テニスマガジン
1997年12月5日号
スーパースターであることを望まないナンバーワン
王者の夢
文:Paul S. Fein


「史上最強のテニスプレーヤー」
人々はギリシャ系アメリカ人の彼をそう呼ぶ。
ピート・サンプラス。これまで獲得したグランドスラム・タイトルは10。
歴代最多の12まであとふたつ。
男子テニス界に君臨する王者は、どんな夢を見るのだろうか。


史上最高の選手の称号はすでに彼の手中にある

マッチポイントでいつも繰り返している、トレードマークのパワーと正確さで奪うエースと同じように、ピート・サンプラスは、今年の夏、こう言って、記者会見を締めくくった。「いつも言っているように、テニスをプレーするのは、名声やお金のためではなく、テニスで成績を残すためであり、メジャー大会に優勝するためだ」

サンプラスは、自分がどんなふうに人々の記憶に残るかを知っており「それについては、よく考える」と打ち明けている。彼はすでにグランドスラム大会のタイトルを10個持っている。そのおかげで、ロッド・レーバー、ビヨン・ボルグ、パンチョ・ゴンザレス、ジャック・クレーマー、ドン・バッジ、ビル・チルデンといった選手たちと同じように、テニス史上で偉大な存在の選手のひとりとしての地位を固めている。

テニスはもっとも統計的な面の少ないスポーツのひとつであるが、グランドスラム大会のシングルスのタイトル数が12個のロイ・エマーソンの記録に肉薄することになって、サンプラスはにわかに騒がれ始めてきた。サンプラスが少年の頃、立派なテニスと人柄でアイドルにしていた、一昔前のオーストラリアのスターたちのほとんどすべてが、この26歳のアメリカ選手が、エマーソンを越ぇるだろうと思っている。

「ピートは、今すべてが整い、彼のキャリアにおいて最高の位置にいる。彼はもっと多くのグランドスラム大会のタイトルを取ると思うし、それは、彼にとってはたやすいことだろう」とエマーソンは言う。

オーストラリアン・オープンの決勝でカルロス・モヤを6-2、6-3、6-3、ウインブルドンの決勝でセドリック・ピオリーンを6-4、6-2、6-4、そしてデビスカップの準決勝でマーク・フィリポーシスを6-1、6-2、7-6。そして世界ナンバー3のパトリック・ラフターを6-7、6-1、6-1、6-4で下した試合を見た人なら、誰でも、この意見に同意するだろう。
また、もうひとりのオーストラリア人のトッド・ウッドブリッジは、ウインブルドンの準決勝で、やはりサンプラスに打ちのめされた試合のあと「彼も人間だが、とてもそうとは思えない」と語っている。

オープン時代前の、陽気だがひたむきだったオーストラリア選手と控えめなサンプラスの間には、お互いに共通の尊敬の念がある。「ピートはすばらしいテニスの大使で、偉大なアメリカの大使だから、ほかに彼を越える選手は考えられない」とエマーソンは言う。「世界中で、彼は尊敬されている。これは若い子供たちが真似るチャンピオンとして、もっとも必要なタイプの人間だ」

1995年のUSオ−プンの決勝で、サンプラスがアンドレ・アガシを破って、7個目のグランドスラム大会のタイトルをものにしたとき、彼は、もうあと7個のタイトルを取ることはできないという理由はまったくないと自信たっぷりに公言した。彼がそれをなし遂げたとしても、エマーソンの輝かしい記録による "史上最高の選手" の称号が、自動的にサンプラスに引き継がれることを意味するのではないと考えている専門家は多い。

というのは、エマーソンはレーバーやゴンザレスやケン・ローズウォールといったトッププロたちが、アマチュアだけのグランドスラム大会に出場することを禁止されていた1960年代の中頃に、この記録を積み上げたという事実があるからだ。

さらに、クレーマーやルー・ホードといったほかのスーパースターたちは、若くしてプロに転向したし、バッジやボビー・リッグスは、第2次世界大戦のために、その黄金時代を逃した。これらの伝説の選手たちが、チャンスを与えられていたら、いくつかのグランドスラム大会のタイトルを取っていただろうか?

5年連続のナンバーワン、フレンチのタイトルも可能

この "史上最高の選手" の論争は、デ杯での成績やナンバーワンのランキングの記録を考えると、さらに核心に迫ると思う。過去10年間のサンプラスのデ杯でのシングルスの成績は13勝5敗とそれほどではないが、アメリカがホスト国のロシアを下して優勝した1995年のデ杯決勝では、サンプラスがヒーローだった。

また「スイート・ピート」は、1997年のATPランキングもナンバーワンで終えそうで、5年連続の1位となり、1974〜78年にジミー・コナーズが記録した、オープン時代の記録に並ぶことになる。そして、その年のトップ8人で争われるそのシーズンを締めくくるATPツアー・ワールドチャンピオンシップスに、サンプラスが3年連続で優勝している点は見逃せない。(訳注:この時点で91・94・96年の3回優勝しているが、連続ではない)

そして、かつてないほど才能のある選手が多く、また選手層が厚い現在において、サンプラスが他の選手を圧倒している度合いについても、考ぇなければならないだろう。グランドスラム大会の決勝で10勝2敗という成績を残している選手はいない。その上10回勝っている決勝で、わずか3セットしか落としていないという驚異的な成績も残しているからだ。

細かいことに拘泥する批評家でも、サンプラスを偉大な選手と呼ぶだろうが、もし彼が、問題のフレンチ・オープンのタイトルを一度でも取れば、完璧と言える。サンプラスは8回出場したフレンチ・オープンで、準決勝以上の成績は残していないが、94年のイタリアン・オープンでは、ヨーロッパのクレーコートでも、抜きん出た力があることを実証した。決勝でサンプラスに1-6、2-6、2-6で完敗したベッカーは、試合後「彼は21世紀のテニスをプレーしているようだ」と絶賛した。
サンプラスが唯一獲得できないグランドスラムのタイトルは、フレンチ・オープン。しかし、彼の並はずれた才能とテニスに対する情熱をもってすれば、近い将来、ロラン・ギャロスでカップを掲げるサンプラスを見ることはできるはずだ。

サンプラスはボルグがどうしても取れなかったUSオープンのタイトルに苦悩している姿や、ウインブルドンのタイトルにとりつかれ、イギリスの土を輸入してまで努力したイワン・レンドルの姿を見ている。そして、彼自身は、彼らのように自分を責めるようなことはしまいと心に決めている。

サンプラスも、同胞のマッケンローやコナーズ、そしてベッカーやステファン・エドバーグたちと同様に、ロラン・ギャロスの遅いアンツーカコートの上では、その攻撃的なショットも力を発揮させることができないだろうか? いや、彼の天賦の才能、完璧なオールコートテニス、コンディショニングの進歩をもってすれば、実現することだろう。

「決して、もうひとつのメジャータイトルを取ったという夢で目が覚めるというほど困難なことではないと思う。僕が狙っているのは、グランドスラム大会のタイトルの記録とフレンチ・オープンのタイトルだ」とサンプラスは証言している。

「スターになろうとは思わない。テニスだけが人生」

彼のあら捜しをしようとすれば、それは簡単だ。8月のATPチャンピオンシップを1セットも落とさないで制したサンプラスは、「皆さんにはテニスについて書いてほしいと思う」と、記者たちに要請している。

実際、マスコミは彼があまりにも飛び抜けすぎているとか、紳士的すぎるとか、興奮を呼ぶょうな論争をしないとか言っては、彼を批判しているからだ。もちろん、これは1990年代のアメリカだけのことではあるが…。

もっと無垢な時代であった1950年代のチャンピオンであったトニー・トラバートは、サンプラスが4度目のウインブルドンを制したとき、スポーツ・イラストレイテッド誌がその表紙に「アメリカン・クラシック」とタイトルを付けたように、今日のテニスファンは舞い上がることはない。それは、社会全体の風潮であり、ナンバーワンのサンプラスの責任ではないと言っている。

「彼を退屈だと思うなら、ロッド・レーバーやビヨン・ボルグやアーサー・アッシュやドン・バッジたちのことを何と言うのか? 彼らは、自分の仕事だけを心がけ、派手なところはなかったが、特別なチャンピオンたちだった」と、トラバートは主張している。
「彼らには、売春だとか、酔っぱらい運転だとか、耳を噛み切ったとかいうような話の種はなかったので、話題の主役になることはなかった」

サンプラスはマスコミが選手と友好的だった古きよきレーバーやローズウォールの時代にプレーできればよかったと思うことがある。「彼らはテニスだけのことを考えていればよかった」
彼は、本質を飛び越して崇拝の世界になりがちな有名人につきもののイメージについては、ほとんど気にかけなくなっている。

「勝てば勝つほど、気にかけなくなった。彼らの前に座り、僕のやり方について説明したり弁解したりする必要はない。というのは、ここ2年、そうしなければと思ってやってきた。飾らない自分を見せるというふうにやってきたのは、両親から教わったやり方で、これはずっと続けることになるだろう。このやり方が批判されるのであれば、僕にはまったく理解できない」

オフの週に、コマーシャルなど営業活動をするか、フロリダ州タンパの自宅でくつろぐかのどちらを取るかと言われれば、サンプラスは、いつも、自宅でくつろぐ方を取ることにしている。

「僕にはお金は必要ない。名声も。出かけて、ゴルフでもした方がいい」とサンプラスは言っている。ゴルフをプレーしないときは、8万ドルのポルシェ4Sカレラに乗ってスピードを楽しんでいるか、バスケットボールをしているか、テレビを見ているか(最近見たのは、F1の自動車レース)、新しい恋人で、女優のキンバリー・ウイリアムスといっしょに過ごしているかだ。

有名になった「ゲリラ・テニス」と呼ばれる95年のナイキのテレビコマーシャルでは、ライバルのアンドレ・アガシといっしょに、混雑するサンフランシスコの交通を止め、多数の群衆とともに、交差点を占拠してテニスをプレーするシーンで、大きな興奮を呼んだ。

サンプラスはピザのコマーシャルでも「リラックスした自分を見せるために」マッケンローと共演した。しかし、それには多少疑問を持ったとみえ、あとになって、「僕はラケットにすべてを語らせたい。彼ら(マッケンローやコナーズ)のコート上の振る舞いには戸惑いを感じる。僕は、そんなふうにはなりたくない」と、語っている。

その通りで、風評についてサンプラスが望んでいるのは、コート上での偉業とスポーツマンシップだけだ。
「僕がテニスで幸せを感じるのは、プレーしているときで、それがすべてだ」と、彼は打ち明けてくれた。それは本音で、この内気な男は、スターになろうとは少しも思っていない。
「人が近づいて来ると、受け入れなければならないが、人に見られるのは好きではない。僕はテニスをプレーするのが仕事で、そのプレーすることだけしか、僕は向いていない」

逆境で強さを示す王者は、最後の武器も手に入れた

テニスをプレーするために生まれてきたと言ってもいいほど、サンプラスの技術、精神力は高いレベルにある。その彼がオフの間、心を休ませることのできる相手を得た。女優のキンバリー・ウイリアムスは、彼のテニスのレベルをいっそう高めることになりそうだ。
ショーマンにはほど遠いサンプラスではあるが、最近、少し感情を見せるようになり、重要なポイントで一発を決めたときには、コナーズの十八番の、拳を空中に突き上げるしぐさを見せるようになった。デ杯戦の勝利を決めた、対ラフター戦の試合中、2週間前にUSオープンに優勝したばかりのオーストラリア人選手に対して、何度か鋭い視線を投げかけた。そして、勝利を決めると、アメリカ国旗を肩から垂らして、歓喜する観衆の前をビクトリーランで一周したのだった。

どんどん大きくなるサンプラスの人気は、逆境で示した彼の強さや人への思いやりに負うところが大きいのかもしれない。特に、彼の最愛のコーチで、もっとも信頼していたティム・ガリクソンが脳のガンで8か月前に亡くなった事件が挙げられる。
サンプラスはその前にも、ファンに人気のあった1970年代のスターで、彼の親友であったビタス・ゲルレイティスを、一酸化炭素中毒で失っている。

昨年の秋には、7年間続いたデレイナ・マルケイとも別れている。そして、彼が9歳から17歳までコーチを受けた、小児科の内分泌学者のピーター・フィッシャー博士が、その患者の16人の少年たちから、虐待を受けたと訴えられる事件も最近起こった。「彼は、僕が8歳のときから、僕の第二の父親の存在だった」とサンプラスは語っている。

「花嫁の父」という映画で、スティーブ・マーチンの相手役を演じたことで有名なウイリアムスが、今年に入って、サンプラスのハートを射止め、彼がこれからの難局を乗り切る力になっている。「コートの外で幸せであることが、コートでの成功に結びつく」とチャンピオンは語っている。「僕みたいに、近くに誰かがいてくれることはすばらしい。気楽にものごとに対処できる」

あか抜けているが、浮ついたところのない、小麦色の肌の彼女は、彼とともにウインブルドンに行き、選手関係者席にいつも座っていた。サンプラスが、決勝の試合が終わったあと、彼女の方を見ながら、胸の心臓のあたりを3回叩くしぐさを見せたが、それは、ウイリアムスによると「愛している」というサインだそうだ。

「ウインブルドンで優勝したあとは、いつも同じように幸せだった。人々が『とても幸せそうに見える』と言ってくれたが、その通りで、今まで以上に感情を表してしまった。その理由は単純で、僕自身が幸せだからだ」
恋とテニスが好調なところから、今や、ピート・サンプラスは、さらにもうひとつの武器を手に入れたようだ。


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