アメリカ版TENNIS
1997年1月号
テニスそのものを救った男
文:Peter Bodo


テニスが救いを必要とした事があったのか、定かではない。だが、あったと仮定して、このように言おう。もしピート・サンプラスが1996年にテニス界を救わなかったというなら、テニスは救済を越えていると。

もしUSオープンで、グランドスラム・シーズンのクライマックスにちらとでも注意を払った者が、サンプラスは個性に欠ける、テニスは退屈である、あるいはテニス界は新しいジミー・コナーズかジョン・マッケンローを「必要とする」と未だに思うようなら、アドバイスをしよう。テニスと手を切りなさい。

ペイパー・ビューの「ウルティメイト・ファイティング」に変えなさい。スナッフ・ムービーの極秘世界を探究しなさい。身の毛もよだつような自動車の衝突が起こるのを期待して、ドライブでもしなさい。

もし大企業が「人員削減」の痛ましい現実に絶えず直面できるものなら、あらゆる人を惹きつけるという果てしない―――そして空しい―――企てのもと、すべての人に全てのものをという願望を抱く事の無分別さを、テニスの権力組織は理解できる筈だ。

テニスが上品なスポーツである事について、テニス界が後ろめたく感じるのを止める時であると納得させるには、上品な男が必要だった。1996年にサンプラスが行った事は、現代における偉大なスポーツ物語の1つであった。フラッシング・メドウにおける準々決勝アレックス・コレチャとの対戦は、それを見た誰にとっても「忘れがたい」ものであった。

しかしそれは、1年を通して明らかになった、より大きな、より豊かなドラマの一部でしかなかった。それはタイトルのかかった試合で、サンプラスが最終的にマイケル・チャンを下した時に、やっと終わったのである。それは、コーチであり親友でもあったティム・ガリクソンが1996年の初期に亡くなって以来、サンプラスが初めて優勝したグランドスラム大会であった。

しかし、サンプラスの最も素晴らしい時、胸を打つような、待ち望まれた、激しく戦い求めた贖いの時でさえ、批判する者がいた。サンプラスとコレチャの試合は、世界的なアスリートとしては、サンプラスは恥ずべきほど体調不良であった事を明示したと言った者。あまり体調の良くないサンプラスは、重要な試合に負けた時はいつも、ガリクソンの死とそれが生み出す感情、プレッシャーを言い訳として利用していたとほのめかし、ガリクソンに関する話には「うんざりだ」と言った者。意地の悪い考え方だ。しかしそれでも、なんらかの吟味には耐えるべきである。

注目すべき誤りに基づいているという点で、最初の不平は興味深かった。どんな健康なテニスプレーヤーでも−−熱心なクラブプレーヤーでさえ―――サンプラス - コレチャ戦が行われた天候の下で5セットの試合をできる筈だ。もしサンプラスの体調が良くなかっただけなら、彼は次第にフォアハンドを打つための1歩が出なくなってくるか、ハーフボレーへの反応が遅れてくるであろう。穴の空いたタイヤから空気が抜けていくように、体調の良くないアスリートはエネルギーとパワーを失う。試合が進むにつれて、徐々にぺしゃんこになっていく。

コレチャに対して、サンプラスは空気が抜けたのではなかった。彼はアクセルを壊したのだ。彼が足を引きずりつつも勝つ事が可能だったのは、著しい意志の手柄だった。

なぜサンプラスが体調を崩したのか−−そして何度もそういう事があったのか−−、それは彼の未来について、興味深い疑問と問題を提起する。

2番目の不平は冷淡で、浅薄だった。1996年のUSオープンが始まるまでに、サンプラスが何よりも必要としたものは、「終結」の名の下に先へと進む意識であった。

ガリクソンの死後、初のグランドスラム大会で勇敢なる奮闘をした後に、疲れて元気のないサンプラスはフレンチ・オープン準決勝でエフゲニー・カフェルニコフに敗れた。数週間後にはウインブルドンで、霊感を受けたかのようなリチャード・クライチェクに打ち負かされた。

適切な期間喪に服した後には、サンプラスは自分の人生を続けなければならないとは、ずっと言われていた。そしてサンプラスを含めて誰もが、その通りだと知っていた。しかしサンプラスとガリクソンの関係ゆえに、「適切な期間」とは1つ、たった1つのものを意味していた。すなわち、前コーチのためにサンプラスがグランドスラム・タイトルを勝ち取るまでの時間の長さであった。

それでは今、サンプラスにとって1997年はどんな意味があるのか? 彼は25歳である。そして1990年にフラッシングメドウで最初のグランドスラム優勝を遂げた。身体的には、彼はまだ絶頂期にいる。だが、オープン時代のチャンピオンで、6年以上も支配的な選手であった者は殆どいなかったという事を、記録は示している。

マッケンローは15年もの間プロツアーでプレーした。しかし彼がグランドスラム決勝に進出したのは、1979年から1985年の間だった。ビョルン・ボルグは7年間で、11のグランドスラム・タイトルのうち10個を獲得した。コナーズは傑出した5年間(1974〜1978)の後、1982年と1983年に注目すべき復活を付け加えた。イワン・レンドル、オープン時代の鉄人でさえ、グランドスラム大会で優勝したのは1984年から1990年の間でしかなかった。

要するに、頂点における生活はタフで、維持するのは不可思議なほど困難なのだ。そこに5〜6年もいると、たいていのチャンピオンは全て報われた気分になり、そして全ての挑戦に疲れ切ってしまうのだ。それはまさに、高名な前任者たちは拒まれた大いなる好機を、サンプラスが掴むかもしれない領域なのである。

彼らのいずれも、サンプラスが時に経験する説明しがたい衰弱(コレチャ戦)、あるいは機能停止(カフェルニコフ戦)に妨げられる事はなかった。そういった傾向の原因を明らかにして克服するという仕事は、サンプラスには恐らく不可能、もしくは魅力のないものかもしれない。あるいはそれこそが、彼が決定的な場面で立ち直るには、6年という偉大さの限界を打破するには、必要な事なのかもしれない。

「ピートの内部で何かが起きているに違いない」コレチャ戦の後、ニック・ボロテリーは推測した。「筋肉や集中力を含め、全てに影響を及ぼすような形で硬くなるのに違いない。彼は熱心にトレーニングしている、そしてトッド・シュナイダー(サンプラスのトレーナー)は、すべき事を心得ていると思う。どこかに謎があるに違いない」

ティム・ガリクソンの生き残っている兄弟、トムは、サンプラス陣営により近しいので、この問題について驚くほど率直に語る。「レンドルが偉大な年の直前にしたようなやり方で、ピートが体調を整える事に専念するのを見たいと思う。今年(1996年)はピートに対する多くのプレッシャーがあった。だがフィットネスは、そのプレッシャーに対処する有効な手段の1つだ」

「最高のフィットネスを達成するためには、自己の動機付けを非常に高めなければならない。それは才能とも、運動能力とも関係ない。誰でもできる努力だ。最も重要なのは、ピートはできるし、すべきだという事だ。ティムのためにではなく、自分自身だけのために」

実際のところ、ピートはするべきだと思う。私のために。あなたのために。そして世界じゅうのテニスファンのために。サンプラスがテニス界のために、今まで充分にやってこなかったというのではない。しかし、もう数年、彼が偉大さの期間を延長するのを見られたら、それは素晴らしい事ではないだろうか? 最近のテニス界にはコナーズやらマッケンローやらはいないかもしれない。だがサンプラスという人がいる。そして私の考えでは、それが必要とされる全てなのである。


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