フランス版tennis
2000年6月号
ピート・サンプラス インタビュー
インタビュー:Yannick Cochennec


ローランギャロスで勝つために僕がしなければならないのは、
たった1つ、プレーする事だ。


完璧さはピート・サンプラスにふさわしい。しかし彼はそれを6つのウィンブルドン、4つのUSオープン、そして2つのオーストラリアン・オープンの栄冠だけで終える事を拒否する。ローラン・ギャロスの赤土での戦いが、彼には残されている。過去3年間、3回戦を突破できなかった幻滅のイメージとして。

数日の間、サンプラスは大いなる希望を抱いて、彼個人のエベレストの麓にいるであろう。しかし同時に、その山に突撃する瞬間に、自信が消え失せてしまうという疑いを抱いて。

最終的にパリ攻略を試みるため、28歳のサンプラスは、これまでのように囚われすぎるのではなく、とにかくプレーしようと決心した。

「なぜ、ウィンブルドンやUSオープンのような心構えでローラン・ギャロスに臨まないのか?」
彼は自問する。フレンチ・オープンを始める際、同じ症候群に悩まされないか不確かなのだ。

またこのインタビューでは、彼が史上最高のチャンピオンの1人となっていった10年間を振り返る。名声とそれに伴う困難、1999年にローラン・ギャロスでの栄光を味わったアンドレ・アガシについても語る。

たとえ内心ではその課題が非情に困難だと知っていても、彼は情熱をもって望み、信じる。
なぜなら、彼は自分を信じているから。
自分の運命を信じているから………。


10年前のいま頃、あなたはフィラデルフィアでキャリア初タイトルを獲得し、その後USオープンで初のグランドスラム優勝をしたのですが、その頃の事を正確に覚えていますか。

ピート うん、とても鮮明にね。僕は20位になり、トップへの道を模索していた。まだ学習途上で、物事がこんなに速く進むなんて予想もしていなかった。初タイトルを獲ったのは重要なステップだったけど、こんなに早くグランドスラムで優勝するなんて、思い浮かびもしなかったよ。

僕がフラッシングメドウに来た時、自分としてはとても高いゴールを設定していた―――それは2週目まで進む事だった。それからすべてが一度に起こった。僕はゾーン状態になり、レンドルを5セットで破り、アイドルだったマッケンローを破り、決勝でアンドレを破った。

実際、自分が何をしでかす途上にいるのか気づいていなかった。奇妙にも、全くプレッシャーを感じていなかったんだ。アンドレに対して、僕はとてもリラックスしていた、USオープンの決勝だというのにね。しくじるという気がしなかったんだ。すべてがとても簡単な事のように見えていた。

1990年の終わりの方が大変だった。というのは、僕はそんな勝利のインパクトに対して、心の準備ができていなかったから。僕のゲームはまだ完成されてなかった。テクニック的には未熟だった。個人的なレベルでは、とても辛い時期だった。僕はメディアに対して突然生じた責任を、果たす心構えができてなかったからね。ただもう、自分がどこででも注目されるのが、とても居心地が悪かった。僕はいまでもシャイだけど、当時はもっとだったからね。(微笑)慣れるのに時間がかかったよ。

あの時期は素晴らしくもあり、同時に恐ろしくもあった。19歳では、僕を狼狽させるばかりだった。もしあの成功がもっと遅かったら、もしもっと段階を踏んできていたら、状況に対してもっと準備できていたと思うよ。

それは10年前の事でしたが、あなたは昨日のように感じますか、それとも別の人生のように感じますか。

ピート すべては記憶の中に完全に記録されている。ずっと昔の事のように思えるよ。というのは、それからたくさんの事が起こったからね。しかしもう一度言うけど、あれは僕の人生の中でも非常にむずかしい時期だった。僕は完全に潮流に押し流されているような気分だった。だからあの当時の記憶は、いまでもとても強烈だね。

1990年の10代だったあなたを語るとしたら、どんな風に表現しますか。

ピート 僕は自分の道を模索していた、あらゆる同世代の若者がするようにね。僕は他の選手たちに受け入れられるように、ツアーに慣れるように、そして勝つ方法を見つけるよう努めていた。自分に才能があるとは知っていたが、チャンピオンになるためのハートやガッツがあるかどうかは分かっていなかった。USオープンで優勝した時点では、これらの疑問すべてに答えられると感じていなかった。

決勝の翌日の事をとてもよく覚えているよ。朝の間じゅうテレビショーに出演していたけど、僕の望みはたった1つ―――すべてが止まってしまえばいいって事だった。これは僕の人生じゃない、すごく不安だった。USオープン以降の大会も非常にきつかった。僕は少しばかり途方に暮れていたよ。

その当時、あなたの目標はとても高かったのですか。

ピート USオープンで優勝する前の僕の主たる目標は、経費を払えるようにお金を稼ぐって事だったんだよ。(微笑)自分としては、世界10位か15位くらいになれたらいいなあという感じだった。

実際いまのような位置に自分がいる事になるなんて、想像もしなかったよ。もちろんグランドスラムで優勝し、ナンバー1になるのを夢見てはいたけど、確かなものは何もなかった。

僕に起こったすべてを現在振り返った時、ここまで到達した事にとても驚きを感じるし、誇りにも思うよ。素晴らしい10年だった。

10年間でいつがベストの時でしたか。

ピート 間違いなく93年のウインブルドンから、94年のオーストラリアン・オープンまでの期間だね。僕は3大会連続でグランドスラムに優勝した。ローランギャロスに向かった時は、ベスト8より上まで進むのを望んでいたけど、いつものようにパリではしくじった。(微笑)あの時期、僕は本当にすべてをコントロールできると感じていたし、それはとてもいい気分だったよ。

では最も厳しかった時は?

ピート 個人的にはもちろんティムの死だ。本当に辛かった。個人的なレベルだけでなく、公の場でその深い悲しみを抱えて、やっていかなければならなかったからね。ローランギャロスではまさに感情的にプレイしたけど、とても辛かった。

それ以外では、時々2〜3カ月、自分のプレイに落ち込む時期があった。純粋にテニスだけで言えば、昨年は最も苦しい年だった。オーストラリアでプレーせず、再び自分のフォームを取り戻すのにすごく苦労したよ。自分にも自分のゲームにも、全く自信を持てなかった。ほとんど勝てなかったし、リズムを掴めなかった。

ローランギャロスはどん底だった。メドベデフに負けた日の夜、僕は本当に落ち込んだよ。意気消沈した。ウィンブルドンが僕を救ってくれたんだ。(微笑)あの時期を乗り越えた事は、いまでも大いに誇りに思うよ。ウィンブルドンとその後の2カ月間、非常にいいプレイをした事は満足以上のものだ。

困難という事では、1998年の終わりも特別なものでしたね。6年連続1位を確定するために、あなたはヨーロッパで6週間プレイし続けました。この「強制的なツアー」についてはどんな思い出がありますか。

ピート 大いなるストレス、大いなる疲労だね。この記録は僕にとっては強迫観念になっていたし、記録を破るためにはどんな事でもするつもりでいた。いままで経験のなかった6週間ヨーロッパに滞在する事さえした。僕はどんな犠牲も厭わず、そして自分の目標を達成した。

でもそれは決して楽しい時期ではなかったね。僕がしたように過ごすのは容易じゃない。6週連続のインドア大会というのは、本当に気が滅入るものだよ。いまだかつて自分にこんなにプレッシャーをかけた事はなかった。僕は自分の目標を成し遂げた―――それが主たる事だ。これは僕のキャリアの中でも最も大きな業績の1つだし、誰かがこの記録を破る事はないんじゃないかな。僕の意見としては、決して破られないと思っているよ!

記録を目指してあなたはストックホルムでもプレーしましたが、珍しく感情をコントロールできませんでしたね。あの時の精神状態について話してくれますか。

ピート 僕の神経は張り詰めていて、夜もあまり眠れなかった。いつも記録の事を考えていた。ストックホルムではちょっと切れかかってしまい、コートで自分をあまりうまくコントロールできなかったんだ。
ジェイソン・ストルテンバーグとの試合中、彼はキャリアで初めてラケットをコートに叩きつけた)

当時を思い出すと、あれだけの犠牲を強いて、もし記録を破れなかったら、いったい僕はどうなっちゃっただろうと思うよ。僕はまさにカミソリの刃の上で生きているような感じだったもの。精神的にちょっと危険な状態でさえあった。だけど記録は達成され、苦しみは報われたよ。

ストックホルムでは、あなたがタバコを吸っているようにさえ見えたんですが。それは事実ですか。あなたにそういう事をさせるほどに、事態は悪かったんですか。

ピート (爆笑)ああ、事実だよ! パリ・インドアの後、一晩明きがあったんだけど、ストックホルムのホテルでREMがコンサートをやったんだ。僕はビールを2〜3杯飲んでリラックスし、2〜3本タバコを吸ったのさ。

以前は一度もやった事がなかったけど。記録への追求をつかの間忘れるために、逃避が必要だったんだ。タバコを吸う人は誰でも、それは自分にとっていい事なんだと自分自身に言うに違いないけど、実際その通りだったよ。(微笑)

あなたはタバコを吸うんですか。あなたが言うと、とてもクレイジーなアイディアに聞こえますが。

ピート コート上やメディアへのイメージにとっては問題だろうね。別に私生活での本当の姿と必ずしも一致している必要はないけど。でもタバコはめったに吸わない、それは請け合うよ。(微笑)

あのストックホルムでの夜、僕は少しばかりリラックスする必要があったんだ。一度ホテルの部屋を出て、テニスの事を考えず、普通の人のように夜を過ごすのはいいものだよ。でも僕は完全に我を失っていたわけじゃない。ちゃんと立ち上がれたからね。(笑)

その例から言っても、あなたの生活はある程度「監視下」にあるように見受けられますが。あなたはいつも、名声は自分にしっくりこないと言ってきましたが、よりうまく対処するために、どんな事をしてきましたか。

ピート それについては上達してきたよ。いまは名声のいい面を見るようにしている。たいていの場合、みんなが僕に話しかけたりサインや写真を頼む時、僕がうまくいく事を願ってくれているのだと悟ったんだ。以前はもっと用心深かった。注目される事は、僕を居心地悪くさせた。

だけど僕は、自分がこの名声と折り合いをつけていくしかないと悟ったんだ。人に気づかれるというだけで不幸になっていても、いい事はないからね。それが現実なんだし、それに対して僕ができる事は何もないんだし。それ以来僕はもっとリラックスするようになったし、より良くなっている。

名声はあなたに力を与え、何らかの面であなたを助けてくれますか。

ピート 力ではなく特典を与えてくれるかな。世界でも最高のゴルフコースでプレーできるし、いつでもどんなレストランででも、テーブルを確保できる。僕としては、僕はこのスポーツでは力を持っていると思うけれど、テニス以外では、できる限り普通で、プライベートであり続けるつもりだよ。

もしチャンピオンとしての生活をより良いものにするため何かできるとしたら、どんな事をするでしょう。

ピート 僕のような立場で最も辛いのは、いつも注目されているという事だ。試合が終わった後、独りでいたい時もある。不可能だと承知しているけどね。僕がスタジアムを離れる時、いつも周りには写真を撮りたい人とかサインを頼む人々がいる。ホテルに着いた時もそうだ。

それはステキな事だけど、みんなと同じように、僕にも良い日と悪い日があるんだ。朝起きたら機嫌が悪くて、サインをしたくない時もある。それが現実だ。

だけど不満を言う気はないよ。僕は自分がしている事を愛している。この6カ月ほどあまりプレーしなかった事で、自分がどんなにテニスをしたいと思っているか、改めて知ったんだ。ポジティブな姿勢は否定的な事を打ち消すよ。
訳注:前年のUSオープン開幕前日に椎間板ヘルニアになり、その後しばらくツアーを離れた。

あなたは自分が現実世界から遊離した、象牙の塔に住んでいるような気分になる事がありますか。

ピート だんだん少なくなっているよ。それがスポーツの特性で、次の試合のためホテルの部屋に閉じこもる事もしばしばだとしてもね。僕は大会の最中に出かけるよう努めている。時に応じてレストランや映画館に行ったりしてね。

でもこのスポーツで競っていこうと思うなら、翌日に試合を控えている時、午前2時まで出かけているなんて事は許されないよ。競技者として、生活のルールは受け入れなければならないし、それに伴う孤独も受け入れなければ。ツアーではしばしば孤独になるよ。たとえコーチがそこにいても、集中している時や試合中は孤独だ。

現在は、成功のための最高のチャンスを自分に与えたいと思っているけど、それにはある程度の代償を払わなければならないと承知している。将来もうプレイしなくなった時、自分がしてきた事の利点を生かす充分な時間があるんだからね。

普段より自分の名声に苦しむような機会がありますか。

ピート いいや。(考えて)みんなは僕をノーマルな人間だと考えていると思うし、ノーマルに接してくれる。僕はロックスターじゃない。(微笑)

しかし逆に、あなたは最近ロサンジェルスに引っ越しましたね。世界じゅうで最もたくさんの有名人がひしめき合っている街へ。なぜですか。

ピート あそこは僕が育った所だからだよ。家族が住んでいる所だからだ。僕は自分のルーツへ帰る必要があった。フロリダで暮らしていた時は、生活のすべてが、テニスとナンバー1の地位を保つ事を中心に回っていた。それには犠牲にしなければならない事があった―――家族がその1つだ。僕は戻りたかったし、この選択を後悔していない。いまはもっと幸せだからね。私生活で幸せなら、コート上でも幸せだよ。

昨年末、20世紀の代表的なスポーツマンの名が挙げられた時、あなたの名前はたくさんのリストの上位に入っていましたね。どんな風に感じましたか。

ピート 信じられないような気分だったよ。12月にニューヨークで、チャンピオンたちが一堂に会して、20世紀を祝するアワードをスポーツ・イラストレイテッドが主催したんだけど、自分の周りにいる人たちを見て、頬をつねりたい気分だったよ。

僕は偉大なアメリカン・フットボール選手であるジム・ブラウンの隣に座っていて、そう遠くない所にはモハメド・アリ、タイガー・ウッズ、ウェイン・グレツキーらがいた。最後には、そこにいたみんなで写真を撮ったんだけど、これらの伝説的な人々の間にいて、本当に興奮した。

各人のタイトルの他に、これらのアスリートたちに共通する事は、なんだと思いますか。

ピート 誰もがそれぞれのスポーツで、何年も首位だった事だ。ベストになるのは素晴らしい事だけど、それを保つのはもっとむずかしい。若い選手たちが追い上げてきて、競争が激しい中でトップを保つのは、最も偉大な事だ。その点から言うと、マイケル・ジョーダンは僕のお手本だった。

その夜、誰に最も感銘を受けましたか。

ピート そこにいた全員と長く話したかったけど、何人かと挨拶を交わす以外には、あまり時間がなかった。でもウェイン・グレツキーの事はよく知っている。彼はロスに住んでいて、友人になったんだ。彼のキャリアは素晴らしいが、謙虚であり続けている。彼には大いに啓発されるよ。
訳注:ウェイン・グレツキーは史上最高のホッケー選手だと評されている。

あなたは偉大なチャンピオンですが、1つ欠けているタイトルがありますね。ローランギャロスです。この大会とあなたの関係はどんなものですか。

ピート ここ数年パリで起こった事については、よく考えてきたよ。そして、自分にあまりにもプレッシャーをかけすぎたという結論に、毎回たどり着く。実際は、僕はウィンブルドンやUSオープンの時と同じ心構えで、ローランギャロスに臨むべきなんだ。ただプレイして、事に対処するというようにね。

パリでは違った態度になってしまう。まるで突然、身体全体が硬くなってしまうみたいだ。そんな風になるべきじゃない。ローランギャロスのクレーは、僕には何の問題もないいくつかのハードコートより、速い時もあるんだからね。僕はこの抵抗力と、少しばかり内なる闘いをしなければ。

あなたの困難は、技術的なものより精神的なものだというわけですか。

ピート うん。技術的に調整する事もいくつかあるよ、動き方は他とは違う。だけどそれは、そんなに込み入った事ではない。勝つためには、僕は自分を解放してプレイしなければ。実際奇妙にも、僕が最もいい結果を出したのは、早く負けるだろうと思っていた年なんだからね。
訳注:ガリクソンの死を悼み、ローラン・ギャロスへ来た時にサンプラスは何の準備もできていなかった。

ローランギャロスで勝つために僕がしなければならないのは、たった1つ、プレーする事だ。昨年メドベデフに負けた時は、率直に言ってプレーしていたとは言いがたい。自分が自分ではなくなっていて、僕のパフォーマンスは惨憺たるものだった。もしウインブルドンやUSオープンでも、パリの時と同じ精神状態だったら、同じ結果になるだろう。

僕はオリンピックのために準備してきて、競技のその日、突然プレッシャーに押し潰されるアスリートみたいだ。いままで準備という点では、あらゆる事をやってみたけど、どれも功を奏さなかった。だから他の場所と同じようにプレイしたらどうなるか、見てみよう。

ローランギャロスで過去3年間、あなたは毎回スザンヌ・ランラン・コートで負けてきました。これは偶然ですか、それとも何か特別な問題があるのですか。

ピート いつもあのコートで苦しんできたけど、なぜかは分からない。あのコートは実際、ローランギャロスにおける僕の苦悩の象徴だね。(微笑)僕はいつもセンターコートの方を好んできたけど、多分よりスペースがあるからだろう。スザンヌ・ランラン・コートはいまだに僕のゲームと調和してないけど、いずれうまくいくよう願っているよ。(微笑)

昨年の敗戦は心理的にあなたに影響を与えたと言われましたが、それについて話してください。

ピート 心の痛みはとても強く、何もかもが自分にのしかかってくるような感じがしていた。僕は長いこといいプレーができておらず、メドベデフ戦は悲劇の終局だった。その後、ポールと僕はいろいろ話し合った。彼はその後の3カ月―――ウィンブルドンとUSオープン―――の重要性を説き、基本に戻り、イギリスに行ってテニスに取り組まなければならない事実を力説した。

正直言って、僕はすごく失望していたので、彼のアドバイスを聞き入れがたかったよ。あの時期は、僕のキャリアにおける真の試練だった。実際、再出発しなければならなかった、さもなくばすべてが砕け散っていただろう。奇跡的だったのは、僕はそれ以後、おそらくそれまでで最高のプレーをしたって事だ。ウィンブルドンでのアガシ戦は完璧だった。

あなたは「僕はすでにローランギャロスで何らかの良い時を過ごした」と言えますか。

ピート うん、すべてを考え合わせてもね。1996年には、僕はまるでローランギャロスで勝つためのプレーをしているように感じられたよ。自分に疑問を持たなかった。でもあの時は、ティムが亡くなったばかりという異例の状況だった。

あの年、僕はほぼ2週間とても堅実だった。ブルゲラ、マーチン、クーリエを破り………だけど準決勝では、もうこれっぽっちもエネルギーが残っていなかった。

大会でいいプレーをするためには、そこを好きにならなければなりませんが、あなたはローランギャロスが好きですか。

ピート (勢いよく)僕はパリでプレーするのを愛しているし、大会の雰囲気を愛しているよ。フランスの観客は、世界で最もテニスをよく知っている。ローランギャロスには大いなる情熱と感動があり、それに加わりたいと思うよ。そしてまたこの大会は、僕にとってはチャレンジなんだ。僕がプレーし続けていくためには、こういうチャレンジが必要だ。

このチャレンジに関して、いろいろな事を提案する人たちがいます。特に、ポール・アナコーンはローランギャロスで優勝するための、最適のコーチではないというような。あなたはこのたぐいのアドバイスを嫌っているようですが………。

ピート うん。コーチの事は関係ないからね。彼らは僕に、レンドルとかノアといった人の助けを借りるべきだと言うけど、僕は自分がローランギャロスで勝つために、何をすべきなのか分かっている。まずプレッシャーを取り払い、自分自身でいなくちゃならない。

それがすべてだ。言うは易し、行うは難しという事は承知しているけど、少なくとも自分が進むべき方向は分かっているよ。ウィンブルドンやUSオープンでは、僕はプレッシャーを感じない。だけどローランギャロスではプレッシャーは消えない。そういう事だ。

僕らはこの問題について一日じゅう話し合い、可能な限りの解決法について考える事もできるけど、それがうまくいくかどうかは不確かだ。僕にとっての理想は、まず充分なだけの試合をし、大会の始まりにはフレッシュでいるという事だ。いつもそうだったわけではないからね。

それから多分、大いに自信を持つ事だろう。もしローランギャロスで優勝できなかったとしても、それはそれだけの事だ。世界の終わりってわけじゃない。僕がこれまで成し遂げてきた事に、疑問を投げかけるものではない。

あなたが言及したレンドルやノアと、話してみたいと思った事はないのですか。

ピート それについては考えてきたし、いまも考えているよ。彼らが何と言うか知るためにね。彼らは僕のゲームを知っているし、僕がコートで何ができるか知っている。うん、彼らとテーブルを囲んで、ディスカッションしてみたいものだね。クレーコートの準備を始めたら、2〜3人に電話をかけて意見を聞くかもしれない。
訳注:このインタビューは3月にマイアミで行われた。

昨年、アガシがローランギャロスで優勝するのは運命だったとあなたは言いましたが、パリで勝つのはあなたの運命ですか。

ピート 僕は運命を強く信じているよ。そして僕はある日、パリで勝つと思っている。なぜそうでないと言える? パリでプレーして、最後のポイントを獲得するという夢を時々見るよ。今年は実際に、勝つためのプレーをしようと思っている。

間違いなく僕には、昨年のアンドレのように、少しばかり幸運が必要だろう。自分が優勝候補だとは思っていないけど、それでも優勝は可能だと知っているし、プレーし続けている限り、それは可能だろう。

昨年アンドレが優勝カップを掲げているのを見て、どんな風に感じましたか。

ピート 彼の立場になりたいと思ったよ、もちろん。(微笑)僕らは一緒に成長してきたし、彼をとても尊敬している。いままで、優勝した選手に祝福の電話をした事はめったにないけど、アンドレが昨年パリで優勝した時は、電話をしたんだ。もしある日僕がローランギャロスで優勝したら、彼もきっと同じ事をするだろう。テニスにとって素晴らしい時だよ。

刺激を受けましたか。

ピート いや、その言葉は使わない。グランドスラムでプレーして優勝するのに、ローランギャロスがこれだけ厳しい以上、何かや誰かから刺激を受ける必要はない。それはグランドスラムの決勝で、誰と対戦しようが関係ないというのと同じだ。

相手がアンドレであろうが僕の兄貴であろうが、優勝したいという意欲は同じだもの。アンドレが昨年ローランギャロスで優勝したという事実は、僕にさらなる意欲を与えるものではない、僕はいつもパリで勝ちたいと思ってきたのだから。

あなたはアガシをよく知っていますが、この数カ月間、彼がいままでになくハイレベルを保っている事に驚きましたか。

ピート いや、彼はいつもトップを保ってきているべきだったからね。彼にはそれだけの才能がある。彼にとっての問題はいつも、ある時期モチベーションが不足するという事と結びついていた。

彼が昨年成し遂げた事は素晴らしいよ。パリとUSオープンで優勝し、ウィンブルドンで決勝に進出した。正直に言うと、それを再びやったら驚くだろうね。彼が成し遂げた事は、ものすごくむずかしい事だから。だけど彼がトップにい続けたいと望む限り、そこにいるだろう。

過去6年間とは違い、1999年の終わりに1位でなかった事は、どんな風に感じましたか。

ピート OK。彼は1年を通してベストだった。だけど僕は彼を5回中4回負かした。僕としては、多少のアップダウンはあるものの、僕はいつも倒すべき男であったし、いまもそうだと感じているよ、たとえもう1位でないとしてもね。

今年、アンドレはオーストラリアン・オープン準決勝であなたを負かしました。その敗戦は、乗り越えるのがむずかしいものでしたか。

ピート あれは辛い敗戦だった。2ポイントで僕は勝利を逃したんだ。あの時、事は僕の望んでいるようには運ばなかった。おまけにあの試合で怪我もしてしまったし。

もしあなたが準決勝に勝っていたら、決勝でプレーしましたか。

ピート なんとも言えないね。いずれにしても、もしプレーしたとしても、僕は100パーセントでなかっただろう。正直言って苦しんだだろうね。

あなたの最近の怪我について話しましょう。特に1999年、USオープンを欠場しなければなかった背中の怪我についてですが、背中のためにプレーの仕方を変えましたか。

ピート いいや、だけど試合前の準備は変わった。いまは以前よりウォームアップに時間をかけているし、ストレッチにもっと気を遣っている。自分をもっと鍛えなければならない。USオープンの練習で感じた背中の痛みは、二度と忘れないよ。でもプレーする時は考えない。できる限りリラックスするようにしている。

現在はゲームそのものより、フィジカル面により力を入れているという事ですか。

ピート うん、現在はオフコートでのあらゆるトレーニングが、とても重要だ。実際僕は、コートでの練習は毎日はやらない。自分のリズムを失う事は決してないと分かっている。休んだ後ラケットの感覚を取り戻すには、2〜3日あれば充分だ。テニスそのものに悩む事はない。一方、将来年をとりくたびれてくるに従って、身体に起こるあらゆる事に注意を払っていかなければならない。

昨年、あるアメリカのテニス雑誌が「不機嫌なチャンピオンの肖像」というタイトルで、あなたのカバーストーリーを掲載しました。それはあなた自身が表現したものなのですか。

ピート いいや、それに正直言って、あのカバーを評価していない。僕が話した事を反映していなかった。だけど想像するに、あのタイトルは、売り上げを考えてのものだったのだろう。残念な事だと思うけど。

何があなたを怒らせますか。

ピート:特にはないよ。自分がひどいプレーをした時かな。昨年ハノーバーのマスターズで、ひどい気分でコートを去ったのを覚えている。僕はラペンティを下したんだけど、自分のプレーのレベルに逆上したんだ。僕の完璧主義の一面だね。(微笑)

その試合の後、ヨーロッパのコメンテイターのハインツ・ギュンタードと、一悶着あったんじゃありませんか。

ピート もちろん。彼は僕の逆鱗に触れたんだ。僕はひどいプレーをしたし、それを承知するに充分なだけ年もくってる。だけど彼は追及をやめなかった。僕の立場から言うと、彼は踏み込みすぎた、だから僕は去った、僕としては珍しいけどね。僕がひどいプレーをした時は、あんまり僕をイライラさせない方がいいよ!


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