ロサンジェルス・タイムズ
2002年6月
素晴らしい親
文:BILL DWYRE



サム・サンプラスにとっては、表舞台に出ないでいる事がただ快いのだ。
彼はいわゆるテニス・パパになる事を、決して望まなかった


サム・サンプラスが、彼が最もよく知っているスポーツの世界に姿を見せたのは、2年前だった。彼の息子が人垣をかき分けて観客席を登り、ウィンブルドンのスタンド上方まで彼に会いに行こうとしていた時であった。

もちろん、そんな事は何も心をよぎらなかった。人々に何かを証明する、世界にあれこれを示すなどという事は、この静かで内気な男の考え・性格からは、最もかけ離れたものだった。1976年、メリーランド州ポトマックで、彼はピート・サンプラスに最初のテニスラケットを手渡した。

ピートは5歳で、当時ラケットは地下室の壁に向かって、たいていボールをピシャリと叩きつけていた。いまや成長した少年は、13個目のグランドスラム・タイトルを勝ち取り、テニス史上最も偉大な男子選手の地位に就いたところであった。しかし、この小さな少年と、24年後には国際的なスポットライトの下でこの瞬間を共有しようとは、当時サム・サンプラスは考えてもみなかった。気にかけさえしなかった。

世界的なテニスプレーヤーの親として、彼と妻のジョージアがどのように息子を育ててきたか、息子が成長し、成功していく間、どのように干渉せず背後に控えてきたか、その正しさを確認するなどという事も、サム・サンプラスは思いもしなかった。テニス界では、サム・サンプラスは出しゃばりな親のアンチテーゼなのである。明るいライトが灯ると、サムは身を引く。

「プレーしていたのはピート、称賛に値するのはピートだった」
いま、サム・サンプラスは言う。

サムが公の場で何か語るというのは、注目すべき事である。居心地よくない話題について、彼が長いインタビューを承知するという事は、かつて一度もなかった。つまり彼自身について。

今回は父の日という事で、当を得たものがあったのだ。2000年ウィンブルドンの時、パトリック・ラフターとの歴史的試合に間に合うよう、飛行機でイギリスへ向かう事にイエスと言ったように。ピートがサムに観戦に来るよう頼んだのは、初めての事ではなかった。しかし今回がやっと、彼が実際に見た2回目のグランドスラム決勝となった。ピートは他に11回も優勝してきたのに。

ピートが1990年にUSオープンで最初のグランドスラム優勝を遂げた後、サンプラスの親の頑強な抵抗は有名になった。ピートがプレーしている間、サムとジョージアはロングビーチの商店街を歩き回っていたが、ついに我慢できなくなって銀行のテレビの前で立ち止まり、誰が勝っているのかセールスマンに尋ねたという物語が後に伝えられた。

「とても心配性なのだ」とサムは言う。「それが、私たちがあまり見に行かない理由だ。辛すぎる。親である者だけが、その事を真に理解できる。見守っているのは耐えがたい」

しかし魔法のような13番目のグランドスラム・タイトルは、ロイ・エマーソンが長く保持してきた記録を超えるものであり、その追求は今回、親である苦悩を目立たない座から親としての誇りに導くほどの、テニス界の歴史と言えるものであった。サムとジョージアは決勝戦に間に合うようウインブルドンに飛んだ。そして息子が1セットダウン、第2セット・タイブレーク1-4ビハインドからなんとか逆転勝ちするのを、スポーツ界と共に苦悩しつつ見守った。

ついに、彼は自分のサーブでマッチポイントを迎えた。

ピート・サンプラスがサービスラインに着き、15年のキャリアで数千本のエースを爆発させてきた有名なモーションを始める直前、テレビ解説のジョン・マッケンローは放送席でマイクに身を乗り出した。そして見守っている何百万もの人に向かって、完璧なお膳立てを整えた。「皆さん、歴史です」とマッケンローは言った。

一日じゅうラフターをめった打ちにしてきたサーブが、いまひとたび彼を目がけて飛んでいった。そしてリターンがワイドに逸れた時、サンプラスは喜びと安堵感で高く腕を挙げた。

そして間もなく、彼には珍しい感情的な様子でピート・サンプラスは群衆を見渡して、両親を見いだし、観客席を登り始めたのだった。カメラマンたちは、彼がそこに到着した時には準備を整え、抱擁と涙を捉えた。それはテニスの歴史書とサンプラス家のスクラップブック両方にとって、プライベートな家族の「時」が最も公になった瞬間であった。

サム・サンプラスの思考と感情は、制御が利かなくなった。

サムは言う。「彼が私に会いに来ると分かった。これは歴史的な試合だったのだ」

「親というものを理解しなければならない。どんな経験を経るか、誰も知らない。私は長い年月の事、(ローリング・ヒルズ・エステーツの)クレーマー・クラブに子供たちと一緒に通った事の意味について考えていた」

「ある親たちは、自分が子供自身だと感じる。感情的になる。リトルリーグの野球で目にするように。私は常に歩み去る。自分の子供たちを煩わさない」

ウィンブルドンでの経験はたとえようもない喜びをもたらしたが、同じくサム・サンプラスに苦痛をもたらした。彼にだけは苦痛になり得るのだ。自分は無趣味だと語る男。スペースシャトル計画の機械エンジニア、プロジェクト・マネージャーから7年前に58歳で引退した男。1978年に家族と移り住んだパロス・ベルデスで、自分の周りに築いてきた快適な領域から喜びの多くを得る男なのだ。

「ウィンブルドンのテレビカメラに映る前は、私は歩き回る事もできたし、スパへ行ってトレーニングする事もできた。そして誰も私を知らなかった」と彼は語った。「あの事がすべてを変えてしまった」

「スタジアムを去り、ウィンブルドン・ビレッジ周辺を歩いていてさえ、人々は私たちのところに次々とやって来た。彼らはみな私を知っていた」

一方にとっては祝福の挨拶でも、もう一方にとっては押し付けである。そして痛ましいまでに内向的なサム・サンプラスにとっては、物事が正常に戻るのに暫くかかったのだ。それが、ウィンブルドンの試合直後の思い出、ビレッジで彼に歩み寄ってきた人々についてインタビューで語る時に、涙ぐんだ理由である。そしてそれが、この記事に添える写真を撮影しないと条件をつけた理由である。

世間の目から遠ざかった生活は、サンプラス家の遺伝子と言える。サムはシカゴで生まれ育った。彼の父親はレストランを経営するコックであった。母親は主婦だった。アイオワ州とミズーリ州のエンジニア学校を卒業した時でさえ、サムの目標の1つはレストランを経営する事であった。

名声・著名人という概念は、この一家には全く無関係であった。5年前に96歳で亡くなったサムの父親は、自分の孫が偉大な選手であるという事を、ある日テレビで孫を見て、友人に彼がどれほど優れているのか尋ねるまで知らなかった。かなり優れていると友人は答えた。実際のところ、彼は世界ナンバー1であった。

サムはギリシャで生まれ育ったジョージアと結婚した。彼らはワシントン D.C. で出会った。2人とも貧しく、シカゴで結婚生活を始めた時も、レストランを経営するという夢は依然として変わりなかった。その夢はバージニア州マクリーンで、サムが親族に加わって7年間レストラン業に携わる事で実現した。

しかしサムのエンジニアの技能はより良いチャンスをもたらし、夫婦はワシントンに移った。収入は増え、家族を持った。最初がガス、そしてステラ、ピート、マリオンである。

ステラはテニスへの情熱をピートと共有し、1年間プロツアーで過ごした後、6年間UCLAのテニス部監督を務めてきた。今年、彼女の選手たちは国内4位にランクされた。

「私たちが幼くてメリーランドに住んでいた頃、父が私たちを地元高校のテニスコートへ連れていってくれたのを覚えているわ」とステラは言う。「ピートと私はそれが好きだった。ガスはあまり関心がなく、マリオンは幼すぎた」

「しばらくの間、私はピートを負かしていたわ。彼が認めるのより長い間、私は彼を負かしていたと思う。彼がどれほど競争心旺盛な事か。彼が11歳の時には、私が勝つ事はなくなったと彼は言う。もっと長くて、彼が13歳くらいの時だったと私は思っている。その事で私たちはいまだに言い争うのよ」

サム・サンプラスが一家で南カリフォルニアに移り住んだのは、1978年、ピートが7歳の時であった。この地で宇宙産業が急激な発展を遂げたため良い勤め口があり、またカリフォルニアの気候とライフスタイルも良かったからだとサムは言う。

テニスに対する家族の興味は続き、サムはまずペニンシュラ・クラブ、その後間もなくジャック・クレーマー・クラブに加入した。後者のクラブはテニスの温床で、トレーシー・オースチン、リンゼイ・ダベンポートを始め、幾人もテニス・スターを輩出してきた。

ピートが14〜15歳になった頃には、もうステラが彼を負かす事はなかった。実際のところ、南カリフォルニア周辺のほとんど誰も彼を負かす事はなかった。当時のコーチ、ピート・フィッシャーは、ロングビーチなどのプログラムを含め、より高度な1部リーグの大学チームに彼を連れて行き、すごいサーブを持つこの痩せっぽっちの子供に、なにがしの競争を経験させようとしていた。しばしば、サンプラスは大学の選手を負かしたものだった。それより頻繁に、彼らはピートと試合する事を拒否した。

サム・サンプラスは控えた所にいた。

「ピートとステラには素晴らしいコーチがいた」と彼は言う。「彼らは順調にやっていた。私は立ち入らない事を望んでいた。唯一の問題は、私には4人の子供がおり、テニスレッスンはお金がかかるという事だった。私は4人の子供たち全員に公平で、親の務めを果たしてやりたかったのだ」

しばらくの間、サムはピートがテニスを続けるのに反対していた。

「彼には医者にでもなってほしかったのだ」と言う。

しかし間もなく、彼の息子はとても優れていると多くの人々がサムに明言したため、引き返す事はできなくなった。

「クレーマー・クラブでの日々、それはある種の特別な場所であった」とサムは言う。「テニスブームの中心で、ピートとステラはまさにそこにいた………。親たちはそこらじゅうにいた。その事が、むしろ私に嫌けを起こさせた」

「私は常にいわば遠慮がちで、悲観的だった。人々は私に、ピートがどれほど優れているか、いかにベストのプレーヤーであるか話したものだった。私はいつも、まあ、明日を見てみましょうと言っていた」

明日は結局、6年間の世界ナンバー1ランクをもたらした。7つのウィンブルドン・タイトル、4つのUSオープンと2つのオーストラリアン・オープンをもたらした。名声と富を家族に、とりわけ父親にもたらした。だが彼は、それに伴うプライバシーの侵害に居心地悪いままでいる。シンプルライフを好み、6年前に腎臓結石で医者にかかり、ダブルバイパス手術が必要と診断された男にとっては、時にすべてが当惑させられるものなのだ。

サム・サンプラスの人生が良くないわけではない。彼の子供たちは全員ロサンジェルス地域に暮らしている。ピートはビバリーヒルズ、ステラはサンタモニカ、 ガスとマリオンはパロス・ベルデスの近くに。ガスはスコッツデールとマンハッタンビーチでテニス大会を運営し、マリオン・ホッジズは学校教師である。ガスには子供が1人おり、マリオンは妊娠中だ。

8日後にはウインブルドンが始まり、ピート・サンプラスはイギリスにいるだろう。それは彼の14番目となるであろう。かの地の芝で、彼のような者はいまだかつて誰もいない。1993年から2000年の歴史的な時までを通して、サンプラスが負けたのは1試合、1996年準々決勝のリチャード・クライチェク戦だけだった。その間の彼の勝敗記録は53勝1敗であった。

彼はいま30歳で、2カ月後には31歳になる。キャリアが終わりに近づき、年齢に伴った広い視野を身につけるにつれて、父の日のような物事について彼はより気にかけるようになった。父の日のために、彼の父親についての物語をまとめるというアイディアを気に入ったばかりでなく、インタビューを受けるようサムを説得した。

ピート・サンプラスはステラと同様、父親が彼らに独立心を与えてくれた事、自分で成長する余地と能力を充分に発揮する自由を与えてくれた事に感謝している。そして2000年ウィンブルドンでスタンドへ行った事は、両親への彼の気持ちについて、すべてを物語っていると語った。

彼はまた、自分がこの物語で引き合いに出される必要はない、僕の日ではないのだからと言った。

彼の父親の日だったのだ。


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