USTA マガジン
2000年1・2月号
時代のチャンピオン
文: Jay Jennings


運動能力と強靭な精神力を別にしても、ピート・サンプラスは
明らかに90年代を代表する選手だった。


1994年の事だった。ピート・サンプラスはカリフォルニア州パームスプリングスのレストランで夕食を摂っていた。その数週間前、彼はオーストラリアン・オープンで優勝していた。4つ目のグランドスラム・タイトルであり、前年のウインブルドンとUSオープンでの優勝を入れると、3大会連続のメジャー・タイトルだった。彼は世界ナンバー1で、キャリアは未だ上昇中だった。

サンプラスが食事仲間と共にレストランを出ようと立ち上がった時、1人の男が歩み寄り、映画撮影所の経営者だと自己紹介して手を差し出した。サンプラスは礼儀正しく男の手を握り、談笑した。しかし男が自分の車に戻ると、彼はにっこり笑い、そして食事仲間に先ほどの会話を再現した。

「あの男の言葉を聞いたかい?」と彼は言った。「私はパラマウント映画の者です」と、男のもったいぶった様子を真似た。「彼は何をするつもりだろうね、僕を有名にするつもり?」

それから、それが意味する二重の馬鹿馬鹿しさに笑った。サンプラスは23歳にして既に有名だった。彼は世界的なスポーツのトッププレーヤーで、どうやらさらなる偉大さに向かっているようだった。だがサンプラスは「名声」が「ゲーム」よりも、彼に対して何らかのアピール力があるだろうとする考えをも笑っていたのだ。

名声がサンプラスの気を散らした事はなかった。同世代の主要なライバルであるアンドレ・アガシを含め、何人かの同僚に影響を及ぼしたようには。しかし、その名声を見下す姿勢は、もっと派手で不安を抱えた名士を良しとするメディアによって、サンプラスから称賛を奪い取ってきたとも言える。ジェットコースターに乗るのは通勤電車に乗るより面白いかも知れない。しかし結局のところ、どこへも行き着かなかった。

この10年間、他の選手なら道を誤ってきた個人的な危機や高い期待を経験してさえ、サンプラスは勝利し続けた。時代の風潮に合わせず、彼は物静かな自信を秘めてそれを成してきた。フットボールのフィールドでは全てのタックルがダンスで祝われ、バスケットコートではあらゆるダンクが握り拳を振り上げる理由となる――スコアに関わらず――この時代に。

彼はテニス界における最も信頼性の高いエンジンであった。プレースタイルや気質において彼が最も似通っている過去のチャンピオン――スタン・スミス、ロッド・レーバー、ケン・ローズウォール etc. のような選手――によれば、それが偉大さを決定づけるものである。

だがサンプラスはどうやって、このような堅実さを達成してくる事ができたのか? 答えは、単に彼のより優れた才能、もしくは強靭な意思にあるのではなく、2つの組み合わせにある。それが12、そしてさらに続くグランドスラム・タイトルとなっているのだ。

第一に、彼は優れた身体能力に恵まれ、初めから対戦相手より優位に立っている。かつてアーサー・アッシュはサンプラスについて、「彼にはボールを扱う事に関し、ほぼ何でもできる天分がある」と語った。

1971年USオープンと1972年ウインブルドンのシングルス優勝者であるスミスは、ジュニア・デビスカップチームの仕事をしていた時、初めてその能力の兆しを見た。当時16歳のサンプラスは、決して最高のジュニアではなかったが、後にスミスがサンプラスの名にちなんで命名したドリル練習の間に、彼の運動能力を露わにしたのだ。

スミスはネット際からサンプラスのバックハンドにボールを出し、返ってきたショットをフォアハンド側のワイドにボレーした。サンプラスがボールを追って走ると、スミスは「クロス」「ライン」あるいは「ロブ」と大声を上げ、どこへフォアハンドを打つべきか指示した。スミスは言う。「プレーヤーが優秀であるほど、指示するまで時間を長く取れる。そして彼は誰よりも上手く適応できた」

そのドリル練習におけるサンプラスの成功は、ランニング・フォアハンドの卓越を予感させた。サンプラスがあまり評価を得ていない身体的技能――スピードを頼みにするショットである。「彼は他の者ほど一生懸命やっているように見えないのだ」とスミスは語る。「それ故に、彼はそれほど速く見えない。だが彼は非常に敏捷だ」

もちろん、インタビューを受けた過去の偉人は全員、サンプラスのサーブに関して意見を述べた。だがその純粋な速度というよりは、継続する速度についてであった。1965年フレンチ・オープンと1966年USチャンピオンシップの優勝者であるフレッド・ストールは、サンプラスのパワーについて語る。「彼と同じくらい強烈にボールを打てる者はいた。だが一貫してハードに打つ事はできなかった」

サーブのペースよりさらに重要なのは、大事なポイントでビッグサーブを打つ能力である。そしてこれが、サンプラスの身体能力に関する論評が、彼の精神力とも重なるところである。

「彼がウインブルドンで事に対処する様は天才だと思う」と、通常は知的な業績のためにある言葉を使って、ストールは語る。「ファーストサーブを入れ、ボレーで決める。彼はそれを素晴らしい精度で行うのだ。見ていると驚くばかりだ」

昨年「ニューヨーカー」誌に掲載された記事の中で、筆者のマルコム・グラッドウェルは、彼が「身体的天才」と呼ぶ人々のパフォーマンスを調査し、同等の才能を持つ者よりも、何が彼らの手ぎわを高めるのか確定しようとした。

彼は記した。「身体的に非凡な才能をピラミッドに譬えると、基部には、筋肉運動の協調に関わる生の構成要素があり、その上には、特定の動きを完成する実行があり、イメージを実現化する者がトップ・プレーヤーである」

マイケル・ジョーダン、ヨーヨーマ、そして神経外科医のチャーリー・ウィルソン(そして我々はそのリストにサンプラスを加える事ができる)を他と分けるものは、苦境に直面した際に成功する方法を創造し、即興で演じ、発明する能力である、とグラッドウェルは記述する。この能力なくしては、ジョーダンはカール・マローンを上回らないし、サンプラスがリチャード・クライチェクに優る事はないだろう。

この10年間、何度も何度も、サンプラスはこの類の想像力豊かな創造性を披露してきた。1995年オーストラリアン・オープンでは、病気のコーチ、ティム・ガリクソンを思って泣きながらもジム・クーリエを倒した時に。1996年USオープンでは、コート上で体調を崩しながらもアレックス・コレチャを倒した時に。1995年USオープンでは、アガシと22本のストロークを応酬した後、最高潮へ達した時に。

スミスは言う。「何人かの選手は全てのショットを持っているが、試合になると、それらのショットをどう使うべきか分かっていない。多くの者はビッグサーブを打つ事ができる。しかしゲームが危ういと、彼らは必ずしも打たない。偉大な選手の大多数は、本当に必要な場面でレベルを上げる事が可能だった。そしてサンプラスは、本当に必要な時、ビッグサーブを打つという特質を持っているようだ。ビッグサーブだけではない。昨年のウインブルドンを見ただろう。彼は信じがたいグラウンド・ストローク、ボレー、サービス・リターンを打った。そして彼は芝の上だけでなく、他のサーフェスでもそれをしてきたのだ」

6年前、サンプラスは1994年オーストラリアン・オープンで優勝した後、積み上げる広告収入のドルではなく、タイトルが招き寄せるスーパーモデルの数でもなく、最高となるために勝つべきメジャータイトルの数に重きをおいていた。背中の怪我だけが、彼が1999年USオープンで優勝して12のメジャー・タイトルというロイ・エマーソンの記録を破り、感嘆符付きで今世紀を終えるのを阻止したのだ。

その数字自体には疑問があり、注釈が付く。エマーソンのメジャー・タイトルの内7つは、同時代の選手――例えば11のメジャー・シングルス・タイトルを獲得したレーバー――がプロとして競技に参加していたため、グランドスラム大会から閉め出されていた時期に獲得したものだった。これは、エマーソンがレーバーに勝つ筈がないという意味ではない。しかし、もしテニス界がオープン化していたら、レーバーはメジャー・タイトルの数でエマーソンを凌駕していただろうとは言える。

「サンプラスの記録には、さほどの論点はない」とスミスは語る。「彼がエマーソンの記録を破るとしよう――それでサンプラスの記録がレーバーの記録より優れている事になるのか? そうは思わない。だが同時に、業績の価値を貶めもしない。なぜなら彼はより優れた選手たちと対戦しているからだ。よってサンプラスが成してきた事は壮観で、恐らくエマーソンが成した事よりも困難だろう。だが特定の記録は偉大さを測るものさしとして、あまり適当ではない」

マーク・マクガイアが1シーズンに70本を超えるホームランを打ち、ベースボールの記録から全ての注釈を払いのけたように、キャリアが21世紀にさしかかり、サンプラスは数字に関する全ての論議を時代遅れにする事ができた。最近20回の試みで、彼は8つのメジャー・タイトルを獲得した。

もしサンプラスがもう5年プレーするなら、メジャーで優勝するチャンスがさらに20回ある。もう一度20回の内8回優勝して20の生涯メジャー・タイトルに到達するのは困難だろうが、論外という訳でもない。「彼はもう3、4、5年プレーすると思う」とレーバーは言う。「彼は何歳――28? 私は31歳で、年間グランドスラム優勝をした」

1993年、サンプラスが初めてナンバー1になった時、アガシは、ライバルのコート上でのうなだれた姿勢に言及して、「木からぶら下がっているような」者がナンバー 1であるべきではないと言った。6回の年度末ナンバー1という記録を打ち立て、サンプラスはテニス界のキングコングに進化してきた。そしてアガシをピシャリと打ち倒し、生涯対戦記録を16勝10敗とリードさせた。

その止まり木からサンプラスを引きずり下ろし得る唯一の存在は彼自身だ、とチャンピオン達は認める。スミスは言う。サンプラスがグランドスラム・タイトルを獲得し続けるには、「2つの事しだいだ。テニスへの彼の熱意、そして彼のフィットネス。もし彼が本当にゲームへの愛を持ち続けられるなら――彼はそのように見えるが、彼に影響を与え得る唯一の事は、他の活動だ。それは家族であるかも知れない。他の関心事であるかも知れない。彼はさほど込み入った人間ではないが、それは良くも悪くもある。他の事に注意を逸らされる可能性が少ないという点では、良い」

サンプラスの成功への鍵について、レーバーは同様の4文字を使う。愛(love)。レーバーは言う。もし彼が「テニスへの愛と敬意」を保つなら、彼は勝利を保つ。「それには、試合でプレーする事が喜びとならねばならない」

それは身体的天才にとって成功への鍵である、とグラッドウェルは記す。2歳のウェイン・グレツキーが、テレビで魅了されたホッケー選手の真似をして、いかにソックスで床の上を滑っていたか彼は記述する。

「彼が経験したのは、他の専門技術が身に付く前に、身体的天才が持つべきものであった。すなわち彼は1つの事、何らかの深遠な審美的レベルに遭遇し、それは彼を幸福にしたのだ」

サンプラス自身が語る、自己のモチベーションに関する発言には、似たような響きがある。「自分を幸せにする事をしなければね。だがいずれ、僕は引退すべき時を知る。もし自分がメジャー大会で競えないと感じるなら、もしツアーを楽しくないと感じるなら、何か別の事をすべき時だ」

彼の対戦相手には残念だが、21世紀のテニスファンには幸いにも、サンプラスは「その日は遙か遠い」と付け加えた。




1990年2月
フィラデルフィアで初のATPツアータイトルを獲得。
1990年9月
第12シードとして出場し、ラスト3試合でイワン・レンドル、ジョン・マッケンロー、アンドレ・アガシを番狂わせで下し、19歳28日でUSオープン最年少男子チャンピオンとなる。
1993年4月
第11代ATPナンバー1選手となる。

1993年7月
ジム・クーリエを7-6、7-6、3-6、6-3で下し、初のウインブルドン・タイトルを獲得する。
1994年
オーストラリアン・オープン、ウインブルドン、スーパー9(現マスターズ・シリーズ)3大会を含む10タイトルを獲得。1年を通してナンバー1の座を守る。
1995年11月
年間500万ドルの賞金を獲得した史上初の選手となる。

1995年12月
デビスカップ決勝戦でシングルス、ダブルスともに出場し、合衆国の勝ち点すべてを挙げ、3-2でロシアに勝利。
1996年5月
長年のコーチ、ティム・ガリクソンが脳腫瘍で死亡。
1997年11月
ドイツのミュンヘンで行われたグランドスラム・カップで、キャリア50番目のタイトルを獲得。

1999年7月
ウインブルドン決勝でアンドレ・アガシを下し、ロイ・エマーソンの記録と並ぶ12回目のグランドスラム・シングルス優勝を遂げる。
1999年8月
レンドルを抜き、ナンバー1在位271週の記録を樹立。
(最終的に286週)

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