ディジタルとアナログ

炉辺夜話情報科学編第1夜

「ディジタルとアナログ」を対比すると,「ディジタル」は冷たい,「アナログ」は暖かい,というイメージがあるようだ.確かに,回転する時針と分針からなるアナログ時計と比べて,4つの数字を並べ,毎秒点滅を繰り返すディジタル時計は,せわしなく無味乾燥にも思える.心を和ませる鳩時計などのからくり時計には,やはりアナログ時計がふさわしく思えるのも不思議だ.

また,「現代的」と「旧式」というイメージの対比もある.「旧式」の装置は,自然現象を直接的に利用していることが多い.日常的な自然現象の多くは連続的であるから,アナログになる訳だ.例えば,アナログ時計は,定速で回転する針と目盛りを付けた円盤を組み合わせた装置である.もちろん,「旧式」の中にもディジタルはある.例えば,内庭などに置かれ涼しげな音を響かせる「ししおどし(鹿脅し)」は,水量をディジタルで測っている.連続的な水流を,定量で区切り,音に変換しているのである.

ディジタルは,元々,データを正確に伝えるために考案されたもののようだ.データが連続値ではなく飛び飛びの値だけをとることが分かっていれば,伝送中に多少の劣化があっても元の値を復元できる.0 と 1 だけから成るのなら,0.3 は 0 だし,0.7 は 1 が劣化したもの,と推定できるという訳だ.一方,アナログの場合は,「雑音込み」のままである.勿論,劣化が激しければディジタルでも誤る.だから,劣化が累積しないように,時々あり得べき値に「整形」する.

しかし,この原理は,電子装置に限ったことではない.我々が普段使っている言葉自体が,既に,ディジタルである.話し言葉では,そこで使われる音素は,有限個しかない.だからこそ,風邪声や音質の悪い電話を通しても聞き取れるのである.書き言葉では,数は多いが有限個のかな漢字で表される.だから,頁に紙魚がついたり,くせ字であっても,つまりデータに劣化があっても,字を復元し,読むことができるのである.

ところで,紙魚のついた字が読めるのは,「あり得べき字」を知っているからであり,0.7 が 1 であると分かるのは,それが 0 と 1 のいずれかであることを知っているからである.日常の会話がそうであるように,通信が成り立つためには,両者の「世界」が一致していなければならない.0 と 1 の世界に住む人と 1 と 2 の世界に住む人同士では,ディジタル通信は成り立たないのである.前者の語ることは 0 でも 1 でも,後者にはすべて 1 に聞こえてしまう.もう随分前のことであるが,共産圏某国のジャーナリストが日本のデパートに品物が溢れているのを見て,「成る程,資本主義国では労働者は搾取されている.品物があるのに労働者は買うことができないのだから,」と感想を述べたという.

これが,アナログ通信であれば,相互理解の可能性が,多少とも,出てくる.後者が受け取る情報は,「何故か 0 の周辺と 1 の周辺に集中している,」という事実から,「あちらの 1 は,こちらの 2 に相当する,」と推定できるからである.「雑音をも抱え込む度量の大きさ」とでも言おうか,アナログ通信は,「あちらの世界」の構造をも伝えているのである.

このように,アナログは,伝えるべき情報の他に,様々な(冗長な)情報を抱え込んだまま,やり取りされる.ディジタルは,伝えるべき情報の「世界」を相互に極限することを前提として,冗長な情報を捨て去る.つまり,ディジタル情報の「確かさ」は,それ以前に交わされた情報に極度に依存しているのである.すなわち,ディジタルとアナログの違いの本質は,事前情報への依存性の程度にあるのである.

言葉もディジタルである,と言った.しかし,話し言葉や手書き文字の場合,ディジタルのように「整形」をして,冗長部分を捨て去ることをしない.ここに,「語り」や書道の存在する余地がある.アナログとディジタルの塩梅の妙と言うべきか.文化は,常に冗長の中に生まれるものである.