スポーツスター(インド)
2000年7月
唯一のピート・サンプラス、その人
文:NIRMAL SHEKAR


その時、彼は泣いた。群衆の歓声も耳に入らなかった。何百ものフラッシュが夜の薄闇にきらめき、コートをマイケル・ジャクソンのステージに変える中、彼は屈み込み、顔を覆った。彼の心はその「時」の途方もない意味に麻痺し、涙があふれ、子供のように泣いた。

これは誰だったのか? 彼のはずがない。ウィンブルドン2週目の日曜日には必ず現れ、世界で最も有名なスポーツの聖地の1つで緑の大地を焼き払い、対戦相手をさんざんに打ちのめして降伏させ、チャレンジ・ カップをさらっていくポーカーフェイスのロボット―――「ミスター・クール」のはずはない。

そして再び彼は涙にむせんだ。世界じゅうが見守る中、流れる涙をシャツの袖でぬぐい、「ミスター・アイスマン」は温かい感情の渦に溶けていった。

これは誰だったのか? ピート・サンプラスのはずがない! 感情を見せない―――もし何か感じているとすれば―――冷血の征服者であるはずがない。彼は名高い芝生の上でタイトルにタイトルを重ねる一方、次から次へと対戦相手をウィンブルドンのセンターコートから吹き飛ばしてきたではないか。

サンプラスによく似た男が、舌を垂らし、うなだれ、鉄の仮面をつけたチャンピオンをうまく真似ていたのか? 勝利の瞬間にメイクアップがはげ落ちて偽者とばれ、もはや演技できなくなったのか?

なんと愚かな! スポーツ界の神話となると、我々はなんと無防備なのか! 俗説をなんと信じやすいのか!

実際は、偉大なるピート・サンプラスが、彼の所有する芝生の上に立っていたのだ。忘れがたい日曜日の夜、ウィンブルドンだった。彼が過去の偉大な選手たち、あるいは伝説的偉人たちを抜き去ったのは、午後9時の少し前だった。

仮面が滑り落ちた訳ではなかった。そもそも仮面などなかったのだ。非常にプライベートな男が、彼のスポーツにおける比類なき歴史的瞬間の大きさに圧倒され、もはや感じやすい魂の奥底をガードできなくなっただけなのだ。

本当に、ごくシンプルな事だった。サンプラスに関しては、常に物事はごく平明だった。近代プロスポーツ最盛期における偉大なスポーツマンたちの中で、サンプラスほど気取らない伝説的偉人はいない。彼は普通人の天才である―――矛盾した言い方であろうとも、そういう事なのだ。彼はごく普通の少年が近代スポーツの真のジャイアントとなり、そして決して普通の少年的な純真さと謙虚さを失わなかった男なのだ。

もちろん、問題は我々にある―――ファンに、メディアに、スポーツを追う者みんなに。マラドーナやらララスやらタイソンやらいう者がいる世界においては、スポーツ界の偉大な偶像とは、裏表のある分かりにくいスーパーマンだと思い込んで―――まあ、ほとんど願って―――きたのだ。

あるいは、少なくとも、彼らが果たすべき主たる―――おそらく唯一の―――役割以上のものを我々は期待しているのだ。はい、サンプラスは偉大なテニス選手である。はい、サンプラスは素晴らしいテニスをする。問題は、彼はそれが全てなのかという事だ。

イリー・ナスターゼ、ジミー・コナーズ、ジョン・マッケンローのような男たちに馴れてきて、我々の多くはもはや、スポーツそのものの卓越がもたらす純粋な喜びを求める事はできないようだ。

大金がからむビジネス界の貪欲なイメージメーカーにそそのかされ、偉大なスポーツマンはエンターテイナーとして「個性」を持つべきだと、我々は信じ込むようになってきた。その「個性」とは、ほとんど常に、不作法で攻撃的でなければならないというものだ。

もしサンプラスがコナーズ風に、群衆に向かって指を立てたりしてみせれば、より偉大なチャンピオンとされるのだろうか? もし彼がアガシ風に、勝利の後に四方八方へ投げキスをしたなら、さらなるスーパースターになるというのか?

はい、もちろん、そうだろう。おそらく彼はさらに数100万ドルの広告収入を得て、間違った理由ではるかに多くの見出しを飾る事ができたはずである。だがサンプラスが望んだのは、そういうものではなかった。彼は、何100万ドルの収入や見出しのためにプレーしたのではなかった。

彼は史上最高の選手になるためにプレーしたのだ。そして、あの歴史的な日曜日、闇が迫る中、テニス界最高のステージで、彼は史上最高の選手として広く認められるに至ったのだ。

「サンプラスは史上最高だ。彼がそこへ到達したのを称賛するよ。今の方が競争はより厳しいのだからね」とロイ・エマーソンは語った。彼は今年のウィンブルドンまで1年間、サンプラスとグランドスラム記録(12)を共有していた。

今回ばかりは、偉大な男が感情を抑えられなかったからと驚いてはいけない。彼にとり、それはとても、とても困難なウィンブルドンの2週間だったのだ。左向こうずねの痛みを伴う怪我のため、1週目の早い時期から思うようなプレーができなかったにも関わらず、偉大な男は勇敢に戦い続けた。

「もしウィンブルドンでなかったら、他の大会だったら、僕はプレーしなかっただろう」

雨に悩まされた日曜の決勝戦で4セットの末にパット・ラフターを降し、ロイ・エマーソンとのタイ記録を破って13番目の、そしてウィンブルドンでは7回目のグランドスラム・タイトルを手に入れた後、サンプラスは認めた。

歴史・好機に対するすぐれた感覚を持つ者として、サンプラスは過去8年間に54試合中53勝を挙げたコートでこそ、世界記録を樹立したかったのだ。

「このコートはとにかく特別なんだ。自分の家のような場所だ。そしてまた、僕の人生における素晴らしい時でもある」とサンプラスは語った。「衝撃ではなかった。この先何カ月かはピンとこないだろう。僕はまだ少しばかり頭がクラクラしているみたいだ」

一方、それが本当に何を意味するのか、おそらく我々もまた分かっていなかった。もしかしたら何カ月か先、何年か先でさえ、よく分からないかもしれない。

*ドン・ブラッドマンの同世代人は、彼に大いなる称賛は贈ったものの、彼の業績の歴史的な意味はあまり理解していなかった。だが今ではもちろん、この時代、あるいはいかなる時代においても、クリケットの国際試合において彼ほどの得点王はいないであろうと我々は知っている。
訳注:ドン・ブラッドマン。1930〜40年代に活躍したクリケット選手。史上唯一バッティング・アベレージが100を超える、オーストラリアの名キャプテン。

サンプラスのキャリアが終わり、この世代のテニス選手たちが歴史の一部になったずっと後に、おそらく我々は孫の世代に語るのだろう。最高の偉人がコートで見せた比類なき卓越を。

ギリシャ系アメリカ人が2000年ウィンブルドンで経験した感情のローラーコースターが、薄闇の中でクライマックスに達し、テニス史とその記録に新しい章の始まりを記録した日の事を。

「僕の意見では、ピートは史上最高の選手として伝えられるだろう」とラフターは表明した。彼はウィンブルドンの芝におけるサンプラスの支配の終焉に、かなり迫ったのだ。

キャリア最高のグラスコート・テニスをし―――そしてここ数カ月で初めて怪我の心配から解放され―――スリリングな5セットの準決勝でアンドレ・アガシを負かし、ハンサムなオーストラリア人は大きな自信を得ていた。

同じく決勝戦でも、第1・第2セットでは稀なる抵抗とむき出しの勇気を見せ、たび重なるブレークポイントをしのいだように、彼はただ見事なサーブ&ボレーテニスをするつもりのようだった。

タイブレークの最後でサンプラスが2回連続ダブルフォールトを犯し、ラフターが第1セットを獲った。さらに第2セットのタイブレークでも4-1とリードし、2セットアップまで3ポイント ―――その内2本は自分のサーブ―――のところまで来ていた。

「彼が4-1でサーブを迎えた時、僕は勝利が手から滑り落ちていくように感じた」とサンプラスは語った。「彼はそこで気おくれした。2人とも感じていた。第1セットでは僕が気おくれした」

最高のチャンピオンとただの素晴らしいプレーヤーとの違いは―――もちろん、この文脈ではサンプラスとラフターの相違を意味するのだが―――後者は土壇場の局面で、よりしばしば気おくれするという事である。

そして、過去に何回も何回もしてきたように、サンプラスは彼だけに可能な勝つ途を見つけ出し、まずラフターの決意を、そして次に彼のサーブをブレークした。

だがサンプラスを知る者、彼がウィンブルドン決勝で何をできるか知る者は、彼が第2セットを獲った瞬間に、試合は終わったと分かった。そして実際、ひとたびサンプラスが第3セット第5ゲームでラフターのサーブをブレークするや、その後は素早かった。

「ピートのような偉大なチャンピオンに対しては、自分のチャンスはしっかり掴まなければならないんだ。僕はチャンスを手に入れたが、掴めなかった」とラフターは語った。

第2セットで、サンプラスは史上最も成功したチャンピオンになるためのチャンスを手に入れた。そして彼はそれを掴み獲り、その後は決して振り返らなかった。

あなたがテニスで達成すべきものはまだ残っているのか? 彼は試合後の記者会見で尋ねられた。

「業績という点でいえば、僕は自分の望みを成し遂げた。でも僕はいまでも競う事が好きだし、プレーを愛しているよ」とサンプラスは言った。

もしこの情事がもう何シーズンか続くとしたら、偉大なる男が最終的にいくつのメジャータイトルを獲得するのか、誰が知ろう!

そして、同じくその点で、今年の女子チャンピオンは今後いくつのタイトルを集めるのだろう!

その土曜日、父親・妹・親友たちと共に自分の成した事の重大性をたっぷり味わい、ビーナス・ウィリアムズは自信に満ち満ちた様子で座っていた。みんな自分に心酔していると承知していた。そして人生における最も素晴らしい瞬間に、自分自身と感情をとても上手くコントロールしていた。

「アリシア・ギブソンにはどれほど困難だったか、あなたは正しく理解できますか?」試合後の記者会見で1人の質問者が、43年前にウィンブルドン・タイトルを勝ち取った初の黒人女性に言及した。

「ええ、人々は有色人種にこだわりを持っていたから、困難だったに違いないわ」とビーナス・ウィリアムズ、ミレニアム・ウィンブルドンのチャンピオンは答えた。「それは最近でも大して変わらない。40年で何世紀もの偏見を変える事はできないわ。現実には、大して変わっていない」と彼女は語った。

大西洋の向こう側、ニュージャージーの老朽化したアパートで、衰えたギブソン―――コートでは勝者だったが人生を通して困窮に苦しめられ、今は貧困の中で独り暮らす彼女は、アフリカ系アメリカ人の後継者が言わねばならなかった事を聞いたなら、冷笑を浮かべただろう。

なぜなら、ギブソンは1957年と1958年にタイトルを獲得したが、少しばかりの安い土産を持ち帰れる程度の小銭しか得られなかったのだ。そして、リンゼイ・ダベンポートに勝利した後ビーナスがしたように、スタンドへ登って家族と祝福し合い、社会的因習からの解放感を味わう事もなかったのだ。黒人への圧迫が合衆国では未だ人生の現実であった時代には。

人種問題へのお説教としてなら、ビーナス・ウィリアムズの意見には若干の真実があるかもしれない。人種間の真の平等は、アメリカ社会においては現実というより未だに夢だからだ。しかし、ギブソンが1950年代後期に2つのウィンブルドン・タイトルを勝ち取った時から、実際には多くが変わってきた。

1つには、ギブソンはまさに例外的存在だった。だがウィリアムズ姉妹は、新世紀にこのスポーツを支配する事も可能な、若い黒人女性世代の先がけであろう。もう1つ、ビーナスと、1999年USオープンチャンピオンである妹のセレナには、すでに4,000万ドル以上の銀行預金がある―――その大半はスポンサーから得た金で、アマチュアだったギブソンには夢見る事さえできなかったものだ。

ウィリアムズ家のゲットーから富への物語については、多くが語られてきた。月並みな話としては、ただ素晴らしく思われる。だが必ずしも真実ではない。そう、確かにリチャード・ウィリアムズと家族はコンプトンに住んでいた。ドラッグの売人と犯罪者がうろうろし、道路での銃撃戦も珍しくない、ロサンジェルスの裏町に。

しかし、やむを得ずではなく、むしろリチャード・ウィリアムズがそれを選択したのだ。彼は工場の支配人で、そこでは不動産取引で大金を稼げるから、まずまずのロサンゼルス郊外からコンプトンへと移り住んだのだ。

一家は決して貧しくはなかった。少女たちは良い学校に行き、きちんとした中流家庭で育った。ウィリアムズ家の物語を貧困からの成功と、タブロイド紙がやたらに強調したのは、大衆のイメージでは、皮膚の色とゲットーの雰囲気は密接に結び付けられるからである。

ビーナス・ウィリアムズをゲットーの女王と見なすのも、ウィンブルドンでの彼女の成功を、合衆国における人種問題の革命的な引き金と思い込むのも、どちらも馬鹿げている。

はい、ビーナスと妹のセレナは、何千という黒人の子供たちにとってお手本である。だが彼女たちの成功に、一定の範囲を越えるほどの影響力はないだろう。

故アーサー・アッシュは、かつて皮膚の色のせいで、午後10時を過ぎるとニューヨークのブロンクスではタクシーを捕まえられないという屈辱を味わったが、常に次のように主張していた。合衆国のブラックパワーを測る真のものさしは、権力の中枢―――政治、法律、大企業などにおける黒人の存在という観点から判断されなければならないと。

この意味においては、ウィリアムズ姉妹の立身出世の意義は強調されすぎてきた。しかし合衆国のスポーツ界における黒人女性という文脈では、彼女たちの記念碑的業績はなんら価値を減じるものではない。

「私たちは黒人です。私たちはあらゆるもののために戦いました」と、歴史的な勝利の後ビーナスは語った。確かにそうだ。だがおそらく、彼女はまだ若すぎるのだろう。同族の人々がウィリアムズ一家と同じくらい真剣に戦い、それでもなお何も得られず、アリシア・ギブソンのような末路を迎える時代があった事を理解するには。

確かに、合衆国の黒人アスリートにとっては、いまなお全てが完璧ではない。しかしこの40年で、物事はいちじるしく変化してきた。そしてビーナスとセレナは、彼女たちがきっと未来への触媒となるように、この変化が生み出したものでもあるのだ。

そして、昨年9月のUSオープンでセレナがなした勝利よりも、さらにずっと大衆の想像力をかきたてるのは、ウィンブルドンにおけるビーナスの勝利である。なぜならこれは、いつの日か娘の1人が優勝するであろうと、リチャード・ウィリアムズがいつも夢見ていたチャンピオンシップだからである。

「要するに、私は信じ続けていたという事よ。まずいプレーをしていた時でさえ、いつかここで勝つだろうと自覚していたわ」とビーナスは言った。彼女は20歳で、まだまだ先がある。

ビーナスの運動能力とショット・メイキングの技量はずば抜けている。トップまで昇るべく燃え立たせてきた成功への渇望があれば、これから長い間スポーツ界の頂点かその近くにい続けるはずだ。

もちろん、決勝戦の相手に公平であれば、リンゼイ・ダベンポートはその土曜日、少しばかり足を引きずっていた。明らかに、太腿の怪我に悩まされていた。もともと動きのよい選手ではないが、その日はさらに動きが制限されていた。

これはもちろん、ビーナスのテニスを貶めるものではない。アンフォースト・エラーも犯したが、彼女の名誉のために言えば、容赦なく攻撃した。アンテロープのように素早く動き、蛸の腕のようにボールに達した。

そのうえ、彼女は日曜の夜に―――月曜の早朝に食い込んでいた―――シングルス優勝を祝い、それから妹のセレナと共にコートへと戻り、ジュリー・アラール・デキュジス/杉山愛ペアを破って女子ダブルスのタイトルも勝ち取り、二冠を達成したのだ。

結局、見出し作成者は、ウィリアムズのウィンブルドンと名付けるだろう。よい響きだ。しかし、ウィリアムズのショーも印象的ではあったが、このウインブルドンは最も偉大な男のものでもあったのだ。


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