笑 顔 の 陰
見上げた空は重たげな色をしていた。
吹いてくる風も雨を予感させる湿ったものになっている。
ネオンが目立つようになってきた繁華街を目指す店へと向けて高木は足を速めた。
久しぶりの非番。たまっていた洗濯や掃除を終えて、ふと思い立って家を出てきた。行く先は、なじみのラーメン屋。こってりした豚骨ラーメンを出すその店は、タクシーの運転手の口コミで広まったという、知る人ぞ知る名店だ。昼間は閉め、夕方から朝方まで営業するやり方で、帰りの遅いサラリーマンや夜間の仕事をする人たちを常連に持っている。高木ももちろんそのひとりだ。月に一度ほど、濃厚なスープが恋しくなる。
目立たない居酒屋の前を通り過ぎて、高木は一ヶ月ほど前のことを思い出した。
高校生の頃から名の売れている名探偵ふたり組が、その扉から出てきたのに出くわしたのだ。彼らはまだ大学の一年生。未成年が居酒屋から出てくるだけでも問題なのに、ひとりは歩けないほど酔っていた。あとで聞いた話によると、彼はここで自分と会ったことさえ覚えていなかったらしい。
とりあえずその一件は高木の胸にしまわれている。
記憶をたどっていた高木は、人波の向こう側から歩いてくる人物を見つけた。名探偵の片割れ、大阪出身の服部平次。明るい関西弁を操る彼が、どこか浮かない表情をしている。今日は連れ立っていないが、彼の相棒である工藤新一も、やはり最近ため息が多い。彼らに喧嘩をしている様子はないので、これまで高木は気にしつつも口を挟もうとはしなかった。
高木が手を振ると平次も気がついたようで、笑顔を見せて寄ってきた。先ほどまでの憂い顔など拭ったようにない。
「高木さん。なにしてますの? こないなとこで。非番みたいやのに」
平次が高木の服装を見て言う。スーツではないので非番と踏んだのだろう。
「ちょっと夕飯を食べにね。服部君こそ、こんなところでなにをしているんだい? まさか、またそこの居酒屋に入ろうっていうんじゃないだろうね?」
冗談めかして聞いてみると、平次は抱えていた袋を叩いた。繁華街を抜けたところにある大型書店のロゴが入っている。
「そこの本屋にちょお用事があって。それに今日は、居酒屋には入りませんて。ひとりやし、自分の部屋でゆっくり飲みますわ」
にっと笑う顔に飲酒に対する罪悪感はない。
高木は少し頭痛を覚えた。
「あ、そうだ。服部君、ラーメン好きかい? これから行くところなんだけど、美味い店なんだ。帰ってひとりで食事するんなら一緒に食べよう」
飲酒されるよりは、と思いついて言い出したのだが、自分でその提案に興がのった。年若い探偵ふたりの悩みを出来ることなら聞き出そうと思ったのだ。年長者として何か助言が出来るかも知れない。
腕を取らんばかりの高木に平次が目を丸くして頷いた。
「僕のおごりでね」
歩き出した平次に笑いかけると、彼は首を振った。
「気にせんといてください。刑事の懐具合はよう知っとります」
大阪府警本部長の息子は、しみじみと言った。
四人がけのテーブル席が四つとカウンターだけの小さなラーメン屋は、常連の夕食時には早いのか、まだ空いていた。それでもテーブル席は埋まっていたので、高木は平次と並んでカウンターに座った。
おすすめは? と平次が聞くので、高木はいつも注文しているチャーシュー麺と焼きめしを二人前頼んだ。顔見知りになったマスターがカウンターの向こう側で鍋を振りながら笑顔を見せる。
タンブラーの水を一口飲んで、高木はおもむろに平次に向き直った。
「最近、工藤君の様子はどう?」
熱心にメニューを眺めていた平次が高木を見た。すでに苦笑の気配がしている。
「変なまんまかい?」
居酒屋の前で会ってから、今日まで高木は二回新一に会っている。もちろん事件がらみで。その両方ともに平次の姿もあった。ふたりの推理の呼吸はいつものように見事で、ややこしそうに見えていた事件を解きほぐしてくれた。だというのに。
事件解決のあと、ひとりきりでいる新一は、物憂げだった。
ため息こそついていなかったものの、少し落ちた肩やうつむいた表情から何かを諦めてしまったような印象を受けたのだ。ただ、高木が見ていると気がついたとたん、彼はいつもの笑顔を見せた。それがかえって気にかかる。
「高木さん、答えわかっとるのに聞いとるやろ」
気配だけだった苦笑が平次の顔にはっきりと浮かんでいる。
高木は頭を掻いた。
「元気がなさそうだから、ちょっと心配しているんだよ。事件を追っているときは生き生きとしているのに、終わったあと、疲れているみたいだし」
疲れていると言うより、寂しそうなのだ。
「知っとる」
平次が高木から目をそらして、ぼそりと答えた。
「俺もわかってんねんけど。けど、どないしたらええんかわからん。気ぃ引き立てたろ思うて、あちこち一緒に遊びに行ったりもしとるんやけどな」
口元に手を当てて話す平次は、まるで推理の最中のような横顔を見せている。
「そうなんだ」
高木はため息をついた。
若き名探偵はなにを悩んで浮かない顔をしてるのだろうか。
世界的な推理小説家である父親譲りの頭脳と、伝説の美人女優である母譲りのルックス。
高校生探偵として名が売れ出した頃、一時期行方不明になり心配されたが何事もなかったかのように帰ってきた。
ただ、その期間にどこでなにをしていたのか、彼はまったく語ろうとしなかった。だが、探偵として復帰した彼は、才気走ったところが影をひそめ、ずいぶんと大人びた印象を高木に与えた。
「行方不明だったことと何か関係があるのかな」
新一を変えた出来事が、今頃になって彼を悩ませているのではないだろうか。
高木の思いつきに平次が首をひねった。
「たぶん、それはないやろ」
平次があっさりと答える。
やはり、と高木は思った。
彼は行方不明だった時期の新一を知っている。
そのあたりの繋がりが、ふたりの間に誰も割り込むことが出来ない空気を醸し出しているのではないだろうか。
「じゃ、前に言っていた心当たりの件は? あ、それとももしかして、恋でもしているのかな、工藤君」
稀代の名探偵でも恋に悩むことはあるだろう。
ましてや彼は若いのだ。
あり得る、とひとり頷いていた高木を平次がちらりと見た。
「なんにしても問題は、工藤が笑わんようになってもうたことや」
親友のことを気に掛ける平次もまた、高校生探偵だった頃よりも落ち着いている。
「そうかい? 工藤君、笑っていると思うけどな。もともと大笑いしているところはあんまり見たことないんだけど」
「笑うことは笑うんや。でも大笑いをせぇへんようになった。俺の前では爆笑したりしててんけどなぁ。それに、笑うたあと、寂しそうな顔するんよな。あれが……」
平次が口をつぐむ。
確かに新一から笑顔が減ったように高木も思う。
チャーシュー麺と焼きめしがカウンターの上から出てきて、ふたりの会話はいったん終わった。
勘定を終えて外に出てみると大粒の雨が降っていた。店内では厨房の音で雨音が消されていたらしい。
「うわ、傘持ってきてないよ。こういうときに限って天気予報が当たるんだから」
寒冷前線が通過するとは言っていた。そのせいか、冷たい風が結構強く吹いている。
「駅までダッシュやな、高木さんは。俺はバイクやからもうどうしょうもないわ」
ずぶ濡れ覚悟や。
平次が空を見上げて笑う。
「事故を起こさないように気をつけて」
「高木さんこそ、転けんようにな」
買った本の袋を上着の中にしまい込みながら平次が言う。そして彼は手を振って雨の中を駆けだしていった。
***
その日、新一は平次を見かけなかった。
前日の夜にまとまった雨が降って、ただでさえ高い秋の空がますます高く見えた日のことである。
必ずと言っていいほど学食で顔を合わせ、テーブルが離れていても先に出ていくときには声を掛けてきた彼の姿が、その日に限ってはなかった。
そばにいればいたで偽りの口説きに振り回され、言いようのない寂しさを感じてしまうのだが、会えないとなればまた違う意味で寂しかった。
新一はソファに身体を預け携帯電話をもてあそんだ。腕の中にはクッションが収まっている。
そのクッションの愛用者は毎日電話を掛けてくる。だが、すでに日課になっていると言っていいその定期連絡も今日に限ってはない。そろそろ宵の口をすぎようとしているというのに。
ため息をついて携帯電話を開き、しばらく見つめて閉じる。先ほどから何度も繰り返した行為を新一はまたなぞった。
開いた待ち受け画面が冷たく新一を見つめ返してくる。工藤には癒しが必要だと言って平次が設定したイルカの写真でも、今の新一を癒すことは出来なかった。
「かけてみようか」
誰にともなく新一は呟いた。
声が聞きたい。
話したいことがあるわけではない。ましてや用件があるわけではない。
ただたまらなく彼の声が聞きたかった。
着信履歴には「服部」の文字が並ぶ。
最後の着信もやはり平次からのもの。昨夜の電話の内容をまだ新一は覚えている。
『夕飯はちゃんと食ったか?』
いつものセリフで平次からの電話は始まった。昨日は最近には珍しく別々に夕食を食べたのだ。
高木さんとラーメン屋で飯を食った、と言い、美味かったから今度一緒に行こうと誘われた。
帰りに土砂降りの雨に降られたけれど、買った本だけは死守して大丈夫だったとか。
いつものように笑いながら、その日あったことを話しただけで終わった。
『工藤におやすみゆうてからやないと、落ち着いて寝られん』
最後のセリフを思いだして新一は目を閉じた。
彼は自分を喜ばす言葉を良く知っている。
口説き方のレクチャーをするのだと言って、彼は休みの日でも毎日顔を見せ、電話をしてきた。どこまでが真実か疑うような笑える話や、過去の事件の顛末やスポーツや映画や、ありとあらゆる新一が興味を持ちそうな話題を持ち出してきた。
巧みな話術はおそらく天性のものだろう。
話に引き込まれ、気がつくと笑っている。
そしてそれを見て平次は、新一の心をくすぐるようなことを言うのだ。新一の目をまっすぐ見つめ、笑顔で。
「やっぱ工藤とおると楽しいわ」
「こういう話は工藤やないとわかってくれへんし」
「やっとまともに笑うてくれたな」
相手を油断させておいて胸元に飛び込んでくる。
これが平次のやり方だった。
息が止まりそうになるほど鋭く急所をついてくる平次の言葉に、新一は天国と地獄を味わう。
言われて嬉しいのは事実。
だが、それがむなしい言葉であることも事実。
口説き方を聞いた自分に、彼は実践をしてくれているだけ。
新一は思わずため息をついた。
酔った自分を恨み、自分の言いだしたことに簡単に乗った平次をも恨めしく思う。
取り消せるものなら、今からでも取り消したい。
そうすれば、少なくともここまで苦しくはないだろう。
二頭のイルカとにらめっこした後、結局新一は携帯電話を閉じた。
***
朝、目覚めてまず、新一は枕元の携帯電話をチェックした。
メールも電話も着信はない。
結局平次からは丸一日以上なんの連絡もなかったわけだ。
ベッドから抜け出してカーテンを開く。昨日の夕焼けが告げたとおり晴天だった。雲ひとつ見えない。しかし、新一の心には薄雲が広がったままだ。
なにしてんのかな。あいつ。
おそらく平次はもう起きている。週に何度か近くの道場へ通う彼の朝は、新一よりも早い。
新一はベッドの上に投げ出していた携帯電話を拾い上げた。
昨夜とまったく同じ顔でイルカたちが出迎えてくれる。
しばらく悩んだあと、新一は平次に電話を掛けた。
コール四回で出た平次の声はかすれていた。
新一はかごの中にミネラルウォーターとスポーツドリンクのペットボトルを放り込んだ。ぐっと腕が重くなる。
今日の新一の講義は二限からだ。いつもならまだ家にいる時間に、新一はコンビニで買い物をしていた。
「あとは」
ひとりごちて新一はインスタントのコーナーに回った。
レトルトのお粥と雑炊を入れる。
思いついてロックアイスも買う。前に平次の部屋で見た冷蔵庫はひとり暮らし用の小さい物だった。おそらく氷はほとんどないに違いない。
氷は水枕に使うために必要で、水枕は新一が自宅から持ち出してきた。
それというのも、新一からの電話に出た平次が、しっかり風邪を引いていたからだ。
朝の短い電話で聞きだしたところによると、昨日の朝起きたときには高熱が出ていたのだそうだ。
自宅から持ち出してきたものは水枕だけではない。常備してあったを風邪薬も薬箱にあった全種類を鞄の中に入れてきている。
レジで精算を済ませ、新一は通りに出た。
目の前に平次の住むマンションがある。
下から彼の部屋を見上げるとカーテンが閉まっていた。リビングのカーテンを開ける体力もないらしい。新一は急いでマンションへ入った。
袋を下げたまま、一応チャイムを鳴らす。
平次が出てくるのを待たず、新一はもらっていた合い鍵で扉を開けた。食料を持って訪ねると、すでに電話で宣言してある。彼は言いつけ通りチェーンロックを外してくれていた。
「来たぞ」
とりあえず、声だけはかける。
暗い玄関で靴を脱ぎ、新一はそのまま遠慮せずに奥へ入った。カーテンが閉めきられているせいか、部屋の空気がよどんでいるような気がする。
荷物をキッチンの床に置き、まず寝室を覗く。
寝ているはずの平次がベッドの上で起きあがっていた。
「工藤」
かすれた張りのない声が彼の体調を物語る。
「寝てろ」
つかつかと寝室へ入ると、新一は平次の肩を押して横になるように促した。
触れた肩は熱かった。
顔色もずいぶん悪い。
新一は眉をひそめ、その表情を見られないように彼に背を向けた。
「二限にどうしても出ないといけないから、三十分ほどしか時間がないんだ。ちょっと空気の入れ換えをするから、布団に潜っておけ」
新一は平次が布団にくるまるのを待って、カーテンを開け窓を開いた。そのままリビングの窓も開け放つ。風がカーテンを揺らして部屋の中を通り抜ける。
キッチンへ戻ってレトルトの粥を大きめのどんぶりに移し、ラップをかけてレンジに入れる。
粥を温めている間に、新一は水枕の準備に取りかかった。
買ってきたロックアイスを半分ほど使って水枕を作ると、新一は寝室へ戻った。
平次が新一の気配に目を開いた。
乾ききった唇が苦笑を浮かべている。
「すまん」
「謝るぐらいなら、さっさと連絡をよこせ」
熱が出たのは昨日の朝のことなのだ。
電話をする余裕ぐらいあっただろうに、平次はそれをしなかった。
「一日で治ると思うててんけど」
喉に引っかかるような声で平次が無理に言葉を紡ぐ。
「馬鹿か、てめぇは。ひとり暮らしを甘く見るなよ」
新一は彼の枕をどけ、代わりにタオルでくるんだ水枕を入れた。
「熱はどうだ?」
「昨日よりはましや。気持ちええ」
水枕にほおずりする平次を置いて、新一はもう一度キッチンにとって返した。
出来上がった粥とコップを盆に乗せ、買ってきたペットボトルを寝室に運ぶ。
「起きれるか? まともな物食っていないと思って、粥を買ってきたぞ。食えるようなら食えよ」
どんぶりを見て平次が体を起こす。
その膝の上に盆を置いて、彼の肩にパーカーを着せかけた。ついで、窓を閉める。
ベッドヘッドに積んであった本をすべてどけると、新一はそこにペットボトルを並べた。
「おおきに」
いただきます、とレンゲ代わりのスプーンで平次が粥を口に運ぶ。
とりあえず食事の取れる平次に安心して、新一は部屋の時計に目を走らせた。残された時間はあと五分。
「雑炊のレトルトをキッチンに置いておくから、食欲があったら昼食にしてくれ」
そう言いながら鞄から薬を取り出して、ペットボトルの脇にそれらを並べて置く。
「症状がわからなかったから、家にあったのを適当に持ってきた。合いそうなのを飲めよ」
コップも水もそばにある。
あとは平次が自分でどうにかするだろう。
「じゃ、ゆっくり寝てろよ。帰りにまた寄るからな。何かあったら電話してくれ」
鞄を肩に寝室を出る。
開けたままだったリビングの窓を閉めていると、寝室から声がかかった。
「工藤、工藤!」
声を張り上げたせいで、平次が咳き込む。慌てて新一は寝室に戻った。
「なにしているんだよ」
背中を丸め苦しげに咳をしている平次の背中を、新一は撫でてやった。
「ほ、ほんま、今日は、おおきに。迷惑、かけてしもうて」
まだ呼吸もままならないというのに、平次は苦笑しながらそれだけ言った。
「無理してまで言うことじゃねぇだろ。礼は治ってからしっかりしてもらうから、覚悟しておけよ」
睨んだ新一に平次が真剣な目で答えた。
「なんでも、言うこと聞いたる。考えといて」
粥はまだ半分ほど残っている。
それを確認して新一は立ち上がった。
「わかった。考えておく。とにかく食べられるだけ食べて、薬飲んで寝てろ、病人。夕方来たときに悪化していたら、ただじゃおかねぇぞ」
「おう」
ようやく呼吸の落ち着いた平次が笑った。
「じゃぁな」
「いってらっしゃい」
平次がおどけた風に手を振っている。
つられて笑った新一も同じように手を振った。
「行ってきます」
***
四限目までの講義を終えて、新一は平次の部屋へと向かっていた。
明日も晴れるようで、空はきれいな夕焼け色に染まっている。だが、小春日和だった昼間の暖かさはすでになく、吹く風は冷たい。
朝立ち寄ったコンビニを横目に新一はマンションへと入った。夕食は平次のリクエストを聞いてから買いに出ればいい。
廊下に並んだ扉には表札はほとんど出ていない。学生がほとんどだからと言うわけではないだろう。都会の賃貸マンションなど、得てしてこうしたものだ。
部屋番号を確かめて、新一はチャイムを鳴らした。平次の応答を待たずに鍵を開けるのも朝と一緒だ。
「来たぞ」
同じように声を掛けて部屋に上がり込む。
真っ先に寝室を覗くと、平次は眠っていた。チャイムの音も彼の眠りを妨げなかったらしい。
新一は息を詰めて平次の寝顔を窺った。
具合が悪くなったせいで、起き出してこないのかと思ったのだ。
だが、平次の顔は穏やかで寝息も深い。どうやら薬が効いて眠り込んでいるらしかった。見れば、ペットボトルは二本とも開けられ中身が減っている。どんぶりがないところを見ると、食べ終えてキッチンに持っていったのだろう。
新一は足音を忍ばせて寝室を出ると、キッチンに向かった。
案の定、そこにはちゃんと水につけられたどんぶりがあった。それがひとつなのを見て、新一は顔をしかめた。レンジの上にはレトルトの雑炊が朝のまま置かれている。
「粥しか食ってないのか」
低く呟いて、新一は平次の方を見やった。扉の影で彼の姿は見えない。
ため息をついて、新一はリビングに入った。カーテンを閉め、部屋の電気をつける。ふと気がついて窓を少し開ける。換気をするには少し風が冷たいが、風邪を引いている本人は暖かい布団にくるまっているのだ。多少は大丈夫だろう。
新一はローソファに腰を下ろし、天井を仰いだ。
講義を受けているときに浮かんだ疑問が、新一の頭の中を占領している。
どうして彼は昨日のうちに電話をしてくれなかったのだろうか。
いくら具合が悪くても、電話ぐらいは出来るだろう。
実際、新一から電話して初めて、彼は「風邪引いてきつい」と助けを求めたのだ。
ならば、電話しなければ、彼は治るまでひとりで我慢する気だったのだろうか。
呼んでくれたのなら、夜中でも車を飛ばして駆けつけたのに。
遠慮など、彼らしくもない。
だいたいそんなものが必要な間柄ではないと思っているのだ、自分は。
新一はため息をついた。
考え事をしていると、際限なく落ち込んでしまいそうだ。
新一はテーブルの上に置かれたままの文庫本に手を伸ばした。書店のカバーが掛かったままのそれは、まだ読んだことのない小説。
新一は、服部が起きるまで、とそれを読み始めた。
「工藤? おるん?」
寝室から声がした。
新一は読みかけの本を置いて平次の様子を見に行った。
「起きたのか。どうだ、具合は」
「おおきに。おかげさんで、だいぶましになったわ」
起きあがろうとする平次を新一は制して、彼の額に手を当てた。平次が大きく目を見開く。
「ああ、ほんとだ。熱はかなり引いているみたいだな。だけど声はまだだな。あんまりしゃべるなよ。昼飯食ってないんだろ? 食欲なかったのか?」
平次が首を振る。
「粥食って薬飲んで起きたら今や。何時?」
「そろそろ七時だ」
「工藤、ずいぶん待ったんちゃう?」
「そんなことない。あ、テーブルにあった本、読ませてもらってたぜ。続きが気になるからあとで貸してくれ。起きたばっかりだけど、夕飯にするか?」
「せやな。食えるときに食うておくわ」
平次の目には力が戻っている。
それに安心して新一はキッチンへ向かった。
平次が雑炊を食べている間に、新一はコンビニで買い物をしてきた。
彼のリクエストした明日の朝飯とのど飴だ。
リビングのテーブルの上に、おにぎり二つと日本茶のペットボトルを並べる。普段の彼ならこの三倍ぐらいは平気で食べそうだが、病み上がりには無理だろう。
「無糖のヨーグルトも買ってきたけど食うか」
寝室に声を掛けると、「食う」と返ってきた。食欲はかなり戻ってきているらしい。
きれいに平らげている雑炊を下げて、代わりに盆の上にヨーグルトのパックを置く。のど飴も一緒に手渡した。
「昨日一日まともに食べてへんから」
早速ヨーグルトを食べながら平次が言う。
「食欲なかったんだろ」
「ちゅうか、食いもん自体がのうて。調理せんと食えるもんゆうたら食パンと牛乳だけやってん」
脳天気に笑う平次を新一は睨みつけた。
だったらなぜ、という苛立ちが新一を襲う。
「じゃなんで、昨日のうちに電話をしてこなかったんだよ。俺に頼るのが嫌なら、面倒見てくれる女でもさっさと作れよ。あれだけ毎日電話をしてきておいて、大変なときにはしてこないのはどうしてだ」
突然声を荒げた新一を平次が驚いて見つめる。
「工藤?」
新一は我に返った。
「悪い」
八つ当たりをしてしまった。
病人に。
頼って欲しいと思うのは、自分のわがままだ。それを裏切られたからと言って、相手を責めていいわけがない。
「とにかく、病気の時は早めに誰かに連絡しろ。重くなってからだとしゃれにならないからな」
「誰か、ゆうても工藤しかおらんし」
「電話をよこさなかったやつがなにを言う」
新一は水枕を取り上げた。すっかり氷が溶けてぬるくなっている。空いたどんぶりと水枕を持ってキッチンへ向かった新一に、平次が声を掛けた。
「ほんま大丈夫やって思ったんや。せやから、連絡せえへんかった」
たとえ、大丈夫だと思っても、電話ぐらい欲しかった。
毎日の電話よりも、大事な電話の一本の方が、重たい。
「ああ、そうかよ」
平次の言い訳を背中で拒絶して、新一は新しく水枕を準備した。彼の熱は引いてきているが、まだ残っている。今夜一晩冷やしてゆっくり眠れば、ほとんど回復するだろう。
ついでに洗い物を済ませ、新一は寝室に戻った。
ヨーグルトを食べ終えた平次がおとなしく横になっていた。彼の頭の下に水枕を入れる。
「おおきに。工藤。めっちゃ助かったわ」
「薬は?」
「飲んだ。しっかし、ようひとり暮らしてて看病してもろたら落ちる、てゆうけど、ほんまやな」
口の中であめ玉を転がしながら、平次が笑う。
「男が女にされるとな」
苦笑して答えた新一に彼は首を振った。
「相手が男でも」
平次が新一を見上げる。
内心の動揺を押し隠して、新一は軽く笑って見せた。
「落ちたか?」
落ちたわ、と笑う平次に、新一は心の中でため息をついた。おそらくこの言動も口説きのレクチャーの一環だろう。
「転んでもただでは起きないやつだな」
意味が通じなかったのか、平次が不審そうな顔になる。
「病気まで使って口説き方を教えてくれなくてもいいんだよ」
「ちゃうって、本気でゆうてるんやけど」
平次の目にふざけている様子はない。
だが、新一は信じることが出来なかった。
新一の口元に浮かんだ寂しげな影に平次の笑みが消える。
「服部。おまえ、看病の礼に何でも言うこと聞くっていったよな」
この先もずっと平次の言動に苦しむぐらいなら、いっそ。
新一は静かに言葉を紡いだ。
「忘れてくれ。俺がこの間酔っぱらって頼んだこと」
「どうゆうことや?」
平次の視線が厳しくなる。
「言うこと何でも聞くんだろ? だったら、なにも聞かずに忘れてくれ」
「治ったら、ゆう条件やったで。まだ闘病中やから、忘れるわけにはいかん」
熱があるとは思えないほど、平次の口は減らない。
「忘れろって」
忘れてもらわねば、つらい。
重ねて言った新一に、ますます平次の表情が厳しくなる。
「口説き方、必要なくなったんか?」
平次の腕が布団から伸びて新一の手首をつかんだ。
熱い手に捕らえられて、新一は思わず身を引いた。
「もともと必要ないんだよ。そんな相手いないんだから」
「嘘いえや」
声を上げた平次が、咳き込んだ。
新一に背を向け苦しげに身体を丸めた彼の背中を、新一は解放された手でさすった。
「大丈夫か?」
口を押さえて平次が頷く。だが、まだ言葉は出ない。代わりにひゅうひゅうと気管の鳴る音がしている。
呼吸が落ち着いてきたところを見計らって、新一は平次の背を支えて起きあがらせると、彼に水を満たしたコップを差し出した。
「飲んでおけ」
「おおきに」
肩で息をしながら平次がコップを受け取る。ゆっくりと飲み干すのを見て、新一は安堵した。咳は治まったようだ。
「工藤」
コップをベッドヘッドに戻し、平次が新一に向き直った。
「おまえ、口説きたい相手がおるから、口説き方を教えろて俺にゆうたんやで」
忘れてるようやけどな。
まだ平次の呼吸は荒い。しかし、目はひどく冷静だ。
「めっちゃ高嶺の花みたいなことゆうてたで、自分。あんときの工藤の言葉、俺には嘘ゆうているようには見えんかった」
見つめられて、新一は思わず息を飲んだ。
平次の目は熱で潤んでいるが、紛れもなく探偵のものだ。
「記憶なくすほど飲んでいるやつの言うことなんて、まともに受け取るんじゃねぇよ。しらふの俺の言うことの方を信用してくれ」
「無理やな」
言い逃れを一言で切って捨てられる。
新一は平次を睨みつけた。
「どうしてだよ」
「最近の工藤はおかしい。ため息多いし、笑わんし。高木刑事にまで恋でもしているんちゃうかて、言われとったぐらいや」
奥手な高木にそうと気づかれるほど様子がおかしかったのかと、新一は内心苦笑した。
「今の顔かて、前はせんかった。いるんやろ? 口説きたい相手」
肯定も否定も出来ず、新一は平次から顔を背けた。
おまえだ、と言う言葉は音になることはない。
新一は答えないまま立ち上がった。
顔を見ていると、隠している気持ちをさらけ出してしまいたくなる。
「工藤」
「病人はさっさと寝ろ」
「イエスやと受け取るで」
「勝手にしろ」
鞄を持ち、寝室をあとにする。
そのまままっすぐ玄関に向かった。
工藤、と呼ぶ声はしたが、平次は追いかけてこない。
「じゃな」
一応声を掛けて、玄関を出る。
合い鍵で鍵を掛けて、新一は大きくため息をはき出した。
まさか自分が彼に「口説きたい相手がいる」と言っているとは思わなかった。
酔った自分がいったいなにを考えていたのか、新一には想像がつかない。
廊下から見える夜の町並みを新一は暗い目で見つめた。
看病をかたにとって、自分の頼んだことを忘れるように強要した。先ほどの彼は闘病中だと言って応じなかったが、おそらく回復すれば約束は守るだろう。言うことを聞くと言ったのは、彼だ。
これで口説き方の講座は終わる。
苦しい時間が、これで終わる。
いくら忘れろと言っても、なかったことには出来ない。
しばらくは関係がぎこちなくなるかも知れないが、いずれは元に戻るだろう。
想いは変わらず残ったままだとしても。
マンションを出たところで、携帯電話に着信が入った。平次からのものだ。慌てて出てみると、やはりかすれたままの彼の声が聞こえてきた。
「今日はおおきに」
見上げると、光の漏れるリビングの窓に平次のシルエットがあった。
「バーロ! なに起きあがっているんだよ。ベッドに戻れ」
「工藤」
何か言いかける平次を遮って、新一は彼の姿を睨み上げた。
「ベッドに戻れ。今すぐにだ。戻らないなら、切るぞ」
はっきり見えない平次の顔に苦笑が浮かんだような気がした。
平次がカーテンを閉めた。光が消える。
「布団に入ったで」
やがて聞こえた平次の声に、新一は肩から力を抜いた。そのまま駅に向かって歩き出す。
「なんの用だ?」
「ゆうて置きたいことがあったんや」
「今でないといけなかったのか?」
わざわざベッドから抜け出してまで、伝えなければならないこと。
「俺は、勝手にさせてもらう。おまえに口説きたいやつがおっても、かまわん」
「どういう意味だ?」
新一は足を止めた。
振り返って見たマンションの窓は、暗いまま。
「まだわからんでもええよ。今にきっとわからしたる」
平次が笑った。とても体調の悪い人間とは思えない、力強い気配が電話越しに伝わってくる。
「全部忘れろと言ったはずだろ」
別れる前の会話が発端になっていることだけは、新一にもわかった。確認した新一に、平次がまた笑う。
「おう、忘れる。忘れたる。みんな忘れて、初めっからやり直しや」
かすれた声で楽しげに平次は言う。
新一は口元に手をやって平次の真意を考えようとしたが、それを遮るように彼は続けた。
「ほんなら、気をつけて帰りや。薬効いてきたみたいやわ。眠たなってきた」
新一は窓を見上げたまま、答えを返した。
「ゆっくり寝ろ。話はまた明日だ。おやすみ」
おやすみ、と返事があって通話が切れた。
なにを勝手にすると言うのか。
新一は平次の言葉の意味をつかめないまま、家路についた。