オデッセイ:ギリシャの世界
1997年
寡黙な騎士
ピート・サンプラスの静かなる卓越


控えめ。感情を表さない。面白みがない。退屈。これらは7年のプロテニス・キャリアを通じて、ピート・サンプラスを記述するためにスポーツ記者が用いてきた、いくつかの常套句である。そして今年7月のウィンブルドンで、そのギリシャ系アメリカ人が楽に優勝した事は、「まじめな」という彼の公共のイメージを、おそらく大して変えはしないだろう。サンプラスは対戦相手を一蹴した(雄弁な統計値:彼は大会中118サービスゲーム中116ゲームをキープした)。大して汗もかかず、ファンに感情を表したりもせず、あるいは線審に文句も言わず。

「僕はデイブ・レッターマンじゃないからね」
決勝戦でフランス人セドリック・ピオリーンを6-4、6-2、6-4でやっつけた後、サンプラスはポーカーフェイスで語った。「だがコート上での僕のやり方は、僕のこれまでの人生でのやり方だし、これからも同じだ」

けっこう。換言すれば、彼はマイケル・ジョーダンがNBAを支配するのと同じ方法で、男子テニス界を支配し続けるだろう―――優れた運動能力、抜群の技能、殺し屋のごとき競争心、そして言葉少なに。そこで、通常の単調な修飾語に加えて、レポーターたちはサンプラスをかなり華やかなものと呼び始めている。史上最高と。

そう呼ぶには早すぎると言う者もいる。つまるところ、サンプラスは8月12日までは26歳にもなっていないし、一度もフレンチ・オープンで優勝した事がないのだ。年若い傑物を、年間グランドスラムを2度も達成したロッド・レーバーのような偉人と比較する事は可能なのだろうか? サンプラスが今年のウィンブルドンで下したボリス・ベッカーは、史上最高だと考えている。

「僕は幸運にもマッケンロー、コナーズ、レンドルと対戦してきたし、ボルグとさえ少しばかりプレーした。そして僕にとっては、ピートは常に最も完成されたプレーヤーであった」と、赤毛のドイツ人は言う。「彼はパワー、スピード、タッチを有している。僕は常に、彼がいままででベストのプレーヤーであると感じていた」

そしてそのベストの人物は、さらに良くなる一方である。「僕はゲームで本当に恐れを抱く事はない。もっと進歩できると感じているし、2カ月後にはUSオープンで優勝するチャンスもあると思っている。それが現在の僕だ」と、ウィンブルドンの後、サンプラスは語った。彼のラケットのストリングスは、まだ余熱を失ってさえいないが、サンプラスはすでに次の挑戦について話をしていた。もう1人のドイツ人テニススターであるミハエル・シュティッヒは、その理由をこのように判断する。「彼はテニスの事だけを考え、それ以外は考えない。彼はそういう人間で、それが彼にとっては素晴らしい事なのだ。彼は昼も夜も、ただテニスにのみ集中する。それが彼の成功の一部なのだと思う」

自分の可能性にチャレンジする

サンプラスの成功には、ほぼ5年にわたる世界ナンバー1男子テニスプレーヤーの地位と、ロイ・エマーソンの持つ史上最高記録12に2つ足りないだけの、10個のグランドスラム・タイトルが含まれる。サンプラスは、ヒョロッとした19歳の時に最初のメジャータイトル、USオープンを獲得したが、その過程でイワン・レンドル、ジョン・マッケンロー、アンドレ・アガシを下下した。彼はまた(1993年から1995年まで)3年連続ウィンブルドンで優勝し、USオープンの栄冠を4回(1990年、1993年、1995年、1996年)、オーストラリアン・オープンタイトルを2回(1994年、1997年)獲得してきた。

彼の業績は全くもって注目に値するが --- 多くの人が彼に期待していたものでもあった。「最初のコーチ、ピート・フィッシャーは、僕に対して非常に批判的で、とてつもなく大きな目標を掲げていたのを覚えているよ―――『君はレーバーと比較されるようになる』とかね」と、サンプラスは私に言う。「僕が13か14歳の頃に、彼はそう言っていた。僕としては『ちょっと待ってよ、僕はパサディナのジュニア大会に勝つ事で気をもんでるんだよ』って感じだった」

私はフロリダ州タンパ近郊のサドルブルック・リゾートで、サンプラスと話をした。数十面のテニスコート、2つのゴルフコースがあり、熱意ある警備チーム(入場するのに40分かかったが、「高い評判を保つために、常にこうある」と、門番の Clem は私に告げた)がいる広大な複合施設だが、そこでサンプラスはトレーニングをしている。彼は数マイル離れた別のゴルフコース上にある、5,000平方フィートの家に住んでいる。

「心の奥底には、いつもメジャー大会の事があった」とサンプラスは続ける。「プロに転向した頃、僕は『ウィンブルドンで優勝したい、USオープンで優勝したい』と言っていた。僕はおそらく、大きな夢を口にしていた者にすぎなかっただろう。だがいま、それは現実になった―――僕はウィンブルドンとUSオープンで優勝した。そして、さらに多く勝つ事を望んでいる。優勝の喜びを味わうと、もっと味わいたくなるんだ」

それが彼のモチベーションである。サンプラスは請求書への支払いのためにテニスをする必要がない。すでに大会賞金だけでも2,700万ドル以上の収入を得てきた。そして―――ナイキスニーカーからミルクまで―――多岐にわたる広告契約も、かなりの金額である。彼をトップへと導き、そこにい続けさせるであろうものは、渇望と自制の混合である。そして、彼のスタイルはもっと派手になり得るはずだと、たとえメディアが考えるとしても、それは彼に何の影響も与えない。「初めは―――20〜21歳の頃は、メディアが僕や僕のゲームを退屈だと考える事は、少しばかり僕を悩ませたと思う」と彼は言う。「だが時をかけて、メディアは僕がプレーするやり方や振る舞い方を評価し、敬意を払うようになってきたと思うよ」

呼吸と同じくらい自然である

だが、サンプラスは常に専心と集中のモデルというわけではなかった。彼は前コーチの故ティム・ガリクソンが、彼のゲームを新しいレベルに引き上げるよう駆り立ててくれたと語る。

「3〜4年前は、僕はそれほど一生懸命に練習していなかった。どちらかと言えば習慣的にやっているだけだった。ティムは何年も(ジミー)コナーズと練習をしてきたが、コナーズは1時間半の間、猛烈にラケットを振り回し―――そしてゴルフコースに向かったものだったと話してくれた」とサンプラスは言い、言葉を切る。「僕には少しばかり規律が足りなくて、おそらく少し未熟で、自分の才能に頼っていた。ティムはハードに練習する事、そして長さよりも有意義に時間を使う事を強調した。僕はもっと一生懸命やり始め、そして2時間の練習が質の高いものになった」

サンプラスの能力を最大限に生かすための助力の他に、ガリクソンは彼の教え子にとって最も親しい腹心の友になった。「ティムは僕の親友だった。最初はむしろコーチと選手の関係だったが、この数年、僕たちは一緒に多くの時間を過ごした。僕は彼に、他の人には一度も話さなかったような事も話した」

ガリクソンは1996年5月に脳腫瘍で亡くなった。恩師が病気と闘っている間、サンプラスは自分のプレーの鋭さを維持し、しっかりしていようと努力した。成功した時もあれば、上手くいかなかった時もあった。多くの人は1995年オーストラリアン・オープンでの、サンプラスの勇敢なプレーぶりを覚えているだろう。同僚のアメリカ人ジム・クーリエとの準々決勝では、ガリクソンの病状について知ったばかりだったにも関わらず、サンプラスは胸の痛み --- そして溢れる涙 --- を抱えてプレーし、最終的に勝利したのだ。

最も親しい友人を失う事は、サンプラスにより懸命にプレーさせる一方、人生におけるテニスの役割について、彼をより哲学的にした。彼は認める。「1996年は辛かった。心が乱れ、喪に服しているようだった。長い間で初めて、テニスの事を気にかけなかった。いわばすべてを総体的に考えさせられた。テニスは素晴らしいスポーツで、あらゆる試合に勝ちたいと思うよ。だがゆくゆくは、僕が34〜35歳になったら、その後の人生が始まるんだ。だからこういう事があると」彼は話し始め、言葉を切る。「いわば1歩下がって、現実に目を覚まされる」

同時に、サンプラスは自分がマスターしたスポーツで悲しみを和らげる事ができる。「これは僕が8歳からしてきたものだ。とても快適だ。僕はラケットとボールを持てば、どこにボールが飛んでいくか分かる。ゴルフをする時は、どこにボールが飛んでいくか分からないけどね」と、彼は笑いながら言う。「テニスでは、僕は自分がコントロールしているように感じる。僕が勝つか負けるかを決める側なんだ。僕はステイバックして、受け身になるタイプじゃない。攻撃する側だ」

冗談を言っているのではない。今年のウィンブルドンにおけるサンプラスのプレーは、サーブ&ボレーゲームのお手本とも言うべきものであった。サンプラスに3セットで完敗した後、彼は「神ではない」と反抗的に宣言していた気難しいフランス人ピオリーンでさえ、「彼は相手に息をつかせない………彼相手には息つく暇がない」と敗北を認めた。そうだろう。サーブと各ショットから成るサンプラスの兵器庫により、概して挑戦者は息を切らし、そして負けていく。「もし何かが上手くいかないなら、他のものに頼ることができる。僕はいくつかのオプションを持っている」と、サンプラスは控え目に述べる。

そして、長い時をかけてそれらのオプションの進化に励んできて、彼のゲームは呼吸するのと同じくらい自然なものになっていった。「テクニックはおおかた身に付いている」とサンプラスは言う。「僕はとても幼い時期に、すべての基本をミッチリ指導されたから、いまはコートに出てプレーするだけだ。いまはすべて精神的なもの、反応なんだ。それほど複雑じゃない」

とりあえず彼にとっては。ジャズ・ミュージシャンが即興演奏のために、ものすごい量の理論を吸収するのと同じように、サンプラスはテニスをプレーするために、そのすべてのニュアンスを熱心に学んだ。マイルス・デイビスは容易にトランペットを吹いていると聞こえたように、彼はテニスを簡単な事のように見せる。

しかし例によって、サンプラスは彼の名人芸を控えめに語る。「何についても長い間やってくれば、かなり上手くなるもんだよ」と彼は述べる。「みんなは僕が時速125マイルのサーブをライン際に打つ事に驚く。僕は医者が人の生命を救える事に驚くよ」

すべては家族に

しかしサンプラスは「*Ripley's Believe It or Not」に属しており、ある意味で、彼はその事を承知している。
訳注:地球上の「珍しい、ヘンな、奇妙な、不思議な」事物をあまねく収集した本。

「ただ信じがたいような事が起きたんだ。僕の母親は、スパルタに近い小さな村の出身だ。とても、とても貧しかった。母は24歳でカナダに来て、僕の父に出会った。そしていまは………僕の母親だ」と彼は締めくくる。「物事がそういう具合に運ぶのは、ただ奇妙な感じだ」

不可解なほどだと言った方がよいだろう。サンプラスは、彼がテニスの王位に就くまで、ギリシャ系移民の共通意識には全く存在していなかったスポーツの王者なのだ。彼は今日、世界で最も成功したギリシャ系のアスリートである。それでもなお、彼の経歴にとってギリシャの先人はいなかった。

レストラン業と海運業以外の分野で卓越する多くの若いギリシャ系移民のように、サンプラスは自分の才能を育むよう両親に励まされた。「9歳か10歳の頃から、テニスは僕の最優先事項だった」と彼は言う。「両親は僕のテニスをサポートするために多くのお金を支払い、家族にとっては多大な負担だった。時には厳しかった。父は僕にチャンスを与え、僕に何ができるか見たかったんだ。そして僕たちは本当に幸運だった。つまり、それは起きたんだ」

サム&ジョージア・サンプラスは、息子と共にスポットライトを浴びるのを嫌がる事で有名で、インタビューも辞退した。彼らはロサンジェルスに住んでおり、そこで(ワシントン D.C. で生まれた)ピートは成長期を過ごした。彼らは「毎日のように」ピートと話をするが、サンプラス夫妻は息子の試合にはめったに姿を見せない。「彼らは親であって、いわゆる『テニス・ペアレント』じゃないんだ」と息子は言う。「彼らは僕と毎週一緒にいる必要があるとは感じていない。僕が勝つよう願ってくれ、僕を愛し、サポートしてくれる。だけどそれは、他の若いアスリートの親が、子供に対するやり方とは違うんだ」

そして彼の両親は目立たないようにしているが、それでもギリシャ人の親である。「母は僕に対して過保護で、支配的なんだ。僕はもう小さい男の子じゃないのにね。でも僕が45歳になっても同じだろうな」と、サンプラスはクスクス笑う。「母は食事を作ってくれ、僕が『もうお腹いっぱいだ』と言っても、僕のお皿に料理をよそい続けるんだ。典型的だよね」

サンプラスには3人の兄弟姉妹がいる。兄ガス、29歳、国際マネージメント・グループ、PR企業の幹部。姉ステラ、28歳、 UCLA 女子テニスチームのヘッドコーチ。妹マリオン、23歳、 「*Head Start program」で働いている。
訳注:就学前の、主として4 〜5歳の子供に対するアメリカ政府の教育事業。経済的・文化的に恵まれない地域の子供に対し、教育や医療・栄養などのサービスを提供して総合的に発達の促進を図り、初等教育のスタートに当たっての条件に不利がないようにしようというもの。

ピートによれば、みんな子供の頃にテニスをしたが、父親が彼らの最初の指導者であったという。「僕たちが幼かった頃、父はプレーの仕方のようなものを教えてくれた --- テニス雑誌や本を読んでね」

サム・サンプラスはまた、息子の控えめなコート上の態度に関して、おそらく最も直接に責任を負う人物かもしれない。「父は本当に厳格だった」とサンプラスは振り返る。「僕は時には癇癪を起こすだろうが、かつて僕がラケットを投げた時………父はそれを喜ばなかった」
全くもって彼は嬉しくなかった―――もしまたラケットを投げたり、荒っぽい振る舞いをしたら、サムは息子を支援するのをやめると脅した。言うまでもなく、ピートは平静を保つ事をすぐに学んだ。

人目につかないチャンピオン

彼はずっと行儀よく振る舞ってきた。サンプラスの折り紙つきの礼儀正しさは、多くの競争相手からだけでなく、大勢のテニスファンからも敬意を払われてきた。それはサンプラスにとって非常に重要な事である。彼は若いテニス愛好者のために、良い手本を示す必要があると考えているのだ。「『あなたは私の子供にとって素晴らしいお手本だ』と言われるのが、最も嬉しい事だよ」と、彼はうつむきがちに断言する。

「僕は人々に何らかの影響を与えているように感じさせてくれる。ナイスガイとして行動し、プレーするんだ。ならず者のような振る舞いやラケットを投げたりしないし、気分屋にもならない ―――そういうアスリートもいるけどね。親ごさんが『あなたの振る舞いは紳士的で、私の子供にもあなたのように行動するようにさせている』と言ってくれると、素晴らしい気持ちだ。それより良い賛辞はないよ」

サンプラスはまた「チャリティや子供たちへのクリニックで、テニスへお返しをする責任がある。全部できるわけではないが、可能な限り受け入れるよう努めている」と考えている。彼はガン研究基金である「ティム&トム・ガリクソン財団」の委員を務めており、同じく彼自身の組織「エース・フォー・チャリティ」を主催し、その収益をさまざまな非営利団体や慈善団体に寄付している。

たいそうな業績にも関わらず、これほど謙虚であり続け、サンプラスはまさに孤高の存在なのだ。今日の運動選手は、規則に従わなかったり礼儀を軽視し、真のスポーツマンシップを示す事よりも、銀行預金を増やす事に関心があると、多くのスポーツ批評家は正しくも嘆く。突っ張った態度の方がお金になるのだ。デニス・ロッドマンのようなアンチヒーローは、カール・マローンのような物静かなジャイアントより遥かに人気が高い。たとえば、サンプラスの方が遥かにテニス界のベストだが、高慢なアンドレ・アガシはナイキと1億ドルの多年契約を交わしている --- サンプラスより高額で長い契約である。

しかし相対的な匿名性が、サンプラスを傷つけるわけではない。彼は「僕はごく普通の男だ」というスタンスを保っている。彼は物事をシンプルに保つ事、人に群がられずに出かける事、そしてただ自分らしくある事の方を好む。アガシ、あるいはギリシャ系オーストラリア人マーク・フィリポウシスのような選手とのライバル関係は、しばしば誇大宣伝されるが、純粋にアスリートとしてのものである。「ライバル関係はコート上でだけだよ」とサンプラスは言う。

彼の最近の恋人は、映画「花嫁のパパ」で知られる女優キンバリー・ウィリアムズだが、もしかしたらデレイナ・マルケイとの6年間のロマンスと同じくらい有名になるだろう。つまり大して知れ渡らないという事である。論争はなし。ゴシップもなし。

最初のギリシャのインタビュー

だから「僕がどのように認識されるのか、あるいは果たして認識されるのかどうか興味がある」から、ギリシャを訪れてみたいとサンプラスが言うのには驚かされる。彼は一度もギリシャを訪れた事がないが、もし来るなら、彼は祖先の故国ではあまり知られていないと分かるだろう。

しかしサンプラスは自分の民族性を理解している。「僕はギリシャ人だ。何人かと尋ねられたら ―――ギリシャ人と答えるよ」
彼は家族と教会へ行き、ギリシャの日曜学校に出席し(学んだ事は忘れてしまったので、母親がギリシャ語で話しかけると「いくらかは分かるけど、ほとんどは音楽みたいだ」と言う)、ギリシャ特有の食物を食べて成長した。にも関わらず、なぜギリシャでの知名度という事が彼の心をよぎったのか、やはり不思議に感じる。サンプラスは、控えめに言っても、本国ギリシャの同胞とは非常に異なった世界に住んでいるからだ。

その考えが初めて心に浮かんだのは、彼がオーストラリアにいた間だったという。「つまりね、オーストラリアには大きなギリシャ系社会があって、僕は多くの応援を受け、たくさんのファンレターをもらったんだ。それで『もしかしたら僕はギリシャでかなり知られているのかな。僕はギリシャで何もした事がないから不思議だけど』と思ったんだ」

それほど不思議な事ではない。テニスはギリシャで盛んなスポーツではない。そしてスキャンダルとゴシップが大衆にとって蜜であり美味である国では、サンプラスの控えめな人物像は、知名度を上げる助けとはなりそうもない。理由が何であれ、ギリシャのギリシャ人は(そして移民の間でもある程度は)サンプラスを自分たちの同胞だとは考えてこなかった。実際、サンプラスは私に明かす。「これは僕にとって初めてのギリシャのインタビューだ。素晴らしいよ。こういうのは一度もした事がなかった―――テニス以外の事についても話すのは」

彼はまた、将来ギリシャにもっと関わる事について、かなり意欲的だ。「その通りだ。すぐにもギリシャに行って、テニスを始めるわけじゃないけど、喜んで手助けしたいと思っているよ。いままでそういう話はあまりもちかけられなかった」
少なくとも、ピート・サンプラスはギリシャ人が誇りに思うべき人物である―――彼らが積極的に彼の成功を手助けしたからではなく(しなかった)、彼がコート上でもオフコートでも体現する前向きな高潔さゆえに。我々が声援しようがしまいが、彼はこれからも勝利し続ける。

バスケットボールでは、誰もがマイケル・ジョーダンのようになりたいと思う。テニスでは、誰もがピートを負かしたいと願う。しかし彼はグランドスラム・トロフィーを次々と獲得し続け、彼を負かすのは非常に難しいという事をピート・サンプラスは明確にしている。彼は対戦相手を冷静にすばやく片付ける。

しかしながら、最近のサンプラスに容易ならない競争相手がいるかどうかはともかく(大していない)、彼の穏やかな態度は、勝ち、勝ち続けるための内なる真実の炎を見誤らせる。彼は人にショックを与えるような運動選手ではなく、沈着な競技者なのである。自己宣伝よりも、テニス界の頂点にとどまり―――そして自分自身に忠実でいる事を遥かに重んじるのだ。


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