ノースウエスト航空機内誌「ワールド・トラベラー」
2000年6月号
ピート・サンプラス、完璧の追求
文:Joel Drucker
写真:Mark Robert Halper

今月ピート・サンプラスには、テニス史上最も支配的な男子選手となる2つの機会がある。6月11日に終わるフレンチ・オープン、あるいはその2週後に始まるウインブルドンで、彼は新記録となる13個目のグランドスラム・シングルス・タイトルにチャレンジする。

本誌の独占インタビューで、サンプラスは彼の輝かしいキャリアについて論じる―――20年間の汗と自己犠牲、そして救済について。

ピート・サンプラスはテニス界の*ロドニー・デンジャーフィールドである。
訳注:俳優・監督。1921年生。81年グラミー賞受賞。ジム・キャリーの才能を発掘した事でも知られる。自在な演技力を持つアメリカ・コメディ界の重鎮だが、一般的な人気や注目度は高くなかったらしい。

タイ記録となった12のグランドスラム・シングルス・タイトルを獲得してさえ、テニス界消息通の多くは、彼の願望・フィットネス・履歴に疑問を呈する。彼の権勢はマイケル・ジョーダンにも匹敵する―――1993年から98年の間、6年連続1位―――のに、テニスに通じていない者たちは、彼の氷のような精密さを称賛するのは難しいと感じる。

たいていの場合、サンプラスは名声と成功を両立させる事には異議を唱える。事実上、質問を受ける時はいつも、「バットマン」でジョーカーを演じたジャック・ニコルソンのように、彼は皮肉っぽく口元を歪める。共にいてサンプラスがくつろげる人たちは、彼の陽気で味のあるバカバカしい一面を知っているが、彼は普段は本音を吐かず、「僕はテニスが上手いだけの、ごく普通の男さ」といった安全で月並みな事しか口にしない。

ちょっと見には、サンプラスの言っている事は正しいのかもしれない。もちろん、彼はビバリーヒルズ峡谷の上方に家を所有しているし、メルセデスを運転する。

しかし自宅や埃をかぶった車の中にいる時の、対等で形式ばらない様子を伺うと、サンプラスは、百万長者の少年ぽいトム・クルーズ的キャラクター以外の何者でもないように見える。彼はレイカーズの観戦、居間でくつろぐ事、大スクリーン・テレビでスポーツを観る事、そしてパール・ジャムの音楽を愛している。

応接間の隣には、玉突き台、雑誌の表紙を飾った額の数々、多数のトロフィーなどが置かれた娯楽室がある。部屋はやっと設えられたばかりで、いかにも年に30週以上も旅をする独身男性らしい。トロフィーケースは雑然としており、曇ったガラスでよく見えない。

サンプラスがサーブを打つポスターを来客が眺めていると、彼は出し抜けに自分を規定する。「分かるかい?」と彼は尋ねる。「それはサーブを打つアスリートだ」

事は込み入って面白くなる。クォーターバックは、自分自身を運動選手として言明する必要があるだろうか? そうはいっても、誰もフットボールをめめしいスポーツと呼びはしなかった。

サンプラスはテニスに対する誤解の犠牲者であり、テニスはスポーツ界のロドニー ・デンジャーフィールドであるのかもしれない。「きれいな舞台と美しい人々、お金を見て、人々はテニスをちょっとした面白いゲームだと考える」と、殿堂入り選手のパンチョ・セグラ―――ジミー・コナーズの元コーチ―――は言う。「ところで、私は君に新説を提供するが―――そうではない。それはボクシングのような、ラケットによる闘いなのだ」

サンプラスにとっての問題は、彼はとても長い間、かすり傷1つなくその闘いに勝ってきたという事である。コナーズやアンドレ・アガシは十字軍のように闘ったが、サンプラスの卓越は帝王にふさわしく、圧倒的なので、彼の勝利はマイクロソフト社の年次収益発表のように受け止められてしまうのだ。

見たところ安定した、堂々たる統治について質問されると、サンプラスの目は光る。神経はさいなまれてきたのだ。普通の男は文字どおり豹となり、フォアハンドを打つ時のように、すみやかに言葉を投げかける。

「6年連続ナンバー1でいる事は簡単だったと思う?」と、彼は尋ねる。「戦利品は努力して勝ち取らなければならない。そうしないなら、やっつけられるよ。ナンバー1であるという事は、情熱なんだ。1位でありたいと望まなければならない。僕は頂点にいて快適だった。毎週、他の男たちが追いかけてくる。彼らは1位の男を倒したいと望むんだ」

しかし今、90年代初期以来初めて、8月で29歳になるサンプラスはその地位から追放されている。彼にとって、さらに能力を試される戦いが今月始まる。フレンチ・オープン、サンプラスが一度も優勝した事のない唯一のグランドスラム大会が、5月29日に始まった。

パリの遅いレッド・クレーは、サンプラスのショット・メイキング技能を無効にし、試合は彼好みの攻撃的展開というよりは、消耗戦となっていく。「辛抱強さは彼の得意分野ではない」とサンプラスのコーチ、ポール・アナコーンは言う。

サンプラスのクレーコートでの苦難に加え、フレンチのディフェンディング・チャンピオンはアガシである。彼は昨年、キャリアで4つ全部のグランドスラム・タイトルを獲得した5番目の男となり、サンプラスの歴史追求の価値をいくらか下げた。99年には5回対戦して4回アガシを負かしたにも関わらず、多くのケガにより、サンプラスはナンバー1の座を彼に明け渡す事を余儀なくされた。今年の1月には、シーズン最初のグランドスラム大会であるオーストラリアン・オープンでサンプラスを負かし、まずアガシが苦痛を与えた。

フレンチ・オープンが終わると、2週後にはウインブルドン、テニス界最大の大会がやって来る。サンプラスは過去7年間で6回、この大会に優勝してきた。ジョン・マッケンローは3回ウインブルドンで優勝した。コナーズは2回、アガシは1回である。

しかし彼が最も輝く場所でさえ、サンプラスは過小評価されている。ウインブルドンは芝生という極端に速いサーフェスでプレーされるため、ラリーは無情にも短く、非常に高い運動能力が要求される。それゆえウインブルドンとUSオープンしか見ないような、目の肥えていない大多数の者には、サンプラスの技能を見抜けない事がよくあるのだ。「僕がプレーしているビデオを見ると、とても楽にやっているように見える。そうなるまでにどれほどの努力を要したか、みんなが分かってくれたらなぁ」と、サンプラスは言う。

その努力は20年の間、止まる事はなかった。8歳でテニスを始めた時から、サンプラスはテニスコート以外での生活を想像した事もなかった。

彼はエンジニアの息子として、カリフォルニア州ロサンジェルス郊外にあるパロス・ヴェルデスで成長した(この街はハリウッドとは無縁の雰囲気だった。殊にサンプラスにとっては)。

そして世界でも最も恵まれたテニス環境、ジャック・クレーマー・クラブで学んだ。このクラブはかつての世界チャンピオンの名を冠し、USオープン優勝者のトレーシー・オースチンやリンゼイ・ダベンポート等、優秀なジュニアを育て上げている。

サンプラスが9歳の時、テニス愛好家の小児科医ピーター・フィッシャーから、友人として助言を受けるようになった。フィッシャーは彼に、いずれ彼がロッド・レーバー(史上最高とも謳われた選手)を人々から忘れさせるのだと言い聞かせた。

サンプラスの両親は、一度もウインブルドンに来た事がないほど引っ込み思案だが、フィッシャーを信頼して息子のテニス指導を託した。そしてフィッシャーはサンプラスに複数の専門分野のコーチをつけ、全体を監督した。

サンプラスは南カリフォルニア育ちの10代選手の1人として、ウインブルドンで優勝できると言い聞かされてきた。みんな似たような子供時代を送った。「成長の途上で、僕にはあまり社交生活がなかった。コンサートもなし、フットボール、ダンスパーティーもなし。一般的な生徒ではなかった」とサンプラスは言う。同年代グループで常に上位ランクだったものの、サンプラスは国内ジュニアのタイトルを獲得していなかった。

だがその当時でさえ、彼は大局的な基準で自分を捉えていた。15歳の時点で、サンプラスは両手バックハンド、素早さ、難しいボールをうまく打ち返すゲームを身につけており、大学の奨学金を受ける事も可能な筈だった。「だが常に夢見ていたのは、レーバーであり、プロになる事だった」とサンプラスは語る。フィッシャーの指導の下、彼は両手打ちを手放し、片手打ちを選んだ。それはウインブルドンで勝つために求められる、まさに用途の広い、ネットラッシュに必要なものであった。

15歳の子供が、長期的な可能性のために短期的な勝利を遅らせる―――プロ選手でいる期間を考慮して大学進学適性試験を放棄する―――それを想像すると、サンプラスが自分で言うほど普通の男でないのは明らかだ。「端からは、彼は常にとても冷静に見えるだろう。しかしデビスカップの試合中、彼に対抗する立場でコートにいた時、この男は信じがたいほど激しいのだと分かった」と、3回ウインブルドンで優勝したジョン・ニューカムは言う。

アナコーンによれば、「ピートに関して気に入っているところは、彼は自分の大望に対してとても気楽に構えている点だ。彼は自分の欲するものを正確に理解している。しかし必死になりすぎる事はなく、また、それを追い求めない理由あるいは口実を自分に与えたりもしない」

アガシ、マイケル・チャン、ジム・クーリエといった同世代の仲間と共に、サンプラスは高校からプロへ転向した。10代の終わりまでには、サンプラスのゲームは進化していた。殿堂入りの人々は彼に注目し始めた。

彼のサービス・モーションは、テニス史上でも最も優美でなめらかなものとなり、野球の投手のようにスピード、スピン、プレースメントを組み合わせていった。彼のグラウンドストロークとボレーの能力は、未だに過小評価されている資質に裏付けられていた。すなわち、ガゼルのような動き。

「彼はこれまでの誰よりも完成されたプレーヤーだ」と、ESPN 局の解説者クリフ・ドライスデールは言う。

しかし、1990年に19歳で史上最年少USオープン・チャンピオンとなり、フィッシャーの預言を成就した時でさえ、「素晴らしかったが、苦しくもあった。早く起こりすぎて、しばらくの間、僕はいわば調子が狂ってしまった」と、サンプラスは告白する。

92年USオープン決勝での敗北―――それは彼の両親が会場に来た唯一のスラム大会だった―――が、大きな衝撃となった。「肝心な時に、僕は頑張り通す事ができなかった。自ら手放してしまったようだった。何カ月間も、眠る時にその事を考えた。そして実感したんだ。これらのスラム大会は大切なもので、全てなんだと」と、サンプラスは語る。それ以来、スラム決勝戦でのサンプラスは11勝1敗である。

「皆に見られながらプロとして成長するのは、なんだか妙な感じだった。でも、理解するのみだ」と彼は言う。より良いトレーニング環境を得るため、彼は90年USオープン優勝後にフロリダへ転居した。フィッシャーとは別れた。サンプラスはとても資質に恵まれ、勢いもあったので、93年にナンバー1となったのは必然的であった。94〜95年にかけて、アガシはライバルとなる可能性を示したが、サンプラスがその年のUSオープン決勝で彼を叩きのめした後は、劇的に落ちていくばかりだった。

「アンドレと僕は、お互いに相手のベストを引き出すんだ」とサンプラスは言う。昨年のウインブルドン決勝でアガシを倒した際、これまでで最高のテニスをしたと認めている。だが同時に、サンプラスは鋭く付け加える。「彼のカムバックに敬意を表する。彼がテニスから遠ざかった事については、話は別だ」

サンプラスは冷淡に見えるかもしれないが、彼はテニス界でも最も感動的な瞬間の数々に関わってきた。95年オーストラリアン・オープンでは、コーチのティム・ガリクソンに、致命的な病気と後に判明した兆候が現れ始めた際、サンプラスは試合中に泣き出した。だが2セット・ダウンから逆転して勝利した。

96年USオープンでは、最終セットのタイブレークで嘔吐したが、マッチポイントをはね返し、2ndサーブのエースを放って勝利を掴み獲った。

95年デビスカップ決勝(テニス界最高の国対抗団体戦)では、初戦に勝った直後、(全身ケイレンで)コート上に倒れ込んだが、戻って来て、翌2日間のダブルスとシングルで勝利を収めたのだった。

「サンプラスの奥深くには激しい魂が秘められているが、彼はそれを表したがらないのだ。大きなタイトルを勝ち取るには妨げとなるからだ」と、クレーマー・クラブ初のテニスプロで、サンプラスのプレーをずっと見守ってきたビック・ブレーデンは言う。「だが、内部の動揺が明るみに出ざるを得ない時もあるのだ」

勝利への欲求は大きいままだが(彼は30代もプレーしようと考えている)、サンプラスはようやく、自身の成果を味わう事を自分に許した。「僕はテニス人生を当前のものと受け止めていたが、最近はもっと楽しむようになってきた」とサンプラスは語る。現在は女優のブリジット・ウィルソン(House on Haunted Hill に出演)とつき合っており、ビバリーヒルズの自宅で過ごすだけで、たまらなく嬉しいのだと言う。自宅のテニスコートに立ち、彼はボタンを押す。近くのスピーカーからパール・ジャムの音楽が流れてくる。

「この音楽を聞きながら練習するのは、なかなかイイよ」と彼は言う。だが、サンプラスがめったに利用しない場所が1カ所ある。堅いソファと木製の肘掛け椅子があるだけで、電話も時計も、ラジオもテレビもない部屋である。テレビやオーディオ器機が並ぶ娯楽室の親しみやすい雰囲気とは、ハッキリとした対比を成している。日曜日の午後にどこで年長者をもてなすのかを考えれば、分かるだろう。

ポップコーンとリモコンへ逃避する前に、このフォーマルな場所には、年間ナンバー1選手を讃えて ATP ツアーから贈られた複数のトロフィーと共に、金色に輝く6つのウインブルドン優勝トロフィーが収められている事に気付く。さらば、気楽な男性用宿舎。こんにちは、テニスのスミソニアン博物館。「過去、現在、未来、全てが彼の頭の中では働き続けているのだ」とブレーデンは言う。

サンプラスは語る。「テニスは厳しいスポーツだ。コーチングなしで1対1の勝負をする唯一のスポーツだ。ボクサーでさえコーナーがついている。そのような情況では、アスリートの真の姿が見えてくる。テニスではとても孤独な気分を味わう。途方に暮れる事もある。ユニークで特別なスポーツだ。支えてくれるチームメイトもいない。自分次第だ。テニスでは、常にワンマンショーなんだ」

どれだけ感情を表に出さずにいたいと思っても、サンプラスがしてきた選択と行ってきた闘いには、もう1つの重要な意味がある。テニスは一般に考えられるよりも闘争的だ。ピート・サンプラスもまた、そうなのである。



コート内外でのサービス・エース

ピート・サンプラスのサーブは対戦相手を意気消沈させる一方で、困難を抱えた多くの人々に希望もたらしている。3年前、サンプラスは「エース・フォー・チャリティ」という取り組みを始めた。大会中に打った各サービスエースについて、1本につき100ドルずつ慈善団体に寄付している。

テニス界最高のサーブを持っていれば、それは何十万ドルにもなる。1997年以来、サンプラスはキッズ・スタッフ財団、ヴィタス・ゲルライティス・ユース財団、レブロン/ UCLA 乳がんセンター、エイボン乳がん予防基金、ティム&トム・ガリクソン財団などに75万ドル以上を寄付してきた。彼はまた、USオープンの「アーサー・アッシュ・キッズ・デー 」イベント(エイズ研究への慈善興行)にいつも参加している。1990年には、サンプラスはまだ10代だったが、脳性小児マヒ財団に25万ドルを寄付した。

ガリクソン財団は、特にサンプラスが心に掛けているものである。ティム・ガリクソンは3年間サンプラスのコーチを務めたが、1996年に脳腫瘍で亡くなった。サンプラスは一貫してガリクソン財団に時間とお金を捧げ、委員を務めたり、チャリティ・イベントでプレーしたりしてきた。つい最近には「ピート・サンプラス・クラシック」という有名人ゴルフ大会を行い、 ガリクソン財団に9万ドルを寄付した。

サンプラスは言う。「僕たちは幸運にも、テニス界で生活を送っている。あまり幸運ではない人々を手助けするのは良い事だよ」




この雑誌の存在を知った時も、「GQ」のモデル写真を知った時と同じくらいの衝撃でした。samprasfanzメンバーの1人が「上司が飛行機の機内で見つけて、私のために持ってきてくれた」と、紹介してくれたのですが、それからが大変。英語に堪能な同志が航空会社に問い合わせましたが、既に処分したと告げられ、ショボ〜ン。「もっと早くに連絡をくれれば、差し上げたのに」と言われただけに、我々の落胆もひとしおでした。

でも、その後ネットオークションで見つけて無事ゲット! 「求めよ、さらば与えられん」とは私のためにある言葉か。ピートのフォトジェニックぶりときたら!……まあ、つまり私はそういうレベルのファンです。(^^;

筆者は趣味やスポーツの記事を書いている人なので、文章の中身もそれなりに読み応えがあるのではないでしょうか。

右の写真は、その後ネット上で見つけたもの。表紙の候補写真だったのでしょうかね。こちらもステキ!


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