スポーツスター(インド『THE HINDU』発行社)
2001年8月25〜31日号(第24巻34号)
2人の伝説的選手の物語
文:Nirmal Shekar



「ジャック、私の夢の中では、あなたは常に勝利するのだ」――*リー・トレビノ。
訳注:リー・トレビノ(Lee Trevino)。アメリカの有名なプロゴルファー。生年1939年。

深い歴史的な意味のある大会を目撃して、最も驚くべきは、生きている限り、それらに関するどんな細部をも記憶しているという事実である。それはあたかも、突然に高みへと運ばれ、知力は束の間、アインシュタインの視野を身につけたかのようだ。

大会では、ウインブルドンのセンターコートにおける、その月曜日の午後に関するあらゆる詳細が記憶に刻まれ、そしてあらゆる些細な、しばしば無関係な事どもが蓄積されてきた。

あの日の午後6時17分、世界で最も高名なテニスコート上に、森の緑の背後から歴史がかいま見えていた。第5セットの第12ゲーム、ロジャー・フェデラーに対するサービスゲームの第2ポイントで、疲れたピート・サンプラスはボレーをネットに掛けたのだった。スコア:0-30。

「カモン、ピート。お前ならできる」
特有のやり方で額の汗を拭いながら、偉大な男がベースラインへ戻る時、若々しい声が勇をふるって言った。

コートの片隅では、我を忘れたように、ボールガールが身動きもせず、一心にサンプラスを見つめていた。ネットポスト近くのボールボーイが彼女へ転がしたボールにも、気付いていなかった。少女はまだ幼かったが、おそらくその瞬間の途方もない意味あいを理解していたのだろう。そして自身の義務など筋違いに思えたのだろう。

1分と少し後、15-40で、サンプラスがサーブのトスを上げた時、比類なきジャック・ニクラウスに関するリー・トレビノの言葉が、私の心を横切った。そして自分に言い聞かせた。私の最悪の悪夢の中でさえ、ピート、あなたは決してウインブルドンのセンターコートで敗れる事はないのだ、と。

なるほど、ピート・サンプラスにとり、そしてウインブルドンで偉大なチャンピオンを取り巻く無敵のオーラは、4回戦で10代の大望を抱く若者に押し流される事などあり得ないと信じていた者すべて――この筆者を含めて――にとって、不合理な哀感を伴うその時を通して、死を免れないスポーツの運命という教訓が、その月曜日に与えられたのだ。

2001年チャンピオンシップの第1週、3回戦までのテニスを通じて、サンプラスが下り坂にあるのは明白であったが、歴史の重み――彼が8年間に優勝した7つの選手権の記憶――は、神のごとき力で長い間支配してきた、まさにそのコート上で、偉大な男が不首尾に終わるであろうなどと考える事を不可能にしていた。

ほんの2年前、1999年の夏には、19歳のフェデラーが彼から栄冠を剥いだまさにそのコート上で、サンプラスはどんな選手――生きていようがいまいが――も芝の上では決して敵う事などありそうもない、感銘を与えるテニスをしていたのだ。

それはアンドレ・アガシと対戦した1999年の決勝戦だった。1人の偉大なチャンピオンが、グランドスラムの決勝戦でもう一方を6-3、6-4、7-5で下す時は、しばしば、1人は最高調で、もう一方はベストにほど遠かった事を意味する。

だが、嘘ではない、その日アガシは最高調だったのだ。彼は、1992年に同じコートでゴラン・イワニセビッチを5セットかけて下し、最初のグランドスラム・タイトルを獲得した時よりも、さらに良いプレーをしていた。それでもなお、サンプラスは彼を冴えない男に見せた。

これは、選手たちがゾーンと呼ぶものに偉大なチャンピオンが入り込んだという、単なる事例ではなかった。何故かといえば、その日サンプラスは、未だかつて誰も登った事のないような、近い将来も誰も上がる事のないであろう、ある種のゾーンにいたからだ。

1999年の決勝戦でサンプラスが披露したテニスは、並外れた素晴らしい才能の輝かしい記憶として残った。2年後には偉大な男の力がついに衰え、もはや彼は、名高い芝生の上でずっと長い間そうであった専制的なチャンピオンではなくなる、と考える事を不可能にした。

スポーツとは妙なビジネスである。それは夢の見せ場でもあり、悪夢の調達者でもある。言うなれば、頂点と奈落は隣り合わせなのだ。

しかし、サンプラスがウインブルドンで為したように、偉大な演者がステージを支配するのを見た時には、スポーツの気まぐれなビジネスで使い尽くされた一生分の教訓の代わりに、現実から――ほんの少しばかり――遠ざかる傾向がある。

そして再び、スポーツの基本法則はこれである。全てのチャンピオンは征服される。無敵のチャンピオンなどというものはない。最高の者たち、サンプラスのような男たちは、何者かであるのだ。彼らは無敵なのかも知れないという幻想を、長く我々に与えてくれるという理由だけで。……彼らが実際に征服される存在であると分かるまでは。

「僕がいいプレーをしている時は、誰も僕を倒せない。毎週毎週だと、厳しくなるが、オンの時は、僕を負かすのは難しいよ」
6月、ウインブルドンの1週間前にサンプラスは言った。

要は、偉大な男は現在、1年の大部分「オン」ではなかったという事なのだ。そして彼は2週間前、正確には8月12日、バースデーケーキに立てられた30本の蝋燭を吹き消した。彼は結婚しており、「少し歩調を緩める事」、そして「年齢を重ねるにつれて、この生活には良い面と同様、否定的な側面もある」と実感してきた事について語った。

それで今、その事は彼をどこに置いていくのだろうか? 彼は歴史上、誰よりも多くのグランドスラム・タイトルを獲得し(13)、記録である6年連続1位の座に就いた。そして、昨年、夕闇の中でパット・ラフターを下して7つ目のウインブルドン・タイトルを獲得して以来、1大会も優勝していない。

この事以外にも、今年のウインブルドンで、サンプラスのゲームがかつてのものではなかった事は明白だった。ビッグサーブと完璧なボレーに連携した、動体視力と足の速さ、それで彼は対戦相手に継ぐ対戦相手を、芝の上で押しつぶしてきた。だがもはや、かつての効力ではない。……偉大な男は1歩遅くなり、サーブとグラウンドストロークは、ごく僅かに力を失っている。

年齢による衰えの確かな徴候なのか? もちろん、アスレチックな技能は急速に落ちるものだ。そして30歳になり、サンプラスはベストの状態である事をまず期待できない。それが、考えられる事なのか?

しかし彼の宿敵、アンドレ・アガシはどうなるのか? 1歳上で、アガシはキャリアでも最も素晴らしいテニスをしている。1月には3回目のオーストラリアン・オープン優勝を遂げ、アガシはホットな本命の1人としてUSオープンに臨む。

確かに、サンプラスとアガシは、彼らのゲームの様々な面、性格、キャリアがそうだったように、晩年における成功に関しても、興味深いコントラストを提示している。

1997年後半に146位まで滑り落ちた後、アガシはカムバックを記してきた。あの時点では、ラスベガスの派手な男にそれができるとは、ほとんど誰も信じられないものだった。7つのグランドスラム・シングルス・タイトルの内、アガシは29歳を過ぎてから4つを獲得したのだ!

他方、サンプラスの13のグランドスラム・タイトルの全ては、彼が29歳になる前に獲得された。

要点を整理する。2人はまったく異なる個性とキャリアを有しており、サンプラスの場合、人生のこの段階でそこまで滑り落ち、それから頂点まで苦労して戻ってくるなど想像できない。

アガシは、彼の資質を考慮しても、ビッグステージでの報賞を得るためには、常に努力しなければならなかった。さらに、ローラーコースター的なキャリアで経験してきた中断もあって、1997年まで、バーンアウトのおそれは殆どなかった。

動機づけの名手ブラッド・ギルバートと組み、アガシは骨身を惜しまずトレーニングと練習に精を出し、辛抱強くカムバックしてきた。……注目すべき努力であり、素晴らしい成果を上げた。

一方サンプラスは、1990年のUSオープンで優勝し、19歳でチャンピオンとして名乗りを上げて以来、キャリアで一度も長く休んだ事がなかった。

アガシとは対照的に、サンプラスはこの上なく資質に恵まれ、それほど多くの努力を必要としてこなかった。偉大さの第一のしるしが、偉大な業績を成し遂げるのに苦労の跡を残さない事であるなら、オープン時代にサンプラスより偉大なチャンピオンはいなかった。アガシがテニス界のエルビス・プレスリーであるなら、サンプラスはモーツァルトである。

偉大な男は、あまり多くの時間を練習コートで費やす事はなかった――怪我をして、試合と試合の間ラケットに触れる事なく、2000年のウインブルドンで優勝した――最初の名高いコーチ、ピート・フィッシャー博士が彼に言い聞かせて以来ずっと。「君はピート・サンプラスだ。ネットの向こう側に誰がいるのかなど、気にすべきではない」

その言葉は自信の波を引き起こし、男を押し流していった。史上最高の選手とも言われる男を、近い将来には匹敵する事がないかも知れないほどの、衝撃的なレベルの卓越へと。

まさしく、このためなのである。サンプラスのゲームがいずれ通例の高さに達しなくなれば、長くツアーに居続けるだろうと想像するのは困難だ。スポーツ界に不朽の足跡を残す必要性は、もはや差し迫った課題ではないのだが、事実は、不首尾が続くのは、偉大な男のプライドにとって痛打であろうという事なのだ。

ビヨン・ボルグは1981年に2位へと滑り落ちた時、テニスを止めた。その決断を後悔し、後にカムバックを試みて上手くいかなかったのは、別の問題である。その時代のもう1人のチャンピオン、イリー・ナスターゼは、1位の座を滑り落ちてから10年後も、名声を汚すように、日曜日に大会会場に到着し、月曜日に負け、そしてディスコで過ごした。彼の偉大さは遠い記憶となり、彼の名前はもはや花形集団の中になかった。

率直に言って、サンプラスがこうなるとは思わない。ボルグがしたように、衝動的に早まって逃げ出すような人間ではないが。なぜなら、彼は今でもテニスを愛しており、それが、彼がプレーを続けている唯一の理由だからだ。

というのは、アガシ――生まれついてのショーマン――とは異なり、サンプラスは名士としての地位は好まない。名声が多くの偉大なチャンピオンを、勝者である自己の救いがたいパロディーに変えてしまったドラッグであるなら、サンプラスが中毒に罹った事はない。そして彼は、決してそうならない。

後どれくらいの間プレーをするかは、偉大な男の彼自身さえ、今のところ分かってはいない。実際、彼の残りのキャリアがどれくらい報いられるものであるのかも、我々は分からない。なぜなら「時」は彼の技量を摩滅させてきたからだ。

だが、これだけは確かだ。スポーツのあらゆる記録がそうであるように、サンプラスの記録もいずれ破られるかも知れない。しかし彼の偉大さが、「時」に侵される事はあり得ない。それは錆びつく事のないものなのである。


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