苦 い 契 約
頭の中に電子音が響き渡り、新一は目を覚ました。徐々に音量の増える目覚まし時計をとりあえず止めると、新一は再び目を閉じた。枕に半分埋まっている頭がやけに重たい。しかも、鈍痛がする。そのままベッドの中に沈み込んでしまいそうな錯覚を新一は覚えた。
もう少し寝よう。
一限目を自主休講にすると決めて、新一はまどろんだ。すぐに眠り込みそうになる。だが、その寸前、扉を叩く音がした。
新一ははっとして目を見開いた。慌てて起きあがってみると、ノブがゆっくりと回っている。ベッドから片足を床に下ろし、新一は油断なく扉を見つめた。
この家には自分しかいない。
突然両親が帰ってくることがあるが、こんなに静かに新一の部屋に入ってくることはない。
「誰だ」
新一の鋭い誰何に、扉の影から顔が覗く。思いがけない相手の出現に新一はベッドに座った格好で固まった。
「おはようさん、工藤。起きとったんやな」
部屋に入ってきた平次が笑顔付きで挨拶をよこしてきたが、新一にはそれに応えられなかった。
どうして服部がここにいるんだ?
「あーあ、やっぱり服、着替えんと寝てもうたんやな。しゃあないやっちゃなぁ。シャツが皺だらけやで」
平次に指摘されて、新一は初めて自分がパジャマを着ていないことに気がついた。
どうして着替えていないんだ?
それに、どうして服部がそれを知っているんだ?
慌てている新一に笑いながら、平次は部屋を横切りカーテンを引き開けた。秋の高い青空が新一の目を刺す。
「ええ天気や」
窓まで開けて、平次が新一を振り返った。
ベッドの上から動けずにいる新一に平次が苦笑する。
「どや? 二日酔いにはなっとらんか?」
ああ、頭が痛いのはそのせいか、と新一は疑問符で埋まった頭の片隅で思った。
呆然と平次を見つめる新一に、平次が苦笑を深くする。
反応のない新一になにを思ったのか、平次がベッドに歩み寄ってきた。そのまま新一の頭をくしゃりとなでる。
「まだ寝ぼけとるんやな。シャワーを浴びたら目も覚めるやろ。その間に朝飯の支度をしとくさかいな」
平次が新一の瞳をのぞき込む。
いつになく優しい色をした彼の目に新一の鼓動が高まった。
「二度寝したらあかんで」
軽く新一の頭を叩くと、平次は部屋を出ていった。彼の消えた扉を新一は身動きも出来ずに見つめた。
「あいつ、泊まったのか?」
新一はぼんやりと呟いた。
平次の存在のおかげで新一の血圧は一気に上昇し、目はしっかりと覚めた。しかし、頭の中の混乱は相変わらずだ。というか、彼のせいで混乱が増したといっていい。
「昨日、飲んだな。そういえば」
平次に誘われて居酒屋に行ったことは覚えている。
彼のせいで酒のピッチが早くなり、酔うのが早かったことも思い出した。勧められた日本酒のシャーベットが美味しかったことまではしっかりと記憶しているのだが、問題はその先だった。
「どうやって帰ったんだ、俺」
呆然と声にして、新一は天井を仰いだ。
二日酔いよりも、途切れた記憶の方が頭痛の種になってしまった新一だった。
高い位置にシャワーヘッドを掛け、新一は頭から湯を浴びた。シャンプーもボディソープも一気に流してしまう。
うつむいた顔を流れ落ちる湯を避けて、新一は目を閉じたままため息をついた。
身体はさっぱりしたが、頭の中はすっきりしない。それでも起き抜けの時よりはましになった。
居酒屋で平次に絡んだこと、酔った新一を彼が部屋まで連れてきてくれたことは、ようやく思い出せた。彼が今朝起こしに来たことからみても、記憶違いではない。だが、そこで交わしたはずの会話が思い出せない。何か重大なことを話したような気がするのだが。
カットフィルムのように記憶は断片的でつながりがない。前後関係さえ危ういぐらいだ。
寄りかかった平次の身体。
冷たい廊下と玄関の天井。
見惚れた平次の横顔。
家の鍵をキーホルダーから外す平次。
しなやかな平次の指。
その中で、平次の真剣な目つきは焼き付けたように覚えている。どこで見たのかは忘れた。だが、なにが彼にあの目をさせたのか、それが新一には気にかかった。
新一は顔を上げて、顔面に湯を受けた。濡れぼそる髪を両手で掻き上げる。あらわになった喉を湯が流れ落ちた。
新一にはひとつだけ確信していることがあった。
酒の勢いで好きだと言った可能性はないな。
証拠は、今朝の平次の笑顔だ。
いくら平次が基本的に優しい男だとしても、同性から告白された翌日にその相手に対してあれほど楽しげな表情はしないだろう。
シャワーを止めると、静けさの戻った浴室に滴る水音が響く。
彼が明るいから、告白の可能性はない。前途多難な自分の恋に、新一は全身で息を吐き出した。
着替えた新一がキッチンを覗くと、平次がトースターにパンを入れているところだった。彼はいつものようにデニムのエプロンをしている。
「目ぇちゃんと覚めたようやな」
向けられた笑顔がまぶしくて、新一はわずかに目をそらした。そのままさりげなく席に着く。テーブルの上ではスクランブルエッグとサラダがトーストのできあがりを待っていた。マグカップにはコーヒーが注がれている。
「ちょっと頭が痛てぇ」
「やっぱり二日酔いかい」
言葉と一緒にコップに入った水が出てきた。喉の渇いていた新一が一気に飲み干すと、すぐさまお代わりが注がれる。ミネラルウォーターのキャップを閉めながら平次が聞いてきた。
「で、一限どないするんや? 出るんやったら、いそがんと間に合わんのとちゃうか」
「自主休講するからいい。おまえは?」
「今日は元々二限からしか講義がないねん。せやからいったん家に帰って準備してから行くわ。なぁ工藤、俺のうちによって、一緒にバイクで行かへんか」
新一が答える前に、チンとトースターが鳴った。焼けた焼けた、と平次がトーストにかかりきりになる。マーガリンを塗られたトーストを受け取って、新一は首を傾げた。
「それはいいけど、俺のメットはあるのかよ」
道路交通法違反で捕まるのは嫌だと新一が言うと、自分のトーストにかじりつきながら平次が笑った。
「メットはちゃんとあるさかい、安心し。捕まるで思い出したけど、昨日高木さんに見つかったで」
「高木刑事に? どこで?」
新一の記憶にはまったく残っていない。
「どこで、て。居酒屋からの帰りやけど」
平次の笑顔がわずかに引きつった。
「覚えてへんの?」
探るような目で見つめられて、新一はトーストをほおばったまま目を泳がせた。
「悪い。シャーベット食ったあたりから記憶があやふやで」
「ほんまに?」
平次に念を押されて、新一は気まずい思いで頷いた。
今度は肯定された平次が視線をさまよわせた。
「なんだよ、服部。俺、なんかまずいことでもしたのか?」
上目遣いに平次を窺う新一をよそに、彼は空中を見つめて考え込んでいる。真剣と言うよりとまどいの優先する表情に、新一はますます居心地が悪くなった。
「迷惑を掛けたってことは覚えているんだよ。ベッドまで運んでくれたのはおまえだったって言うのも覚えているし。居酒屋で絡んだのも、覚えている」
新一はとにかく覚えている事柄を並べ立てた。
「居酒屋でのことは、覚えとるん?」
平次が新一に視線を戻した。問いかける眼差しに逃げ場はない。
「だから、はっきりしているのはシャーベットを食う前まで。そのあとおまえに絡んだ記憶はあるんだけど、内容を覚えていねぇんだよ」
新一は残ったトーストを自棄のように口に放り込んだ。
「内容は覚えてないんか」
口の中でのつぶやきに、新一は咀嚼しながら頷いた。平次は手にしたトーストを睨んで眉間に皺を寄せている。
「絡んだ内容ってなんだったんだよ。そんなにまずいことだったのか?」
滅多に見ない平次の険しい表情からは、自分が何か重大なことでもしでかしたようにしか思えなかった。おそるおそる、だが、なにを言い出されてもうろたえないようにかまえて、新一は平次に問いただした。
「まずくは、ない」
平次の表情が一転した。いつもの笑顔にからかいの色をのせて楽しげに肩を揺らす。
「まずくないわ」
笑い出した平次を見て拍子抜けする前に、新一は警戒した。
「教えたる。あんな、工藤の絡んだ原因はな」
言いかけて平次が吹き出した。本当に楽しそうな彼に新一の頭痛が増す。思わずこめかみを押さえた新一に平次がテーブルに身を乗り出して告げた。
「俺がもてるゆうて」
新一は大きく目を見開いて平次を見つめた。
「うそだ」
否定が口からこぼれ出る。
しかし、出てきたのは言葉だけではなかった。
『なぁ、服部。おまえ、もてるだろ?』
『口説き方、教えてくれよ』
なくしていた記憶のピースがばらばらと痛む頭からこぼれ出てきた。
口を「あ」の形に開いたまま固まった新一に平次がいたずらっぽく笑う。
「思い出したようやな。な? 俺は嘘はついとらんやろ」
平次の問いかけに新一は応えることも出来なかった。
酔いに任せたとはいえ、自分はなぜ惚れている本人に口説き方を聞こうとしたのか。酔っぱらいの言動に意味を求めてもしょうがない。だが、それにしてもひどい失態だ。後悔が一気に押し寄せてくる。出来ることなら時間を巻き戻してしまいたかった。
「……どうして俺、口説き方を教えてくれなんて言い出したんだ」
呆然としたまま口にした新一に平次の表情が改まる。
「それも覚えとらんの?」
混乱したまま頷いた新一は低くなった平次の声にまで気が回らなかった。
「覚えてねぇ」
「そうなん」
平次がマグカップを取り上げる。伏せた目に浮かんでいる光は新一には見えない。
「どうしてそう言う話題になったんだ?」
「いきなり工藤が言い出したんやで。俺のこと二枚目やてゆうてくれたかと思ったら、もてるやろ?と聞いてきて。で、口説き方教えろてな」
確かに居酒屋で「ええ男やろ?」と聞かれて新一は頷いた。まだそれほどアルコールの回っていない状態でやってしまった失敗だ。
「脈絡ねぇな」
自分の言動がつかめない。
思わずため息をついた新一に平次が慰め顔で取りなした。
「かなり酔うとったからしゃあないわ。いっつも論理立てて推理する工藤も、酒が入ると頭ん中が混線するっちゅうこっちゃな」
「うるせぇよ」
新一は平次をちらりと睨んだ。
自分よりも飲んでいた彼がまったく酒の被害を受けていないのが悔しい。
新一の記憶はまだすべて戻ってきていない。ピースはまだ所々抜け落ちていて、絵はまだ完成にはほど遠い。ほかにも何か失言をしているのではないだろうか。
コーヒーを一口飲んで、新一は平次に改めて聞いた。
「……ほかに何かしなかったか?」
二日酔いの頭痛に加え自分の行動に頭痛を覚えて、新一の声は疲れていた。
「工藤」
口元に手をやり考え込んでいた平次が苦笑する。
「別に迷惑をかけられたわけちゃうし、こうやって泊めてももらったわけやし。絡まれたゆうてもたいしたことなかったわけやし」
「でもな」
新一は呟く。
「そないな顔するなや。なんやいじめてるみたいやんか」
優しい顔で笑う平次から新一は視線を落とした。見つめているとどうしても心拍数が上がってしまう。
「ほかにないならいいんだけどな」
新一の視界にはマグカップに絡む平次の指がある。触れたいと願い、触れた記憶が新一にはあった。ただ、どこでだったのかは定かではない。
「ないない、気にしなや。あ、工藤」
言うなり平次の指が新一に伸びた。指先が羽のように口元をかすめ、新一は驚きのあまりのけぞった。
「口んとこにパンくずつけとったで。器用なやっちゃな」
大げさに身を引いた新一を平次が笑う。
コーヒーを飲み干した平次が首を伸ばしてリビングの時計を確認した。彼につられて新一も時計を見る。少しばかり朝食に時間を掛けすぎたようだった。
「そろそろ出かける支度をしようや。俺のうちに寄ってもらわんとあかんし。食器は俺が洗っておくさかい、工藤は支度しといて」
平次が立ち上がり、食べ終えた皿を片づけにかかる。新一も冷めたコーヒーをあおると席を立った。
キッチンから立ち去る間際、平次が新一を呼び止めた。
「工藤は途中で寝てもうたけど、俺は工藤と飲めてめっちゃ嬉しかったで」
新一に笑いかける平次の顔には一点の曇りもない。
一瞬呼吸を止めた新一は、口の中で「おう」とだけ応じて、赤くなった顔を見られないように急いでキッチンをあとにした。
新一の家から四駅分大学に近いところに平次の借りている部屋がある。周囲に他の大学があることもあって、学生の多いマンションだ。八割がワンルームだが、平次の部屋は狭いながらも2DKだった。
部屋に通される客は新一が初めてだという。
「へぇ、結構きれいにしているんだな」
六畳のリビングに立って新一は部屋を見回した。ローテーブルにローソファのセットが部屋を占領している。床に座るのが好きな平次らしく、家具はみな背が低い。マガジンラックにバイク雑誌があるのが彼らしかった。
「そら一応掃除はしとるし。その辺に座って待っとってや。すぐ着替えて支度するさかい」
昨日と同じ服を着ている平次が隣の寝室へ消えた。
新一は勧められるがままソファに腰を下ろした。鞄を脇に置き、手近にあったクッションを平次がいつもするように抱きかかえる。
平次の目がなくなってようやく、新一は肩から力を抜くことが出来た。
彼とただ一緒にいるだけで落ち着きをなくしてしまう。恋愛感情を自覚したせいだけでなく、自分の思い出せない事柄を彼が知ってるせいだ。弱みを握られているような妙な気分がする。
『俺がおまえを口説く』
新一は眠る前の記憶を先ほどようやく掘り起こした。それはますます自分を混乱させる代物で、治りかけていた二日酔いの頭痛が再発した。
言いだした平次の真意は新一にはまったく読めない。身を挺しての思いやりなのか、まさかと思うがからかい半分なのか。その上、その前後のやりとりは霞がかかったようにはっきりしない。せめて自分の返事だけでも新一は思い出したかった。
断っていればいいんだが。間違っても受け入れたりしていねぇよな。
それにしても、好きな相手に口説き方を聞くか?
新一は重たいため息をついた。
いくら何でも自分のとった方法は無謀だ。
出来ることならすべてを酒のせいにして、なかったことにしてしまいたい。
平次が寝室から出てきた。
鞄と真新しいヘルメットを抱えている。
「ほれ。これが工藤のメットやで。ちゃんと用意しとったやろ」
「サンキュ」
平次から渡されたヘルメットを新一はしげしげと眺めた。紺色を基調としたデザインは、玄関に置かれていた平次の深い緑のメットと色違いに見えた。それが新一の表情に出たのか、平次が苦笑する。
「おそろいちゃうねん。まるっきり同じタイプやと工藤に似合う色がのうてな」
おそろいにしたかったんやけど。
平次が残念そうに呟く。
くすぐったい彼の言葉を振り切るように、鞄を手に新一は立ち上がった。
「用意がすんだんなら、行こうぜ。道が混んでいるとまずい」
キッチンを抜けながら新一はふと思い出した。
「そういや、最近はタマネギ腐らしていないんだな」
夏場に部屋に放置していたタマネギを彼は腐らせてしまい、大変なことになっていたらしい。詳しいことは聞いていないが、しばらくタマネギを見るのも嫌だと言っていたはずだ。
「工藤。思い出させるなや」
振り返ると平次がげんなりした顔をしていた。
「腐乱死体なら平気やけど、あれはきつかったわ。タマネギのスプラッタや。原型のうなっとったもんな。掃除しても三日ぐらいにおいがとれへんかったんやで。ほんまたまらんわ」
想像して新一は顔をしかめた。
「聞くんじゃなかった」
「聞いといてそれはないやろ、工藤」
不満そうな平次に背を向けて、新一は先に靴を履いた。玄関を開けると暗かったそこに光が差す。
「いい天気やなぁ。ツーリングでも行きたい気分や」
靴ひもを結びながら平次がまぶしげに目を細める。
そうだな、と頷いて新一は今日の講義を心の中に並べた。午後に必修が二つ入っている。すでに一限目を自主休講にしているのだ。さすがにこれ以上はさぼれない。
「せやけど、今日は俺も必修入っとって無理やねん」
俺も、と平次は何気なく言う。自分の講義まで彼は把握しているのかと、新一は少しうれしく思った。気に掛けられているというのは、気持ちがいい。
「天気良かったら、今度の休みにでもどっか行こうや。こっちの場所は詳しゅうないさかい、目的地は工藤が決めてな」
ヘルメットを抱えた平次が部屋の鍵を掛けて新一の横に並んだ。
「俺も詳しくないぞ」
平次に顔をのぞき込まれそうになり、逃げるように新一は駐輪場に向かって歩き出した。
「そんなら、工藤の行きたいとこへ行こうや」
すでに行くことが決まったような明るい声が平次の足音と一緒についてくる。
平次のバイクは駐輪場の片隅のバイク置き場に収まっていた。屋根のついているいい場所だ。
平次がバイクの後部にふたりの鞄をくくりつけている間に、新一はヘルメットをかぶった。ちょうどいいサイズのそれは新品特有のにおいがした。
「なぁ、服部。俺、昨日なんて言っていた?」
どうしても気になっていたこと。
彼の提案に自分が返した答えを聞くために、新一はバイザーで表情を隠して平次に問いかけた。
怪訝な顔で平次が振り返る。
「昨日のいつや?」
「あれは、たぶん」
新一はヘルメットの中で視線を泳がせた。
「おまえが口説き方を教えてくれるって言っていたから……」
「ああ、寝る直前のことやな。おう、俺が工藤を口説くてゆうたな」
にやりと平次が笑う。
「その話なんだけどさ、俺、なんて答えた? 頼んだのか断ったのか覚えてないんだよ」
落ち着きなく平次から顔を背けていた新一の視界の端で、彼が盛大にため息をついた。
「そのへんも思い出してくれたんやと思うてたわ」
「悪かったな」
負い目があるので新一の悪態にも力がない。
「あんな、工藤はそんとき、わかったってゆうてたで。明日から頼む、ともな」
正面から平次が新一の顔をのぞき込んできて、新一はうろたえた。そして自分が彼の提案を受け入れていたことでさらにうろたえた。
「そ、そうか。それで、おまえのその、口説き方講座っていうのはいつからなんだよ。まだ始まっていないんだろ?」
新一が確認したとたん、平次が座り込んだ。唸りながら両手で頭を抱え込んでいる。
「服部?」
呼びかけると彼は顔を上げた。泣き笑いのような情けない表情で新一を見上げている。瞳に浮かんでいるのは、しゃあないなぁともで言いたげな光だ。
「なんだよ」
憮然とした新一に、平次が膝に手を当ててゆっくりと立ち上がる。
「講座はな、朝から始まっとったんや」
「そうだったのか?」
「そうだったんや」
平次が重々しく頷く。そして、軽く新一の肩を叩いた。
「まったく気づいてもらえんかったんは、ちょおショックやわぁ。でもまぁ、工藤のそういう鈍感なとこも、俺は好きやけどな」
平次が目を細めて笑った。
心の底からの笑顔を真っ正面から受け止めて、新一は一瞬呼吸を忘れた。じわじわと顔に血が上るのがわかる。赤くなっているであろう顔を伏せて新一は手を握りしめた。
平次がバイクに跨るとエンジンを掛けた。腹の底に響くような排気音とともにガスのにおいが立ちこめる。
ヘルメットをかぶった平次が脇に立ったままの新一を振り返った。
「ほれ、工藤、乗りや。荷物ふたり分載っとるさかい、ちょお狭いかもしれへんけど我慢してな」
平次の顔を見ないように新一はそそくさと彼の後ろに跨った。ひとつ息を飲み込んで、彼の身体に腕を回す。引き締まった身体は想像以上に温かかった。昨夜、酔っていることを言い訳にすがりついた記憶がよみがえる。
「行くで」
平次の声とともに、加速が新一の身体を後ろに引く。慣性に負けないように新一は腕に力を込めた。
新一は目を閉じて朝からのことを思い返した。今朝目覚めたときから、彼の口説きの手本は始まっているという。
新一の顔に上っていた血が冷たくなって足下へと落ちた。温かだった胸にもむなしさが満ちてくる。
髪をなでた手。頬に触れた指。
飲みに行けて嬉しかったという言葉。
どこかへ行こうという誘い。
自分の心を幸せにしてくれたそれらはきっと、彼の講座の一環に違いない。本当の気持ちからではなく。ただ、参考になるようにと。
バイクに乗る前に向けられたあの笑顔でさえ、それを知った今では素直に受け取ることが出来ない。
新一は唇をかみしめた。
自分を喜ばせる彼の言動ひとつひとつを、素直に受け止めることが出来なくなったのは寂しい。だが、これは自分の招いたこと。
自業自得な結果に新一はため息をつくことすら出来なかった。
どうしてこんなことになったのか。
後悔にさいなまれる新一はまだ思いだしていなかった。
好きな人がいるのだと、平次に告げてしまっていることを。
それを聞いた平次が真剣な眼差しを向けてきたことを。
そして、それらすべてを平次が伏せていることには、新一は気づきようがなかった。
バイクがカーブを曲がる。
新一は平次に回した腕に力を込めた。
大学までは、およそ二十分。