サンデー・タイムズ・マガジン(イギリス)
2000年6月18日号
ご用は承っておりますか?( Are you being served?)
文:Scott Athorne
写真:Chris Floyd


今年ウィンブルドンで優勝すると、ピート・サンプラスはもう1つの記録を破る事になる。
しかし一体全体、テニス界のターミネーターは、オフコートではどんな様子なのか?


ビバリーヒルズの高台で、テニスボールは正確にヒットされている。打球音が木々を通り抜け、険しく曲がりくねった車道へと下りながら反響するのが聞こえる。U2の重低音サウンドが上方の家から騒々しく鳴り響いている。しかしボールの震える鼓動は、さらに大きな音で轟く。そのテニスコートは丘の斜面を切りひらいて造られた。そこでは、前屈みで、だらしなく舌を丸めたプレーヤーが、ポイントの間にゆっくりと歩いている。サーブを打つ最中には、彼の頭は前方へ突き出し、口は少し開き、猫のような集中を見せて半ば微笑んでいる。彼の肌は深いオリーブ色で、髪は黒でカールしている。バシッ! 身体は大砲となり、小さな黄色のボールはかすんで見える。

ここはピート・サンプラスのオアシス、28歳のテニススターが、さらなるタイトルを追い求めていない時に引きこもる自宅である。同じく、彼のお気に入りの練習スポットでもある。そして今日は、世界93位のプロ、セシル・マミートが、めった打ちの相手とされている。マミートがこの務めに適した数少ない地元の若手の1人である事は、大して驚きではない。彼ら2人は激しくボールを打ち合っているのだから。

練習の後、汗をかいた招待主は大型冷蔵庫から飲み物をサーブし、そしてシャワー室へと消える。その家は飾らない、いかにも独身男性向きの、きわだった特徴のない様式である。居間には6つの金色のトロフィーが飾られている。「ウィンブルドン・チャンピオン1993年、94年、95年………」その部屋は、青々とした芝生と明るいブルーのプールに面している。

戻ってきたサンプラスは、いつもの見慣れた格好だ。トレードマークである膝丈のバギーパンツ、シンプルな白いTシャツ、蜂に刺されたような唇、そして毛深い身体。しかし彼の人柄は、プレーの時に見せるような抑制の効いた第二の自我とは別物だ。彼は自信と皮肉っぽい機知に満ちていて、内気でも、はにかみ屋でもない。むしろ世界征服を企む生意気な少年ぽい競技者のようだ。太い眉は、悪戯っぽい笑いとともに上がる。探るような眼差しは、滅多に逸れる事はない―――彼は常に反応を測っているのだ。

「あなたは僕の皮肉を受け入れないよね?」と、彼は私の質問―――テニススターである事は、どんな感じですか?―――が安っぽいと認めた後に、そう言う。実際は、それが皮肉となっている。

「どんなレストランにでも電話をしたら入る事ができ、世界でも最高のゴルフコースでプレーできて、そして個人用のジェット機で飛べる、それは素敵だよ」と彼は言う。「だが、僕が夕食を食べている時に、誰かが写真撮影を求める事が好きか? いいや、そうでもない。車から降りると、人々がハエみたいに自分に向かってくるような時がある。時にはそれから逃れたいと思う事もある。それでも、この人々は僕のファンなんだ」

彼のコーチ、ポール・アナコーンのような友人たちは、彼を内向的と称する。人々がサンプラスについて知っていると思っている事は、通常はコート上での個性―――あるいは個性不足―――ゆえの誤ったものだと彼は言う。今までにプレーしたすべての試合を見てもなお、彼については1つの事も知り得ないだろう。コート上では、彼は自分のテニスにとっての純粋な導管となり、彼自身の人間性はほとんど消え失せるのだ。

世界には1億人のプレーヤー、1,000人のプロがいると推定されるが、サンプラスは高みを自分自身の中に見いだしてきた。現代のテニス界では、誰であろうと1人の選手が、1950年代や60年代にロイ・エマーソンやロッド・レーバーがしたようにゲームを支配する事は不可能であろう、というのが世間一般の意見だった。だがサンプラスは19歳でUSオープンの男子最年少チャンピオンになった。そして1998年の終わりには、6年連続世界ナンバー1という記録を打ち立てた。恐らく彼の最大の偉業は、これからやって来るはずだ。もし彼が今年7回目のウィンブルドン優勝を遂げると、12のグランドスラム・シングルス・タイトルというエマーソンの記録を抜く。

誰が見ても、偉大な業績である。しかしまた、テニスはスペクタクル―――ジョン・マッケンローの痛烈で芝居がかった仕草、ジミー・コナーズが誇示する傲慢さ、イリー・ナスターゼの馬鹿げた道化ぶり―――も頼みにしている。そして当面、サンプラスはこの分野におけるポジションを持っていなかった。1994年、彼がストレートセット―――第3セットは6-0―――でゴラン・イワニセビッチを下して2度目のウィンブルドン優勝を遂げた時、タブロイド紙は浮かれ騒いだ。「ピートの個性はウィンブルドンを眠りに就かせる」が「サン」紙の見出しだった。さらに「彼は不眠症の完璧な治療法であるあくび(yawn。芝生=lawn に引っかけている)テニスを供する」と付け加えた。容赦のない文面は彼を傷つけたが、その後、バッシングはやんだ。

「初めは、メディアは僕をよく理解していなかったのだろう。僕はただプレーするだけで、見出しになるような事を言ったりしたりはしなかった。どうやらそれは退屈という印象を与えたようだね」あなたは退屈な人間か? 「いいや! だがコート上では………それは僕が状況に対処する方法なんだ。僕は多くの事を内に秘めるんだ」

ピート・サンプラスという人間には、あたかも2つの人格があるかのようだ。公の場で見せるものと、心やすいプライベートな場で見せるものと。本日のバージョンは、恐らく両者が少しずつ現れているらしい。彼のリラックスした友好的な雰囲気の中には、かつて傷ついた経験のある様子が窺える。

ニューヨークのダウンタウンにあるカフェで、彼のコーチ、穏和なポール・アナコーンと話をした時の事だが、サンプラスは人々が大袈裟に騒ぎ立てるのを嫌う、名士になりたがらないとアナコーンは語った。「もしピートほどの成功を収めたら、私なら周りに対してもう少し耐えがたい人間になっていただろう。彼は私生活を守る内省的な人間だ。だが個人的に親しい者の間では―――野球観戦であれ夕食の席であれ―――彼は冗談を言うのが好きで、豊かなユーモアのセンスを持っている。ピートは素晴らしい才能、寛大な心と賢い頭脳をあわせ持つ、数少ない人間の1人だ」

彼の一家はメリーランド州ポトマック、後にはワシントンDCで暮らしていたが、ピートはごく普通の子供で、地下室の壁に向かって果てしなくテニスボールを強打するという困った習慣があった。それから一家は南カリフォルニアへ移り住み、国防省のエンジニアだった父親は、ロサンジェルス郊外のジャック・クレーマー・テニスクラブに彼を連れていくようになった。そのクラブで、ピート・フィッシャーという中年の小児科医に、息子とのヒッティングを頼んだ。後に、定期的にヒッティングをしてもらうには幾ら必要かと尋ねた。「何も」とフィッシャーは答えた。不似合いなパートナーシップは、そのように始まったのだった。

フィッシャーは最初から、ロッド・レーバーを競争相手に据えた。物静かで控えめなオーストラリア人、年間グランドスラム―――同じ年に4つのメジャー大会で優勝する事―――を2回成し遂げた、テニス史上唯一の選手。フィッシャーはサンプラスにフィルム映像を見せ、どうやってウィンブルドンに優勝するか、レーバーを凌ぐかを話し聞かせた。「彼はあれこれ話したが、右から左へと抜けていったよ」とサンプラスは語る。「僕は真剣に受け止めていなかったんだ」

フィッシャーが発育不充分な子供のためにしたのは、サーブ&ボレーのゲームを教える事だった。14歳になるまで、サンプラスのベストショットは信頼に足る両手打ちバックハンドだった。そしてネットへは滅多に出なかった。「パンチャー」(攻撃的なサーブ&ボレー・プレーヤー)である事は、「カウンター・パンチャー」(守備的なベースライン・プレーヤー)より遙かに楽しいと分かり始めるにつれて、新しい戦略は自分の心理を変えていった、と彼は説明する。

しかし厳格な監督者のためにプレーする事は、いつも楽しいという訳にはいかなかった。「彼を満足させるのはとても難しかったよ」と、いつも以上に眉間にしわを寄せてサンプラスは説明する。「彼は僕のプレーに決して満足しなかった。例えば、僕がジュニアの試合で勝って彼のところへ行くと、ピートはそれでも『あー、15-30で、君は愚かなショットを打ったね』と言うんだよ。彼はとても直截的で、常にとても思いやりがあるという訳じゃなかった」

1990年、2人はとげとげしい情況の下で袂を分かった。 「僕がプロに転向すると、彼は契約を欲して、少し微妙な事態になったんだ。もっと後には、彼と彼が起こした事件について少し書かれた」と、1997年にフィッシャーが患者の1人に性的いたずらをした件で、6年の実刑判決が下った事にサンプラスは言及する。「とてもショックを受け、驚いた。何も気づいていなかったからね。僕はピートのそばにいても、とても安心していたし、彼の味方につくよ。確かに悲しい状況で、公の場でその事を取り上げるのは容易ではない。つまり、彼はこの先レッテルを貼られるんだ」

天才児は成長するにつれて、より寛容なコーチの指導を受けるようになった。ジョー・ブランディは物静かな後見人で、1990年に彼が突如頭角を現し、USオープンで優勝した時のコーチだった。ティム・ガリクソンは、脳腫瘍で亡くなるまで1992〜1996年にかけて彼を指導し、全霊を傾けて彼のサーブ&ボレー・ゲームをサポートした。1994年にガリクソンは語った。「サンプラスは、チャンピオンとはどうあるべきかという、これまででも最も優秀な模範になり得るだろう」

現在のコーチであるアナコーンとも、サンプラスは親密な関係を築いているようだ。「彼は僕をよく知っていて、僕が何を聞きたいと望むか、何を望まないかを承知している」とサンプラスは語る。「彼は選手たちを、そして僕が試合に勝つためには何をする必要があるかを承知している。我々は素晴らしい関係を築いているし、コミュニケーションが鍵だ。彼はとてもくつろいでいて、それが僕のテニスを仕上げていくやり方だ。上手く作用してきたよ」

サンプラスにとって、テニスは常に自然なものだった。多くのプレーヤーは工夫を凝らすあまりに、自分のゲームをかえって危うくするが、彼はまるで、テニスの教科書をそっくり飲み込んだかのようにプレーする。「僕も作戦を考えるが、コートのライン際に歩み寄ると、どこにボールを打つべきかが分かり、そこからはひたすらブーン、ブーンと打つのみなんだ」

ゲームへの彼のアプローチは、ライバルのアンドレ・アガシとは正反対である。アガシはすべてのポイントについて、コーチのブラッド・ギルバートと共に分析する事を好む。そして一風変わった、本来の競技者でさえないような技能を持っている。一方サンプラスは、本能だけでプレーするようにも見える。彼はおおらかで、流動的で、物静かだ。彼らのライバル関係はジュニア時代に始まった。10歳のアガシは見事なトリックショットをあれこれ駆使して、9歳のサンプラスを翻弄した。現在、プロでの対戦成績は17勝12敗とサンプラスが上回っているが、それでもアガシほど彼を負かした事のある者は誰もいない。

ところで、彼らは友人なのか? テニスの競争性は友情を育む事の妨げになり得る、とサンプラスは説明する。「ゴルフのような他のスポーツとはちょっと違うんだ。ゴルフの場合は、コースに対してプレーする事になる。アンドレとだと、僕は彼に直接向かっていく。そして我々はメジャータイトルを狙ってプレーしている。でも僕たちはとても上手く状況に対処し、良い関係にあるよ」

2人の最も大きな相違は、サンプラスは自分が良いプレーをしている時には、自分を倒せる選手にお目に掛かった事がない、と承知して行動するという事かも知れない。しかし試合後の記者会見では、通常は自分の能力を控え目に語るため、彼の謙遜は見せかけだと非難する者もいた。「まあ、僕には自信がある。自分がベストだと信じている」と彼は言う。眼差しは断固として、皮肉のかけらもない。人は彼に初めて会う時、揺るぎない自己への信念を感じる。そして彼が話をすると、聞き手はそれを知る。それは思い上がった自惚れではなく、確固とした、自分の能力に対する気高いまでの信念である―――そして多くの者が同意する。

アンドレ・アガシ。「ピートが僕に優っている1つの事は、そして僕もそうありたいと思うが、シンプルなアプローチと、自分は他の誰よりも優れているという純粋な信念だ」

ボリス・ベッカー。「彼(サンプラス)は史上最高の選手だ」

これは芽吹き始めたジュニアへの、フィッシャーの最も素晴らしい贈り物だったのかも知れない―――コートへ踏み出す時はいつも、自分の運命をコントロールできる、あるいはすべきだという感覚。「僕はいつも、対戦相手は僕と同じようにプレッシャーを感じているに違いないと考えている」とサンプラスは語る。「それは事態により良く対処するやり方で、何らかの勝つ途を見いだすのだという自信を僕に与えてくれる」

オーストラリアン・テニスの偉人、ジョン・ニューカムは語る。プレーヤーの優秀さはセカンドサーブにかかっている。 そしてサンプラスは、テニス史上で最も素晴らしいセカンドサーブを持っている、と。これはまた、ウィンブルドンで勝つ鍵でもあるようだ。

「強烈なサーブ―――時速125マイル―――を打つ事が、ウィンブルドンで勝つ鍵だと人々は考える」とサンプラスは語る。「いいや、ウィンブルドンで勝つ鍵は、サービスリターンとセカンドサーブなんだ―――それは見過ごされている」と。彼のゲームについて批判があるとすれば、彼が時に全力を尽くしていない、あるいはやる気が感じられないように見えるからだろう。特に大会の早い段階では。「確かに、僕は切迫感をもってプレーする時がある。重要なポイント、試合のある局面で、プレーのレベルを上げるんだ」

常にこうある訳ではなかった。彼がそれを悟るには、1992年USオープンでの苦い敗戦を必要とした。「負ける事への信じ難いほどの恐れ………ジュニアの頃は、勝つ事よりも良いプレーをする事を重視していた―――決勝に進むだけでも充分と思えた。とにかく僕はエドバーグ戦に敗れ、最後は少し諦めた感があった。そして僕はそれを受け入れていくつもりだった。だが後に、その敗戦は僕を思い悩ませたんだ。コーチ、マネージャー、家族はアドバイスを与えてくれてきた。しかし究極的には、自分にかかっているんだ。本当にコートで頑張り抜きたいのなら、誰にも頼る事はできないんだ」

ピート・サンプラスが傷つく時には、両親も傷つくのは当然である。そして両親が彼の試合を見ないようにしているのは、そのためもあるのだ。彼がプロサーキットを回り始めた最初の年、父親のサムはドイツ、スウェーデン、フランスと付き添ったが、彼は6大会すべてに1回戦で敗れた。2年後、両親は1992年USオープン決勝のステファン・エドバーグ戦に参列した。そしてその敗戦以降、彼らは試合から遠ざかったのだった。「両親にはもっと多くの大会、特にウィンブルドンを見にきてほしいと思うよ」と彼は言う。「決勝戦に進出するたびに(誘ってきたが)、彼らは来ないと言い続けてきた。もし僕が今回決勝に進んだら、来るように言うよ。ウィンブルドンは僕のキャリアにとってとても重要なもので、両親には僕とそれを分かち合ってほしいんだ。上手くいくといいなぁ」

母親のジョージアはギリシャのスパルタ出身で、父親はユダヤ・ギリシャ系である。そして彼には兄と姉・妹がいる。当初、彼のきついスケジュールに合わせるのは、家族にとって常に容易な訳ではなかった。それは皆にとって感情的な、そして金銭的な負担だった。父親は彼を車で大会へ連れていくために多くの時間を費やし、兄弟の間には相応の不満と嫉妬が生み出された。彼はいかに家族が自分を支え、理解を示してくれたかを力説する。

ガールフレンドの事に話が及ぶと、彼の顔はぱっと輝く。そしてテニスの自動操縦装置は一変する。10代の頃、彼の生活はテニスと学校だけで、友人づきあい、ましてや女の子に費やす時間はなかった。彼は滅多にアルコールをたしなむ事もないし、ナイトクラブへも行かない。しかし、魅力的な女性に関しては目が肥えている。前のガールフレンドは「花嫁のパパ」のスター、キンバリー・ウィリアムズだった。しかしロマンスは1998年、彼が6年連続世界ナンバー1を達成する史上初の選手になろうという願望に駆られていた年に立ち消えとなった。

当時、彼は無愛想になるあまり、スタッフ以外は誰も自分に関わらないでほしいとさえ思ったと明かした。しかしながら、それに関しては、現在の情熱で彼は補い以上の事をした。彼女の名前を出すだけで、彼は口ごもり、はにかんだ笑みを浮かべる。彼女はブリジット・ウィルソン、26歳、「モータル・コンバット」に出演した女優で、出会って8カ月である。

共にいる人間は、彼のためにいるのか、あるいは彼がなったものの故にいるのかを、彼はどうやって知るのか? 「共に過ごす人の人柄については、僕はかなり良い判断を下せるんだよ」と、彼は頭を掻きながら自信をもって言う。「僕がどれだけのお金を、あるいはトロフィを持っていようが、なぜ彼らが僕のそばにいるかを見抜けるんだ。世をすねて人生を送り、いつも壁を巡らしている事はできないよ。自分の直感を信じ、そして人々を信頼しなければならない。受け入れた人々とは、とても親しい関係だよ。知人は多くない」

そうであっても、彼は単調な仕事を繰り返す億万長者の地位に留まっている。そして忍び寄る年齢といった問題は彼を悩ませ続ける。彼はまだ28歳である。しかし毎週のように競うストレスは、そのツケをもたらす事もあるのだ。アナコーンは年に26週サンプラスと共にツアーを回っているが、彼は少なくともあと5年、トップレベルのプレーができると考えている。「スケジュールしだいだろう。今年ピートは少しスケジュールを減らして、スラム大会で最高のテニスをするために準備していく」

テニスをしないピート・サンプラスを想像するのは難しい。彼の物憂げな姿は、常にテレビの画面に登場してきたようにも思われる。「テニスを辞めた後に何をするとしても、僕は朝目覚めてから何か目的を遂げたい、いずれかの方法で満たされたいと思う。だがこの先どうなるかなんて、誰に分かる? 何らかの形でテニスに関わっているのは確かだ。同じく身を固めて家庭を築き、新しい人生の一章を作りたいよ」

私自身も熱心なテニスプレーヤーなので、訊きたくてたまらなかった質問を口にしてみる。「もし私がラケットを持参していたら(私はその事を真剣に考えていた)、あなたは私とヒッティングしてくれましたか?」と。「あなたはどのくらい上手なの?」と彼は皮肉げに言う。それから、微笑んで言う。「それとも、それは偽りの謙虚さかい?」

我々の会見からちょうど5時間後、テレビで彼を見つけた。彼はご贔屓のバスケットボール・チーム、ロサンジェルス・レイカーズがデトロイト・ピストンズと対戦するのを観戦していた。彼はブリジット・ウィルソンと一緒で、最高の座席に座って心から楽しんでいる様子だった。


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