(続)ディジタルとアナログ

炉辺夜話情報科学編第2夜

近頃,CD に駆逐されるかに見えた LP などのアナログ・レコードが静かなブームになっているという.100万円を遙かに越えるレコード・プレイヤーも健在だそうだ.CD は,その名の通りコンパクトであり,CD の表面に接触することなく音を拾えるから,可搬性に優れている.肝心の音質も,可聴周波数の再現性は LP よりずっと良い.なのに,何故 LP なのか.

どうやら,「音楽を聴く」ということは,「可聴周波数の音を聞く」と言うことだけではないらしい.大橋力氏は,伝統音楽に含まれる超音波が脳に与える影響やレコード・プレイヤーの超音波の再現性について語っている.こういう話を聞くと,「腹に響くような重厚な低音.音楽は体で聞くものだ,」と言った同級生がいたのを思い出す.

LP は,音なかんづく音楽に特化したシステムである.蝋管時代から SP,LP レコードへと改良が重ねられ,ステレオ LP レコードという完成品に到達した.録音,編集,レコード盤の技術改良は進んでも,そこに一貫して流れているのは「音を溝に刻む」という発想である.V字型の溝には斜面が二つあるというステレオを予期していたような構造を含め,この「音を再現するシステム」の原理は,生演奏に立ち会う良さはさておき,音楽の音という側面に関する限り,音楽との相性は極めて良い.両耳に届く大気の振動を溝のカーブに託すという基本原理そのものが,音を余す所なく記録するシステムとしての可能性を保証しているのである.

一方,CD というディジタル・システムは,「音を刻む」ことを原理とする.可聴周波数の上限の数倍の頻度で音の強度を測り(サンプリング),連続値であるその強度を音楽のダイナミック・レンジに合わせた有限個の階層に分類する.その結果,音はディジタルになる.サンプリングの原理から,可聴周波数の音の再現性は極めて良いのは当然であり,加えてダイナミックレンジが十分にあるから,オーケストラのトゥティからソプラノの微かな息づかいまでをも再現する.しかし,再現の対象としたのは,「可聴周波数の音」であり,「音楽の音」全体ではなかった.

このディジタル化の原理は,音だけではなく静止画(画像)や動画(映像)にも適用できる.一次元の音から,二次元または時間軸を含めれば三次元になるだけのことである.画像も映像も,アナログの場合は,それぞれに固有の技術があり,固有のシステムがある.ディジタル化は,これらをコンピュータという共通の土俵に載せ,それぞれに固有の技術はコンピュータ・ソフトウェアの形で実現・固定化されている.

実は,ディジタル化の最大の恩恵は,このメディア・ミックスにある.誤解を恐れずに言えば,アナログ技術は,各種メディアの世界の中で育まれ,敢えてメディア間の境界を越えることはなかった.それに対して,ディジタル技術は,この境界をあっさりと乗り越えてしまったのである.より正確に言えば,メディア間の境界のない新しい土俵を提供したのである.これによって,少なくとも,マルチメディアの可能性が大きく広がったのは確かである.「境界の消失」は情報社会の特徴であるが,メディア・ミックスは,その極めて具体的な事例の一つなのである.

ディジタル・メディア・ミックスの基本原理はサンプリングである.従って,CD における音楽のディジタル化と同様に,それぞれのメディアに固有な何物かを,ディジタルという視点から,捨象してしまっている可能性がある.事実,CD は音源に含まれる超音波を捨て去り,これが脳機能に影響を与えている,と大橋氏は警告している.本来固有なはずの各種メディアの特性が,コンピュータ処理という共通の土俵に載ることよって,矮小化されてはいないだろうか.じっくり考えてみる必要があるだろう.

些か大胆にまとめれば,アナログは各メディアの特性の軸に沿っており,ディジタルはメディアを横断するデータ処理の軸に沿っている.ディジタルとアナログの本質的違いの一つである.

何世紀か前に,熱力学のエントロピー増大の法則による「宇宙の熱的終焉」が文化的なショックを与えたことがあった.エントロピーは情報量に関連した量であり,この法則は,「情報量は減少する,」と再解釈することができる.情報とは「新しいこと」をもたらすことであり,情報が流れると言うことはその分だけ「新しいこと」が減少することを意味する.それでは,「宇宙の情報的終焉」は来るのだろうか.

世界規模の情報ハイウェイがあらゆる情報を世界中あまねく伝える日もそう遠くはあるまい.しかし,これが文化的地域の消失につながるとしたら,こんな詰まらぬ話はない.思えば,歴史上異文化の出会うところ,必ず新しい文化が花開いたのだった.現代の情報の大量高速流通が,全世界を均質化し地域の文化を消滅させるか,異文化の交差する場を提供しそこに新しい地域文化を育むか,人類究極の選択を迫られているのかも知れない.