オーストラリアン・オープン
1997年1月25日
ピストル・ピートは、あまりオーケーでない牧場でライバルを吹き飛ばす
文:Jeff Wells
訳注:「OK牧場の決闘(Gunfight at the O.K. Corral)」にかけている。1881年10月26日、アリゾナ州トゥームストーンのO.K.コラル近くの路上で起こった銃撃戦。ワイアット・アープら市保安官たちと、クラントン兄弟を始めカウボーイズと呼ばれる土着の牧童たちとの撃ち合いの事。西部劇の定番として、複数回映像化されている。


それは戦いを想定されていた―――しかし、むしろ殴り合いのようになった。カーリーは、トーマス・ムスターがピート・サンプラスにしたよりも激しくモーを打った。それはマカロニ・ウェスタンか何かのようだった。

訳注:ビル・カーリー(1852〜 1882年)。アメリカ開拓時代の無法者、ガンマン。保安官助手。OK牧場の決闘では直接銃撃戦には参加していないが、その前後の対立でクラントン一家に味方して、後にワイアット・アープに殺された。
モー。ワイアット・アープの弟、モーガン・アープの事か? 

既に昨日までに、テニスはかなりマッチョな様相を呈し始めていた。パワーが落ちるにつれて、大量の汗をかき、唸り声を上げていた。ピストル・ピートは何日も髭を当たっていないようだった。ムスターもまた。彼は、蝿が目の周りを這っても瞬きしないガンマンさながら、悪漢風になってきていた。

10代のドミニク・ハバティ、スペインの暗殺者アルベルト・コスタ双方はフルセットまでピートを攻めたてたが、彼は懸命に戦って退けた。ムスターは旧敵ジム・クーリエと角突き合わせて闘い―――髭もぼうぼう、かつてないほど好戦的に―――彼を血の海に沈めた。それから大物ゴラン・イワニセビッチ、大砲を持つ男をずたずたに引き裂いた。サンプラスが戦いの最前線について語っても、何の不思議もない。

それで何が起こるのか? 男たち双方はマルチナ・ヒンギス同様に髭を剃り、無邪気なベビーフェイスで現れる。もしこれが拳銃による決闘なら、生粋の三人組映画、マカロニ・ウェスタン風ドタバタ喜劇の1つだった。トーマスは銃を撃ったが、それまでに、ピートは6回も彼を逆手で打ち、目に指を突き入れ、そしてズボンが落ちるまで彼のガンベルトをカットしていたのだ。

全くもってばつが悪かった。コンピュータはかつて一度、ムスターを世界ナンバー1テニス選手であると公表した。今、彼は引き立て役のように見えた。彼の不屈の闘志については一言もない。彼はひたすら走り回り、ゴミ捨て場の野良犬のように唸り声を上げた。だが涼風の中に佇むのは、ただ1人の一流テニスプレーヤーだった。スコアは6-1、7-6、6-3で、1時間53分の決闘だった。

ムスターは、コスタと同じレベルにさえ見えなかった。コスタはベースラインにサンプラスを釘付けにし、ラリーで彼に打ち勝っていた。その試合で、サンプラスは88本のファーストサーブのうち77ポイント(85パーセント)を勝ち取り、23本のサービスエースを放ったが、それでもなお危うい5セットに持ち込まれたのだ。

昨日のピートは、ファーストサーブ63本中51ポイント(81パーセント)を勝ち取り、16本のエースを叩きだした。ムスターは突進しスイングしながら、半ダースもの矢を射られたように唸っていた。だが、ひとたびピートが第1セットを取るや、それは気楽な散歩となった。

涼しさが続き、彼のサーブがゾーン状態のままなら、カルロス・モヤが決勝戦で彼と渡り合えるとは考えにくい―――たとえムスターが、ナンバー1のタンクには後どれくらいガソリンが残っているか疑問だと言おうが。ピートは良すぎたと彼は言明したのだ。

もしムスターが5セットまで持ち込んでいたら、問題だったかも知れない。しかしそれは、サンプラスが25歳で9つ目のグランドスラム・タイトルを狙う決勝戦への、完璧な準備運動となった。さらに、初のフレンチ・オープン優勝を目指すにも、彼は素晴らしい体調でいる筈だ。

サンプラスは最初のゲームでサーブし、3回ネットに詰めた。統計によると、サンプラスは77回ネットアプローチをして52ポイントを獲得した。いつ誰がネットに向かおうとも、それを「アプローチ」と呼ぶようだが。しかしながら、彼は自信に満ちてネットゲームを行った―――ここのいかなる選手よりも上手く。彼はファーストボレー―――ゲームにおける非常に巧みなショット―――を楽々とこなしている。ムスターが15回のネットアプローチで9ポイント獲得した事は、称賛に値した。だがたいていは、サンプラスがボレーでフリーポイントを手に入れ、ラリーで彼をもてあそびさえするのに耐えねばならなかった。

何らかの戦いではあった。ムスターは現在、ライバルへの戦略にコンピュータを用いている。それが、かつて彼を地球上で最高のテニスプレーヤーと公表したものよりも信頼性が高い事を望む。そして、どんなコンピュータも、大会随一の珍しいショットを予測する事はできなかっただろう。サンプラスは、バックハンド側のサイドラインから遙か外に追い出された時、ネットポスト回しの地を這うようなショットを放ったのだ。

サンプラスは3-0とリードして、第4ゲームでは、ドロップショットで彼を立ち往生させ、ムスターの頭を混乱させた。トーマスは次のポイントでロブを揚げ、自分がサンドバッグではない事を示した。しかしピートはゆっくりとベースライン中央に移動しただけで、ポイントを支配し、そして2回目のサービスブレークを果たした。

風はムスターを苦しめた。彼のために弁明するならば、彼はスーパーパワーを持っていないからだ。ボールは勢いを失い、サンプラスはそれを叩いた。同じく太陽が自分を痛めつけた、と彼は言った―――誤った方向へ回り込んだガンマンのように。左利きにはより厳しかった、と彼は言った。

ムスターは、姿を隠してさえ、歓迎される存在だった。死んだゴキブリのような脚を上げ、ベースライン後方に転がりつつも、3回連続で放たれたサンプラスのスマッシュをほぼ返した時に、彼の断固たる決意が最も象徴されていただろう。第2セットでは、唸りを上げる連続パッシングショットで1ブレークアップとし 、サンプラスは彼がそのセットを取ると思った、と言った。だが5-3リードのサービスゲームで、彼はダブルフォールトを犯して15-40となり、デュースではバランスを崩してネットに触れてしまい、そしてブレークバックされた。

彼はタイブレークで先にサーブをしたが、29回のストローク・ラリーの末に打ち負かされた。それは終わりの始まりだった。サンプラスはタイブレークを7-3で勝ち取った。ムスターはもはや弾薬を持っていなかった。

そういう訳で、ピートが調子を完璧に整えたところで、屋根を何度も開けたり閉めたりしてきた(雨が多かった)オーストラリアン・オープンは、サンプラス対モヤという質の疑わしい男子決勝を迎えるのだ―――モヤが今にも撃ち落とされそうな流星ではなく、本物でない限り。


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