に行われました。あなたの休養期間は、またしても非常に短いですよ。

ピート それはハッピーではないよ。(翻訳機では「悲嘆に暮れる」とありますが、彼が果たしてそう言ったか疑問です) シーズンは少なくとも年末の2カ月前に終わるべきだと考えている。今年も昨年と同じという印象だよ。願わくば、今年は休暇中に怪我をしないよう祈ってるけどね。昨年は休暇中にさまざまな治療を受けて、何もできなかった。本当にウンザリしたよ。

だけど、僕はキャリアのどこかの時点で、2カ月の休暇を取り、オーストラリアには行かないと決心するのは確かだ。もしくはUSオープン後に最低限しかプレーせず、本当にフレッシュな気分でオーストラリアに向かうか。今年はその事についてよく考えた。その考えが何度も浮かんだよ。

現在、1位でいる事―――それは1998年には特別の事だけど―――それ以外は、僕はグランドスラムしか興味がない。そして、プレーする時はいつもいい調子でいたいんだ。1年のうち11カ月もツアーを回っていたら、それは不可能だ。

実際、選手はとても早くキャリアを終えなければならない。レンドルやコナーズは、30歳を超えてもプレーを続けた数少ない選手だ。僕はいま27歳で、長い間プレーを続けられるようでありたい。僕はまだ引退について考えたくはない。

この春キービスケーンで、特にウェイン・フェレイラに負けた時、あなたは心ここにあらずという様子でしたが。あなたらしくありませんでした。あの時期はどんな感じだったのですか。

ピート あんまり良くはなかったよ(微笑)。 僕にはエネルギーも意欲も欠けていた。いつだって悪い日というものはあるけど、あんなに長く続いたのは初めてだね。僕は1位の座を失い、やり過ごすのがむずかしい時期だった。

それは1位の座を守れなかったという事より、もっとひどい挫折感だった。というのは、僕は1位を守るだけの意味を持ってなかったからだ。もし僕がいいプレーをしていたら、1位にいるべきだけれど、そうではなかったからね。

ローラン・ギャロスでは早期敗退し、クウィーンズではいいプレーができず、そして突然、おそらく何か魔法の力で、あなたは立ち直り、ウィンブルドンで5回目の優勝を果たしました。あなたの秘密は何ですか。

ピート 選手の調子はスイッチのように、ついたり切れたりするんだ。僕は「現れたり消えたり」という言い方は好きじゃないんだけど、最初の半年間はそんな感じだった。クウィーンズでは本当にひどいプレーをした。それは間違いないよ。

だけど、僕は自分を燃え立たせる事のできる選手の1人だと思っているんだ。というのは、カムバックを本当に望んでいたから。僕には備蓄とでもいうものがある。この「スペアタイヤ」を、必要な時に使えるんだ。

僕にとってウィンブルドンは特別な時期だ。この場所は僕を激励してくれるような気がする。望んだような結果を出せないできても、どこかのチャンスで僕はカムバックできると知っていた。ウィンブルドンはそんな機会を与えてくれたんだ。

どの時点でカムバックのための引き金を見つけたのですか。より重要な試合というのはありましたか。

ピート ラストの2試合は、感情的にとても、とても厳しかった。彼を応援する人たちの前でヘンマンと試合をするのは、本当の試練だった。彼にはとても才能がある、特に芝のサーフェスではね。

ファイナルでゴランと対戦した時、僕は悪戦苦闘したよ。試合の間じゅう容易ではなかった。僕は芝で彼とプレーするのは、本当に好きじゃないんだ。なんで突然笑うのさ。

調子が悪かった事を考え合わせると、再び優勝したのは少しばかり驚きでしたか。

ピート (微笑) いいや。僕はそれを期待していた。実際、出場するどんな大会でも優勝を期待するし、自分のフォームを見つける事ができる。ローラン・ギャロスを除いて、僕はいつも優勝候補だよ。オーストラリアンでも、ウィンブルドンでも、USオープンでも。新聞では僕が優勝するだろうと書かれる。

僕はある種の強みを持っていて、それでいつも優勝を狙える位置にいられるんだ。言うなれば、いつも自分に「おまえは必ずできる」と言い聞かせているようなものだ。もったいぶってるんじゃないよ、ただそんな感じなんだ。

ウィンブルドンでの優勝は、あなたにとってある種の解放感がありましたか。

ピート 解放感、そうだね、でもそれよりもっと素晴らしかったよ。本当の達成感だった。ボルグのようにウィンブルドンで5回優勝する、自分がそんなレベルに達するなんて、夢見た事さえなかった。ショックを受けたよ。子供の頃、ボルグが5年連続ウィンブルドンで優勝したのを見た事を覚えている。僕にとっては、別の星の出来事のようだったよ。

それと並んだ事は、本当に深く心にしみ入った。普通メジャータイトルを取った後は、すぐ次のゴールに向かって集中するんだけれど、あの時は自分が成し遂げた事について、すごく考えたよ。

グランドスラムで優勝した後の、魔法の日々について話してください。

ピート 空を飛んでいるのさ(笑)。 これ以上のいい思いはないね。毎朝起きた時に幸せを感じるんだ。時とともに僕は「進化」していった。いまはできるだけ長くそれらの瞬間を味わうようにしているんだ。もっと前は、グランドスラムで優勝しても、それを正しく評価できてなかったように思う。あまりにも早くコートに戻っていった。

最近は、その意味をもっとよく理解しているし、それから最高のものを得ている。それは何カ月も続く幸せな気分なんだ。

その幸せは、USオープンのパトリック・ラフターとの対戦で、怪我をして負けても変わりませんでしたか。

ピート どうしてだか分からないけれど、今回のUSオープンでは、自分のやれる事をやったと感じられなかった。コートはいつもより速かったし、ずいぶん風も吹いていた。でも怪我をするまでは、事はいつも通り運んでいた。あれは残念だった。僕はラフター相手にいいプレーをしていたし、あの試合に勝ち、優勝できる位置につけていたんだからね。そして怪我をしてしまった。とてもガッカリして、乗り越えるのは非常にむずかしかった。

あなたはラフターに続けて負けましたね。シンシナティ決勝は、非常に疑問の余地のあるエースで終わりました。線審はフォールトとコールしたのに、主審によってオーバールールされました。あなたがあんなに気分を害したのは稀では………。

ピート 普通僕は冷静さを失わない、特に審判に対してはね。でも、あれは余りにも強烈だった。ボールは明らかにアウトだったんだから。今年僕は、オーストラリアン・オープンのクチェラ戦以来、あの審判とはずっと問題があったんだ。これは選手が決して忘れない出来事だよ(微笑)。でも要するに、僕は自分の内に納めた。すべては見た通りだよ(笑)。僕は怒りを内に保ってきた。

USオープンで、あなたにはロイ・エマーソンの12回優勝の記録に並ぶチャンスがありました。でもその時期あらゆるアメリカ人の関心は、マーク・マグワイアのホームラン記録に向いていました。もしあなたが記録を達成しても、それは野球の陰に隠れてしまうとは考えませんでしたか。

ピート 僕はいままで、誰かの関心を引く目的でプレーした事は一度もないよ。今回は達成できなかったけれど、まだチャンスがある。そしてもし僕が成し遂げたら、話題になるだろう。
アメリカではマグワイアの記録ほどには祝されないだろうけれど、それは構わない。だってアメリカでは野球はメジャースポーツだけれど、残念ながらテニスはそうじゃないからね。マグワイアの記録はアメリカでは歴史的な瞬間で、他とは比べようがないんだよ。

しかし国際的には、あなたの方がマグワイアより有名でしょう。世界で最も有名なアスリートの1人であるという事に、特別の誇りを感じますか。それはあなたにとって重要な事ですか。

ピート いいや。世界じゅうに知られるという事は、僕にとってはそれほど重要ではなかった。それよりも同僚の評価や、ベッカー、マッケンロー、レーバーといった偉大なチャンピオンたちが、僕について何と言うかを気にかけてきた。さっきも言ったように、僕はかなりシャイだしね。僕はある程度自由に行動できるのをありがたく思うし、自分の名前が世界じゅうの新聞に載ってほしいとは思わないんだ。

ロイ・エマーソンの記録は目前ですが、あなたはグランドスラムの13回の決勝で、2回しか負けた事がないという素晴らしい記録をすでに打ち立てています。

ピート うん。信じがたいよね。なぜかは分からないけれど、僕はビッグマッチをプレーする時、いつも心の内に一種の平安があるんだ。試合の前の晩、あるいは1〜2時間前は、僕も不安だよ。だけどコートに到着すると、気持ちは落ち着くんだ。まるでこんな状況は何百万回も経験したみたいにね。

USオープンやウィンブルドンの決勝でピオリーンと対戦した時、すぐに彼の不安や興奮に気がついた。昨年オーストラリアでモヤと対戦した時もそうだ。決勝がスタートする時点で、すでに僕に大いに有利になっているんだ。

2回の敗戦のうち、1992年USオープン決勝でのステファン・エドバーグとの対戦は、多くの意味があったと、先ほどあなたは言いました。この試合は負けたという事実にも関わらず、あなたのキャリアの中で最も重要なものの1つだと言えますか。

ピート もちろん。僕はあの日、彼に試合を献上してしまったような気がした。グランドスラムの決勝で負けるという事がどんな感じなのか知らなかったし、素早く気持ちを整理できると思っていた。しかし、敗戦は僕の中に何カ月も残っていた。誰も敗者の事など覚えていない。半年後には勝者だけが記憶されているんだ。

あの日、負けるという事がどんなにひどい事か、僕がどれほどそれを憎んでいるかを学んだ。あの敗戦は僕を変えたんだ。僕をもっと非情に、タフにした。僕は決勝で負けたけれど、その代わりにもっと重要なものを得た。それは僕のキャリアを変えたんだ。

それはお父さんが、あなたについて疑問を持っているように見えた頃………。

ピート 僕の周りの人間はみんな疑問を持っていた。父は僕に、チャンピオンになるため、自分の最高のものを引き出すだけの心構えや精神力を持っているのかどうか聞いたよ。父は僕が世界の6位かそこらで、銀行に何百万ドルか預金がある事に、満足しているのではないかという印象を持っていたんだ。

僕は父を驚かせたと思うよ。同時に自分でも驚いた。僕は無頓着な人間から、すべてを、特にグランドスラムの敗戦を心にかける人間に変わったんだ。あの時期、僕はすごくイライラしていたし、僕の近くには寄りつかない方がよかった。何週間か僕は本当にみじめで、耐えがたかった。今回のUSオープンの後のようにね。

みじめなピート・サンプラス。それはどんな様子なんですか。

ピート あまり良くはないよ(笑)。僕はフィアンセと家にいたり(読者が興奮しすぎる前に:フランス語の「fiancee」は実際「fiance」と翻訳されました。どんな単語が最初にフランス語で「fiancee」と訳されたのか分かりませんが、彼が単に「girlfriend」と言ったのを、ふさわしい言葉がなかったため、このように翻訳されたのではないでしょうか)、ゴルフをしたり、何をしようがあまり関係ない。

幸いにも時が癒してくれ、僕は引き続き進むべきゴールを見つけるんだ。この秋は1位で終わる事がゴールであるようにね。

お父さんについて話してくれましたが、あなたの少年時代にはとても重要な人がいましたね。最初のコーチであるピート・フィッシャーです。彼はいま牢獄にいますが、初期の頃の彼のメッセージはどんなものだったのですか。

ピート グランドスラム、グランドスラム、グランドスラム………彼は年がら年じゅうそう言い続けていた。彼は僕に方向と目標を与えてくれた。だけど、自分が本当にそれを望んでいるのかどうか知るのは、僕の責任だった。彼は僕にそれだけの才能があるのは知っていたが、やはり僕のモチベーションには疑問を持っていた。

あなたは牢にいる彼と連絡を取ってきたんですか。

ピート 彼は手紙をくれ、僕は返事を出してきた。彼は牢に入っているので、電話は使えないんだ。とても悲しい事にね。彼は手紙の中で、僕がウィンブルドンで優勝した事を知らせてくれたのは看守だったと書いてきた。それで、彼はさまざまな次元で制限を受けていると分かったんだ。彼はあらゆる事から切り離されているんだ。

あなたは手紙の中でどんな事を書いてきたのですか。

ピート 僕は明るく、楽しくあるように努めてきた。自分がしている事や、どんな風にシーズンを過ごしているかを書いてきた。この事について話すのは辛いけれど、彼を見放したくないんだ。僕は友人のように彼を励ましてきた。それが僕にできるすべてだ。

ローラン・ギャロスはまだ先の事ですが、よかったら少しばかり話してくれますか。

ピート (笑) え〜っ、いやだな、まだ早いよ!

あなたはこの大会に取り憑かれていると言えますか。

ピート 取り憑かれてはいない。この言葉は、レンドルがウィンブルドンで優勝するためにした事について語るものだよ。彼はラケットを変え、スケジュールを変え、ただ1つのゴールに集中しようとした。

僕は、ローラン・ギャロスのためにそういう事はしなかった。僕は極端じゃない。これは人間性の問題だよ。パリで成功を収めるために、自分が何をやるべきか分かっている。体調を整える必要があり、そして天候に恵まれる事が必要だ。僕は信じ続けるよ、たとえそれが困難でも。

今年ラモン・デルガドと対戦した時のように、雨が降ると、あなたは突然ごく平凡なプレーヤーに変わってしまうように見えますが………。

ピート うん、それは真実だ。僕はあの時とても否定的な気分になった。まるですべてが僕に対立しているようだった。なぜか分からないけれど、でもスザンヌ・ランラン・コートは実際センターコートより遅いんだ。湿気があって涼しいと、僕にとっては厳しい試練だよ。デルガドと対戦した時の心構えは適切でなかった。不運だったとは認めるけれど、自分の対応の仕方を許す事はできない。

1996年にセミファイナリストになった時でさえ、自分ができるすべてを出し尽くしたとは思えないんだ。たぶん僕はパリにアパートを借りて、2カ月くらい通りをうろついて、自分のカルマを変えるべきなんだろう。(笑)

最近ヤニック・ノアが言ったのですが、あなたがローラン・ギャロスで勝つためにすべき事はただ1つ………あなたのプレーをする事。これを認めますか。

ピート うん、それは僕が今回学んだ事だ。いまは、自分のサーブをより有効に使い、できる時にネットに行けばよいと分かっている。負けたら負けた時だ。だけど少なくとも、自分のテニスをしたと言えるだけの満足感は、持てるようにならなければね。これまではそうじゃなかった。

ノアはクレーでの動きが素晴らしかったので、ローラン・ギャロスで優勝した。僕はクレーだと時々、自分がローラースケートを履いているような気分になってしまうんだ。だけど、僕はステイバックしていては、絶対にパリでは勝てないと分かっているよ。

ローラン・ギャロスの前に、クレーの専門家と準備をしようとは考えないのですか。

ピート (微笑) 考えないね。自分が何をすべきなのかは、よく分かっている。選手がそういう事をするのは、残念に思う。(誓って言いますが、これは正しい翻訳です! 私はフランス語の教授である父にも確認しました。思うに、ピートが意味しているのは、選手が自分のプレースタイルを変えようとするのは残念だという事ではないでしょうか) 僕が言っているのは、あくまで自分のプレースタイルをより有効に使わなければならないという事だよ。

1999年のローラン・ギャロスに向けて、どんな準備をしますか。

ピート まだ考えていない。だけどいずれにせよ、春にアジアには行かない。多分モンテカルロとローマ、そしてデュッセルドルフでプレーする。(ダメ! それこそ悪いカルマ……) 今年僕は1週間早くパリに行ったけれど、あれは疑いようもなく失敗だったね。かえって消耗した感じがしたし、フレンチ・オープンに対して、プレッシャーが強くなりすぎてしまった。

1998年は、デビスカップはスケジュールに入っていなかったと言いました。あなたの決断に対する批判は、どのように受け止めましたか。

ピート 1995年、僕はモスクワのクレーコートで優勝した。あれは僕のキャリアの中でも、最も素晴らしいものの1つだった。偉大な仕事であり、偉大な試合だった。だけどアメリカでは、誰一人、ほとんど誰一人注意を払わなかった。フランスでは、デビスカップ優勝は意味がある。選手は英雄になるけどね。

アメリカでは、僕らの勝利は全く無視された。それには傷ついたよ、自分があの時チームのためにやった事を考えるとね。五番街をパレードしたいっていうんじゃない、でも少しは認めてほしかった。それに昨年僕は怪我をした。だから休むと決めたんだ。

しかし、準決勝でアメリカがイタリアに負けたのを見ると、残念に思いませんでしたか。

ピート そりゃもちろん。明らかにそんな事は起こるべきじゃなかった。それが僕の意見だよ。でも、デビスカップの試合はもっと少なくするべきだと思っている。自分の目標を考え合わせると、1年間に4週間というのは多すぎる。僕はゴルフのレイダーカップの事をずっと言ってきたけど、あれは1年おきで、素晴らしいイベントだ。

だけど、僕はデビスカップが大して意味を持たない国の選手として発言している。ヨーロッパ、特にフランスでは、全く違うだろう。分かってほしいけれど、プレーしないと言うのは辛い事だが、僕の考え方も理解されるべきだと思う。

もしジョン・マッケンローが監督になったら、あなたはもっとプレーしようという気になりますか。

ピート そうなったら、間違いなくある程度の宣伝効果はあるだろう。だけど、僕の態度を変えるものにはならない。もし彼が1998年に監督だったとしても、僕はトム・ガリクソンに対してと同じ事を言った、出場しないとね。

1999年はどうするのですか。

ピート まだ分からない。批判されると、プレーする事が義務のように感じられる。でも、いまはまだ本当に分からないよ。最初の対戦相手はイギリスだけど、キービスケーンの後ヨーロッパに行きたいと思うかどうか分からない。特に日程上モンテカルロが近いし、1999年は、クレーで成功を収めるためのあらゆるチャンスを自分に与えたいんだ。

それと、イギリスに勝った場合、チームはジンバブエかオーストラリアに行く事になり、その時期の僕にとっては、間違いなくとても長い旅になると言えるだろう。

対イタリアの準決勝時の、アンドレ・アガシとの問題について、どう考えますか。アメリカ・テニス協会は会場をミルウォーキー以外に変える気がなく、そのため彼はプレーをして、同時にラスベガスでの彼のチャリティに出るという事ができませんでしたが。

ピート あの場合は、何か情報の食い違いがあったのだと思う。選手はデビスカップでプレーするかしないか、どちらかだ。デビスカップでプレーし、なおかつチャリティにも出て、そのどちらにも同じように真剣に臨む事はできないよ。もし僕がチームにいたとしたら、それは受け入れられない。どちらかを選ばなければならない。

いずれにせよ、テニス協会の抱える問題を力説する事には賛同しますか。

ピート ああ。たとえば、USオープンから多額の利益を得ているというのに、テニス奨励のためになぜもっと有効な仕事をしないのかと思うよ。アメリカでは、個人がなんとかしなければならない。僕やアガシ、チャン、クーリエが引退した後、いったいどうなるんだろう。

アメリカではすでにテニスは困難な状況に陥っていると心配している。現在はグランドスラムで優勝できる選手がいるが、将来はどうなんだと、メディアはいつも言っている。5〜6年後には、事態は深刻になっているだろう。

才能ある若手はいませんか。

ピート ギャンビルとギメルストブがいるけど、それだけだ。もっと厳しく言えば、ノーだね。ウインブルドンやUSオープンで優勝できそうなプレーヤーは1人もいないと思う。

あなたは現在、6年連続1位でシーズンを終えようとしています。それをマイケル・ジョーダンの業績になぞらえる事はありますか。彼はチームを6回目の優勝に導き、世界最高のプレーヤーであり続けています。あなたは彼に会いたいと言っていましたが……。

ピート 1年を世界の1位で終える、それを6回、それは僕にはとても意味のある事なんだ。6年間も最高であり続ける、それって大した事なんじゃない?
ジョーダンは35歳のいまなおベストだ。彼はずっとトップである事にうまく対応してきて、それは僕が本当に彼と話をしたいと思っている事なんだ。どうやってトップであり続けたのか、どうやって肉体的にベストであり続けたのか。

彼はラリー・バードやマジック・ジョンソンも知っているし、若い世代も知っている。だけど、彼がいつも1位でありたいという熱意を、時は変える事がなかった。僕はこの年末に彼に会う事をすごく望んでいるんだ。ポール・アナコーンが彼のマネージャに話をしてくれていて、きっと実現するだろう。僕らは一緒にゴルフをして、食事を共にできるだろう。

彼はあなたの理想ですか。

ピート ああ、そう言えるね。彼は特別のアスリートだ、完璧さが実体化した人だ。

あなたのように?

ピート (笑)


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