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ロサンジェルス・デイリーニュース 2000年4月6日 サウス・ベイはサンプラスの非凡な才能に早くから注目していた 文:Karen Crouse |
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太平洋を見晴らす丘に、ギリシャのテニス神は天から落ちてきたかのように現れた。彼はテニスラケットと見紛う稲妻を手にして、雲のようにコートを疾走した。 この驚くべきものを一目見ようと人だかりが初めてできたのは、トーレンスのラス・カンチャス・コートだった。ある日そこに2人の予言者が現れ、父親に彼の偉大さを託宣した。 11年後、彼はUSオープン男子シングルスの最年少優勝者となった。20年後、彼はテニス界に君臨し、12のグランドスラムを含む62のタイトルを手にしている。 この週末、彼は育った地にほど近いフォーラムで行われるデビスカップ第2ラウンド、対チェコ共和国戦で合衆国を率いる。 |
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だが、世界がピート・サンプラスを知るようになる遙か以前に、彼のテニスに南カリフォルニアの人々は驚き、1つの容赦ない疑問が持ち上がったのだ。 彼の身体はその天才に見合うだけ大きくなるのだろうか? 2人の弁護士がラス・カンチャスのコートで、父親のソテリオス(サム)が出すボールを彼が打ち返しているのを見た時、サンプラスは8歳だった。できるだけ早くフォード・ピントで近くのペニンシュラ・ラケットクラブに赴き、プロの指導を受けるべきだ、と彼らは家族に勧めた。 2人の男はすぐに気づいたのだ。それはサムにさえ明白であった。彼は航空宇宙エンジニアで、テニスには弁解の余地がないほど疎かったのだが。末の息子は年齢に見合わぬ驚異的な運動バランスと素速さを持っていると。 他の面では、サンプラスはごく普通の子供だった。姉のステラと兄のガスは、夕食の前に両親をコートに引っ張っていった。4人のうち3番目の子供だったピートは彼らにつきまとい、ボールを追いかけるのにワクワクしていた。 |
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サンプラスが10歳になった頃には、トップの若い選手たちと定期的に練習していた。サンプラス一家は既に、ローリング・ヒルズ・エステイトのジャック・クレーマー・ クラブに加入していたのだ。そこは1970年代から1980年代初期、合衆国ジュニアテニスの中心的存在だった。 約15年後にテレビのミッキーマウス・クラブがそうするよりも、クラブは多くの才能ある子供たちを誇らしくも集めていた。エリオット・テルシャー、デリック・ロスターニョ、リンゼイ・ダベンポート、トレイ・ルイス、ジム・ピューらの錚々たる顔ぶれがいた。 |
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クラブの子供たちはサンプラスを「スマイリー」と呼んだ。彼は熾烈な競争の渦中で、のんきな例外だったからだ。「彼がいつか偉大なテニス選手になるなどとは、誰も言ってなかったわ」とトレイ・ルイス - メイソンは振り返った。 サンプラスがすぐさま大人の注意を引き付けなかった理由は、彼の背はネットにも届かなかったからだ。おまけに、彼の身幅はコートのラインくらいしかなかった。どれほど懸命に試みても、サンプラスのよく発達した技能は、彼の発育不充分な体格をカモフラージュできなかったのだ。 「彼は特別な存在だとは言えただろうね」と、ジャック・クレーマー・クラブで時折サンプラスのヒッティング・パートナーを務めたエリック・アーマンが語った。「彼がもっと大きくなるのか、分からなかったんだよ」 初めてサンプラスとヒッティングした時、アーマンは16歳で、自分の年齢グループの国内チャンピオンだった。サンプラスは10歳で、力不足を補うためにフォア、バックとも両手で打ち、よりパワーを生み出そうとしていた。 |
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当時は、2歳年上のステラがピートの主たる相手だった。彼らはよく一緒にヒッティングをしたが、スコアをつけると一方的傾向にあった。 「私はいつも勝っていたわ」と、UCLA の女子部監督を務めるステラは過去を振り返った。「私たちは懸命にプレーした。どちらも負けたくなかったのよ」 その頃、ステラだけがピートの顔から笑いを消せる人物だった。彼女がポイントを取った後などは、彼はイライラのあまり、腹立ち紛れでボールを打ち返したものだった。ボールは彼女の頭上を越え、後方のフェンスに跳ね飛んでいった。 そんな感情の表出は、ピート・フィッシャーがサンプラスの人生に入り込んだしばし後には、彼の両手フォア、バックと共に姿を消した。当時は誰も気づかなかったが、「スマイリー」は「石のような」になろうとしていたのだ。 |
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フィッシャーは小児科医で、ジャック・クレーマー・クラブではお馴染みの冴えないプレーヤーだった。フィッシャーがヒッティングをしていると、注目せずにはいられなかった。彼のフォームはアーマン曰く「実にひどかった」からだ。 ある日、フィッシャーはクラブでサム・サンプラスに近づいていった。ピートには途轍もない可能性があると伝え、無料で彼と共にやる事を申し出た。父親はフィッシャーに息子を託し、身を引いた。 ステラは語った。「フィッシャーには信じ難いほどの知性があると父は分かったの。父は言わばフィッシャーにピートを任せ、彼がなり得ると考えるプレーヤーに作り上げる事を託したのだわ」 2人のピートが組んで間もないある日、フィッシャーはルイス - メイソンの協力を取りつけて、当時20代初めの彼女がプロ大会の合間にサンプラスとヒッティングし、彼がグラウンドストロークに取り組めるようにした。その後1〜2年、彼らは時折ヒッティングを行った。 「私はピートより強い球を打ったけれど、覚えているのは、彼のストロークがとても堅実だったという事ね」とルイス - メイソンは語った。「彼は何でもできた――トップスピン、スライス、ボレー。彼が12歳の時、1つか2つの競り合ったセットで私を負かしたわ。それが彼と同じコートに立てる最後の時だと分かったの」 |
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その少し後、ジョン・レットが彼とヒッティングを始める事になった。レットは18歳少年の部で国内チャンピオンの座に就いたばかりだった。自分がかなりホットな存在だと思っていた。それから彼はサンプラスと共にコートへ出た。 「ピートと初めて打ち合った時の事は、はっきりと覚えている」と、レットは語った。「僕はこのチビとヒッティングしてやるくらいに考えていたが、彼は両サイドとも見事なトップスピンを打ってきて、スライスも素晴らしかったんだ。彼は前後にボールを打ち込んできた。サーブはそれほど強烈ではなかったが、普通は見ないキレがあった。驚いたよ」 17歳の時、パロス・ベルデスでのジュニア時代を終え、サンプラスはプロに転向した。1989年、18歳になったばかりで、彼はUSオープンの2回戦に進出した。 1990年2月には、フィラデルフィアで初のプロタイトルを獲得した。7カ月後、彼は世界を震撼させた。1990年USオープンで、サンプラスはイワン・レンドル、ジョン・マッケンローから番狂わせの勝利を上げ、優勝をかけてアンドレ・アガシと対戦していたのだ。 |
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サム&ジョージア・サンプラスは、ニューヨークまで息子の初のグランドスラム決勝戦を見に行かなかった。その代わりに、ランチョ・パロス・ベルデスの自宅からそう遠くないデル・アモ商店街へドライブし、神経質な気持ちを鎮めようと歩き回っていた。 ついに彼らは、たくさんのテレビが式典を放送しているところに通りかかった。ジョージアはスクリーンの1つを見ていた男へ歩み寄り、「USオープン男子決勝は終わりましたか?」と言った。男は答えた。「ああ、サンプラスって子供がアガシをやっつけたよ」 決勝のスコア:サンプラス、6-4、6-3、6-2。 ジョージアとサムは唸り声を上げた。それには歓喜と解放感が混じり合っていた。彼らはホッとして帰宅した。彼らの息子は不滅の存在へと歩み始めたのだった。 |
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