テニス・ウィーク
2000年1月20日号
ラッキーNo.13
文:Steve Flink


1ダースのメジャータイトルに加えて、ピート・サンプラスはメルボルンで
その記録を破ろうと試みる


数週間前―――華々しくはあったが中断を余儀なくされた1999年の活動が終わり、才能と大胆さを2000年・新しい世紀へと向ける前に―――ピート・サンプラスはビバリーヒルズの自宅でリラックスしていた。我々は電話で話をしていた。28歳のアメリカ人は思慮深い態度で、進んで広範囲の話題に触れ、着実に蓄えてきた自信をもって自分を表現する事が可能だった。

彼は柔らかな表現ではあるが遠慮なく話し、傲慢ではないが紛れもない自信をもって、尋ねられた事すべてに対して率直に答えた。彼は残りのキャリアに向かう準備が確かにできているようだった。

サンプラスが2000年のシーズンを検討した時、すでに優先事項を変更していた事は明白であった。彼のゴールと目的は変わった。それが、今年いっぱいデビスカップで合衆国の代表を務める約束をした理由である。

1993〜98年に ATP ツアーのコンピュータで6年連続世界ナンバー1にランクされた新記録を祝って、彼は巨大な野心に気づいた。現在、彼は違った報いを求めて、他の目標に向かっている。2000年には個人的な目標を犠牲にしても、自国のためにプレーしようと考えている。

「僕はそれを楽しみにしている」とサンプラスは言う。「僕は幾つかの目標を成し遂げて、デビスカップでプレーする機会を得るに至った。アンドレ(アガシ)やジョン(マッケンロー)、トッド(マーチン)等と共に、チームの一員になる。現在はジョンが監督だが、彼のためにプレーする事を嬉しく思うよ。だがもしトム・ガリクソンが今でも監督だとしても、僕はやはりプレーするだろう。アンドレ、ジョン、僕自身、みんなが関わるのは、合衆国のテニスにとって興味深く、そして良いものになる筈だ。我々はジンバブエで幸先良いスタートを切る必要がある」

ガリクソンは、張り詰めたカップ戦の最中に、どのようにサンプラスと気持ちを伝え合うかを承知していた。友人として、彼らの間にはほぼ無言の了解があった。激情的なマッケンローが競技の最中に、サンプラスが望む以上に話しかけてくるかも知れない事を彼は危惧しているか? 「その事について話し合うよ」と彼は答える。「僕はジョンと上手く意思の疎通を図り、プレーの前に彼と話をするつもりだ。彼は僕が何を好むか知っているし、僕はあれこれ聞くのを好まないと知っている。僕は誰にも平静を失ってほしくないし、ジョンは大抵の場合、かなり冷静だよ。アンドレはジョンから多くの意見を聞きたいと思うかも知れない。一方僕は、プレーする時には1つ2つの事だけを聞きたいと思う。もしジョンが何かに気づき、アドバイスを与えられるのなら、僕はそれを受け入れるよ。それをジンバブエで実行する。問題はない筈だ」

アメリカ・チームには、1995年以来初めてカップを合衆国に持ち帰れると信じる理由がある。あの時、モスクワで開催された決勝戦では、サンプラスがシングルス2戦、そしてマーチンと組んだダブルスでも勝利を挙げ、ほとんど独力でロシア・チームを下したのだ。2000年は1年にわたるデビスカップの任務を念頭におき、サンプラスは健康と活力を保つために、ATP ツアーへの出場を減らす必要があると承知している。

ATP ツアーはランキング・システムに根本的な改革を行った。システムを年間ポイント・レースに移行し、1年の終わりに最終的な順位を決定する事にしたのだ。トップ選手たちは9つのテニス・マスターズシリーズ(以前のスーパー9大会)と、4つのグランドスラム大会すべてに出場する事を要請される。義務づけられたそれら13大会への出場に加えて、ツアー大会から5つのベスト成績を加え、合計18大会の獲得ポイントが計上される。

多くの選手にとっては、このシステムは効率的に働くだろう。しかしサンプラスは、キャリアの現段階では、デビスカップに加えてそのように多くの大会出場を果たす用意ができていない。「ツアーが何をしようとしているかは理解できる」と彼は肯定的に捉える。「だが、僕は1年を通してデビスカップでプレーするから、恐らく順位には見切りをつけなければならないだろう。僕は(テニス・マスターズ・シリーズ)9大会すべてには出場しない。自分にメジャー大会で優勝する最善のチャンスを与え、そして他の何大会かに出場するスケジュールを立てるつもりだ。ツアーは僕が目指すのとは違う方向に進んでいる」

もしがこれが3〜4年前に起きていたら、サーキットの新しい形式について彼は違った考えを持っただろうか? 「もっと若かった頃は」と彼は答える。「僕はすべての大会に出場して、ナンバー 1で1年を終えようとしただろう。だが1998年に記録を破った後は、もうその必要がない。1位で終えるのは素敵だし、もし自分が望めば、そうする事ができると承知しているが、本当にそれを望んでいるのかよく分からない。僕はメジャー大会のためにこのゲームをするつもりだ。そしてそれが、僕にプレーしよう、プレーを楽しみ続けようと駆り立てるものなんだ。だから僕は(テニス・マスターズ・シリーズ)9大会すべてに出場するつもりはない。7大会くらいプレーするかも知れない」

その理にかなった姿勢は、サンプラスにとって財政的な影響を与えるだろう。トップ選手がテニス・マスターズ・シリーズ大会を欠場すると決めるたびに、年の終わりにボーナス賞金の3分の1を失う。ボーナス賞金の獲得者は175万ドルを受け取る。従って、もし彼がそれらエリート大会を2回欠場すると、サンプラスは推定100万ドル以上を失う事になる。

サンプラスが自分自身とスケジュールを守ろうとするのはもっともな事だ。彼はナンバー1記録を確定するために、1998年にはほとんど限界を越えるまで自分を駆り立て、22大会に出場したのだ。昨年、彼は見たところ完璧にペースを整えていた。シーズンオフを延長するためにオーストラリアン・オープンを欠場し、夏にピークを持ってきて、目も眩むような4大会、24連勝を遂げた。(「その4大会でのプレーは、恐らく僕が今までに続けた最良のテニスだったよ」)

彼は2度目のウィンブルドン3年連続シングルス優勝を成し遂げ、6つのタイトルでウィンブルドンにおける20世紀の男子記録を打ち立てた。サンプラスは5回目のUSオープン優勝、新記録となる13回目のキャリア・グランドスラム・タイトルを獲得する気構えでいた。驚いたことに、彼はオープン開幕前日の練習で椎間板ヘルニアを発症し、自国の選手権を欠場しなければならなかった。

その失望の深さは、サンプラスを落胆の淵に沈めた。もうプレーできないかも知れないという考えは過ぎったか? 「ああ、ノー、ノー、ノー。それは疑わなかった。不慮の出来事だと承知していたし、タイミングは悪かった。だが自分の健康あるいはキャリアが危機にさらされているという疑いは持たなかった。軽いヘルニアで、医者は治療に2カ月を要すると保証してくれた。だが僕は、自分の復帰を決して疑わなかったよ」

経験に富んだ、そして意志の強い男として、サンプラスはオープン欠場を人生の悪夢に変える事を許さなかった。とはいえ、状況を克服するのは容易ではなかった。「感情的に巨大な波をくぐり抜けたよ」と彼は思い返す。「オープンの終了が待ち遠しかった。感情を鎮めて先へ進む事ができるようにね。車の運転もできなかったから、6〜7日間は外出できなかった。家に閉じ込められていたよ。

すべてがストップし、1日2回のリハビリを受け、そしてひたすら挫折感を抱く。当時はこんな風に考えていたよ。『今年は終わりだ。もうプレーしたくない。僕はランキングを失い、すべてを失ったんだ』ってね。だが、感情を変える事はできないよ。特に、それが好ましい感情でない時はね。治療を受けるにつれて、僕はもっと明るい見通しを持つようになった。時は様々な傷を癒やしてくれる。僕は再びプレーしたいと切望するようになり、2000年には何をしたいのかを考え始めた。オーストラリアへ行き、そこで優勝しようとする前に4カ月も休むのは、望ましくなかった。自分がどこまで回復したか知りたかった」

彼はすぐに知った。8月20日のインディアナポリス以降プレーしていなかったが、11月第1週のパリ・インドア大会で、やっとサンプラスは復帰した。彼は苦労の末3セットでフランシスコ・クラベット戦を勝ち進んだが、背中のケイレンでその後は大会を棄権した。そのぶり返しには、彼がこつこつとリハビリに取り組み、復帰を焦っていなかったと承知する多くの熱狂的支持者さえ落胆した。にも拘わらず、サンプラス自身は狼狽していなかった。

「僕は知っていたからね」と彼は説明する。「パリで採用されているパラフレックス・サーフェスには、これまでも問題を抱えていたんだ。柔らかくて引っかかりやすいんだ。だからクラベット戦が進むにつれて、背中が硬くなってくるのを感じていたよ。それは単なる筋肉のケイレンだった。脊椎を保護している周りの筋肉だ。パリの医者は、僕はハノーバーでプレーすべきではないと言った。だが横たわって飛行機で家に帰る時に、僕はハノーバーへ行き、そして勝つつもりだとトレーナーに告げたのを覚えている」

その大胆な予言は、非常に予言的であった。サンプラスはハノーバーの ATP ツアー世界選手権で、エリート男子8人による戦場を本当に征服したのだ。週半ばのラウンドロビンではアガシに6-2、6-2で敗れたが、決勝戦で再び彼と対戦し、そして6-1、7-5、6-4というスコアで徹底的に成功を収め、5回目のタイトルを獲得したのだ。その傑出した出来について、サンプラスはコメントする。「ミレニアム最後の試合に臨むのは、全く異なった雰囲気なんだ。メディアはそれを盛り立て、まるでグランドスラムの決勝戦みたいだった。僕はコートに出て、そして素晴らしいテニスをした。僕は好機を掴むゲームを持っているといつも信じてきた。それがハノーバーで起きた事だ」

彼はその年、テニス界最大の大会、グランドスラム以外の大きな大会を含めて、5回の対戦で4回アガシを破っていた。アガシはキャリアで初めて、世界ナンバー1で1年を終えていた。しかしサンプラスはライバルの業績にかなり大きい影を投げかけていた。

もしサンプラスがオープンを欠場せず、そして秋のスケジュールをフルにやり遂げていたなら、7年連続ナンバー1の記録を達成した可能性が高い。長期間ツアーを離れていたためにナンバー3へと滑り落ちた事は、彼を悩ませただろうか? 「アンドレがUSオープンに優勝した後、僕は結論に達したんだ」と彼は答える。

「僕はナンバー1の座に就く事はできないのだと。だがナンバー 3、4、5に落ちていった時には大して苦にならなかった。僕はとても長い間それを成し遂げてきた、これ以上それを証明する必要はない、というように感じていた。アンドレは素晴らしい年を送ったが、一方で自分の1年を振り返ると、僕は10大会を完了して、そのうち5大会に優勝したんだと考えたよ。すべてを考慮すると、僕はやはり素晴らしい1999年を送ったのだと感じた。ナンバー1で1年を終える事はなかったが、それでもいい。誰が『その男』であるかは自ずと知られるものだと思うから。そして誰がその男であるかを知らしめるのは、必ずしもコンピュータではない。大試合や大舞台になると、自分が勝つといつも信じてきた。それが僕には最も重要な事だ」

アガシは1977年のシーズン後半、不名誉な141位にまで転落したが、1998年の終わりには6位まで押し戻した。にもかかわらず、彼が昨年中にサンプラスとのライバル関係をこれほどまで劇的に復活させると予想した評論家はほとんどいなかった。サンプラス自身は、彼は恐らくテニス界の上位に戻ってくる、それが可能であるという事を決して疑わなかった。「アンドレが再生した事を、僕は驚いていない」とサンプラスは言う。

「基本的に、僕たちは年齢を重ねていて、そして彼はキャリアをあの状態で終わらせたいとは望んでいなかった。だから彼はいるべき場所に戻るため、自分を叱咤し、懸命に努力すると承知していたよ。そして僕は常にトップの近くにいようと考えていた。僕たち双方がいいプレーをすると、決勝で対戦する事になるだろう。僕たち2人は世界でベストの選手だと思うからね。グランドスラムの決勝戦であれ、他の場所であれ、アンドレと対戦する事は僕がプレーする理由だ。ベストと対戦する事が、僕にプレーを続けさせるモチベーションなんだ。それはテニス界にとって、特にこの国にとっては素晴らしい事だ。2000年もライバル関係が継続し、さらに大きくなっていったらいいなあ。彼との対戦に生きがいを感じる。彼は僕に輝く機会を与えてくれ、そして僕たち双方がどれほど上手くこのゲームをプレーできるか人々に示す機会を与えてくれるんだ」

恐らく1999年ウィンブルドン決勝戦でアガシに6-3、6-4、7-5で勝利した時ほど、サンプラスが速いコートにおけるすべての才能を披露する機会に恵まれた事はなかっただろう。「今年最大の試合だった」とサンプラスは思い返す。「フレンチに優勝したばかりで、素晴らしいプレーをしていたアンドレと対戦していたんだ。僕のキャリアで最高の試合だったと言えるだろうね。自分があれほど良いプレーをするとは気づいていなかった。もし良いプレーをすれば、試合に勝つだろうと感じていたが、あれほど圧倒的になるとは思わなかった。すごいプレッシャーが掛かり、いろいろな事が掛かっている時に、ゾーン状態に入るとは予想しないよ。だが僕たちにはライバル関係の長い歴史があるから、僕はアンドレに対してかなり落ち着いて臨み、プレーできるのだろうと思う。彼に対しては全力を尽くすのみで、用心深くなったり、あるいは守りに入ったりはできないよ。アンドレと対戦する時には、普段よりさらに攻撃的でなければならないんだ。試合の行方は彼がどうかよりも、僕の調子しだいだと感じる類の試合だ。僕がいいプレーをすれば、僕が勝つだろうと感じる。もしそうでないか、そこそこのプレーだと、僕は勝たないだろう」

サンプラスがキャリアを振り返り、ライバルを格付けする時、彼はアガシについてためらわずに言う。「すべての運動選手にはライバル、競争相手がいる。そして僕にとってアンドレは、キャリアを通して特別の存在だった。ボリス・ベッカーもその1人だが、アンドレはさらにそうだ。僕たちはほぼ同じ年齢で、共に合衆国出身だからだろう。彼もきっと同じように感じているよ。メディアで相手をけなすような事柄はない。僕は彼がどれほど優れているか知っているし、彼も僕がどれほど良いか知っている。それが本当に重要な事なんだ」

サンプラスにとっては、誰かの意見ではなく、自分自身の見方ですべての可能性を探究するほど重要な事はない。彼は自分の規準にかなわなかった試合の後、自分自身をひどく打ちのめすだろうが、他の選手やメディアの評論家が彼のゲームについて過度に批判的であると、愉快には感じない。その例が、ハノーバーでニコラス・ラペンティに7-6、7-6で勝利した後だった。ほんの2日後には、彼は有無を言わさぬプレーでアガシを破り、タイトルを獲得したのだが。

試合後にユーロスポーツでハインツ・ギュンタードのインタビューを受けた際、サンプラスはまるで尋問されているように感じた。そして彼は立ち去る事を選んだ。「自分があの試合でいいプレーをしなかったのは分かっていたさ」と彼は思い返す。「僕がいいプレーをしなかったのは、誰だって分かっていた。でも僕はギュンタードとのインタビューで、厳しい日だったが、なんとか切り抜けたと話した。彼は口を閉じようとはしなかった。僕のプレーについて長々と語り続けた。だから僕はそれらの質問からゆっくりと逃げたんだ。そこから歩み去り、戻らなかった。僕は何が起きたか分かっていたし、それについて話し合う必要がなかった。僕は競争心が強く、自分自身の最も厳しい批評家でもある。彼のような人に、僕はいいプレーをしなかったと教えてもらう必要はなかった。メジャー大会で何回か優勝した人から教えてもらった方がましだ」

誇り高いチャンピオン、サンプラスは1995年のオーストラリアン・オープン以降、常にポール・アナコーンと共に目標を追いかけてきた。その時点でアナコーンは病に倒れたティム・ガリクソンの代わりを務め、翌年にガリクソンが亡くなった後は、フルタイムでコーチの仕事を引き継いだ。にもかかわらず、ガリクソンはその貢献にふさわしい高い評価を受けたのに比べて、アナコーンが果たした相当の貢献に対しては、プレスから一言の賛辞もなかった。サンプラスはどんな時でも、アナコーンからの洞察に富んだ建設的な批評を受け入れるだろう。そして、まさに必要な時に選択的な戦術的アドバイスを与えてくれるアナコーンの能力に深く感謝している。

「ポールは非常に微妙な状況の中で、ゆっくりと近づいてきてくれた」と、サンプラスは95年のメルボルンを振り返る。「ティムは健康上の問題に直面していた。ポールの位置づけを知るには少し時間がかかった。ティムの病状について、彼に再び旅行が可能かどうか、まだハッキリしてなかったからね。この3〜4年を振り返ると、ポールは彼が受けている評価よりも遙かに称賛に値するよ。アンドレに対するブラッド・ギルバートよりもさらに。ブラッドはアンドレに対して素晴らしい仕事をした。だが彼はポールよりお喋りだ。ポールは穏やかで控えめな男で、メディアへの露出を望んだりしないんだ。だが過去5年間の僕の成績を見れば、彼は大いなる仕事をしてきたよ。僕が独りでした訳じゃない」

一方、トレーナーのブレット・スティーブンスは、サンプラスのコーナーにおけるもう1つの決定的な役割を果たしている。1998年後半にトッド・シュナイダーを引き継いでから、スティーブンスはウェイト・トレーニング、自転車漕ぎ、ランニングを含め、同じテーマの多くを取り入れてきた。しかし最近のピートのトレーニングには、1つの根本的な違いがある。彼はこのように説明する。「僕はもっと重いウェイトを挙げ、怪我をしないようにし、暑さの中で2週間のグランドスラム大会を戦い抜けるよう肉体を調整している。年齢を重ねるにつれて身体は変化してくる。だからそれに適応させなければならない。マイケル・ジョーダンは年を取るにつれて、より重いウェイトを挙げるようになった。だんだん身体を酷使するようになっていく。だからそれをする必要があるんだ」

サンプラスは現在メルボルン、馴染んだメジャー選手権の場にいる。「僕は激しくプッシュして、オーストラリアン・オープンで優勝を狙うつもりだ」と彼は言う。「もしそれが実現すれば、13回目のメジャー優勝となり、記録を破る事になる。その時どんな気持ちになるか、そして何が僕を駆り立てていくのか興味があるよ。今でも競う事を楽しんでいるし、大試合でプレーするのが好きだ。僕は何年もこのゲームをしていくつもりだ。だからもしナンバー13を手に入れられたら、14にトライし、さらに続けていくよ」

フレンチ・オープンは今までと同様に、大きな目標であり続けるのだろうか? サンプラスは答える。「完璧という事で言えば、すべてのメジャーで優勝し、記録も破りたいと思うよ。もしフレンチで優勝しなくても、僕は目を見張るようなキャリアを過ごしたと考えて残りの人生を送れるだろう。だが僕は今でもプレーをしているし、健康で、充分に若い。この先3〜4年、パリで優勝するために最高のチャンスを自分に与えたいと思うよ。もしそうなれば、素晴らしいね。そうならなければ、それもまた仕方ない。過去2年間、僕はフレンチで優勝しようと自分にプレッシャーを掛けすぎた。自分を苦しめるようなプレッシャーをね」

最終的な分析では、ローラン・ギャロスを攻め落とす事が何よりの追求となる。それがこの先、ピート・サンプラスに断固として高みを目指せ続けるものだ。それは彼が何を欲するか、どうやってなし遂げるか心に描くという明敏な青写真である。それが多くの事を可能にするのだ。彼はすでに様々な媒体で、20世紀の最も偉大なテニスプレーヤーとして権威から栄誉を授けられてきた。最も顕著なのが、2カ月前に行われた ESPN の投票であった。

彼は答える。「そう呼ばれるのは面映ゆいね。ESPN の事は素晴らしかったよ。だが必ずしもそれを聞く必要はない。レーバーもその事を話すのは好まない。僕も彼と同じだ。僕たちは自分が何をしたか、自分がどれくらい優れているかについて話すのは居心地が良くないんだ。間違わないでほしいが、レーバーと比較されたり、ある人々が僕を彼、あるいはボルグ、マッケンロー、このスポーツをしてきた他の人々より優れていると考えたりするのは、時に圧倒されるよ。

僕は12月に「スポーツ・イラストレイテッド」誌のスポーツ・センチュリー授賞式のためニューヨークにいた。モハメド・アリやマイケル・ジョーダンと同席した事に胸を打たれたよ。僕は28歳で、まだ現役だ。自分のしてきた事がよりいっそう感慨深いものに感じられるよ。そして自分の記録に積み上げていく事、それが今後3〜4年における僕の挑戦だ」


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