酒 と 賭






 お疲れさまの声に送られて、新一は捜査一課をあとにした。扉を閉めると、廊下の静けさが新一を包み込む。突き当たりにある窓の外はもう暗く、自分の姿が遠く映っていた。空腹を覚えて腕時計を見ると、普段夕食を食べている時間になっていた。
「結構正確なもんだな」
 腹時計に苦笑して、新一はため息をついた。
 決まった時間に食事を取る習慣など、昔の自分にはなかった。コナンになって毛利家で暮らすようになってからだ。そして、一人暮らしに戻った今は、平次が新一の食事に気を配ってくれている。夕食をともに取ることも多い。それが無理だった日には「ちゃんと食ったか?」と電話がかかってくるのだ。

 今まで三日に一度はふたりで食事をしていたのだが、最近新一はそれを避けている。平次と食事をするのがいやなのではない。ふたりきりでいる時間をどう過ごして良いのかわからないせいだ。
 これまでのように事件や本の話でもしていればいいと頭ではわかっていても、それが出来そうにない。ごく当たり前の友人の顔をして、平次の隣にいられる自信がどうしてももてない。

 やっかいな感情だよな。

 正面玄関へと向かいながら、新一はぽつりと思った。
 親友である平次に対して抱いてしまった恋心。男に対して向かうはずのない感情を新一はまだもてあましている。
 悔やんではいない。否定する気もない。
 だが、進展のさせようもない。
 想いを悟られないようにそばに居続けるのが精一杯だろうと思う。
 問題はどうすれば悟られずに済むかと言うことだ。
 新一は階段を下りながら、もう一度ため息をついた。
 この難問の答えが出るまで、ふたりきりで過ごすことなど出来そうにない。
 本来ならば一番楽しい時間になるはずなのに、自分でその機会を作らないようにしなければならないというのは、本当にばからしいことだと新一は思う。思うのだが、致し方ない。
 幸いなことに難事件も起きず、今日まで警察から呼び出しがかかることもなかった。
 おかげで大学で通りすがりに会話を交わす以外、ふたりで話すのはみな電話越し。

 聞くところによると当の平次は今夜、友人たちと飲みに行っているらしい。終わった頃に新一の元に電話をしてくるだろう、いつものように「飯、食ったか?」と。
 平次の声を思い出して、新一はひっそりと笑った。
 ようやくたどり着いた正面玄関の向こう側は、完全に夜になっていた。





 建物の外に足を踏み出して、新一は空を見上げた。晴れているようだが、星は見えない。ひやりとした風が新一の首筋をなでる。日が落ちるのも早くなったが、それ以上に気温が下がるのが早くなった。
「やっと出てきたか。遅いで、工藤」
 駅へ向かおうとした新一の背後から声がした。驚いて振り返ると、扉の脇に平次が寄りかかっている。
「しかも、ぜんぜん気づいてくれへんし」
「服部! おまえ、なんでここに?」
「事件が起きたんなら、呼んでくれな」
 平次は質問に答えずに、新一を軽く睨みながら近づいてくる。
 周りには誰もいない。
 ふたりきりになる。
 逃げ出したいのか、駆け寄りたいのか、自分でもわからないまま新一はその場から動けずにいた。

「飲みに行くって聞いていたぞ」
 だから、新一はひとりで呼び出しに応じたのだ。
「その予定やったんやけどキャンセルした。久々の呼び出しやったのに、ひとりで行くなんてずるいわ、工藤」
「ずるいってな」
 すねているとしか受け取れない言葉に、新一は思わず笑った。体格のいい男がやっているのに、妙にかわいらしく見えてしまうのは惚れた欲目だろうか。
「だいたい、事件のことどこで知った?」
 少しずつ早くなる鼓動をなだめるように、新一は言葉を継いだ。
「柴田から聞いた。そいつはおまえんとこの宮川から、工藤が四限目から代返頼んで帰ったって聞いて、俺に教えてくれたんや。飲みに行く直前にな。もっと早ようゆうてくれれば、間に合うたかもしれへんのになぁ」
 平次はまだ悔しげだ。

 どうやら新一が代返を頼んだ宮川から同じサークルの柴田に話が伝わり、彼から平次に情報が流れたらしい。だいたい平次が今夜飲みに行くという話も、逆のルートで新一の耳に入ったのだ。宮川―柴田間の連絡は密なようだ。
「来る途中に高木刑事に電話入れたら、もう終わったゆうてたからここで工藤を待ち伏せしてたんや」
 平次がいたずらっぽく笑う。悪ガキのような笑顔から、新一はさりげなく視線を逸らした。見つめていると顔に血が上ってしまいそうだ。
「待ちぼうけになったらどうする気だったんだよ?」
「そんときは、そんときや。携帯もあるし、乗り込んでいってもええし」
 笑顔のまま、新一を促して平次が歩き出す。
 並んで歩くのも、久しぶりだ。

 なにを話しながら駅までの道を過ごそうかと新一が考えていると、平次が突然言い出した。
「俺に内緒で事件を解いたんやから、今夜は言うこと聞いてもらうで」
「なに言っているんだよ。飲みに行くって聞いたから、気を利かせただけじゃねぇか」
「そない他人行儀なことをせんでもええんやって」
 新一の反論を平次が簡単にかわす。
「事件の独り占めはいかんで」
「不謹慎なこと言ってるんじゃねぇ」
 言葉と一緒に繰り出した新一の蹴りが平次のふくらはぎを直撃する。
「痛いやんか。なぁ、言うこと聞くゆうても大層なことやないって。そろそろ晩飯の時間になるし、俺は飲み損ねたし、久しぶりにふたりで食べに行こうや」
 新一は平次の顔をまじまじと見た。蹴られた痛さなどどこにもない笑顔だ。
 誘われるうれしさと緊張から来る苦しさが、新一の心の中でせめぎ合う。

「工藤も俺と飲みたいゆうてたやん。静かで美味い居酒屋知ってんねん。行こうや」
 以前は確かに一緒に飲もうと誘った。
 自分の気持ちに気がついていなかった頃、自分と酒を飲まない平次をつまらなく思っていた。
 だが今は、状況が違う。
 即答出来ない新一に、平次の表情がわずかに曇る。
「だめなん?」
 寂しそうに問われて、新一は思わず首を振っていた。
「……いや。そうだな。飲みに行くか」
 酒が入るのなら、誤魔化しが効くかも知れない。
 顔が赤いのも。
 言動が少しおかしいのも。
 すべて酔いのせいにしてしまおうと、新一は腹をくくった。





 間接照明が店内を柔らかく照らしていた。流れているのは七十年代の洋楽。学生の多い居酒屋特有の馬鹿騒ぎの声はない。黒を基調とした内装は居酒屋というより、バーと呼んだ方が似合そうだ。
「しかし、どこで見つけてくるんだよ。こんな店」
 新一は二杯目の中ジョッキを飲み干して、隣に座る平次に聞いた。テーブルが満席のため、ふたりはカウンターの隅に席を取っていた。新一の位置からだと店内が一望出来る。
「夏前に連れてきてもろてな。いつか工藤と来よう思うてたんや」
 すでにビールから日本酒へと乗り換えている平次が嬉しそうに言う。
「いつかって。ずっと俺の誘いを断っていたくせに、なにを言っているんだか」
 新一が絡むと、平次は笑って逃げた。
「ま、ええやん。今飲んどるんやし。工藤は次、なにを飲む?」
 平次が差し出すメニュー表をちらりと見て、新一は頬杖をついた。手を当てた頬がもうすでに熱い。赤くなっているんだろうな、と新一はぼんやりする頭で考えた。

「おまえが今飲んでいるのと同じやつ」
 四合瓶で頼んだ日本酒を平次は細いグラスに注いで水のように飲んでいる。
「日本酒にするんか? それやったら、おもしろいもんがあるで」
 呼んだ店員にメニューを見せ、平次が注文を出す。空いた皿を下げて店員が奥に消えた。
「シャーベット? まだデザートを食べる気はねぇぞ」
 新一は大皿に残っていた鶏の竜田揚げをつまんだ。
「デザートちゃうって」
 平次は笑うだけで詳しいことを教えてくれようとはしない。
 楽しげな彼の横顔を新一は霞のかかってきた目で見つめた。
 平次にはおそらく精悍と言う単語が一番似合う。
 身長はたいして変わらないのに、肩幅も腕も首もなにもかも新一より一回りは大きい。ついているのは鍛えられた筋肉だ。平次は上京してからも剣道を続けている。
 コナンの頃見上げていた彼はまだ成長期のまっただ中で、身体の線も細かったように記憶している。だが今、同じ視線の高さで見る彼は、男になりつつあった。

 男なのにな。

 新一は改めて思った。
 それでもやはり想いは否定出来ない。
 こうして隣にいるだけで、落ち着いていられない。つい酒を飲むピッチも早くなってしまう。アルコールが回るのが早いのもきっと彼のせいだろう。
 心の変化を悟られないように自制してきたたがが、新一自身も気づかぬうちに弛み始めていた。

 顔は二枚目だよな。黙っていれば。
 スタイルだって悪くない。
 もちろん頭は切れるし、行動力もある。時々無茶をするけど。
 こいつはなにも言わないけど、もてるんだろうな。やっぱり。
 大学でもいつも誰かと一緒にいるし。

 新一は平次の横顔を見つめたまま、自分の想いの中に沈み込んでいた。
 視線が気になったのか、平次が新一を見た。
「ええ男やろ?」
 いたずらっぽく平次が笑う。
「そうだな」
 笑顔につられて新一はうっかり素直に頷いてしまった。一瞬驚いたような表情をした平次が、カウンターに突っ伏した。意味不明のうなり声をあげている彼を、新一は首を傾げてのぞき込んだ。彼の耳がわずかに赤くなっている。
「酔ったのか?」
「酔っとるんは、工藤やろが」
 顔も上げないまま平次が突っ込む。
「かもな」
 新一は苦笑した。
 気をつけないとよけいなことを口走ってしまいそうだ。

 店員がふたりの席に料理と酒を運んできた。
 ようやく平次が体勢を戻す。
 彼の指示で新一の前に置かれたのは、透明なシャーベットが入った大ぶりのグラス。グラスの縁にはライムが飾られ、シンプルなトロピカルドリンクを思わせる。
 アイススプーンと一緒にコースターの上に置かれたシャーベットを、新一はしげしげと見た。確かにアルコールが香る。
「日本酒のシャーベットや。ライム絞って食うてみ」
 新しい瓶の蓋を開けながら、平次が新一に勧める。
 言われたとおりライムをかけ、新一はシャーベットを口に運んだ。凍った冷たい感覚が口の中に広がり、飲み込むとアルコールが喉を焼く。きんと冷えた日本酒にはライムが良く合っていた。
「美味いな」
「せやろ」
 平次が嬉しげに笑う。
 不思議な食感を味わいながら、新一はシャーベットを楽しんだ。かき氷を食べたときのように、こめかみが痛くなったがやめられない。かき氷なら冷えるはずの身体が、逆に内側から燃えるように熱くなる。そうなるとますますシャーベットの冷たさがおいしく感じられた。

「工藤、ペース早いで。それ、口当たりはええけど度数高いんやから」
「そういうことは先に言え」
 グラスを傾けて残りを飲み干そうとしていた新一は、横目で平次を睨んだ。
 平次は揚げ出し豆腐をつまみに冷酒を飲んでいる。
 それが新一にはとてもおいしそうに見えた。
 新一はグラスを空けて、平次の食べている皿に箸を伸ばした。
「こら、工藤。ひとの食うてるもん、横から取るなや」
「美味そうに食っているからさ」
 だが、箸が上手く使えなくて豆腐が崩れる。見かねた平次が小皿に取り分けてくれた。
「サンキュ」
 笑ったとたん、新一の視界が揺れた。
「おい、工藤、大丈夫か?」
 気がつくと新一の世界は斜めになっていた。
 すぐ近くから平次の声が聞こえて、新一はそちらを見た。彼が自分の顔を上からのぞき込んでいる。いつの間にか平次に寄りかかっていたらしい。彼の腕が新一の身体を支えている。支えがなければきっと椅子から滑り落ちていただろう。

「あれ?」
 新一はぼんやりと平次の顔を見上げた。
「あれ? ちゃうやろが。そうとう酔ってもうたんやな。椅子に座ってられへんようやし。やっぱさっきのシャーベットのせいなんかな」
「おまえのせいだ」
 平次の助けを借り、テーブルの端にすがって身体を戻しながら、新一は答えた。
 理性が曇りガラスの向こう側から、言葉に注意しろと言っている。想いに気づかれてしまうぞ、と。
「せやな。工藤の限界も考えんと勧めてもうたし」
 平次が見当違いのことを言い、新一はくすくすと笑った。
 ふらふらと身体の揺れる新一を気にしてか、平次の腕は新一の背中を支えたままだ。
「あれはおいしかったから、別にいい」
 新一はカウンターに肘をつき、平次の顔をじっくりと眺めた。彼は心配げに新一を見ている。

 一緒にいるために想いを隠し通す、か。
 間違っていない。たぶん最善の策だ。
 でもそんなことしていたら、いつかこいつは恋人を作る。
 俺が惚れたぐらいなんだから、女ならきっともっと簡単に惚れる。
 こいつが女とデートしているのを、俺は黙ってみているしかないのか?
 そんなことは嫌だ。

 だからといってどうしようもないだろう、と理性が正論を吐く。
「そろそろ帰ろか。料理きたばっかりやけど、まぁ、しゃあない」
 新一を支えていた平次の腕が伝票に伸びた。
 思わず新一は離れる彼の腕をつかんでいた。
 平次がいぶかしげに新一を見る。

 誰にもやらない。
 誰がやるものか。

「工藤」
 あきれたような苦笑が優しい。
 新一の酔いの回った頭に、名案がひらめいた。

 この先もずっと一緒にいる方法なんて、簡単なことじゃないか。
 俺がこいつを落とせばいい。
 俺に惚れさせてしまえば良いんだ。

 新一は笑みを浮かべた。
 だが、問題がひとつある。
 平次の腕をしっかりとつかまえたまま、新一は彼に言った。
「なぁ、服部。おまえ、もてるだろ?」
 いきなりの質問に平次が固まる。
 頬杖で支えている頭がどんどん重くなっていくのを、新一は人ごとのように遠く感じていた。
「俺さぁ、自慢じゃねぇけど、口説きに関しては受け身だったんだよな。告白はよくされたけど、したことはねぇんだ」
 理性が何か叫んでいるが、新一には聞こえなかった。
「そういうことはほかのやつにゆうたらあかんで」
「どうして?」
「そら、自慢にしかきこえんからや」
 眉を寄せて平次が注意をする。
 しかめた顔もかっこいいかも知れない、と酒でぼやけた頭の隅で新一は思った。

「そうか? ああ、それはいいんだ。それでさぁ。口説き方、教えてくれよ」
 平次の目が強い光を帯びた。
 昔どこかで見た視線だとかすかになった理性が言う。しかし、おぼろな記憶をまさぐる余裕は今の新一にはなかった。
「蘭とだって、結局幼なじみでずっと一緒にいただけで、別に口説いた訳じゃねぇんだ。まぁ、恋人だったかって聞かれたら、微妙なんだけどさ」
 瞬きをする度に、新一の瞼は重くなる。
 それでも新一は心の赴くまま、言葉を紡いだ。
「口説きたい相手がおるんか?」
 低い声で問われて新一は頷いた。
「けど、ライバルが多そうなんだよな。ハードルも高いし」
 ハードルと言うより壁だよなぁ、と新一は思う。しかも天まで届きそうなほど高い。
「失敗したくねぇ相手なんだ」
 肘が外れて、新一は突っ伏した。頬に当たるカウンターの冷たさが気持ちいい。そのまま新一はうっとりと目を閉じた。
「誰やねん、その相手」
「まだ教えねぇ」
 くすくすと笑いながら、新一は瞼をこじ開けた。
 目の前に平次の手がある。
 日本酒のグラスに絡む指は、長くて節が目立った。

 指、絡めてみたいな。
 どんな感じがするんだろう。

 そこまでで、新一の思考はとぎれた。






 高木はなじみのラーメン屋を出て、駅に向かって歩いていた。盛り場の中央を抜ける道は、ネオンや店から漏れる光で昼間のように明るい。にぎやかさは昼間以上だろう。宵の口という時間帯ということもあってか、学生らしいグループも多く見える。
 ちょうど前を通りがかった店の扉が開いた。出てくる人の邪魔にならないように、高木は少しよけた。
「工藤。しっかりせいや」
 特徴のある声と良く知った名前に高木が驚いてそちらを見ると、出てきたふたり連れは間違いなく知り合いだった。

「服部君? それに、工藤君?」
「あ、高木さん。久しぶりやなぁ」
 高木の顔を見て目を見張った平次が、いつものように人なつこい笑みを浮かべた。彼の肩にすがるようにしていた新一が顔を上げた。
「高木刑事だ!」
 真っ赤な顔をしてひとりでは歩けない様子の新一が、やたらと嬉しそうに笑っている。
「工藤君。大丈夫かい、きみ」
「大丈夫、大丈夫。服部がいるし」
 なぁ、と新一が平次に抱きつく。
「おるおる。ちゃんとおったるから、しっかり歩きや」
 なだめるように苦笑しながら、平次が新一を支えて歩き出す。

「手を貸そうか?」
「平気やって」
 高木が伸ばした腕から、平次が答えるより先に新一が逃げた。
「服部がいればいいから」
 酔って舌足らずになりながらも新一がきっぱりという。それを聞いて平次の苦笑がますます深まった。
「だったら服部君、背負ってあげたらいいよ。工藤君に歩かせるのは無理そうだし」
「せやなぁ。なぁ、工藤。そないしようか」
 高木の提案に首を傾げていた新一が、平次に問われてゆっくり頷いた。
 肩を貸していた姿勢から、平次が新一を背負うために屈む。高木は彼の背中にすがる新一を手伝った。
「よっしゃ。行くで、工藤。とりあえず大通りでタクシー拾おうか」
 平次が背中の新一に聞く。
「任せる。俺、眠い」
「寝とき。ちゃんと家まで送ったるから」

 平次が高木を促して歩き出す。彼の足取りは男ひとりを背負っているとは思えないほど軽かった。
「工藤君。飲み過ぎちゃったのかい?」
 目を閉じている新一を気遣って、高木は小声で平次に聞いた。聞いたところで、気がついた。
「あ! 君たちふたりとも、未成年じゃないか!」
 平次があきれた顔で高木を見た。
「おっそいわ、高木さん。そのぼけは天然物やな。いまどき珍しいで」
 絶句する高木を見て平次が楽しげに笑う。だが、彼はすぐに表情を引き締めた。
「なぁ、高木さん。今日、工藤が関わった事件、どんなもんやったん?」
「自殺に見せかけようとした殺人事件だったよ。でもわざわざ工藤君に来てもらう必要はなかったな。トリックはお粗末で、容疑者をすぐに確保出来た。もう自白もとれているしね」
 明日はその裏付け捜査が高木を待っている。

「やっぱり興味あるのかい?」
 関西弁の探偵は珍しく曖昧に頷いた。
「工藤の酒を飲むピッチが早いような気がしたんで、事件が原因ちゃうかと考えとったんやけど。ちゃうみたいやな」
 平次が肩越しに相棒の様子を窺う。新一は寝息を立てて眠っていた。
「最近工藤が変なんよな。食事の誘いは断るし、俺に事件のことしらせんと、ひとりで現場に行ってまうし。なんかなぁ、ここんとこ俺、ちょお工藤に避けられとるような気がしてたんや。そんで、強引に飲みに連れ出したら、ペース考えんと飲んでつぶれるし」
 なんなんやろ。
 平次が珍しくため息をついている。
「工藤君が? 服部君を避ける?」
 平次が難しい顔で頷く。
「気のせいやったんかな」
「そうじゃないかな。服部君が用事で来られないって言って、工藤君ちょっと寂しそうだったし。事件が終わってからひとりでぼんやりしていたのも見かけたよ」
 新一がため息をついていたのも高木は知っている。
「そうなんか」
 平次が眠る新一を見やる。その眼差しが優しい。
「そうだよ。工藤君が服部君を避けるわけないって。だいたい工藤君の推理についていけるのは服部君だけだよ。うらやましいほど息のあった相棒だと思うけどな」
 おおきに、と平次が小さく笑う。

「となると、原因は……」
 呟いて平次が前を見つめた。横顔に浮かんでいるのは事件に向かうときのような真剣な表情だ。
「ほかにも心当たりがあるんだ」
「まぁ、ちょおな。こうなったら、ぐずぐずしてられへん。気合い入れていかな」
 唇の端をつり上げるようにして、平次が笑った。

 大通りに出て、高木はタクシーを呼び止めた。
 開いたドアから平次が新一を乗り込ませる。熟睡している彼に目覚める気配はない。
「ほな。おおきに、高木さん。気ぃつけて帰ってや」
 乗り込んだ平次が高木に笑いかける。
「じゃ、おやすみ」
 ドアが閉まりタクシーが走り出す。高木はそれを見送って、目の前に見えている駅に向かって歩き出した。





 冷たい風が頬をなでて、新一は目を覚ました。
 目を開けて見えた物は、自室の天井ではなく、煉瓦で舗装された道だった。
「どこだ、ここ」
「あぁ、目ぇ覚ましたんか。工藤の家についたとこやで」
 すぐ近くから平次の声が聞こえて、新一は自分の置かれた状況にようやく気がついた。平次に抱きかかえられるようにして、自分の家の庭にいる。居酒屋で飲んでいたところから、新一の記憶が飛んでいた。

「俺、寝てたんだ……」
 新一は平次から身体を離した。多少ふらつくがひとりで歩けないことはない。
「大丈夫か?」
 のぞき込んでくる平次の眼差しが嬉しくて、新一は平次の肩に手を掛けた。
「肩、貸してくれ。まだちょっと足にきている」
 平次の腕が新一の背中に回される。悔しいほど力強い腕だ。酔っていることを言い訳に、新一は平次に甘えることにした。

「工藤。鍵を貸してくれや」
 玄関ポーチで立ち止まり、平次が言う。新一はポケットを探ってキーホルダーを取り出した。それを平次の手の中に落とす。
「そういえば、合い鍵を渡すって言ってまだ渡してなかったな。それやるよ。確か家にもう一本あったはずだから」
「ええんか?」
 扉を大きく開いて、平次が新一を中に運び込む。
「いいよ。もっておけよ」
 玄関に座らされた新一は、そのまま後ろに寝ころんだ。フローリングの冷たさが火照る身体に気持ちいい。
「こら。そこで寝るなや」
 新一のキーホルダーから工藤邸の鍵を外しながら、平次が新一を睨む。
「午前様の中年親父みたいだろ?」
 ひっくり返ったまま平次を見上げ、新一は笑った。家に着いた安心感もあるのか眠気が再来し、ここで寝てしまいたくなる。
「中年親父になるにはまだ三十年早いわ」
「具体的な数字をあげるなよ」
 腕を引く平次に起こされて、新一は立ち上がった。自然な振りをして平次に寄りかかる。
「部屋へ行くで。せっかく帰ったんやからベッドで寝ろや」
 重くなった瞼を閉じたまま、新一はおうと応えた。

 ふらつく足を踏みしめて階段を上り自室に向う。ベッドまで平次に連れてきてもらい、新一はシーツの上に突っ伏した。スプリングに柔らかく受け止められて、一気に眠気が強くなる。
「こら工藤。どうせなら、着替えて寝ろや。」
 平次の声が遠く聞こえる。
 新一は顔だけ横に向けて、平次を見た。彼はベッドの脇に膝をついて新一の顔を見ていた。
「おまえ、ここに泊まるだろ? 下の部屋空いているから、勝手に使ってくれ。シャワーとかも使ってくれてかまわないぞ。パジャマは俺のを貸してやる。クローゼットの下の段に入っているから適当に持っていけ」
 すっかり閉じてしまいそうな瞼を引き上げて、新一は彼に必要なことだけを伝えた。平次が頷くのを見て、安心して目を閉じる。

「なぁ、工藤。居酒屋でおまえが俺に頼んだこと、覚えとるか? 口説き方教えろゆうてたな」
 半分眠りかかった頭で新一は頷いた。
「教えたるよ」
 新一は目を開けた。目の前には平次の笑顔がある。
「実践でな」
「実践?」
 誰か口説くところを見て参考にしろと言うのだろうか。
 それは嫌だと新一は思った。
 そんなものは見たくない。

 しかし、平次の口から続いて出てきた言葉は、新一の予想を大きく裏切るものだった。
「俺がおまえを口説く。それを参考にしたらええ」
 驚いた新一は目を見開いた。眠気が半分ほど飛ぶ。
「おまえが、俺を?」
 平次の手が新一の頭に伸びた。
「そうや。口説き落とされる過程を知ったら、口説けるようになると思うんやけど」
 平次の指が新一の髪をすく。
 顔は笑っているのに、見つめてくる瞳は真剣な光を帯びている。
「俺、おまえに口説き落とされるのか?」
 すでに落ちているのに。
 新一は平次を見つめ返した。
「ほんまに落とされてもうたら、口説きたい相手を口説けんようになるけどな」
「それは困る」
 彼を落とせなくなるのは困る。
 しかも、参考にするために、彼は自分を口説くのだ。
 それなのに、口説かれてこれ以上惚れてしまうのは、かえって苦しくなってしまうだけのような気がする。

「そんなら、落とされんようして、相手を落とし」
 平次が挑発的な笑みを浮かべる。
 出来ることならな、と言っているように新一には思えた。
 挑戦されて、新一の中の負けず嫌いの血が騒ぐ。
「わかった」
 新一はしっかり頷いた。
 参考になるように口説いてくる彼を、本気にさせてしまえばいい。
 新一は髪をなでる平次の指に自分の指を絡めた。
 考えていた以上にしなやかで固い指だった。
 自分とは違う体温が指先から伝わってくる。それの心地よさに新一の瞼が落ちる。
「じゃ、明日から頼むぜ。もう限界だ。寝る。おやすみ」
「ほな、おやすみ」
 平次が新一に毛布を掛けて、部屋を出ていく。
 扉が閉まる音を聞いて新一は大きく息を吐き出した。
 明日から勝負が始まる。
 負けるわけにはいかない。
 新一は必勝を心に誓って、眠りに落ちていった。





 



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