おしゃべりな座席

2006-2007 シーズン

コンサート,バレー,演劇など,様々なパフォーマンスが繰り広げられるステージ.首都圏には,主なものだけでもざっと 100 ステージ.それぞれの会場には,当然のことながら,観客のための座席がステージに向かって配置されています.その数,およそ 10万席.

座席は毎晩のようにステージを眺め,観客の拍手やブーイングの中,毎回入れ替わる観客を健気に支えています.座席は人のいるときは寡黙ですが,夜中になると「くるみ割り人形」のように?

誰もいない会場に忍び込んで,じっと耳を澄ますと,

ほら座席のつぶやきが聞こえてくる...

座席番号は,実際とは異なります.

特別編 我が家のテレビの前

2007年 4月 10日 日本映画「コキーユ 貝殻」

中学の同窓会の場面から始まる.まず物故者への黙祷を捧げ,そして宴会.東京から故郷に戻っていた直子も珍しく参加し,初恋の人・浦山に再会する.

直子にとって,浦山は,折に触れ自分を励ましてくれる存在だった.小学生の頃,橋を渡っているときに帽子を風に飛ばされ,あわてて掴もうとして川に落ちたときも,たまたま近くで友達と川遊びをしていた浦山が帽子を拾い直子をおんぶして岸まで送ってくれた.中学のロードレースでどん尻を走っていたときも,怪我をして最後尾を走っていた浦山が励ましながら併走してくれた.

直子は,中学卒業のプレゼント交換で,憧れの人・浦山の用意したコクトーの詩と貝殻を引き当てる.直子は,意を決して,剣道の練習を終えた浦山に橋で待っていると告げるが,その言葉を受け止めたはずの浦山の右耳は小さい頃の病気がもとで機能を失っていた.

その後,直子は結婚.東京で,夫は喫茶店を営み,直子も兼営の花屋を営むが失敗.夫は失踪.喫茶店をスナックに改装してコキーユと名付け,カウンターに立った.しかし,娘が学校になじめなかったため,故郷に戻りスナックを開く.名はやはりコキーユ.貝殻を意味するフランス語だ.

同窓会で再会を果たした直子は,浦山に自分のスナックへ来るようにと誘う.しかし,浦山は乗り気ではない.後日,上司と酒を飲んでいた浦山は上司に連れ回される中コキーユを発見,上司を連れて入った.そのときから,浦山は足繁くコキーユに通う.

偶然コキーユで谷川と出くわすことになった浦山は,谷川が来る前に,直子から,かつての谷川との関係を聞かされる.浦山は,直子と二人きりになろうとする谷川をホテルへと送り,直子を助ける.

東京への転勤を控えたある日,直子は浦山の会社を訪ねる.そして,勤務後,剣道の練習をしていた浦山に,次の休日にハイキングへ行こうと誘う.浦山は家族には出張と偽り,背広と革靴姿でハイキングに付き合った.稜線で弁当を広げていると,風が直子の帽子を持ち去る.遠い昔を再現するように,浦山は帽子を取りに走った.帰り道,最終バスを逃した二人は旅館に泊まる.直子は幻想の中で浦山と体を重ね,聞こえない浦山の耳元に思いを囁いた.翌早朝,直子の願いで,二人は露天風呂に入る.そして,このことを家族に話すという浦山に,直子は,家庭を壊させたくない,同窓会でまた会えるではないかと答えた.

そして,転勤の日,浦山の家族は,部下たちが見送る中,東京へと向かった.そして間もなく,浦山は谷川から直子が交通事故死したことを知らされる.浦山が直子の墓に花を手向けに行くと,そこには直子の娘がいた.直子そっくりの中学生の娘.母の墓に来るときは,いつも貝殻を持ってきて供えるのだという.

その年の同窓会.例年通り,物故者への黙祷から宴会は始まった.浦山は,一人,むせび泣いた.

映画は黙祷に始まり黙祷に終わる.直子の死は冒頭から予告され,そのことは,おそらくは直子自身も気づいていたに違いない.人は死ぬとき自分の一生が頭をよぎるという.冒頭の同窓会のとき直子はすでに死んでいたのだ.その後の浦山との出来事は,直子の人生で最も大切な思い出のフラッシュバックであり,確認だったのだろう.だから,直子と浦山の濡れ場といえるほどの場面はない.車の中でのキスシーンと,宿屋での寝床と混浴露天風呂のシーンぐらいだ.しかし,寝床で体を重ねたシーンは現実ではなく,直子の幻想ではないだろうか.翌早朝のシーンで,二人とも浴衣をきちんと着ているのだ(テレビではなく映画なのだから教育上の配慮ではなかろう).だから,直子は,混浴露天風呂に入りたいと二つ目の願いを伝えたのではないか(一つ目はハイキング).露天風呂で直子は浦山に近づき浦山の肩に頭を預ける.これが,二人が全裸で肌を合わせる唯一の場面だ.直子が後から風呂に入るとき,浦山は顔を横にそむけている.すでに床で肌を合わせていたのなら,浦山は直子の裸体を直視しただろう.ハイキングに誘ったのは浦山が剣道の練習をしていたとき.中学で告白したときも同じだ.ハイキングした場所はやはり学校で出掛けた場所.宿を後にするとき,直子は浦山に,転勤後も同窓会で会えると言っている.同窓会は夏頃に毎年開かれているようだ.ならば,これは七夕伝説だろう.浦山が直子の墓の前で会った娘は中学生で直子そっくり.墓の前には貝の殻.つまり,この娘は直子の子ではなく直子の生まれ変わりなのだ.直子が中学生のときに浦山から貰った貝殻を,この娘も大事に持って生きて行くに違いない.辛いときには隣を併走してくれる人の存在を感じながら.

浦山は直子のいじらしさに応えたのであり,愛したのではなかったろう.死に行く直子の,思いを伝えたいという願いに応えたのだ.だから,これは通俗的な不倫ではない.自分の人生を支えてくれた浦山に中学のときに伝えたはずの思い,自分が嫌いだったから浦山は来なかったのではないと知り,改めて伝えたいという願いに浦山は応えたのである.これは直子の初恋の再現なのだ.

直子にとって,離婚した夫も谷川も,浦山の身代わりにすぎなかったろう.谷川は相当に類型的で鼻持ちならない存在として描かれている.ある意味で直子に棄てられる役だから,棄てられてもやむを得ない存在として描く必要があったのだろう.一方,浦山も決してスマートではなく頼りがいのある男でもない.部下思いの気の弱い平凡なサラリーマンだ.さしたる教養もなく,所作も田舎っぽい.むしろ,谷川の方がエリート・サラリーマンという風情だ.だが,直子にとって何よりも大事なのは,自分の人生を支えてくれたという点だ.ロードレースでの思い出を懐かしく語る直子に,浦山は自分も苦しかったから頑張れと言ったのだと答える.谷川であれば,自分が優位に立っているときに他人を上から励ますことはあっても,同等の立場にいるときに横に並んで励ますことなど考えられまい.それが自然にできるのが浦山であり,そうして励まし合うのが人生のパートナーということなのだろう.狂言回し役の浦山の上司は東京への左遷に自殺を図るが,病院のベッドの上で昔橋の上で自分を4時間も待ってくれた女性のことをうわごとで呟く.浦山も,コキーユの前で直子が来るのを数時間も待ち続けた.浦山はそういう健気な人間なのだ.直子は,そこに引かれたのだろう.

直子にとって,浦山の聞こえない右耳は貝の殻だ.直子の貝殻が聞きたいと願う響きは浦山の励ましであり,直子が浦山の耳に伝えたかった響きは自分の思いだった.死に行く間際に漸くその響きを伝え,また聞くことができたのだ.直子は安堵して旅だったに違いない.その年の同窓会で,先生は,友は古い方が貴重だと語っている.直子にとって,幼い頃からの浦山の思い出は何よりも大切なものであり,人生の励ましだった.直子には夫も谷川も見えていなかったのだ.

話は変わるが,NHKホールにジャン・コクトーの詩の一節「私の耳は貝の殻,海の響きを懐かしむ」と大書された絵が掛かっている.それを発見して以来,大好きな詩となった.三十年近くN響の会員だったから,NHKホールにはよく通った.そして,折に触れ,この絵を眺めたものだ.

新国立劇場中劇場 2階 1列 48番

2007年 6月 3日 夏の夜の夢

ご存じシェークスピアの喜劇「夏の夜の夢」――妖精の王と女王との犬も食わぬ喧嘩に人間どもが巻き込まれるというお話だ。演出はジョン・ケアード。ピーター・ブルックの「夏の夜の夢」を見て気に入ったというだけあって、舞台は比較的シンプルな作りだ。松岡和子による翻訳もコンテンポラリーな台詞で親しめるものだった。女王ティターニアを演ずる麻実れいはさすがに堂々たるものだ。概して楽しめる舞台で、妖精パック(チョウソンハ)はよかったが、ダンシングが今ひとつ乗り切れていないという印象が残った。